不気味なほど平和だった。
エンシスの黄金郷は、ゴッドフレイの指揮の下に兵や騎士の別なく土木作業に従事させられ、重い石材を道具も用いず運ばされて建築業にも駆り出される事で、加速度的に発展を遂げている。
強さとは肉体が基礎だ。マリカの祝福に甘え、お利口に祈祷と戦技を磨くだけで、頑健な肉体を鍛え上げぬようでは強くなれない。坩堝の騎士も同様に働かされ、なおかつ騎士は騎士同士、兵は兵同士での組手を毎日行わされた。裸の技も身に着けず武器を扱おうなど笑止千万、というゴッドフレイの哲学によるものだ。これらを不休不眠で課し、手を抜いたり休んだりする者を見つけた時には、ゴッドフレイは容赦なく死の寸前まで叩きのめした。
普通なら死んでいる。だがマリカの祝福が死ぬことを赦さない。極限状況下で精神的にも肉体的にも限界のまま、地獄の只中で延々と劫火に焼かれ続けるような訓練は、結果として黄金郷の建造物をより多く、そして華美に仕立て上げていった。はじめはゴッドフレイの課す過酷極まる鍛錬に反発する者もいるにはいたが、日が経つにつれ反抗心を擦り潰され、逆にゴッドフレイを神格化して神の課す試練に立ち向かう敬虔な信徒へと生まれ変わった。
まともな精神状態ではないだろう。だがまともなままでは気が狂う。自己防衛の為に彼らはこの訓練の正当性を見い出そうと王の言葉へ従順に従い、死ねと言われたら死ぬ死兵となったのだ。
よき戦士はよく歩き、よく走る。
狭間の外で各地を征した蛮地の哲学は、行軍訓練の重要性をゴッドフレイに教えていた。お行儀よく隊列を組んで行軍するような、蛮地の戦士はいない。しかしローデイル軍は神兵だ、お行儀の良さも学ぶ必要があるとして、ゴッドフレイは結果的に蛮地の戦士に課すものよりも厳しい訓練を行なった。
隊列を組ませ、手脚の振りから歩幅まで、一糸乱れぬ行軍を、百時間ぶっ続けで行うなどザラだ。その間にゴッドフレイは横になって眠ったり、豪勢な食事を行なう姿を晒してもいたが、不満を抱く気骨はもはや根本からへし折られている。神兵達は頭の中を空にして、黙々と訓練に従事していたものだ。
その様は心配して見に来たマリカが休憩を提案するまで連続し、神兵達は文字通り、救いの神としてマリカへの信仰を深める運びとなる。
不気味なほど、平和だった。
あのゴッドフレイがローデイル軍の調練の為とはいえ、エンシスの黄金郷の発展に寄与する働きをするのに違和感がなくなるほど。人々は豊かで、救いに溢れた生活に慣れ親しんでいった。
ここには老いがない。病がない。飢えがない。小さな争い、諍いはあっても巡回する兵が鎮圧し、現場で解決できる程度のものしかなく。そして安心して暮らせる、民を守る強き軍がいた。
平和は余裕を呼び、余裕は噂を生む。黄金郷の噂を聞き立ち寄った行商人を介して、噂の真実味が増して各地から人を招く。人が増えれば生活区画の拡張が求められ、生活区画が広がればさらに心が富む。心の豊かさは営みに爛れを生み、爛れが人と人の間に多くの子供を産ませ、黄金郷の人口は増えていく。
エンシスにはもはや、嘗ての面影は残っていない。大都市へ成長を遂げて、実に二年間もの時が平和に過ぎていっていた。この間、マリカの敵たる宵眼の女王は沈黙を貫き、マリカもまた積極的に打って出ようとはしていない。宵眼の女王の思惑はさておくとしても、マリカが行動しない事に焦れる者はいた。
「マリカ、指様が貴女を呼んでいますよ」
二本指だ。彼、ないし彼女の視点では、三本指と宵眼の女王がいつまでも反目を続けている保証がないように見えており、絶好の隙を無為に見過ごしているかのようなマリカに焦れている。
速攻を仕掛け、迅速に打倒するべき。二本指はそう考えていたからこそ、マリカが決して無視できない人物を介し自らの意志を伝えていた。
その人物とは、巫子の村の長にして大母である老女だ。
憂うように、心配するようにマリカを見詰める大母の視線に、暖炉の前で安楽椅子に腰掛けて、小さな衣服を手編みしていたマリカは嘆息したくなるのを堪える。
「……再三に亘り急かされているので、言わんとする事は分かっています。しかし私の考えは変わりません」
「貴女の意志が固いのは承知しています。ですが指様の御召に応えない訳にはいかないでしょう」
「………」
マリカは二本指に感謝していた。自身が律を懐いていたのを見い出し、ゴッドフレイを導いて救い出してくれたのだ。自らが理想に歩み出す切っ掛けをくれた恩もある、感謝しない訳がない。
だが、うんざりしているのも確かだ。こちらの思惑は既に伝えている。宵眼の女王が動くまでに勢力基盤を盤石とし、黄金樹に敵対し得る勢力とも渡りをつけて味方に引き込むのだ。そうすることで有り得る敗北の目を潰し、万全の態勢で敵対者を駆逐するのである。
これは戦争指導をしているゴッドフレイの戦略だ。戦士として好敵手と戦う事を望むが、それはそれとして戦争をするなら勝つ為の道筋を用意する。目の前の大敵を打倒した後、不都合があれば難癖をつけて盟を破棄すればよい。黄金樹、ひいては黄金律を唯一絶対、永遠のものにする為の戦略をゴッドフレイは示し、彼を信頼するマリカも賛同した。
であるのに、二本指は性急に戦えという。黄金樹に至り、エルデンリングに見えるのだ、と。宵眼の女王が三本指と反目し合ってまで、黄金樹に入ろうとしない理由も明らかではないのに。
マリカの苛立ちは大母にも分かっているのだろう。しかしそれでも神を祀る巫子として――指読みの巫女の一族として、指に歯向かう気にならない。マリカもそうだ……しかし、それでも。生まれに起因する盲目な信仰と、芽生えた伴侶への愛と信が自らを板挟みにしている。
「……分かりました。今一度私の意志を指様に伝え、説得します」
「マリカ……一つ、私から助言しておきましょう」
「え……?」
幾度目になるか数える気にもならない遣り取りだった。だから、マリカは大母がいつにない言葉を紡いだ事に意表を突かれてしまう。大母は身を寄せて、孫娘に小声で囁いた。
「貴女は神になるべくして神になるのでしょう。そうして律を掲げ、望む秩序が布かれる。しかしこの狭間の地の頂点に立とうと、貴女と指様の関係は変わらない。永遠に続く間柄に蟠りを生んではなりません、蟠りは不仲を招き、やがては破綻を生むのですから。ですが貴女には王がいる。あの御方に頼り、縋りなさい。きっと助けになってくれるでしょう」
「お祖母様……」
「……どうしました? 私は指様のお言葉をしかと伝えました、指様が御召になられてますよ」
孫娘を慈しみ、思いやる言葉など口にしていないかの如く振る舞う大母に、マリカは敬愛する大母の意志を汲み小さく首肯する。
彼女はこう言ったのだ。神になろうと、人の道に戻ってもよいのだと。引き返してもいい、そんな弱さへの誘惑は、強くなろうとするマリカには余計なお世話だが……他ならぬ大母の言葉だから彼女に響いた。マリカは懐に潜める秘宝を握る。それは、人の指の形をしていた。
ゴッドフレイの鉤指。
特別な召喚術を知ったゴッドフレイが、おもむろに引き千切り、手渡してくれたもの。まるで今も血が通っているかのように暖かく、力強さを秘めたこの宝は、マリカにしか用いられない。
突然の蛮行に慌て、癒したマリカに彼は言っていた。暫らくしたら留守にする、何かあれば遠慮なく呼べと。たとえ遠く離れても、薄まることのない縁のようで、マリカにとっては至宝だった。
マリカは無力な手弱女だった時のように、楚々とした所作で頷いた。
† † † † † † † †
幼子を頭に乗せた男がいた。自らの後頭部にしがみついて、戴く王冠へ無思慮に触れる小さな手を一切気にせず、男は実に楽しげに自らと同等の戦士を
「おう、マリケスよ。いい加減お前達の馴れ初めを明かしてもよい頃合いではないか?」
「………」
頑健な肘で脇腹を小突かれ、むっつりとした表情で佇むのは、白いローブで身を包む司祭だ。
平時ではやる事もなく暇を持て余していた彼は、司祭となりマリカの律を語るようになった。黄金律信仰を世に広め、主の統治の助けになろうとする健気な彼は、別名としてグラングと称した。戦士マリケスは平時には不要と弁えたが故の改名だったが、ゴッドフレイから言わせてみれば滑稽である。
戦士はどこまでいっても戦士だ。本質は何も変わらない。獰猛な獣人の戦士が斯様な姿に窶しているのを見ると、どうにも笑えてきて仕方がない。殊に、さらなる珍事が重なっていれば。
彼らは今、黄金郷の宮殿にいない。
城下町の一角にある酒場におり、酒場の主人は恐縮しきってしまっていて憐れを誘う。王と女王の従者が唐突に訪れ、酒を持ってこいと言われた彼の運勢は最悪極まるだろう。
人払いが勝手になされていた為、給仕をしているのは一人の女しかいない。長身痩躯の女は、空になったゴッドフレイの樽のカップに麦酒を汲んで、なんとも言えない貌で苦笑している。
「……ゴッドフレイ様、あまりマリケス様を虐めないであげてください」
「そうは言うがな、揶揄わずにはおれんぞ。
「マリケス様……?」
「………」
無言で酒を呷るグラング――マリケスは、自分達を強引に連れて来た戦友のしつこさに辟易しているのだろう。自分から語る気はないと態度で示し、深い付き合いのある巫子は意図を察した。
仕方なさそうに腰に手をあて、アレクトーは王に向き直る。
「……切っ掛けは私です。マリカは私にとって姉妹に等しい、彼女の近侍を務める以上、私も無力なままではいられません。そこでマリケス様に師事し、戦う術を授けていただきました」
「ほう……通りでしなやかな訳だ。軽やかに舞い、踊るように戦う者の体になっておる」
「ご賢察です。そうして師事を仰ぐ中で、私が……その、マリケス様に……懸想、しまして」
「なるほどな、猛き戦士は猛々しさ故に精を持て余すもの。お前も例外ではなかったようだ」
にやにやと嫌らしく笑うゴッドフレイに、マリケスは顔を背け、アレクトーは赤面した。
なおもしつこくする王に、そろそろマリケスの忍耐も限界が近い。
「しかし、アレクトーとマリカの関係は知っていよう? 晴れてマリカの義弟になったという事は、お前は俺にとっても弟になったという事になるな? これは愉快だ、兄を敬えよ、弟」
「……戯言も大概にした方が身の為だ。
「おっと、手は出してくれるな。俺とマリカの子がいる事を忘れてはいまい」
「ッ……!」
実直であるが故に揶揄われる事に不慣れで、怒気を滲み出していたマリケスは、ゴッドフレイの指摘を受け樽の器を握り潰す。酒が飛び散る様すら面白がり、ゴッドフレイは幼子を抱えた。
幼子は見事な黄金の髪と美しい黄金瞳をしていた。見事な造形の美貌はひたすらに愛らしく、盾にされているというのに気にした素振りもない。いや、盾にされている自覚もないのか。
彼こそは黄金の王子ゴッドウィン。二年前に彼が生まれた時、ゴッドフレイは泣き縋るマリカから引き剥がして連れ回していた。可愛い盛りの我が子を、べたべたに甘やかしたい母は、黄金の王子に関してだけはゴッドフレイを深く恨んでいたりする。とはいえゴッドフレイも、意外とゴッドウィンを可愛がっていた。精力絶倫である彼は蛮地に何人か子供を残してきているが、これほど我が子を可愛いと思ったことはない。
それほどマリカに絆され、愛着が湧いているとでも……あながち否定できないのが痛し痒しだ。
「……こんな所で油を売っている場合か。お主にはお主の役割があるだろう」
「そうだな。平穏な所に居着いては体が鈍る。ローデイルの弱卒共も多少は見れるようになった、そろそろ旅立つのに良い頃合いだ」
「ゴッドウィンも連れて行く気か」
「無論そのつもりだとも。男であるなら広い世界を知るべきだ、特にこの俺の子であるなら温室育ちの坊やにはしたくない。なぁに、俺にかかれば勇猛なる戦士に育つだろうよ」
「……間違ってもお主のようにはなってほしくないものだ」
「ぬかせ。それではな、マリケス。アレクトー。邪魔をした、後は二人でしっぽり愉しめ」
「ッ!」
振り抜かれた裏拳をひらりと躱したゴッドフレイは、声を上げて笑いながら王子を頭に乗せた。そうして酒場を出ていく背中に、苛立ちを多分に混ぜて睨みつけたマリケスは吐き捨てる。
奴らが帰ったら我も養育に関わらねばならんな、と。
何気ないが、マリケスも彼なりにゴッドウィンの行く末を気にかけていた。
――表に出たゴッドフレイは、自身やマリカの近衛として見い出された豪傑達、黄金の甲冑で全身を覆う猛者達に迎えられた。
豪壮な巨馬に跨る二騎の騎士は、近衛騎士『
最初の近衛、最初のツリーガード。彼らは名を持たない、ただ忠実な下僕になると誓って捨てた。故に彼らの覚悟を汲んで、ゴッドフレイも彼らの名を口にする事はない。彼らが連れていた王の愛馬に飛び乗ったゴッドフレイは、特に指示する事もなく馬を進ませる。ツリーガード達は無言で追従した。
「――ゴッドフレイ!」
黄金郷の高い城壁に近づき、城門を潜ろうとした時だ。
よくよく耳に親しんだ声が呼び止めてくるのに、ゴッドフレイは顔をしかめる。
「マリカ、何をしに来た」
愛馬である霊馬トレントに跨り疾走してきたのは、自らが伴侶と認め婚姻を結んだ女だ。
まさかついてくるつもりか。黄金郷の主が。自分やマリカまでいなくなっては堪らぬだろうに。
ゴッドフレイの懸念は、ずばり的中した。マリカは怒り心頭に発しているのか、憤懣やるかたなしに声を荒げて文句を口走ったのだ。ゴッドフレイに対してではなく、二本指へ。
「指様の石頭め! 頭もないくせにお説教だけはご立派だ! 私の意志は変わらぬというのに、何度も何度も何度も何度も! もううんざりだ! このまま此処にいては気が滅入ってしまう! だからだゴッドフレイ、私も行くぞ!」
「……俺は構わんが、いいのか?」
「留守は村の姉妹に任せてきた。いざという時は彼女を依り代に、一時的に私が憑依すればよい! それに……親子水入らずでの旅、私だけ蚊帳の外に置かれるのは嫌だっ」
最後が本音だろう。ゴッドフレイとの間に設けた第一子は、初産だったマリカにとって極めて重い存在なのである。長い間離れて、顔を忘れられてしまった日には、ショックで倒れてしまう。
ぷりぷりと怒っている――ように見えるのはゴッドフレイのみで、他者には天地の終わりのような怒気を振りまくマリカへ、その夫は穏やかに苦笑した。
「……まあよい。では早速行くとしよう。遅まきながら、新婚旅行、とでも称してな」
「新婚、旅行……?」
なんだその甘美な響きは。とてもいい。
マリカはゴッドフレイが何気なく口にした言葉を噛み締め、一気に機嫌を上向かせた。
幼子はゴッドフレイの頭の上でぼんやりしている。父はそんな幼子と、新婚気分の抜けきらないマリカへと言った。
「行き先はリエーニエ。久方ぶりの遠出だ、精々楽しむとしよう」
目的はローデイルの味方を増やす事。そのためにレアルカリア魔術学院とやらを目指し、学院を興し初代の長をしているという魔術師カロロスと盟を結ぶのだ。
ゴッドフレイは詳しく知らないが、カロロスは源流の魔術師アズールに師事し、彗星の魔術を会得しているという。軍事力に転用すれば役立つだろう。
――果たして、マリカとゴッドフレイのランデブーは、性懲りもなく血に塗れたものとなる。
しかしこの遠出は、予期せぬ出会いをも齎すだろう。
『ゴッドフレイの鉤指』
マリカの伴侶、ゴッドフレイの鉤指。
節くれ立ったその指は、自らの手で引き千切られ、マリカに渡された。
マリカが窮地に陥った時に現れるサインから、「戦士、ゴッドフレイ」を召喚できる。
今生の別れというわけでもなし、早々用いる事はあるまい。
『夫婦の肖像』
一組の獣人と巫子、その異種婚姻が描かれた肖像。
人知れず飾られた絵画は在りし日の幸福を残す。
それは、一人の忠臣の不覚に繋がった。