「ゴッドフレイ王……!?」
「み、皆に報せろ! 我らの偉大なる王、ゴッドフレイ様のご帰還だ――!」
厳重に警備されている王都ローデイルの転送門から、来訪を伝える先触れではなく、永遠の女王の伴侶である戦王が突然現れた故に、警備の兵達はひどく動揺した。王の帰還を報せに走った者以外は仕事も放り出して一斉に跪き、冷や汗の浮かぶ顔を隠すように俯く。
ローデイルに詰める兵や騎士は、実戦経験こそゴッドフレイ軍の者達に劣るものの、練度はなんら見劣りしない精鋭だ。神の坐す都に弱卒は不要だという信仰の心が彼らを強くしているのだ。
しかしそんな精鋭でもゴッドフレイは恐ろしい。なんといっても彼らを鍛え上げた張本人であり、過日の苛烈極まる練兵は今も悪夢として刻まれている。骨の髄まで戦王への恐怖が染み込んでいる為に、裸で敵の軍勢に突撃する方がまだしも気楽であると、ローデイルの者達は口を揃えて言うだろう。
戦王にとって鎧姿こそが正装である。王斧を肩に担いだまま兵達を睥睨し、戦王は畏怖に染まる空気を嗅いで太い鼻息を漏らした。
「騒々しいのも考えものだが、静謐も過ぎれば不快だな」
「………っ!?」
礼節を守って警備の長が口を開く前に、ゴッドフレイは理不尽に叱責する。
慌てて帰還を祝う口上を述べようとする兵に、王は得物の石突きで地を叩いて黙らせた。
「責めはせん、先触れも出さずやって来た私に非があるのだろうからな。だが……弛んでおる。腑抜けた兵は目障りだ。供はせんでよい、職務に戻れ」
言うだけ言って去っていくゴッドフレイ王は、抜き打ちで職場に現れる上官以上の災厄である。弁明も弁解も聞かず、減点だけしていく様は無駄に部下の精神を消耗させる所業だった。
率直に言って好かれる王ではない。ゴッドフレイを支持するのは優れた戦士の素質や実力を持つ者ばかりであり、大半は彼の立場と強さに畏怖しているだけだ。とはいえゴッドフレイに自らの振る舞いを省みる殊勝さはなく、怯え、竦む者達の顔色を窺う弱腰とは無縁だ。
王都を単独で闊歩する己を見て、慌てふためく者達を意識の端にも置かず、ゴッドフレイは様変わりしている王都を見て回った。
眩い黄金樹の麓、城壁に囲まれた都市部。賑わう人々で埋まった往来も、王を見るなり水を打ったように静まり返って道が空けられる。彼我の力の差も知らぬ無力な民草だけが、無垢な憧れや畏敬の瞳で王を見ていて、新たに建造されたマリカ像を発見し足を止めたゴッドフレイの胸中を勝手に想像した。
伴侶の像を見上げる猛き王、絵になる構図だ。詩人の類いは豊かな想像力を働かせるだろうが、生憎とゴッドフレイは詩的な感傷を持っていなかった。
王は伴侶の像を見上げ、無言で細部を見極める。素直にいい出来だと認められるが、単なる巫子である時期を知る身からするとなんとも滑稽に見える。像の表情は慈愛の滲む柔和さがあり、秘める激情の波が全く表現されていないのが笑いを誘うのかもしれない。激情の強さが一番の魅力だというのに、これではまるで獅子を子猫と勘違いしているようにしか見えない。
ゴッドフレイが込み上げる笑いを抑えつけていると、不意に近寄る気配を感じて振り返った。
「ゴッドフレイ王、お久し振りです」
「ん……? お前は……確か、マリカの大母だったか?」
声を掛けてきたのは一人の老女である。指巫女の衣装を纏い、錫杖を携えた様には老境の賢者が持つ落ち着きがあった。ほぼ縁がなく、朧げに顔を覚えていただけの相手に戦王は困惑する。
供をしている者は覚えがある。赤子を抱いている長身の女も指巫女の衣装を着込んでいるものの、立ち姿は戦う術を知る獣の風格が滲んでいた。こちらはアレクトーだ。巫子の村の大母よりもアレクトーの方にこそ関心を持ったが、ゴッドフレイはひとまず老女の方に向き直った。
「はい。偉大なる王に自ら声を掛ける無礼、何卒――」
「煩わしい儀礼なぞ挟まんでよい。老女よ、私に何用だ」
ゴッドフレイからすれば老女の顔を覚えていた自分の方が驚きに値する。全く興味関心がない相手であり、縁を持った事もなく対面して話した事もなかったのだ。
所詮はマリカの大母であるだけの弱者、記憶するに値しない存在である。腹芸などする気もない王の瞳は空虚で、大母は自らの覚えにあるままの英雄に苦笑を浮かべる。
やんちゃな若者を見るような顔をしそうになるが、跪いた大母はあくまで穏やかに応対した。
「寛大な対応、痛み入ります。実はゴッドフレイ王への言伝を預かっております。私の口を通してはお耳汚しになるかもしれませんが、どうかお伝えさせて下さい」
「お前を遣いに出来るのはマリカぐらいであろう、無駄に謙る前に聞かせるがよい」
「では僭越ながら……」
老女は声を潜めて言う。私の王よ、英雄達を祀る墳墓の前にて待つ――と。
平伏したままの老巫女を見下ろし、ゴッドフレイは嘆息した。誰にも言わずいきなり帰ってきたというのに、早くもマリカの耳に帰還した旨が届いているらしい。転送門の警備をしていた兵は脚が速かったようだ。が、女の支度は時間がかかるのが常。ゆるりと指定された場所に向かう事にした。
「相分かった。大儀だったな、老女よ。空手で来たゆえ褒美はやれんが、機会があれば望むものを下賜してやってもよい」
「であれば王よ、一つだけ私からお願いさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「む……なんだ、申してみよ」
早々に話を切ろうとしたが、思いもしない申し出を受けて眉を顰めた。
それだけの仕草で気圧され、早口に弁明する者が多い中、流石に巫子の長なだけあり肝が太い。老女は落ち着き払ったまま、にこやかな表情の奥に重い意志を露出させて告げる。
「王のお力を、少しばかりお分けください」
両手で恭しく差し出されたのは、黄金の盃に盛られた灰である。アレクトーがさりげなく往来の側に立ち、老女が差し出した盃が人目に触れないようにしている。灰なんぞを目の前に出されてゴッドフレイは訝しんだが、そういえば狭間の地には不可思議な代物が多数あるのを思い出した。
遺灰を用いた故人の召喚、武器に宿る戦いの記憶が形になった戦灰などだ。これは後者の物で、灰として残った戦の記憶が摩耗した末に消え失せ、別の記憶を埋め込める器になったものだ。喪失の戦灰、というのだったか? ゴッドフレイは思案するように老女の目を見詰め、巫子の長の思惑を図る。
次いでアレクトーを一瞥した。彼女達はマリカに最も近しい者達、血族だ。黒き刃……刺客として用いられる暗部でもある。陰謀にゴッドフレイの力を用いようという腹か? 陰謀を知らぬからか獅子の宰相は何も言わない。なら、まあよいかと思う。ゴッドフレイは無造作に腕を伸ばして戦灰を握り締めた。
謀に用いるにもゴッドフレイは向いていない。どうやっても目立つだろう。ならば、とことんまで存在感が際立つ記憶を注ぎ込めばいい。自身の渾身の咆哮が最適だろう。ホーラ・ルーだった時の自身の記憶を注いでも、ゴッドフレイから喪われる訳でもなし、惜しむ必要はない。
「これでよかろう」
「……確かに。ご協力、感謝致します」
「何に使うかは聞かん方がよいな?」
「はい」
恭しく黄金の盃を懐に秘め、老女は改めて平伏する。用がないならさっさと立ち去ろうと背を向けた戦王だったが、ふと思い出したようにアレクトーを横目に見た。
「アレクトーよ、マリケスは壮健か?」
「は。休む事を知らぬのが難点ですが、夫も黄金律原理主義の司祭としてよく励んでおります」
「そうか。お前の抱いている赤子の名も聞いておこう」
「ティシーと申します、ゴッドフレイ王」
一つ頷き、ゴッドフレイはそれ以上は何も聞かずに王都城外に建てられた墳墓に向かう。
黄金樹と黄金律に浴し、生きる者は不老不死だ。だがそれは完全ではなく、真に老いず死なずの身は女王マリカとゴッドウィンのみである。
ゴッドフレイは一度も死んだことがないが、祝福を奪われる以前は不老不死だった。老い始めている今は、死ぬ。それと同じように万民も、老いは緩やかなれどいつかは死する身である。
しかし黄金樹への還樹を賜っていれば、黄金律に秘められる輪廻とかいう概念によって再誕が能うらしい。以て全ての人々は永遠に生と死の円環の中に組み込まれ、永遠のサイクルを黄金樹の加護と謳っているようだが――マリカの理想とは掛け離れた仕組みである。黄金樹と律の限界が見えていた。
墳墓に納められる英雄達の骸と魂。死が前提としたサイクルがある時点で完全ではない。マリカは死を疎んでいるから死のルーンの封印を目論んでいるが……マリカはその先に待ち受ける陥穽に気づいてしまった。二本指の傀儡にされた事で不審を懐き、大母や巫子達を頼って密かに調べ真理を知ったのだ。
ゴッドウィンも近衛騎士の中でも特に信頼を置ける腹心に命じ、独自に動いている。一番目立つ戦王ゴッドフレイは敢えて蚊帳の外に身を置いていたが、人目を避けるように墳墓前で待ち合わせようとする以上、何かが進展したという事だ。意図していなかったが会いに来て正解だったかもしれぬと思った。
ゴッドフレイは供も連れず徒歩で墳墓前に向かい、辿り着く。すると二つの人影があった。
「――遅いぞ、ゴッドフレイ」
いたのは背部の開けた黒いドレスを纏い、光の冠を被った扇情的な美女、マリカだった。豊かな乳房が垣間見えていて、男の劣情を誘いそうなものだが、圧倒的上位者としての神々しい存在感が他者の劣情を掻き消してしまう。マリカに欲情できるだけの豪傑など、ゴッドフレイぐらいなものだろう。
だが自身が背負うセローシュが邪魔だ。性欲まで抑制しているのか、自分から誘うか襲う気になれそうにない。なんとも言えぬもどかしさから、ゴッドフレイは伴侶の傍らに立つ長子を見遣る。
見ない内に立派な偉丈夫に成長したゴッドウィンは、背丈こそメスメルと同等だが、手脚の長さと肉体の均整が完璧に整い、ゴッドフレイの血が入っているとは思えぬ美貌を得ていた。携える得物は長槍から黄金のハルバードに持ち替えられ、光輝を閉じ込めたが如き甲冑は『黄金』の二つ名と同じものだ。
生真面目に一礼するゴッドウィンの瞳は、懐かしい父との再会を喜んでいるようで、反面その肉体は緊張して固くなっている。
「お前達が早過ぎるだけだろう。そんなに私との再会に焦がれていたのか?」
「当たり前だ。愛する伴侶と、長らく離れ離れだったのだ。会いたくて会いたくて堪らなかった。こういうのを一日千秋の想いというのだろう」
「フン、素直だな? 抱いてやりたくなる。が……その前に試しておこう」
「?」
試すとは何を。マリカは訝しみそうになるが、すぐに悟って苦笑した。
ゴッドフレイは無造作に長子に歩み寄ると、身構えた若き王子目掛けて王斧を振るったのだ。
颶風を逆巻かせる絶死の一撃。衰えの気配が躙り寄りはじめているとはいえ未だ全盛のゴッドフレイの一撃は、たとえ本気でなくとも驚異的な威力を宿している。それを、咄嗟に反応した長子は黄金のハルバードで見事に弾き返す。王斧と戦斧が激突するや、凄まじい風圧が周囲の木々を揺らした。
ゴッドフレイはニヤリと太い笑みを浮かべ、丸太のような腕を伸ばす。長子の肩に手を置いて、父は長子の成長を認めて言祝いだ。
「やるな、ゴッドウィン。流石は私の子だ、見ない内に強くなった」
「……父上、戯れはやめて頂きたい。背筋が凍りました」
「父を前に体を固くするお前が悪い。殴ってほしそうな面をしていたぞ?」
「そのような顔はしておりません」
「いいや、している。なんだその畏まった態度は。メスメルのように不遜な面をしてみせろ。お前のそれは見苦しいを通り越して気色悪いわ」
「……こちらの苦労も知らずによくも言えたものですね。残念ながら、慇懃に振る舞う癖は染み付いております。今更幼き日のようにはいきませんよ」
ゴッドウィンも端整な美貌に苦笑を浮かべて肩から力を抜く。マリカが息子に注目した旦那に唸り身を寄せると、ゴッドフレイは両腕を伸ばして二人を抱き寄せた。
三人ともが目を瞑り、感慨を噛み締める。暫しの沈黙を挟むと、小鳥の囀りと草木の揺れる音、静かな風の吹く空気が横切った。
やがて目を開いたゴッドフレイが、二人の耳元で囁く。
「お前達が揃って此処にいるという事は、
察したのだ。二人の佇まいで。寂寥が滲んだ声音で問うゴッドフレイに、マリカもまた小声で囁きを返した。ただし、女王は決然としている。
「ああ。調べた通りだ、狭間の地の地下深くで朱き腐敗の湖が見つかった。完全は永遠であり、永遠は停滞となり、停滞は腐敗を伴う。嘗ての黄金樹なきエルデの世でも腐敗は生じ、何者かに封じ込まれたが滅びていない。結果論になるが問題の先送りになり、もし私の統治下で腐敗が生じてしまったなら、前史のツケも、黄金樹は纏めて支払わされる羽目になるだろう。結論は出た――大いなる意志もまた完璧ではなく、絶対でもなく、私の理想は始まりから破綻していた」
告げるマリカに悲愴の色はない。
自らの理想がはじめから叶いようのない夢物語だと知った時、枕を涙で濡らす夜もあった――しかしもう割り切っている。乗り越えている。自分一人で乗り切れる気丈さが女王にはあった。
故に、すっぱりと諦めた。夢物語が確かに人を一時癒せたとしても、後に訪れる破綻が大きく、より破滅的なものになるというのなら……そんな夢、見ない方がいいのだと。
思えば、いい夢を見れた。少女だった頃に懐いた恩讐の路、描いた空想を追いかけた青春は血塗れだったけれど……理想と夢が妄執に堕としてしまうのだけは、自分自身が赦せはしない。
「全ての指達の母、メーテールは指遺跡の一つに封じました。しかし二本指はとっくの昔に独自に動いていたようで、指の母を封じ込んでもなんら意味を成さぬようです。……大いなる意志と二本指に抗う術は、やはりありませんでした。斯くなる上は、最初の謀議にて取り決めた通りにするしかありません」
ゴッドウィンの決意もまた、金剛。
女と倅の目を交互に見たゴッドフレイは、マリカの意志を改めて聞く。
「……さよならだ。次に私として会えるのは、きっと全てが終わってからになる。その時私が自分を保てているか、それとも壊れているかは定かじゃない。だが、ゴッドウィンだけは……」
「分かっている」
「父上」
「くどい。ゴッドウィンは言わずともよいな? マリカよ、お前は意地でも耐えろ。私が……俺が傍にいる事を忘れるな。よいな、もし
ゴッドフレイはマリカの懐に仕舞われているモノを視線で指した。
目を瞠ったマリカは、一瞬の間を空けて頷く。ゴッドフレイが敗れる光景など想像もできないが、
二人を離したゴッドフレイは一歩距離を取る。そうして何気なく、全く関係ない事を口にした。
「――そういえば、お前達は私が主催する戦祭りの事は聞き及んでいるか?」
露骨な話題逸らしに、黄金の女王と王子は目を見合わせる。そうして当然だとばかりに頷くと、戦王はいつもの雄々しい笑みを象り言った。
「であれば話は早い。ゴッドウィンよ、此度は間に合わずとも、次があるならお前も加われ。此度の戦祭りは賓客として観戦するがよい。さすれば……もう暫し、共にいられよう」
「……! ゴッドフレイ!」
思いもしなかった誘いに、今度はマリカがゴッドフレイに抱きついた。胸を押し当てての行為に、主の滾りを抑えていたセローシュが悲鳴を上げる。宰相が子猫のように鳴き、ひとりでに弾き飛ばされた途端、ゴッドフレイの強すぎる性欲が復活した。息子の前で、しかも野外でおっぱじめようとする夫婦を見て、長子がなんとも味わい深い貌になり苦言を呈する。
「……母上、大事な事をお忘れですか?」
「!!」
しまった、そうだった、邪魔をするな。失態に気づき、思い出し、逆上する気持ちを同時に表現した貌でマリカはゴッドウィンを見る。
そして心底惜しそうにゴッドフレイの胸板を押し返し、マリカは咳払いをして神妙な貌をした。いまさらそんな表情をしても何も取り繕えていない、ゴッドウィンは白けた目を母に向ける。
「どうしたマリカ。うぶなねんねじゃあるまい、息子の心に傷を刻んでやるのも一興だろう?」
「父上、頼みます。やめてください」
「フン。お前も早く女の一人や二人抱いてみせんか。いつまで童貞のままでいる? さっさとせんと弟か妹を増やしてしまうぞ」
「……一生に一度のお願いを申し上げる。せめて私の前でだけは謹んで頂きたい」
不満げな父に息子は泣きたくなった。情けなくて、情けなくて、堪らない。さっきまでの痛ましい空気などお構いなしな父に、どうして分かってくれないのだと喚きたくなる。
流石にマリカも愛する長子の前で事に及びたくはないらしい。微かに赤面した貌で、再び咳払いをして硬い表情を形成する。
「ご、ゴッドフレイ、私から頼みがある。会ってほしい者がいるんだ」
「会ってほしい者だと? 誰の事だ」
なんとか母親の威厳を示そうとする姿は道化のようだったが、相手が乗り気ではなくなったと理解してゴッドフレイは嘆息する。渋々引き下がり、絶息している獅子を手招いて背負い直した戦王は、萎えた表情でマリカを急かした。よほど大事な話なのだろうなと、暗に咎めるような瞳で。
いたたまれない。こんな空気で会わせたくない。マリカは心の底から申し訳ない気持ちのまま、腰紐に括り付けていた鈴を取ってゆるりと鳴らした。
透き通る音色は現実のものではない。幻のように実態がない音だったが、確かに響く。この鈴の名は霊呼びの鈴……マリカが作った宝物だ。
呼び出しに応じて姿を顕したのは一人の少女である。兄の分け身と同じように左目が固く閉ざされた乙女の面貌を見て、ゴッドフレイは微かに驚いた。
少女は右目を開け、じとりと母を睨む。
「メリナ、か?」
ゴッドフレイが呼ばうと、栗毛の少女は非常に遺憾な気持ちを前面に押し出し、近くエルデの王になる英雄の呼びかけに答えずマリカに言った。
「……ちょっと、母さん? 今のタイミングはないと思うのだけど」
「う……」
気まずそうに目を逸らすマリカだったが、娘のメリナらしき少女は構わず詰める。少女はとても腹を立てていて、母の醜態を見過ごせなかったらしい。
「私、父さんに会わせてくれるって言うから楽しみにしていたのよ? なのに今のは何? 私の事を忘れて盛っちゃって……どういうつもりなの?」
「す、すまない……」
「たった一度の機会なのに。しかも……私はこの後、父さんと会えた事も忘れてしまうのよ。大事な使命を果たそうとする私にこの仕打ちは酷いじゃない」
「本当にすまないと思っている……赦してくれ、メリナ……!」
淡々と詰める娘の剣幕に母はタジタジだった。
それを傍から見ていたゴッドフレイは、ゴッドウィンに小声で訊ねる。
「ゴッドウィンよ、あの小娘は私の子なのだな?」
「ええ。霊体であるのと秘された存在であるのを利し、腐れ湖を見つけ出したのは彼女だ。とても頼りになる妹です。そしてそれ以上に、大切な家族の一人ですよ」
「……流石に、気まずいな」
「父上でもそう思うのですね。意外です」
「訳は知らんが、話を聞くに今回限りの縁しかなく、記憶を手放すらしいからな。如何に私とて思う所はある。妙な演出を挟もうとせず、最初から呼び出しておればよいものを……」
生まれる前に巨人の火に焼かれ、肉体を失った娘。
メリナが成長を見る事は能わず、そこにいるのだと言われてもゴッドフレイには解らなかった。霊呼びの鈴により仮初の肉体を得てはじめてゴッドフレイの目に映ったのだ。
きっとメリナは父を一方的に知っていて、傍にいるのだと訴え、甘え、我儘を言いたかったかもしれない。娘を持った事がないゴッドフレイだが、いざこうして対面すると未知の感情が湧く。
こうして仮初の肉体を得ているなら触れられるのか、とゴッドフレイは疑問を覚える。一度疑問を懐けば自分本位な戦王である、母を詰める少女へ無思慮に近寄り、気配に気づいて振り向いたメリナの頭を掴んだ。撫でるのではなく鷲掴みにしたのだ。目を丸くして驚くメリナの貌を強引に固定し、まじまじとその貌を見詰めた父は自らの顎髭を撫でる。
「ふぅむ……」
「ぇ、あ……と、父さん……?」
「……娘というのは不思議なものだな。男子とは接し方を変えねばならんのは解るが、どうすればよいのかが解らん。メリナよ、私はどうすればよい?」
「え……ど、どう、なんていきなり言われても……」
有耶無耶になる形で矛を収められ、マリカは助かった、なんて安堵の息を零していた。我が母ながら憎めない人だな、とマリカを横目にしつつゴッドウィンは助け舟を出す。
「肩車」
「……に、兄さんっ」
「言っていただろう、やって貰いたい事は山ほどあるが……まずは父の肩に乗りたいと」
「そんな事でよいのか?」
ひょい、と軽々少女の体を持ち上げ、自身の肩の上に置く。セローシュは嘆息して
メリナは目を白黒させながらも、父の肩に載せられて高くなった視界を確かめる。幼い頃、声も仕草も伝えられなかった父に触れられて目頭を熱くした。
想定していたのは、感動的な邂逅。けれどもそんな情緒は少しもなくて、ただ乱暴なだけで、なのにそれが奇妙なほどしっくりくる。人々の中に見た普遍的で平凡な親子にはなれないが、なんだかとても心が軽くなっていく。右目を見開き、きらきらと輝かせる少女の体重を感じるゴッドフレイは、不意に触れ合うことになった娘に微笑する。
「……どうだ、メリナよ。他にしてもらいたい事はあるか?」
「………」
「……メリナ」
「……え? あぁ……」
父が体を軽く揺すると、娘の華奢な体も連動して揺れる。話しかけられた事に遅れて気づいたメリナは咄嗟に考えて……何も思いつかなかった。
色々としてほしい事があったはずなのに。これがたった一度の邂逅なのに。必死に頭を悩ませるメリナに、ゴッドフレイは勝手に話を変える。
「脇から聞いていたが、使命とやらを与えられたそうだな。記憶も手放すと。なにゆえだ?」
「……それは」
「いい。今は誰も……二本指も私達を見ていない。話していいぞ」
「………」
マリカが声を発すると、先程の怒りが再燃してキッと睨みつけられる。たじろいだ母に長子は肩を竦めて、メリナも怒りによって逆に落ち着きを取り戻したのか厳かに告げる。
「……正直、警戒し過ぎかもしれない。けれど二本指の目と耳がどこにあるか解らない現状、私の存在が――
「記憶も曖昧になる、か? 企みの全貌は知らんが……お前もまた私の子だという事は理解した。無駄に生き急ぎ、使命なんぞに殉じて命を捨てようとするところは倅にもよく似ている」
「……そう? 私にとっては褒め言葉ね。けど父さんが勝ったなら……母さんも、兄さんも、そして私のことを知りもしない弟達も、きっと報われるわ。なら、私はそれでいいの」
肩の上で語る小娘の透徹とした覚悟は、ますます王の中にある血の滾りを激しくする。
今は自らの意志で抑え、腹の奥底に仕舞い込んだ。
ゴッドフレイはメリナの腰に掌を当て、自らの頬に押し当てる。それは、不器用な抱擁で。メリナは戸惑いながらも父の頭にしがみつく。
「お前は忘れるのだろうが……私は、父はお前を忘れはせん。たとえ如何なる困難が待ち受けようともお前なら成し遂げられよう。メリナよ、お前もまた我が子であるのだからな」
「――そうね。きっと、成し遂げてみせるわ、父さん」
与えられた言葉に、メリナは大きな笑顔を浮かべた。
私が普通の子供なら、絶対にお父さんっ子になっていたわ、と内心呟いて。父からの祝福に近い激励を、たとえ忘れたとしても手放さないと固く誓う。
目指すのは勝利だ。
黄金の一族に敗北は似合わない。尊厳を踏みにじられようと、大きな流れに翻弄されようと、最後に勝つのは自分達だとメリナは思った。
その想いはゴッドフレイとマリカ、ゴッドウィンも共有している。
「……湿っぽいのはどうにも肌に合わん。メリナ、お前に残された時は後どれほどだ?」
「さぁ……母さん、どれぐらいなの?」
娘に冷たく問われ、マリカはなんとか機嫌を直してもらおうと即答する。
女王なのに、母親なのに、神なのに、ご機嫌斜めな娘には弱いらしい。くすりと密かに微笑んだメリナは、我が母ながら可愛らしいわね、なんて思った。
「い……一ヶ月。一ヶ月はある」
「……それだけなんだ」
「……すまない」
「一ヶ月? それなら、まあ……辛うじて間に合うな」
たった一ヶ月で、メリナは消える。闇に潜み、溶け込み、時が来るまで永遠に彷徨って――探し続けて、求め続ける旅に出る。惜しむ娘に母は顔を曇らせて、しかし父は明朗に笑った。
「少々期間を前倒しにしよう。メリナ、お前も戦祭りを見に来るがいい。お前の父は、エルデの地にて最も強いのだと教えてやる」
「――ええ。楽しみにしてるわ、父さん」
暗くて冷たくて悲しい空気を吸い、覚悟を吐くだけの重い場面にはしてくれない。
寧ろ過酷な旅は戦士の門出だとばかりに変わらず振る舞う父に、娘も釣られて心を空にできた。
母と兄の謀が成った後。自らが探し求めるのは――大いなる意志の走狗。不死身にして強大なる刺客となる者。メリナは自らが導く事になるであろう存在が……父と対峙する瞬間を夢想した。
どちらが勝つのかは、正直解らない。
けれど……今まで一方的に見てきた父ならば、そんな強敵との戦いすらも愉しんでしまうのだろうなと想像できて、ちょっと笑えてしまった。