「魔女は倒れた。コズエの勝利だよ。――ほら、結界が消える」
キュゥべえの視線を追って空を見上げると、クレヨンで描かれた空が罅割れていた。罅の向こうにはビルの天井が覗いている。見える部分はどんどん広がり、空間がガラガラと崩れていく。クレヨンで描かれた空、クレヨンで描かれた木、木に吊るされていたクレヨンで描かれた首吊り死体。それらが作りかけの廃ビルに置き換わる。夕日に照らされ、影が伸びた。風景が完全に置き換わり、我に返った結衣が梢を支える為に沿えた手に力を込める。
「梢ちゃん、梢ちゃん、梢ちゃん! 怪我…怪我は大丈夫!?」
「怪我……?」
訳が分からないといったような様子で眉をひそめた梢は、結衣の視線を辿って視線を下げる。そして視界に入った色に目を見開いた。
「あ……」
赤。ボタンの糸は一部が切れて、垂れ下がっている。胸元が裂け、大きくはだけていた。そこは赤く染まり、赤瑪瑙色の布は別の赤が混じって濡れている。梢は震える手で胸元に触れた。そこは、大きく抉れていて。
「とにかく、手当っ!!」
結衣は切羽詰まった声を上げるが、手を彷徨わせるだけで動けずにいた。手持ちに応急処置に使えそうなものはない。鞄の中に絆創膏なら入っているが、その程度で塞ぎきれる物ではなかった。胸元に寄せた手で肩を抱き、梢は喉を引き攣らせる。結衣の声は聞こえなかった。
熱い。どう考えても、動き回ったりなど出来ないと思われる程、抉れた傷。熱い。熱い。熱い。
蹲る梢の背に結衣が触れた。全身から噴き出した汗で湿っている。
「梢ちゃん!?」
「ああああああああああああああああ!!」
声の限り、梢は叫ぶ。胸元が熱い。熱くて熱くて、声が我慢できない。
「やだ…… 梢ちゃん、梢ちゃん! どうしよ…… キュゥべえ、どうすればいいの!?」
梢に縋りついた結衣は、半泣きになってキュゥべえに助けを求める。キュゥべえはその懇願に答えて結衣の横から梢の膝元に歩を進め、下から梢を覗き込んだ。瞳に映ってはいても、叫び続ける彼女の視界ににキュゥべえは入らない。
「落ち着いて」
小さな前脚を片方、梢の膝に乗せてキュゥべえが言う。
「コズエ、ついさっきまで、痛くなかっただろう? 今のキミは魔法少女だ。傷から意識を逸らせば、痛覚なんて簡単にシャットダウンできるんだ。ほら、息を大きくすってごらん」
キュゥべえの声は、直接頭の中に入ってくる。だから、傷の熱さで結衣の声も聞こえない梢の中も届いた。
「ぅ、ふううぅ…… ふうぅぅぅ~……」
痛みで息を詰まらせつつも、無理矢理深呼吸をする。一回、二回、三回。回数を重ねるごとに、息は長く、落ち着いていく。漏れていた声が消え、息を吸って吐く度に上下に動いていた肩の動きが小さくなり、沈黙が落ちる。息を呑んで結衣が見守る中、梢が上体を起こした。その顔は涙と脂汗で濡れていたが、顔色は落ち着いたものになっている。キュゥべえは前脚を膝から降ろし、結衣の隣へと戻った。梢は肩を抱いていた手を緩めて胸元を見下ろす。見えるのは先程と同じだが、ただ映像として認識した時のように痛みは感じなくなっていた。
「……本当だ……痛く…なくなった……」
呟いて、片腕を伸ばす。袖口から蛇のように包帯が伸びた。包帯は胸回りを縛り、傷口を覆い隠す。そして、クルリと手の中に呼び出した小さな注射器を胸に刺した。中の薬剤は、結衣を助けた時のものと同系統のもの。傷口に熱が灯るが、先程ほど強烈なものではない。それは痛みから来る熱ではなく、再構成の為に活発化した細胞の発する熱だった。熱が引いて包帯を解くと、そこには傷一つないきめ細やかな白い肌が現れる。
「良かった…… 梢ちゃんが死んじゃうかと思った……」
ホッとしたように結衣が表情を緩め、鼻を啜る。梢は結衣の瞳に浮かんだ雫を指で拭う。
「結衣、ほら、泣かないの。もう治ったから」
「ん……」
頷く結衣に梢は微笑む。そこにキュゥべえは声をかけた。
「コズエ」
「何、キュゥべえ?」
「そこを見てごらん」
梢の声は、先程衝動のままに叫んだために少し掠れている。そんな梢に、キュゥべえは床の一角を示した。顔を濡らしていた汗を手の甲で拭いながら、梢と結衣はそちらを見る。床に、何か黒いものが落ちていた。気だるげに立ち上がった梢がそれに近付く。
「あ…… 宝石?」
それは、黒い宝石のような物だった。いぶし銀で装飾を施されている黒い球形の宝石で、中心を上部に細工の施されたピンが貫いているように見える。それが重力に逆らうようにピンの尖った方を下に自立していた。梢は宝石を摘みあげて左の掌に載せる。その上でもやはりその宝石は転がることなく自立した。
「これ、どうやって立ってるの?」
「不思議……」
結衣が梢の手の平の上を覗き込んで呟く。
「それはグリーフシード。魔女の卵だよ」
だが、じっくりと見ていることは出来なかった。キュゥべえのそんな台詞と共に、驚きの声を上げた梢が宝石を放り出したからだ。宝石は床をある程度滑った後、起き上がりこぼしのように立ち上がる。結衣も若干腰が引けているようで、通学鞄を胸元に引き寄せて怯えた目を宝石へ向けた。
「大丈夫。その状態だと安全だし、魔法少女にとっては有用な物でもあるんだ。コズエ、ソウルジェムを宝石の状態にしてみて」
「えっ? ええ」
梢は言われた通りに変身を解く。破けた短い丈のナース服のような魔法少女の衣装は学校指定のセーラー服に戻り、左脚にリングガーターとしてくっついていたソウルジェムは卵型の宝石になって梢の右手の上に転がった。
「さっきより、光が濁ってるだろう?」
キュゥべえに言われて見てみれば、手の上の赤瑪瑙はここへ来て変身する前よりも色が濁っているような気がする。比べたわけではないし、元よりそこまで色合いに注目して見ていたわけでもないから、"気がする"程度なのだが。
「今回の戦いは、魔力をそこそこ使ったからね。魔力を使い続けると、ソウルジェムはそうやって濁っていくんだ。使った道具は汚れるものだからね。だけど、ソウルジェムは魔法少女の力の源だから綺麗に保っておかなくちゃならない。そこで使うのが、グリーフシードだ」
もう一度、キュゥべえは地面に落ちた黒い宝石を示す。
「ソウルジェムとグリーフシードを近づけてみて」
梢はちょっと嫌そうに表情をしかめた後、恐る恐ると言った様子で二回ほど指先で突いた後、グリーフシードを拾い上げた。ソウルジェムは右手の上に。グリーフシードは左手の上に。手の平を近づける。じわり、とソウルジェムの中に黒いものが滲んだ。滲みは吸い寄せられるようにグリーフシードへと移っていく。その動きが止むと、黒いグリーフシードはさらに暗い色に、そしてソウルジェムは濁りが消えて元の輝きを取り戻し、若干明るい色合いになっていた。
「グリーフシードは再び孵化しようと穢れを集める。だからそうして近付けるとジェムに溜まった汚れ…穢れを吸い取ってくれるんだ。――ほら、元通り」
キュゥべえが耳をピクピクと動かしながら言う。感嘆の息をついて、梢はジェムを夕陽に翳した。日の光を浴びた半透明の赤瑪瑙が眩しい。
「これでコズエはまた万全の状態で魔法を使う事ができるよ。グリーフシードに穢れが溜まりきるとまた孵化してしまうから、そうなる前に回収して孵化しないように処理するんだけど……うん、後一回は大丈夫そうだね。持っておくといいよ」
「ふうん……分かったわ」
手の中のグリーフシードを転がしながら梢は頷き、スカートのポケットの中へと収めた。ソウルジェムは指輪となって中指にはまる。それを見届けてキュゥべえは踵を返した。
「それじゃあ、今日は帰ろうか」
「あ、待って」
「どうしたんだい?」
出口に向けて歩き出したキュゥべえを梢が止める。キュゥべえは不思議そうに梢を見上げた。
「電話する所があるわ。……あのままには、しておけないもの」
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一定間隔の照明の灯り、そして大きな窓から射しこむ黄昏時の日の光が柔らかく空間を染めている。規則性を持って配置されたテーブル。小さなそれには向かい合わせるように、丸い曲線が柔らかい印象を与える木製の椅子が二脚、大きなテーブルには四脚設置され、どのテーブルにもトレイに載せられたいくつかの調味料、木製のケースにセットされた紙ナプキン、薄い冊子が置かれている。冊子はアルバムのようになっていて、写真がレイアウトに拘って貼りつけられていた。ただ、その写真に写っているのは人物でも風景でもなく、飲食物。そしてそれらに添えられているのは簡単な説明文と、値段。落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。
「お待たせしました。ケーキセットになります」
店の雰囲気のようにゆったりとした速さでそう言った店員が、結衣と梢の前にソーサーに乗ったカップと茶の入ったポットを置く。食器のぶつかるカチャリという小さな音が店内に流されるBGMに溶ける。二人であるにも関わらず窓際の大きい方のテーブルを占拠した彼女らに、その店員は嫌な顔一つしない。種類の違うケーキがどちらのものか確認してテーブルに置き、ごゆっくりと声をかけて厨房の方へと戻って行った。
それを見送って、二人はそれぞれポットの茶を自分の前に置かれたカップに注ぐ。赤く染まった空間で、より紅い液体が揺れた。立ち上る湯気。遠くから聞こえるサイレンがBGMに混じって耳に届き、二人はポットをテーブルに戻して顔を上げる。高めの軽いそのサイレンはパトカーの物だ。オフホワイトの薄いレースで作られたカーテンが端に寄せられた窓の外を見ると、道路を行き交う人が目に入る。この喫茶店はあの廃ビル群からそう離れてはおらず、外を歩いていた通行人もサイレンに気付いたようで足を止め、二人と同じ方へと顔を向けていた。
「そろそろ警察、ビルに着いたかしら……」
梢の言葉に、調味料置きとなっている木のトレイから林檎の形をしたシュガーポットを引き寄せていた結衣の動きが一瞬止まる。
サイレンを鳴り響かせたパトカーを呼んだのは、梢。公衆電話で警察に首吊り死体を見つけたと通報したのだ。名前は名乗らずに。あのまま放っておいて女性の体が朽ちていくのを、梢は良しとすることはできなかったし、結衣も同意見だった。パトカーのサイレンが聞こえたという事は、今現場に向かっていてこれから死体を発見するのか、それとももう発見して応援が駆けつけようとしているかのどちらかだろう。
改めてカップの横までシュガーポットを引き寄せた結衣は蓋を開け、砂糖を二匙紅茶の中へと放り込む。蓋をして元通り林檎の姿を取り戻したポットをトレイの上へと戻した。
「あの女の人…どうなるのかな……」
スプーンで紅茶を混ぜながら訊く結衣への答えを梢は持たない。沈黙のまま、梢は憂鬱そうにケーキをフォークでつつく。本当は、あんな凄惨な死体や不気味な人狼を見た後ということで食欲は湧かなかったが、戦闘行為で体が糖分を求めていた。代わりに答えたのは梢の鞄で占拠された椅子からテーブルに飛び乗り、調味料のトレイの傍に陣取ったキュゥべえ。伏せの形で体を横たえ、質問者である結衣を見上げる。
「おそらく、自殺として処理されるだろうね。実際、彼女は自分で首を吊ったんだから、その辺りで不自然な所はないだろうし。死体の損壊は野犬の仕業…って事になるんじゃないかな」
「そっか……」
結衣は俯く。カップの中に眉尻を下げた結衣の表情が写り込むが、スプーンを紅の水面から引き上げた事で波紋で掻き消える。スプーンから零れた雫が紅茶へと戻って行く。スプーンをソーサーに置いた結衣は、一度目を閉じて大きく息をつくと意を決したように顔を上げた。視線の先には、梢。
「やっぱり……私、魔法少女に」
「結衣っ!」
言いかけた結衣の言葉を梢が遮る。それでも結衣は想いを紡ぐ。
「だって、友達は助けたいもの」
「ユイは友達思いなんだね。コズエも。なんせ、コズエの願いは"ユイの命を救える力が欲しい"…だもんね」
言葉を詰まらせる梢に、キュゥべえは軽く小首を傾げてしっぽを大きく揺らした。
「魔女の結界から脱出するのに、どうせ力は必要だった。だから、結衣は気にしなくていいの」
梢は形の良い眉をしかめてそっぽを向き、少し乱暴にケーキにフォークを立てる。ふわふわのスポンジはあっさりとフォークによって割られ、突き刺された小さな欠片は梢の口の中に運ばれた。結衣は砂糖が入って甘くなった紅茶を一口飲んで、小さく首を横に振る。
「ううん。それでも、梢ちゃんが私を願い事を使って助けてくれたことにかわりはないもの。だから、私は梢ちゃんの願い事で魔法少女になりたい」
「結衣……」
困ったように梢は結衣の名を呼んだ。梢には結衣の気持ちが痛い程分かった。友達を助けたい。それは梢と同じ想い。梢はその想いから魔法少女になった。そして、結衣は選ぼうとしている。梢は諦めたように息をついて、紅茶を口に運んだ。結衣とは違って砂糖を入れていないから少し苦みを感じる。
「…………願い事は、結衣自身の為に使って。あたしは、考える時間なかったからさ。どうせなら、有効に、ね」
それは、梢が結衣が魔法少女になることを許した証。結衣は綺麗に笑って頷いた。
「うん。……願い事、考えとくね」
キュゥべえは話がまとまったのを見て窓の外に視線を移す。サイレンはもう止んでいた。先程より増えた通行人は皆同じ方向へと進んでいく。廃ビル群の方へ。サイレンを聞き付けて野次馬にでも行くのだろう。まるで、砂糖に群がる蟻のよう。
窓ガラスには、窓の外を見続けるキュゥべえと、同じように窓の外へ視線を投げかけた梢と結衣の姿も映っている。少女たちのその表情は物憂げだ。キュゥべえは冷めた目で、それを見ていた。