読み物としてオススメは出来ませんが、暇潰しにでもどうぞ。
気づくと彼は知らない場所で目が覚めた。頭が痛い。じくじくと痛むそれはきっとまだ自分が正気でないからなのだと彼は思うことにした。でなければ、今視えているモノの説明がつかない。
自分は何をしたのだろう。自分は何故此処にいるのだろう。彼は目覚める前の事を思い出そうとする。しかし、ぼんやりと霧がかかったように頭の中には何も浮かんでこない。
そんな中でもはっきりと覚えていることが彼にはあった。忘れようとして忘れられるモノでもない。アレはそういうモノだ。本来なら彼はこうして目を覚ますことはなかったはずなのだ。暗くて、寒くて、重くてけれど何処か楽だったあの場所は、逃げるなんて考えが思いつかないような、思考なんて意味のない場所だったはずなのだ。
もう一度あの場所に行きたいかと問われれば、自信をもって首を横に降るだろう。しかし、あの場所にいたときの自分は絶対にこんなことを考えたりはしなかっただろう。何せそういった場所だったのだから。
とりとめもないことを考えながら、彼は頭の中の霧が消えていくのを感じた。でも、まだ頭は痛い。じくじくと。どうしてこんな所にいるのか、今まであの場所にいた彼にはそんなことはもう明白だった。
彼は自殺をした。
何が原因だったか、どんな手段だったか、細かいことまでは覚えていない。しかし、あの場所は間違いなく“死”だった。物事の終わり、それがあの場所だった。
だとしたら、と彼は考える。アレが死ならばどうして自分はここにいるのだろう。何故、この身体、この思考は働いているのだろう。彼は不思議でならなかった。どうしても納得がいかなかった。あの場所は生きたいという気持ちを持つような所ではない。そもそも、あの場所は思考なんて意味がない。何も出来ずに、何もせずに、ただ沈んでいく場所だったはずなのに。
「それは、お前の意思じゃないからだ」
不意に声が聞こえる。そこには煙草を加えた女性が立っていた。白い壁によく映える橙色の髪をした女性だった。
「死というものは与える事は簡単でも、受け入れる事は難しいのさ。生物としての死なら尚更だ。そこに培ってきた命の重みがあるならば……の話だがね」
女性はそう言って煙を吐き出した。濃い白い煙は徐々に薄れて周りの壁に溶けるように消えていく。ああやって何も考えずに、何も求めずに溶けていくはずだった自分は自らの意思でないなら、誰の意思で此処にいるのだろう。
「まぁ、それは彼女だろうね。自分の命に価値を見いだせなかった君は死を受け入れた。それを引き戻したのは、君の中にあった彼女との時間だ。自ら受け入れた君自身の意思じゃあない。君の中に潜んでいた彼女の意思そのものだ。彼女が望んだから君はここに戻ってきた。もちろん、急速に発展した魔法技術の恩恵も少なからずあるがね」
彼女。彼は女性のその言葉に引かれるように次々と自分の境遇を思い出していく。こんな自分が今まで生きていたのは彼女のためだった。彼女が全てを与えてくれて、彼女が生きる理由になった。彼女の怒った顔、泣いた顔、照れた顔、呆れた顔、意地の悪い顔、そして笑った顔その全てを守りたくなった。彼女と一緒に歩きたくなった。
「いや、
女性の言う事はもっともだ。だけど、結局は自分がそう思った事が原因だったのだ。身の丈に合わない望みをしたために自分がどういった生き物だったのかをわすれてしまっていた。
彼は、女性を見る。頭の痛みは治らない。じくじく、じくじくと。
そこにはやはり視えていた。ようやくはっきりとしてきた意識の中でもやはりアレは視えている。よく見るとそこかしこに視えていた。多かったり、少なかったり、太かったり、細かったり様々だが確かにアレは存在している。
「さて、彼女の話はさておき、本題に入ろうか。私が来たのは何のためだか……分かるな?」
彼は頷いた。初対面のこの女性は一部の者達の中ではよく知られている人物だ。完全に目覚めた今の状態なら分かる。しかし、彼女は元は人形が専門のはずだ。そんな彼の考えを知ってか知らずか、女性はただ一言、金欠でなとこぼした。
世知辛いな、と彼が返すと女性も、全くだと。
そこで最期に彼は女性に一つだけ質問をすることにする。答えなど求めていない、返ってくるとも思っていなかったが、構わずこう口に出した。
――この黒い線はいったい何なんだ。
彼の言葉に女性は初めて顔色を変えた。あり得ないモノを見るような目で、その瞳にありったけの恐怖と畏怖の念が詰まっている。
「おまえ……視えているのか」
何をだ、と彼が返す。
「私はその“眼”に出逢うのは二度目だか、この現代でもう一度見ることになるとは思わなかった。それは、現代の魔法で説明できるモノじゃあない。それは
女性はそう言って、鞄から果物ナイフを取りだし、彼の手に握らせる。
「何でもいい。私とおまえ以外の線をそれでなぞってみろ」
彼は言う通りにベッドの横に活けてある都忘れの花の線をなぞる。パタリ、と儚い音をたてて花は根本から切れてしまった。切れた花は今まで瑞々しく咲いていたのが嘘のように生気が感じられず、萎びている。
ああ、と彼は理解した。これはあの場所そのものだ。あの全身にまとわりつくような、えもいわれぬ感覚と同一のモノだ。彼は目の前の出来事に妙に納得してしまった。これは、この線は、“死"そのものだ。
「それは直死の魔眼と言ってね、世界の脆さ、あらゆる物の“死”を視ることが出来るものだ。詳しい事はそれ以上は良く分からん。でも、君自身の方がその線の事はよく分かっているはずだ。何せその場にいたんだから」
女性は再び鞄から何かを取り出す。それは何のへんてつもない眼鏡のようだった。
「気づいていると思うが、その眼は人の身に余る。そもそも人は“死”なんて膨大な概念を常に理解していられるようには出来ていない。その眼は否応なしに見たものの“死”を理解する。いくら君でも廃人になるのがおちだ」
女性は続ける。
「この魔眼殺しはその眼を抑える事は出来るが、それも一時しのぎでしかない。眼は使えば使うほど力が強くなりこれでも抑える事は出来なくなるだろう。その先は……」
言葉を切って、眼鏡をベッドの上に置き、女性は煙草の火を携帯灰皿で揉み消す。彼はそんな女性にまたも問いかける。
――依頼の事はいいのか。
「気が変わった。何、小遣い稼ぎにしては十分過ぎるほどの額を前金で貰っている。それに好きなように始末しろといった内容だったからね。お言葉通り好きにさせてもらうさ」
話は終わりとばかりに女性は病室のドアに手をかけ、最後にこう言いはなった。
「何かあったら、棚に置いてある名刺の住所に来るといい。機会があればもう一人の魔眼使いにも会わせてやろう。それにどうやら君は
病院に通い始めて半年。登校前に病院にいる時間を少しでも長く取りたくてほとんど眠らない日々が続いたこともあった。しかし、元来からそこまで身体が丈夫な訳でもない彼女は無理が祟って、学校を病欠する事になってしまい七草一族、特に父親から大いに叱責を受けてしまった。十師族に名を連ねる七草家の娘が自己の体調管理も出来ないような体たらくでは眼も当てられない。
そんなことがあってからの彼女は今までのように無理に病院に行こうとするような事はなかったが、代わりに放課後どんなに遅くなっても、必ず病院に顔を出すようになった。それで帰宅が遅れようと彼女としてはそんなことは些細な問題である。
眠り続けている彼の顔を見るたびに真由美は自責の念にかられている。どうしてあんな事が起こってしまったのか、自分が彼と一緒にいたのが悪かったのだ、あの時彼と出会っていなければと過ぎてしまったことを何時までも何時までも悩んでいる。
しかし、そう思うたびに真由美はそんなことはあり得ないと正反対の感情が沸き上がる。彼と出会った事をまるごとなかったことになんて出来ない、するはずがない。そんなことをすれば、彼と過ごした時間も全部無駄になってしまう。私が知らなかったいろんな事を、世界を見せてくれた。何時しか彼が居るのが当たり前だったそんな暖かい日常までなかったことにしてしまうのは耐えられない。それでも、と彼女は堂々巡りの思考を繰り返す。
(はぁ……ダメね。せめて彼の前では明るくしていないと)
何やってんだろ、私と小さく呟いて、真由美はほぅとため息を吐いた。今日から新学期が始まり、真由美は高校二年生になる。国立魔法大学付属第一高校。エリート魔法師を排出するあの場所では他の生徒と一線を画しているとは言え、真由美自身まだまだ精進するべき余地は多分にある。このまま腐っているわけにもいかない。
(もちろん、今でも成績に関しては上位だけれど……今年は生徒会長の選抜もあるし、気は抜けないわ。彼を言い訳になんて出来ないもの)
病院に着き、一つ彼女の中で落とし所を見つけたところで真由美は努めて明るく彼の眠っている病室に向かう。今日は、何を話そうか、昨日の家での事かそれとも後輩が出来ることを自慢してやろうか、その前に花瓶の水を変えなくては、等と様々に考えつつ、たどり着いた病室のドアを意気揚々に開けた。
何時ものベッド、そこに横たわる彼は――
いなかった。
「…………え」
たまらず声が出る。一瞬、思考が止まりかけたが次の瞬間には喜びの感情が沸き上がる。彼が目を覚ました。今は診察か何かで席を外しているに違いないと真由美は考えた。
まるで、彼女の中で揺れる嫌な予感を振り払うように……
真由美ほど頭が良ければ気がつくはずなのだ。病院の定期検診は午前9時から、登校前に病院に来る自分の時間に診察が行われる事など、魔法技術による医療も発展したこの驚くほど正確な世の中であるはずがないのだと。
半年も眠り続けた彼はこの日を境に忽然と姿を消した。
そして、物語は更に一年の月日が流れ、始まる。