問おう。この世で一番の悦楽は何か、と。
それは、あらゆる者を従える王になることでも、巨万の富を得ることでも、はたまた酒池肉林に溺れることでもない。
確かに幸福ではあるだろう。しかし、それは真の悦とは言えない。
俺は知っている。生きる価値にも等しく、魂が求める最も素晴らしい悦楽を。
知りたいか?よろしい、ならば教えてしんぜよう。
それは、腹パンされることである。
ちょっと待って逃げないで。大丈夫、怖くないから。
腹パン。
自身のお腹を固く握った拳で殴られること。これが最高にして最好の悦だ。
まず皮膚表面に弾ける打撲の衝撃。この外傷的な痛みをじっくりと楽しむ間も無く、内部に浸透する内臓への揺れ、刺激、爆発。
痛い。痛いのが良いのだ。
苦しい。苦しいのが堪らないのだ。
さらには、その後無様に崩れ落ちる自分へ向けられる、相手からの侮蔑の視線と言ったらもう!
ここで一つ、意外な事実をカミングアウト。
俺は本当にどうしようもないマゾヒストである。
殴打されるのが好き。出血するのが好き。嘲られるのが好き。ドン引きされるのが好き。
究極に終わってる性癖を持った男。それが俺だ。
なりたくてこんな変態になった訳じゃない。こうなってしまうまでには、悲しい過程があった。
ある冬の夜、誰もいない公園で。俺はジャングルジムのてっぺんに仁王立ちし、その…ごにょごにょしていた。夜風と慣れ親しんだ街の夜景をキメながら、エクスタシーの極大値へまさに至ろうとしていたその時だった。
降っていた雪によって足を滑らせた俺は、快感の上昇とは真逆の方向———硬い地面に真っ逆さま!!
そこで、痛みと結びついてしまったんだね(納得)。
しかし、そんな俺にも辛うじて人間としての感性と知性は残っている。何が言いたいかというと、俺は他人が苦しんでいるのを見るのが苦手だ。
たとえそれがフィクションであったとしても、痛みに苦悶を表す人や絶望に泣き崩れる人を見ると、心が締め付けられたように痛くなる。
その痛みだけは、嫌いだ。
と、ここまで長々と語ったが。そろそろ夢想に逃げるのはやめにしよう。
未だしつこく自分の胴を掴む大きな手をがんばって払って、だんだん冷たくなってきた
思わず嬌声をあげてしまいそうになる。しかしその快感は裂傷のできた喉でつっかえて、
……この無理やり声を抑えつけられる感じもいいな。
また思考が最悪の方向へ飛びそうになる。慌てて首をぶんぶんと振って、今の今まで自分が座していたモノを見上げた。
死体だ。
全長はおよそ三メートル、外観は全裸の老人。ぼさぼさの髪と髭はうねるように長く伸び、剥き出しのぎょろりとした目は未だに「生」を感じさせる。
特筆すべきは彼の口元。まだ血の乾いていない新鮮な肉片がまろび出ている。
「……血、とまらん」
その肉は、俺の左胸だ。
つい数分前に、人形みたいに体をひょいと掴まれて、ちょうど心臓の真上くらいを噛みちぎられた。
もう本っ当ーに、やばかった。いい意味で。
でも、流石にこれにさえ興奮してる自分にちょっと落ち込んだ。
普通に考えたら、体を生きたまま食われるっていうのは怖いだけじゃなくて気分も悪い。
今回は俺だったからよかったものの、この被害者が無垢な少女だったら、と思うと心底ぞっとする。
「…悪趣味」
思わず本音が漏れ出た。そう、まさに悪趣味だ。
第1話で、何も知らない少女たちの初陣の相手をこいつにする構成も、仲間の一人がこの怪物に頭から食われて死ぬシナリオも。
『美装少女
しかし俺は、そもそもこの作品が商業化できたこと自体まだ納得がいっていない。
なんといっても、読了後のやり切れなさと不快感がものすごいのだ。
まず希望が無い。そして展開が理不尽だ。
その後ずっと、仲間の死が、傷が、少女たちを蝕み続ける。ストレス障害に苦しみ、トラウマに怯えて、初めは明るかった少女たちの顔がどんどんどんどん暗くなる。
さらに最悪なのが、この作品は心理描写が驚くほどに上手い。逃げたくても逃げ場がない絶望、自分を殺そうとしてくる敵への恐怖、何も知らない他人からの中傷。壊れていく精神を自覚してしまう様が、恐ろしいほどの表現力で描かれている。
だから狂った性癖持ちの友人も、俺に今作を熱烈に推薦したのだろう。友人を切に恨む。
と、言いたいところだが、今はむしろあいつの足にむしゃぶりついてでも感謝を示したい気分だ。
もうお分かりであろう。
俺を散々痛めつけてくれて、俺の前で朽ちているこのでっかい老人が、第1話で右も左も分からない少女の一人を食った
え、俺? 気づいたらこの世界にいた。過去の記憶を遡っても、「
原作よろしく何の説明もなく異界に放り出された感じだった。そんでよく分からないまま嬲られて、なんか昂っちゃって、いい感じに倒せた。
疑問だらけだ。
なんで俺の身体が幼い女の子になってるんだとか、この化け物を倒した時に俺の傷口から出た触手みたいなやつは何だとか、そもそも俺は帰れるのかとか。
しかしここで放心していても何も変わらない。もしここが『
今の俺の見た目的に、彼女たちと会うのはなんか良くない気がする。とりあえず
体をみっともなくふらつかせながら、俺はいい感じの物陰を探して歩き始めた。
「……うう」
頭痛がする。ずっと頭を激しく揺らされているみたいな気持ち悪さ。その不快感に負けて、少女は
目を開く。しかし視界は大きく変わらない。一面の暗い世界。ただ曇天を越えて地へ届く微かな光が、ごつごつした岩が散乱している大地の存在を示している。
見当もつかない現状に首を傾げた瞬間、自身の後ろから小さなうめき声が聞こえた。
「…詩乃!?」
そこに居たのは、小学生からの幼馴染の姿。気が置けない仲の友人の存在に不安が少し和らぐが、だからといって何も分からないこの現状で呑気になれる余裕は無い。
「詩乃、起きて!」
兎にも角にも情報が必要だった。
「っん……んぇ?由依?」
声をかけながら身体を揺らす。すると、詩乃と呼ばれた少女は寝起き特有の腑抜けた声を漏らしながらも、すぐに自分を起こした相手を認識した。
焦点の合わないのんびりとした瞳は、こちらをぼんやりと見つめて。
「……あと五分」
「そんなこと言ってる暇じゃないってば!早く起きて!」
由依に肩を掴まれて、激しく前後に揺らされる。とうとう耐えかねたのか、詩乃は閉じかけていた眼を再び開けて、眠気を振り切るようにぐっと伸びをした。
矢先、彼女の目は大きく見開かれる。
「……どこ?」
みるみるうちに顔に知性が宿っていく詩乃。いつもの頼れる姿に戻ったことにほっと息をつく。しかし彼女がこぼした疑問にはもちろん答えられない。むしろ、由依が教えてほしいくらいだった。
「やっぱり詩乃も分からないか……」
がっくりと肩を落とす。その間も、完全に覚醒した友人は自身の唇を触りながら絶え間なく思考を続けている。
「岩石砂漠?そんなの町の近くにあるはずがない。今の時間は……腕時計が止まってる。参ったな。日付さえ分からない」
詩乃の呟きを拾う。この薄暗い曇天の下では今が昼なのか夜なのかも曖昧だ。自分の携帯なら時間を見られるかもしれないと、由依はショートパンツのポケットに手を入れる。
「あれ?」
その手が伝えてくる感触はスマホだけではなかった。取り出してみると、自分の手には赤い柄の
「……?」
「由依、目が覚めるまでの記憶はある?」
「え?うーん…本当に気づいたらここに居た感じ」
「そっか…って、何その筆」
「なんかポケットに入ってた」
「…一回見せてもらっていい?」
断る理由もない。手渡すと、詩乃は真剣な顔でその筆を観察し始めた。思慮深い彼女のことだ。もしかすると、この筆さえも手がかりになるのかもしれない。
予想も虚しくスマホの電源はつかなかった。手持ち無沙汰になったので、両手を組んでぐっと伸びをする。肩甲骨が軽くなって、心地よい熱が広がる感覚を楽しんだ。
現在地どころか、ここに居る経緯すら分からない。こんな状況で由依が取り乱していないのは、ひとえに詩乃のおかげだった。
由依は自分が楽観的だという自覚がある。今までもそうだったように、詩乃についていけば何とかなると思っている。だから今回もきっと、大丈夫。
(それにしても、不気味な場所だなぁ)
頭脳労働は彼女に任せて、自分は見慣れない岩だけの世界を見回す。最初は平野かと思っていたが、よくよく見れば遠くに岩山があるようだ。
由依たちが住んでいる町は比較的自然が豊かであり、このような広くて死んだ土地は無いはず。
「——あっ」
全体を見渡そうと、その場でゆっくり回転していた体が半周を過ぎた辺り。由依の目に、明らかに岩ではない何者かの陰が飛び込んできた。
「詩乃っ!あたしたち以外にも誰か発見!」
即決断、即行動が由依のモットーだ。まだ謎の絵筆の観察にトリップしている友人の手を引いて、見つけた標的へ進み出す。
一方で、意識外から体を引っ張られた詩乃はたまらない。
「待って。こんな変な状況で、知らない人に接触するのはリスキーだと思う」
「大丈夫だってば。慎重なのも良いことだけど、今は行動する方が大事じゃない?」
まだ渋る様子の友人の手をほぐすように揉んで抵抗を緩め、やや強引に連れていく。
見知らぬ土地で情報を得るために聞き込みをする。RPGみたいだな、なんて緊張感の無い感想を抱きながら人陰のある岩を回り込んで、
「すみませ———」
ぎょろりと剥いた大きな瞳と目が合った。
「ひっ!」
腰が抜けて尻餅をつきそうになった身体を、後ろから詩乃が支えてくれる。しかし彼女もまた、驚愕に体を固くしているのが分かる。
自身の2倍近くはありそうな、大きすぎる体躯。見た目は白髪の老人だが、それを「人」と呼ぶのは無理があった。
「ば…けもの」
流石の詩乃でさえも、
「…これ。まだ乾いてない」
そう言って指した口元には、未だ血をたっぷりと含んだ肉片。いや、肉片と呼ぶにはそれはあまりにも生体の余韻を残している。表面の質感はまるで
由依は吐き気を催しながらも、強迫的な雰囲気に押されて顔を逸らすことができなかった。
「もう死んでる、のかな」
「…恐らく。瞳孔が開いてるし。この…人?を、人間の尺度で判断していいのか分からないけど」
由依はごく一般的な高校生。当然血みどろの世界とは無縁で、誰かの死体を見たのもこれが初めてだ。それでも由依の頭の大部分を支配するのは、死体を見たショックに
「由依、ここは普通じゃない。いますぐこの場から離れたほうがいい」
まだ血が固まってないってことは———顔を存分に青くしながら語る詩乃の目が、言葉の途中で激しく見開かれた。
視線の先、禍々しく歪んだ死体の口から垂れる、変色前の鮮やかな血液。その跡が一筋の道となっている。
この血の道の先に、肉片の持ち主がいることは明白で。
「………えっ?」
反射的に顔を上げて、その赤い軌跡を辿る。平野のように開けた視界の先で、二人は見つけてしまった。
「女の、子?」
よろよろと、なぜ転ばないのか不思議なほどに弱々しく歩く後ろ姿。あんなに細くて折れそうな脚を由依は見たことがない。背中まで伸びた黒髪で隠れているが、着ている服もボロ切れのような粗末さだ。
彼女が目指す先にあったのは、薄暗いこの空間に綻びのように空いた白い光。まるでジグソーパズルのピースが剥がれていくかのごとく、その光はこくこくと面積を増している。
「——あのっ!!」
詩乃の制止を待つことなく、由依は少女に向かって叫んだ。かなり距離は離れていたが、自分の声は聞こえていたようで。
びくりと肩を跳ねさせた少女は、恐る恐るこちらへと振り向いた。
空間に空いたとしか形容できない光の穴は、とうとう少女の身体がすっぽり包まれるほどにまで成長している。その目も
逆光のせいで顔は見えにくい。それでも、明らかに少女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。