どこかで拍手のような音が、一度だけ聞こえた。
後ずさる自分の足音と、遅れて頬に登ってくる腫れあがった熱。由依は、自分が叩かれたのだとやっと自覚した。
「ねえ。消えて。消えてくれないかしら。それが貴女のできる最大の謝罪だと、私は思うの」
失った利き手の軽さにまだ慣れていない琴音は、由依の頬を打った衝撃で重心を崩し、ふらふらと揺れている。
琴音の隣では、パレットが宙に浮いている。彼女の武器。パレットに乗せられた絵の具は、左から、赤色、煉瓦色、鈍色、黒色。それらがごちゃ混ぜになったパレットの中央の色は、琴音の感情そのものだ。由依は痛む頬を押さえながら直感した。
「———これで本当に終わりだと思う?」
一歩踏み出した由依の手には、身長ほどの大きさの絵筆が握られている。くすんだ赤色の柄は、吸い付くように由依の手に馴染んだ。
由依は絶えず責められていた。詩乃の死を、琴音の傷を、不安定な心を。頭が破裂して咲く真っ赤な花火、首吊り死体のように揺れる体、木製バットが折れた時みたいに回転しながら飛ぶ右手。
フラッシュバックする光景に、由依は金切り声をあげて飛び起きる毎日。
「ねぇ琴音、あの突拍子も無い出来事が、もう起こらないってどうして言えるの?私たちは、乗り越えたんじゃない。たまたま生き延びただけだって、そう思わない?」
「あの日から私は死んだままよ」
由依は、琴音の利き手から、ぎり、と拳を握りしめる音を幻聴した。琴音は由依を睨んでいる。五体満足な自分の存在が許せない、とでも言いたげに。
由依は琴音と友達でなくなったあの日から、ずっと罪について考えている。
協力することが、償いだと思っていた。必死に考えて、耐えて、頑張る私を、琴音は被害者ぶって拒絶する。
(私は悪くない)
私が何をした? 私は何をされた? 苦しみも責任も押しつけてくる、かつて友達だっただけの女に、私はなんの責務がある?
由依は決断した。後は行動するだけだった。
「もう死んでるのと同じだって言うならさ、」
由依は琴音に巨大な絵筆を向けた。琴音は驚かない。パレットに乗せられた絵の具が重力を無視して浮かび、装填された弾丸のように、中空で六角形に並んだ。
「その命の残りカス、私が死なないために使わせてよ」
「死んでも嫌よ」
部屋の端にあった点滴スタンドが倒れ、甲高い音を響かせる。それが、開戦の合図だった。
ーーー
ぱちん、という控えめな音が、遠くで聞こえた。
遅れて戻ってくる意識。由依は寝ぼけまなこを擦りながら時計を見る。午後8時。どうやら、食後にうたた寝してしまったようだ。
ソファに目を向けると、ミツキが自分の頬を軽く叩いていた。目を覚ます寸前に聞こえた音はこれか、と納得する。
「眠い?」
ミツキは小さな声で「うん」とだけ言った。
眠気覚ましのために叩いたであろう頬は、ほんのり桃色に色づいている。その行動の意味がないほどに、ミツキの顔はとろんとしていたけれど。あどけない顔を見ていると、あの日、彼女がしでかした奇行が嘘のように感じる。由依は自分の眠さも忘れて苦笑した。
無理もない、と思う。今日は一日、怪物と戦うための訓練をしていたのだから。
ミツキに連れられた廃病院は、現実にもかかわらず、あの異界と同様に武器を出せる不思議な場所だった。そこで由依たちは、自身の武器——『美装』の使い方を学んだ。
琴音が初めて『美装』を顕現できたのも良いニュースだ。彼女の武器は、パレットと絵の具。琴音にぴったりの『美装』だと由依は思った。
ミツキが廃病院の寂れた様子に、顔色を悪くしていた事には驚いた。意外と、幽霊などが苦手なのだろうか。大人びたミツキの、子供じみた性格の片鱗を捉えて、由依はつい頬を緩ませた。
ちなみに、ミツキは『美装』を出していない。「私も出す」と言って、隠し持っていたナイフを背中に突き刺そうとしたので、全力で止めた。ナイフは没収した。
「そろそろ、濡れタオルだけだと物足りないんじゃない?」
今にも重力に負けそうなまぶたが、少しだけ持ち上がった。
この数週間で、ミツキの身体の傷はかなり治ってきている。大部分は母のおかげだが、自分の頑張りも意味があったらいいな、と由依は内心つぶやく。
「もう少し、寝るの我慢しない? 傷も治ってきたし、今日からお風呂、入ってもいいんじゃないかな」
ミツキはゆるゆると立ち上がった。かみ殺した
「ぜひ。お風呂いただきたい」
ややおぼつかない足取りながらも、小さく鼻歌を歌いながら歩くミツキについて行く。振り子のように揺れる長い黒髪は、久しく入浴していない割に、あまりごわごわしておらず艶も生きている。ミツキは髪のケアが上手だった。そんな彼女だからこそ、お風呂できちんと洗うことを待ち望んでいたのかもしれない。頼もしく見えても、やはり一人の女の子なのだ、と再認識させられる。
脱衣所に着くと、ミツキは緩慢ながらも無駄のない動きでワンピースをすっぽり脱ぎ去った。
「ああ、いいよ。そのままカゴに入れといて」
脱ぎ捨てたワンピースを拾い、綺麗に畳もうとしたミツキにそう伝えながら、由依も半袖のスウェットを脱ぐ。
ミツキが石のように固まった。
「え、……はっ?」
かと思うと、今まで出会ってから最も俊敏な動きでそっぽを向いた。
ただならない反応に心配したのは由依だ。
「どうしたの?大丈夫」
「ウワーーッ!!」
ミツキの前に回り込む。彼女は由依の体を一目見た途端、小さな手で両目を覆ってしゃがみ込んだ。
「え、なになに!?私の体、なんか変!?」
自分の上半身を見下ろすも、そこには由依の密かなコンプレックスである腹筋がかすかに浮き上がっているだけ。
「けいさつ……じあん……」
「待って、腹筋あるのそんなにおかしいかな!? あるって言ってもうっすらだよ? そんなに目立たないよね? よね!?」
「お腹は素敵だと思います!!ってそうじゃなくて!」
ミツキは丸まったダンゴムシのような姿勢を崩して、脱衣所の床に土下座した。「あー」だとか、「うー」だとか、苦しそうな
「ごめんなさい!私、男です!!」
今度は、由依が石のように固まる番だった。
「へ?」
由依は生まれたままの姿で小さくなるミツキを見下ろし、困惑し、冗談かと疑い、ある知識を思い出し、ぽんと手を打った。
「そうだったんだ。今まで気づかなくてごめん。こころと性の悩みは打ち明けづらかったよね。伝えてくれてありがとう」
「理解ありすぎて凄いけど、ちがう!」
由依の言葉に顔を上げかけたミツキは、再び頭を抱えた。由依もまた首をかしげる。彼女の発言の意味が分からない。
しかし、ひとつ分かっていることがある。
ミツキはいま裸であるということだ。
「こんな格好で喋ってたら、いくら夏だからって風邪引いちゃうかも。その話の続き、お風呂で聞いていい?」
「え″。いや、それは、」
「ミツキが男の子でも、私は気にしないし。とりあえず入ろうよ」
「それは本当のことを伝えてないからで……」
「ねぇ、ミツキ。あなたが風邪を引いたら、看病するのは誰?」
少しいじわるな質問。ぐっと言葉を詰まらせた彼女は、やっと白旗を揚げたのだった。
ーー
由依がジーンズも下着も洗濯カゴに放り込んでから、ミツキはずっと目をつぶっていた。お風呂場の椅子につまずいて転びそうになってからもずっとだ。その状態で「自分で体洗う」なんて言うものだから、こんなに頑固な子だったかな、と由依は首をひねった。
……いや、そういえば、初めて会った日は窓から飛び出して逃げたっけ。
あのとき心配させた仕返しをしてやろうと、驚くほど淀みない手つきで長い黒髪を洗っている彼女の細い背中を、つつ、と撫でた。
「ひっ!?」
勢いよく由依の方へ体を反転させたミツキは、一糸纏わぬ由依の姿に今さら動揺した顔を見せて、回転を止めずに360度回った。由依は吹き出した。
そもそもが、別の世界から来た謎の少女であるのだから、ミツキが何を言っても驚くことはないだろう。そう由依は思っていた。
「えっ。ミツキって、25歳なの?」
「……そうです」
蚊の鳴くような声を出すミツキをまじまじと眺めてしまう。見えない。
今までのミツキの言動を振り返る。やっぱり見えない。
由依の視線に込められた思いを察してか、彼女は顔を真っ赤にして、ぶくぶくと湯船に口を沈めた。
ミツキは元の世界で、美容室の跡継ぎ店長をやっているらしい。「高校生から見たら、25なんておじさんだよね……」と呟く火照った顔は、どう見ても自分より幼い。
「——教えてくれてありがとう。もっと早く教えてくれた方が嬉しかったけど」
「返す言葉もないです……」
「伝えにくいことだって分かるし、気に病まなくてもいいよ。改めて、これからもよろしくね」
簡単に受け入れた様子の由依を、ミツキは驚いた目で見上げた。
不思議と、由依に嫌悪感は無かった。二度も命を助けてもらったからだろうか。カミングアウトを受けてなお、彼女が女の子にしか見えないからだろうか。
「……そういえば、前にショッピングモールに行った時、ノリノリで試着してなかった?」
ミツキが目をもっと見開いた。その瞳があんまり大きかったので、由依は少しびっくりした。彼女の口がもにょもにょと揺れるが、漏れる吐息は言葉にならず、湯気の中に溶けていく。成人男性を自称する少女は、目を潤ませながら、ゆるゆると両手で顔を覆った。
「……くそ。恥がただつらい。なんにもきもちよくない。こんなのしらない……」
ぞくり、とした。
由依の首の後ろに、痺れるような甘い感覚が伝った。不思議に思って自分の首に触れる。何も起きない。ただ、のぼせてきて熱くなった首があるだけだ。
「そろそろ上がろっか」
顔を押さえたまま静かになった彼女に言う。
本当の意味で、ミツキの話を理解できたわけではない、と由依は自覚している。彼女にどんな過去があろうとも、本来どんな姿をしていようとも、由依の知るミツキは小さくて、強くて、ちょっと抜けている少女でしかない。
この事は、二人だけの秘密にしよう。
「あれ?ミツキ?……まさかのぼせた?ミツキ?ミツキー!?」