俺の目の前に、トート型のサブバッグがある。中に入っているのは、水色の四角いポーチ、白のTシャツ、紺色のハーフパンツ、あとジャージ。いわゆる体操服セットである。
現在時刻は11時30分、俺はこの由依の忘れ物をどうすべきか、決断を迫られていた。
気づいたのはついさっき、クイックルワイパーを手に、リビングの床を掃除していた時。由依らしいシンプルなデザインのサブバッグが、部屋の隅にちょこん、と鎮座していたのだ。
由依の高校へ行ったことは無いが、大まかな場所は聞いている。ここから徒歩で行ける距離にあるらしい。届けに向かうことは、できる。
「食後の眠いときに体育がある」という彼女のぼやきを聞いていた為、時間割を考慮しても、まだ間に合うだろう。
ところで現在、俺の社会的身分が何であるかをご存じだろうか。
そう、ニートである。こんな時くらい役に立たなければ、恩人である由依に見せる顔がない。
ではなぜ俺は迷っているのか。俺が一人で高校へ行くことを、由依が心配しないかが不安だからだ。無垢で哀れな少女だと思われていた過去とは状況が異なるが、だからといって浅慮で行動し、彼女に不安を抱かせるわけにはいかない。もう二度と——
男子中学生セクハラ事件の時の、本当に引いている顔を思い出す。
カミングアウト後の、純粋に呆れている顔を思い出す。
うん、杞憂。というか変態の分際で「1人でおつかいなんて、由依が心配しちゃうカモ……」なんておこがましいが過ぎる。
そうと決まれば出動だ。行け、ニート。自身の存在意義を示すのだ……
家中の掃除によって、朝食を消化しきったお腹が、くぅ、とひと粗相。
……ひとまず、腹ごしらえをしてから。
ーー
キュキュっと、お皿と指の間で鳴った快い摩擦音に頷いた。それから洗面所に行って由依の
ううむ、我がごとながら美しい髪だ。俺が平安貴族なら鬼モテ間違いなしだろう。現代でも、成長したらシャンプーのCMなんかに引っ張りだこじゃないだろうか。つーか俺の店のモデルにしたい。俺を。
鏡とにらめっこしながら自画自賛する。こんなふうに鏡を凝視する事って、日常生活であまり無い気がするな。入浴中くらいだろうか。……入浴。一緒に風呂に入った記憶が、望んでもないのに鮮やかに蘇る。噴き出る羞恥に慌てて蓋をして、大きく息を吐いた。およそ少女らしからぬ疲れ切った顔が、鏡に写っている。
ふと頭によぎった疑問。
(この身体は大人になるのか?)
空気抵抗の極めて小さそうな子供の体。
何もかも乗り越えた最期、俺はどうなるのだろう。由依には「心配ない」と伝えたが、俺自身、何も考えないわけにはいかない。
帰れるならそれでいい。体が戻らなくても、最悪
これはまずいと、頭の中のチェックシートに「後の事を考える」と書き込んで、気づけば時刻は正午過ぎ。
そろそろ行かねば。由依のお古である水色のスニーカーを履くと、夜勤帰りの彼女のお母様(むろん、俺の恩人である)を起こさないようにそっと玄関の扉を開け、俺は外に出る。
「ぐあああ!」
照りつける日差しが俺の瞳を突き刺し、謎の熱さで目がちかちかする。うーん、
よき。
瞳孔に染みる快感を堪能しながら、アスファルトに足をつける。真夏ほどでは無いけれど、じんわりとした熱が靴底を超えて足の裏に広がっていく。良い天気だ。暑い日は嫌いじゃない。身を焦がす日光も、吹き出る汗も、俺にいい感じの刺激をくれる。
すぐに慣れてしまうので物足りない気持ちもあるが、苦痛とか関係なく、シンプルに日光を浴びるのは気持ちいいものである。……なんだよ。痛いのは好きだけど、普通に気持ちいいのも好きだよ。悪いか。
しぶとく生き残る蝉の声をBGMにした散歩。人間とはぜいたくなもので、こんな健康的な活動をしていると、逆に物足りない気持ちが湧く。この口寂しさを埋めてくれるもの。
(タバコ、吸いてえな)
健康に悪いのは承知のため、自分から吸うことは滅多にないが、ここまでリラックスすると、やはり思い出してしまう。胸に広がる不快感と脳に滲んでゆく快感の同時攻撃。「痛み」には遠く及ばないが、その相反した感覚は俺を不思議な気分へトリップさせる。
アイツ——俺に漫画を薦めてきた友人は、案の定というべきか、鬱漫画を嗜む悪癖がある。それを読まされた心の傷を癒すため、アイツの部屋で煙を吸いながら駄弁った思い出も、もはや懐かしい。
アイツ、元気かな。高校で知り合った秀才で、勉強なんててんで駄目な俺と、なぜかよく絡んでた学ランの似合う男。真面目な雰囲気を出しておいて、約束の時間に合流できたことのない遅刻魔。卒業してからも不思議と縁は切れず、今では漫画を薦め合う仲だ。
俺がこの世界に迷い込んだ事とアイツは関係ないが、それはそれとして俺の頑張りを知らないまま、のうのうと生きているのはムカつくので、今度俺の店に来た暁には変な髪型にしてやろう。優秀な同僚に笑われるがよい。
無駄な事を考えているうちに、緑の柵で囲まれたグラウンドを通り抜け、視界に写る校舎はだんだん大きくなっていく。
数分後。額ににじむ汗を拭い、俺は校門を見上げた。
「うお、でっか」
俺が小さいだけである。
門に備え付けられたインターホンを鳴らし、要件を伝える。「鍵はかかっていないので、そのまま門を開けてお通り下さい」と言われた。警備ガバガバかい。
元の成人男性の見た目ならこうはいかなかっただろう。幼い見た目、強し。
事務室で由依の教室の場所を聞いたあと、サイズの合っていない貸しスリッパをパタパタ鳴らしながら階段を上がる。
奥が消失点みたいになってる長い廊下にノスタルジーを感じながら、俺は目的地の引き戸の前に立った。
こんこんこん。
数秒経って、毛先を遊ばせたお団子ヘアの少女が、扉の隙間からひょこっと顔を出す。彼女は俺を見て、面食らったような顔をした。
「こんにちは。由依……金子さんって、このクラスですか?」
「由依? うん、そうだけど……どうしたの?」
俺は手に持っていたサブバッグを彼女に見せる。
「これ、体操服です。家に忘れてたから」
「ホント? うわあ、ナイスタイミング! ちょうどいま着替えてる所だったんだ」
「間に合って良かった。じゃあ私はこれで——」
「というか、由依の妹? 一人っ子だって言ってた気がするんだけど。まあせっかく来てくれたんだし、由依に会ってきなよ」
一歩後ずさった俺の手を警戒無しに掴み、その子は俺を教室へと引っぱる。
女子更衣室と化した教室へ。
「あの、大丈夫!です、本当に。この後授業もあるだろうし、邪魔するといけないから」
「へえ、あなたいま小……中学生?くらいだよね。今のあたしよりしっかりしてるかも! ふふ、分かるよ。家の外で家族に会うのってなんだか恥ずかしいよね。でもせっかく持ってきてあげたんだから、由依に、お姉ちゃんに感謝の言葉の一つでも貰ってから帰ったら? お菓子もあるよ!」
まずい。非常にまずい。この外見は相手の警戒を解くという点において、他と一線を画す力を持っている。カワイイもの好きの高校生の警戒を解きすぎてしまうほどに。
おい、今「こいつ、自分のことカワイイって形容したな……」って思ったろ。事実である(脳内でドヤ顔ダブルピースをキメる)。
そんなこと考えてる暇は無い。抵抗する力が貧弱すぎるからか、俺を魔境へ引き摺り込もうとする少女は、ただ恥ずかしがっているだけだと思っている。
「あたしを信じて! 結局、会っといてよかったーってなるから!」
善意は時に悪意よりも人を傷つけるものである。
由依に正体をバラした手前、やはり俺は彼女にとって頼れる大人でありたい。もう手遅れであるとしても!
片足が教室に入った。あ〜!
「あれ?ミツキ?」
パッ、と。俺を引っぱる手が放された。ついに現れた救世主。教室の真ん中あたり、目を丸くして俺を見つめる制服姿の由依がいた。
先ほどまで俺と喋っていた子は、他の生徒によって教室の中へ引き戻されていく。
「お菓子……」そんな餌付けしたい?
交代で扉の前に来た由依。「ありがとう」と笑顔を見せ、俺の頭を撫でようと手を上げた状態で、固まった。おおかた、中身成人男性を撫でることにためらいを感じているのだろう。中身成人男性でごめん。
「その子、由依の妹?」
由依の背後からかかる声。由依はピクッと肩を揺らした後、俺の頭を優しく撫でた。
「えっと……」
「いとこ。今は由依の家に泊まらせてもらってる」
「そう、そうなんだ。ミツキ、持ってきてくれてありがとね」
明らかな嘘だが、妹だと勘違いされるよりは便利な関係性だろう。教室の端で、「え、そうだったの?」と驚愕する琴音を、詩乃がなだめているのに気づく。そうだ、みんな同じクラスなんだっけ。
「じゃあ、私はこれで——」
「その服、ミツキちゃんにぴったりなんじゃない!?」
にわかに騒ぎ出した1グループが、わらわらと俺に近づいてきた。
その中の一人、ジャージ姿の子が俺に体操服を差し出す。
「これ、間違えて妹の体操服持ってきちゃって。小さくて着れないんだよね。良かったら、この後の体育いっしょに来る?」
え?
発言の意味が分からなくて、しばらく呆然とした。その放心を利用され、俺の手には、たった今渡された白のTシャツと紺のハーフパンツがひとつずつ。
「もうすぐ授業始まるよ。早く早く」と笑いかけられる。完全に流れができてしまっている。教室の、女子更衣室の引き戸が、俺を迎え入れようと開いていく。どうしよう。どうしよう?
断ることはできる。面と向かって「嫌だ」と、明確に拒絶すれば彼女たちは俺を解放するだろう。しかし、それでは純粋な善意で俺に構ってくれているこの子たちを、傷つけることになる。由依にも迷惑がかかるかもしれない。
だから、この状況を切り抜ける唯一の方法は。
「由依」
俺は捨てられた子犬のような目で、由依の顔を見上げた。
たしかに俺は、変態的欲求に魅入られている。それでも、女子更衣室に入るような変態にはなりたくない。今更の無駄な足掻きだとしても、あきらめはしない。
そんな俺を捉えて、由依が一瞬、すっ、と目を細めたように思えた。
いつも優しい彼女に似合わない表情。しかし張り詰めた雰囲気はすぐに霧散して、口元に笑みがたたえた。ただの笑顔ではない、まるで輝いているように見える。その表情からあふれる、何とも説明のしようがない、謎めいた輝き。それはとても穏やかで、かすかな薄闇に飲まれてしまいそうな輝きでもあった。
「お言葉に甘えて、着替えちゃおっか」
あゝ無情。