被虐性癖転性者は絶対に曇らせない   作:甘朔八夏

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澄み渡った空の下、少年少女の覇気が舞う。ポニーテールをなびかせて、美しいフォームで前方の走者を追い抜いた由依に、俺はつい感嘆の声を漏らした。

 

カラッとした不快感の少ない暑さの中、体育の授業は滞りなく進む。今日のテーマは「リレーの練習」のようだった。

 

「……来週に体育祭、再来週に中間テスト、その2週間後には文化祭、だっけ。すごく大変だね」

 

仮設テントの屋根の下。体調不良で見学中の詩乃に呼びかけると、彼女は曖昧に笑って言う。

 

「うん、大変。うちの学校は二学期だけ特別忙しい。ミツキに伝えてなかった、ごめん」

 

こちらに伸ばされた手は、少しの逡巡の末、ガラス細工でも触るように、そっと俺の髪に触れた。

くすぐったい。由依の子供慣れした撫で方とは違い、詩乃の手は繊細でひどくソフトタッチだ。

 

髪の隙間を指がすり抜けていく感覚が心地よくて、俺はつい目を細めた。

 

「……髪、すごく綺麗。由依に洗ってもらった?」

「自分でケアした」

 

「…すごい」と、詩乃の口から漏れた言葉に胸を張る。そりゃ、美容師(プロ)ですから。

 

「私、そういうの下手だから。ミツキのこと尊敬する」

 

まっすぐな敬意が俺を穿つ。詩乃は年下だと思っている俺に対しても、このように対等な関係を築こうとしてくれる。そんな彼女の性格を、俺は好ましく思う。

 

「それなら、また詩乃の髪、私が手入れしてもいい?日頃のお礼も兼ねて」

 

詩乃はその提案にきょとん、とした顔を浮かべた後、少し恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「遠慮なくお願いしようかな」

 

改めて詩乃の髪を観察する。耳の隠れたショートボブ。多少の枝毛が見受けられるものの、下手とは思えないほど髪質は良い。ただ毛量が多く、丸みのあるシルエットが少々重たい印象を作っていた。彼女には、もっとすっきりした髪型の方が似合っていると俺は思う。

 

ぽつぽつと、気まずくない沈黙を挟んで、詩乃との会話は続く。

 

「…ありがとう。由依のところに来てくれて」

「?」

「あんまり人付き合いが得意じゃない私が言うのも、変な話だけど。由依って友達が多いように見えて、心を開いてる人って意外と少ない。でも、ミツキが来てから、由依は本心を素直に出してる。それは良いことだと、私は思う」

「…照れる。好き勝手ばっかりしてるけど、それでも由依たちの助けになったなら、とても嬉しい」

「たしかに好き勝手ばっかりしてるかも」

「……私、いま余計なこと言った?」

 

 

グラウンドを走る琴音を発見。運動は苦手なようで、追い抜かれるたびに、か細い声が聞こえる。

揺れてらあ。何がとは言わないが。

 

 

「まさか、普通に授業に混ぜてもらえるとは思わなかった。私、部外者なのに」

「それは私も驚いた。でも、担任の先生……ああ、この授業の体育教師も兼ねてるんだけど。あの人、由依のお母さんが夜勤って事も知ってるから」

 

話しながら、詩乃はグラウンドの端に立つジャージ姿の男性に一瞥(いちべつ)を送った。顔つきや体格を見るに、おそらく彼は二十代。実質俺と同年代である。トラックを走る生徒のうち何人かが、その先生に手を振っている。生徒に愛されているようだ。

 

「先生になることが、私の夢」

 

詩乃がぽつりと言った。いつも眠たげな彼女の目は、穏やかにグラウンドを映している。

 

「惜しい気持ち」

「惜しい? ミツキ、どういうこと」

「詩乃の授業だったら、私はきっと勉強嫌いにならなかったのに」

 

詩乃は一瞬目をしばたたかせると、照れたように頬を緩めた。

 

「まだ高校にも入ってないんだから。ミツキは勉強、これからでしょ」

 

もう出遅れです、と言いたいところだが、由依に「二人だけの秘密」と言われてしまったので、心苦しくも今は流しておく。おしゃべりが一段落した時、若い男の先生が、俺に向かって手招きをした。

 

「ああ、安住(あずみ)はそのまま座っとけ。体調悪いんだから無理すんな」

 

会釈をして腰を下ろす詩乃を傍目に、俺を呼ぶ先生のもとへ。

 

「金子(いもうと)、でいいか?安住と話してるときに悪いな。ちょっと手伝ってくれるか?」

 

その時、気づいた。俺は男性教師の気遣いに目を見張るとともに、自分の至らなさを恥じた。というのも、彼に休むよう指示された詩乃が、少し疲れたように肩の力を抜いている様子が見えたから。おそらく俺に気を遣わせないように、不調を隠していたのだろう。

それを見抜いただけでなく、俺に罪悪感を抱かせないために手伝いを頼んで子供(おれ)の自尊心を守るその手際。

 

「先生は、何歳ですか?」

「俺か? 最近25になったところだ」

 

同 い 年。

俺は大人(おれ)の自尊心が砕け散らないように、もはや何も考えないようにした。

 

「この袋に氷が入ってるから、一つずつ紙コップの中に入れてくれ」

 

なるほど、熱中症対策に飲み物を用意するのか。最近の高校は至れり尽くせりだな。「業務用ロックアイス」と書かれた袋から氷を取り出して、せっせと紙コップに入れていく。思ったより大変だ。部活時代、もっとマネージャーに感謝すべきだった、と反省しながら作業を進めていく。

その間に先生は、スーパーのレジ袋から、2Lのスポーツドリンクを3本取り出す。その時、レジ袋に入っていたレシートが、はらりと地面に落ちた。……レシート?

 

「先生。この飲み物って、もしかして自腹ですか?」

「お前……すごい所に気づくな。まあ、そうだ。生徒が体育祭のために頑張ってるんだから、教師はご褒美くらい用意しないとな」

 

唖然。人間としての格の違いを見せつけられている。「氷、入れ終わったのか。ありがとな」との呼びかけを聞きながら、彼がコップにスポドリを注いでいくのを眺める。やがて先生が休憩を告げると、グラウンドに広がっていた少年少女がわらわらと仮設テントに集まってきた。

ここで仕事を投げ出すのも気が乗らないので、汗だくの生徒たちにコップを手渡していく。

 

「ありがとう!」

 

女子生徒の5人に4人くらいが、感謝の言葉と共に俺の頭を撫でてくる。なに? まあ、撫でた後に俺の髪の触り心地に驚嘆する顔が見られるので、割とまんざらではないが。

 

む、あの少年は先ほど良い走りをしていた子じゃないか。陸上の先達として、彼は直接労わねばなるまい。

 

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 

少年の目をまっすぐ見て、

 

「かっこよかった」

 

彼は口をぽかんと開けたかと思うと、返事とも相槌とも取れない低い声を出し、控えめにそっぽを向いた。あの走りならば、褒められる事にも慣れているだろうに、新鮮な反応をするものだ。

セクハラにならない程度に彼のふくらはぎを拝見する。素晴らしい筋肉だ。足首にかかってのくびれも美しく、使う筋肉が適切についた形といえるだろう。

 

「あの……」

 

少年の困惑した声。やべ。しゃがんだまま足ガン見してた。

 

「さ、触ってみる?」

 

だいぶじろじろ見ていたからか、少年がそう申し出てきた。まじ?じゃあ遠慮なく。

走る者にとって、ふくらはぎは真の意味で第二の心臓だ。傷つけないようにそっと触れる。やはり素晴らしい……が、まだ発展途上ともいえる。つまり彼はまだ伸びるだろう。若い才能、恐るべし。

その時、彼の足がびくっと震えた。

 

「くすぐったい?」

「…少し」

 

見上げると、彼の顔が真っ赤になっていた。あれ、これ事案じゃね??

……逃げよう。感謝をひとつ、俺は少年から飛び退くと、何事もなかったかのようにスポドリの配膳を再開した。

 

 

 

残暑厳しい気候では、これだけの行動で汗が噴き出す。手で額を拭っていると、先生が俺の横に立った。

 

「おつかれさん。手伝いありがとな」

「いえ、こちらこそ。みんなの役に立てて、嬉しかったです」

「……子供とは思えんな。お前はいい子すぎる」

 

どきり。この(たぐ)いの発言は、冗談とわかっていてもタチが悪い。作り笑いで誤魔化していると、急に彼は「炭酸好きか?」と俺に訊いた。

 

「はい、好きです」

「こんな暑い日に飲むと、あのシュワっとした感覚がいつにも増して気持ちいいよな」

 

そんな事を言われると、つい想像してしまう。ごくり、と唾を飲み込んだ。先生はいたずらっぽく笑って、(ふところ)からもう一本のペットボトルを取り出した。

 

「みんなには内緒な」

 

手渡された炭酸飲料に目の輝きを抑えられなかった。フタが開かなかったので先生に開けてもらい、渇いた喉に流し込む。

 

至福。強烈な甘みと爽快感が俺を染める。一口飲むごとにほぅ、とガスを逃がし、それでも休む事なく飲み続けていると、ふと俺の頭に手が置かれた。なでりなでり。

 

「あ、すまん」

 

先生はたった今気づいたかのように謝った。しかし頭から手は離れない。

 

こいつ見てると、なんか実家の犬思い出すんだよな……

 

先生、聞こえてますよ。とはいえ、散々生徒に撫でられた後である。彼で延べ16人だ。最初に5連続で撫でられてから、なんとなく数えていたのだ。ここまでくれば1人増えても誤差なので、触りたいなら自由に触ってもらおう。

 

 

「——先生?」

 

氷を背中に入れられたような、冷たい声がした。先生が飛び上がるように俺から手を離す。振り向くと、そこには穏やかな笑みを浮かべた由依が立っていた。

 

「ミツキを見てくださり、ありがとうございます」

 

先生に一礼をして、由依は俺を見下ろした。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。頭を撫でる。

 

 

「じゃあ、また後でね」

 

いつもの明るい笑顔のまま、由依は授業に戻っていく。

 

 

 

ーーー

 

 

 

チャイムが鳴った。盆の水がひっくり返ったみたいに一斉に皆が雑談を始め、教室へ向かう一行はとてもにぎやかだ。話題のジャンルは豊かで、汗でメイクが落ちるだの、次の授業は寝そうだの、SNSに投稿したショート動画が伸びただの、入り乱れすぎて目がまわる。由依が手を握っていなかったら、彼女らの若さにやられて俺は逃げ出していただろう。

よくよく耳を澄ますと、俺を囲む女子グループからやや離れた後方で、男子たちがゲームだったり、マンガだったりの話をしているのが聞こえた。そっち混ざりたいです。

 

「ミツキちゃんって好きな子とかいるの?」

 

道中、教室をノックした時に扉を開けて対応してくれた女子生徒が、興味津々といった様子で俺の顔を覗き込む。そんな彼女の肩にほかの生徒が手を置いた。

 

「ちょっと、流石にデリカシー無いって。ごめんねミツキちゃん……いるかいないか、言うだけで十分だから」

 

あれぇ? 味方だと思った子が、瞳に好奇心を浮かべて俺を見下ろしている。

高校で初彼女に完膚なきまでにフラれてから、恋人どころか気になる人は現れていないが、今それ言おうか? そんな馬鹿な。

 

返答に困っているのを、照れていると判断されたのか、周りの女子たちが色めき立った。

 

そんな俺を、由依は困ったような哀れむような顔で見ている。俺の性癖どころか、性別と実年齢もバレてんだもんな。そりゃそんな顔になるわ。

あ、赤くなった。待て、俺の恋人にSMの女王様みたいな人を想像してない?? 誤謬。俺、そんな自分の性癖言いふらさないし、結構(わきま)えるよ??

 

なんとかその場を切り抜けて、一行は校舎に入る。俺はそこで立ち止まった。

 

「みんな、ありがとうございました。じゃあ私はこれで」

「いや、着替えてから帰りなよ」

 

!?

 

「いや…汗、かいたから。借りたこの服、洗濯しないとだし……」

「いいよ、そんなの気にしなくて。汗かいたなら、尚更着替えたほうがいいんじゃない?」

 

!?

 

「あぁ、暑い!汗で気持ち悪いし、下着も着替えよっと」

「えぇ、恥ずかしくない?」

「そんなに。別にみんなジロジロ見ないでしょ?」

「それはそうだけど……」

 

!?!?

 

断る理由が見つからなくて、でも絶対に断らなくてはいけなくて、頭が真っ白になる。いまだ俺と手を繋いでいる由依を見上げ、目を見開いて、何度もかぶりを振った。しかし由依も口実が思いつかなかったのか、ただ眉尻を下げるばかり。

 

授業前の着替えの時みたいに、ずっと目を閉じてればいいんじゃない? そっぽを向き続ければ大丈夫だと思うけど……

 

無理無理。やってみて「無理じゃなかった!?」とはならないってこれは。

いや、分かってる。これを断るのがおかしい事くらい。更衣室で着替えもして、体操服も借りて授業見学までして、終わりの着替えだけ無理って意味不明だし。ただ、本当に駄目だと思うんだ。

 

足掻きも虚しく、俺は教室の前まで戻ってきてしまう。もうおしまいだ。こうなったら爆速で着替えて、彼女らが着替え始める前に教室を脱出するしか方法は無い。

 

そうと決まればシミュレーションだ。俺の服はどこに置いたっけ。そうそう、由依の机に一緒に置かせてもらったはずだ。

由依が引き戸に手をかけた。

開いた瞬間、ダッシュで服のもとへ直行する。……いくぞ。

ガラッと、教室の扉が開く。

 

 

 

 

 

宮殿の一室が在った。

 

ただそれだけだった。

突然の静寂に耳鳴りで鼓膜が割れそうになっている。たくさんの生徒の気配は消えて、背後の息遣いは聞き慣れた3人のものだけ。

背後で扉の閉まる音が聞こえる。幻聴だと、後々知ることになる。初めから扉は閉まっていたようだったから。

 

 

床一面が、目も眩むほど精緻で美しい赤の絨毯だった。

壁一面が、血のような赤と穴のような黒の格子模様だった。

天井のシャンデリア、双頭の鷲を(かたど)ったステンドグラス。

 

金の玉座に、老人が座っていた。

目尻の下がった眼孔に、こぼれ落ちそうなほど大きく剥いた目が、間違いなくこちらを睨んでいた。老人は細かな装飾の施された金の外套を身にまとい、手には鈍色の杖を握る。

 

杖の先についた、放電球のようなガラス玉から何かが弾ける音がする。

 

老人は杖を振り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

———ッ伏せろ!!!

 

喉が潰れるほど強く、俺は叫んだ。

 

 

 

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