友人が、由依たちを守るようにイヴァンに立ちはだかる。意味がわからない。
茫然自失で友人の後ろ姿を眺める彼女らに、目的もなく駆け寄った。混乱からか、足がもつれる。
「お前、なんで——」
疑問をぶつけようとすると、彼は一瞬こちらを向く。いつもの無表情のまま、肩をすくめただけだった。
イヴァンの手がまた放電するように光った。友人に弾かれた杖が、N極とS極がかちあうかのごとく、イヴァンの手のひらにぴたりと収まった。
「……おとうさん?」
詩乃の呟きに思考が固まった。……え? おまえ子供いたの? つーか結婚してたの? 結婚式呼んでくれなかったの? マジ??
って、馬鹿か俺は。詩乃の親がこいつの訳がない。漫画の世界に迷い込んで女の子の姿に変わる、なんてトンデモ経験をしている俺でも、流石にそれは受け入れられない。意味不明すぎるだろ。
と、するとだ。イヴァンから俺たちを守ってくれたこの「友人の姿をしたナニカ」には、俺たちを惑わすカラクリがある。
一番考えやすい理由は、彼は真に詩乃の父親だが、俺が幻覚を見ており友人に空目している……あるいはその逆。どちらにせよ、相当まずい状況であることに変わりはないが……と、だらだら思考できるのはそこまでだった。
イヴァンの口から、再び聞き取れない荘厳な叫びが炸裂し、反射的に身を固めた俺たちに亜音速の杖が襲いかかった。
詩乃が俺たちの前にキャンヴァスを広げる。盾の展開には間に合ったものの、その一撃は強かった。
「え″ぅ」
直撃に
「——みんな、だいじょう”、」
咳き込みたいのに息が出ない。吸う。肺は膨らむのに吐くことができない。喉から木枯らしの吹く音が鳴る。
無理やり顔を上げる。琴音が、詩乃に羽交い締めにされていた。
「離して!あの子が危ないの、わたしが守らないと、わたしが!」
「落ち着いて。気持ちは痛いほど分かる。でも何かおかしい」
「後輩なの!将来の美術部を任せられる、大切な後輩なの!」
琴音は
どういうことだ? あいつはあいつではないのか? でも、あの表情は、あの仕草は、あいつが見せる態度そのものだった。
しかし現状、全員が1人の人物を、別人として見ている。
全員……。はっと由依のことを思い出す。彼女を探すと、由依は俺から少し離れた所にへたり込んでいた。服がずれ、打撲によって腫れた肩が覗いているが、由依はお構いなしに放心して、俺の友人を眺めている。口が僅かに動いていた。その声を俺は聞き取れない。
「由依」
名前を呼んでも、彼女はうわの空で彼を見つめたまま。分からない。現状は。あいつの正体は。なにも分からない。
助けに来てくれた? いや、それはおかしい。彼は何も知らないはずだ。詩乃の父親だって、琴音の後輩だって、みんな俺たちの戦いを知らない。知っているはずがない。
また低い声で何がを叫ぶイヴァンに、友人は真正面から立ちはだかっている。あいつはイヴァンに反撃をしない。そもそも美装なんて纏っていない。生身。変だ。浅く跳ねる心臓のリズムが俺の思考を妨げる。老帝の掌に、線香花火のような、枝分かれした光が瞬いた。
「あ」
成長した紫電が、友人の身体を貫いていた。彼は樹木の一部になったかのように動きを止める。生ける彫刻となった彼の頭に影が
イヴァンの杖。
その時、頭の中である記憶が弾けた。
原作のイヴァン戦。結末に打ちひしがれる俺に、友人が見せてきたイヴァンの元ネタ。目を剥いた老帝が抱く血の滲む頭は、老帝の息子であったという。
たった今浮かんだある仮説。
「見るな!」
謎の人物に目を奪われる由依たちに叫んだ。意味は無かった。自分もまた、彼から目を離すことが出来なかったから。
それが自然であるかのように、金属製の杖が風を切って、紫電に縫い止められた彼の頭蓋に直撃した。
案外、軽い音が遠くにいる俺の耳まで届いた。友人の端正な顔が驚愕に歪み、その目玉が落っこちそうなほど前に出る。ぐりん、と回った眼球の裏には赤紫の血管がうっすら見えて、鼻から透明の液体がどくどく垂れる。
異臭に気づく。俺は嘔吐していた。
由依か、はたまた琴音か。誰のものか知らぬ悲鳴を浴びながら、イヴァンは震える手で友人の亡骸を包む。目が合った。そいつに触れるな、と絶叫しそうになった。直前の気付きによって、俺はぎりぎり自分を客観視できている。
「…悪趣味」
掠れた声が口から漏れた。そう、まさに悪趣味だ。
そのことを、最初からわかっていたはずなのに。
ーー
由依の視界に、光景がフラッシュバックする。何度も何度も何度も何度も。
母の頭が割れた。詩乃の頭が割れた。琴音の頭が割れた。ミツキの頭が割れた。
全員が、絶望に歪む顔の中、由依を守れたことに安堵した目を浮かべながら。
何も出来なかった。守られるだけだった。自分がもっと頑張っていれば、何かが変わったんじゃないか、そんな罪悪感が身体の中に染みていく。
「ミツキ。ミツキ」
名を呼ぶ。帰ってくるはずのない返事を待つ。
「私はここに居る」
小さな手が由依の頬を包んで、見慣れた綺麗な黒い瞳が目の前にあった。幻覚だと思った。
「ミツ、キ?」
「そう、私。私は死んでない。あそこでイヴァンに抱かれてる人は私じゃない。あれもイヴァンの一部。もう一度見てみて」
ミツキに手を握られながら、
「……違う」
由依の一言にミツキは頷くと、泣き叫びながらイヴァンの元へ駆け寄ろうとする琴音と、真っ青な顔で琴音を止める詩乃の所へよろよろと走っていく。
詩乃も、琴音もそこに居る。生きている。世界に色が戻り、琴音の慟哭を必死に止めようとするミツキの声が聞こえる。
ミツキは自分にしてくれたのと同じように、琴音の頬に手を当てた。きょとんとして小さな手に揉まれる琴音を見ると、なんだか胸騒ぎがした。
頭を割られた男の死体は、いつからか端に有ったベッドに横たえられており、イヴァンは身体を痙攣させながら、杖で体を支えて立っている。杖の下端が絨毯に打ち付けられた。鈍く反響する振動と共に、杖の先端、放電球のようなガラス玉が一瞬の閃光を放った。
「なに、あれ」
ミツキの言葉が向けられた先には、足元が黒々とした霧で覆われたイヴァンの立ち姿。警戒しつつも観察に留めていると、その霧はだんだんと体積を増し、今にも膝まで届く勢いだ。
突然、由依の頬に紙で切ったような痛みが走った。手を当てると、そこには血とは別に、水滴も付いている。
「……
由依と同様に、指先の水滴を観察した詩乃が、焦燥感を滲ませてつぶやく。
「ミツキ、まずい。多分イヴァンの周りにある霧は
詩乃の言葉にミツキは目を見開くと、逡巡の後、不敵に笑った。
「ごめん、みんな。ここからのイヴァンの行動は私も初めてで、事前情報は無い。だから、私が行く」
「い、行くって、そんなのおかしいよ!ミツキも知らないんでしょ? どう考えても危険だってば」
「そうよ。何が来るか分からないんだから、ミツキちゃんが前に出るのは、すごく怖いわ」
静止にもミツキはゆるゆると首を振って、
「今、美装を出せるのはきっと私だけ」
「——!」
ミツキの言う通りだった。由依の手の中には、小さくなった絵筆がころん、と乗っていて、念じても絵筆は自分に力をくれない。詩乃のキャンヴァスも、琴音のパレットも同じだった。
「無理もないと思う。
ミツキはびしっと詩乃に指をさした。
「詩乃は無理しすぎ。元々体調悪かったんだから、休んでおいて」
確かに詩乃の顔はかなり青ざめており、どこか不安定な雰囲気をまとっている。
「でも——」
「これが最善。詩乃なら分かってるはず」
詩乃がおしだまる。重く淀んだ沈黙を、ミツキは嫌った。「あー…」やや気まずそうに頬を掻く。
「私って、ドMだって言ったでしょ。こんな言葉がある」
突然の話題に由依が戸惑っていると、ミツキはまた不敵に笑った。
「我々の業界ではご褒美、です」
照れたのか、最後が尻すぼみになっていた。ぽかんとしてしまったからか、逃げるようにイヴァンのもとへ走るミツキに、由依は手を伸ばすことが出来なかった。
「えっ」
案の定、生身で特攻した少女はイヴァンの杖に絡め取られて、病的に白い肌が杖によって
惨状。脳がひっくり返ったかのような痛みに襲われ、由依の思考は完全に停止する。
ミツキの身体が放物線を描き、地面に血の溢れる傷口を叩きつけようとした寸前、
ずるん、と擦れるような音と共に、脇腹から産まれた赤黒い触手がミツキを支えた。ミツキの体が彫刻のように空中で止まる。
「最初、か″らぁ、ふる、すろ″っとる」
恍惚にゆがむ口から漏れる、甘ったるい声。腕よりはるかに太い触手が、ぐぐ、と身を縮こまらせた。かと思うと、生々しい破裂音と同時に、ミツキはイヴァンに向かって
反撃と呼ぶにはあまりに生々しい触手が、イヴァンの脳天めがけて迫る。また放電球が
「あ″あ″あ″あ″あ″い″い″い″い″ぃぃぃ???」
触手とイヴァンの間に、一瞬光の道ができたかと思うと、ミツキは感電により激しく痙攣していた。
「——ミツキッ!!」
ミツキの身体から、漏れ出た電気が虚空へ根を張るように伸び、すぐに霧散した。くたり、と力を失う身体と触手。そこに容赦なく杖が直撃する。
何かが砕けた音を響かせ、ミツキは弾丸のように横へ吹き飛ぶ。着陸寸前で触手が目を覚まし、なんとかミツキの身体を支えた。
追撃は止まない。イヴァンが十字を切る。すぐさま真上に召喚された巨大な十字架。ミツキを刺し貫かんと落下する攻撃に、ミツキは対応する余裕が無い。ミツキはぎゅっと目を閉じる。
少女と十字架の間に、巨大な絵筆が割り込んだ。
十字架の動線は斜めにずれて、ミツキは
「ミツキ、ミツキ!」
由依は、少女の首や肩に走るみみず腫れを視界に入れながら、何度もミツキの名を呼んだ。その声はほとんど泣きじゃくっている。抱きしめることは出来ない。傷をひどくしてしまうから。
「由依、ありが、とう。危なかっ、た」
息を荒くしてミツキが呟く。由依はその顔を見つめた後、ごしごしと手で涙を拭った。
「私、美装を出せるよ。何をすればいい?」
ミツキはそんな由依に驚いた顔を浮かべ、立ち上がって由依の頭に触れる。
「強い、ね」
また泣き出しそうになった。
「でも、大丈、夫。私は、ちゃんと、興奮してる」
「ぇ?」
「由依は、私に、ドン引きしとけば、いい」
ミツキの小さな口が由依の耳元へ近づき、
「おれ、は、ただの、変態。だから」
耳から頭、体全体にぞわぞわした感覚が広がった。不快じゃなかった。
「ね?」と笑いかかるミツキの少し照れた顔は、無垢で、かよわくて、すごく綺麗に見えた。
「——もうすぐ硬直が終わる」
詩乃の声に、由依とミツキははっとして、イヴァンの方へと向き直った。老帝の足元には変わらず黒い霧がある。しかし、
「……低くなってる?」
「ええ。ミツキちゃんに雷の攻撃をしてから、あの霧が一度無くなったの。だから今はまだ、低いんだと思うわ。そして、また上がってきてる」
「私の予想だけど。あの霧は雷撃の充電だと思う。そして雷の攻撃の時には、決まって杖の先のガラス玉が光ってる。あの玉が制御機構。あの玉を壊せば、イヴァンは雷撃ができなくなる可能性がある。……ただし」
「ずっと、近づいてないと、ダメって感じ?」
言い淀んだ詩乃に、感電の治ってきたミツキが疑問をぶつけた。
「……多分そう。ミツキと接近戦をしていた時、霧の膨張は止まってた。杖を掻い潜って距離を詰め続ければ、あの雷の鎧は解ける、と、思う」
突如現れた光明に、由依はミツキと顔を見合わせる。「さすが、詩乃」とミツキが笑顔を見せるも、詩乃の顔は暗いままだ。
「……ごめん」
責任に押しつぶされそうな低い声で詩乃が言う。由依はピンときた。今、美装を出して戦えるのは自分とミツキしかいないのだ。
「ごめんなさい、ミツキちゃん。今度は、わたしが守るって言ったのに。ごめんなさい、由依。また、あなたが危ない目にあっちゃうわ」
琴音の様子はさらに顕著だ。大粒の涙が頬から顎に垂れて、絨毯にまるい染みを作る。
「琴音」
ミツキが琴音を手招きした。端っこに連れて行かれた琴音は、ミツキから何かを聞いている。最初は半ば放心していた琴音の顔に、だんだんと決意が戻っていく。
「やる。できるわ」
「信じ、てる」
由依は暗い表情でうつむく詩乃の額に、ぴし、と指を弾いた。面食らったような顔をした詩乃に、由依はぶっきらぼうに言う。
「私のかっこいいとこ、見ててね」
幼なじみの間には、それで充分だった。
空気が爆ぜる音に顔を向けると、暗雲の鎧は、もはや腰までイヴァンを覆っている。十字架の硬直は、今にも解けそうだった。
「ミツキ、琴音に何を伝えたの?」
「大仕事のお願い。玉を割れば、あとは、琴音が、やってくれる」
「…そっか。じゃあ安心だね」
「ふふ。由依も琴音のこと、信じて、るね」
「もちろん。ミツキの事もだよ?」
「私?…私は、信用、ならない、と思う」
「自分で言わないでよ。あ、一つだけ言わせて」
「な、に?」
「しないとは思うけど、一応ね。——
由依の言葉に、ミツキは頬を染めて、いたずらっぽく笑った。
「これは、ある意味信用、されてる」
ミツキの高揚に応えるように、肩口の裂傷から、ずるん、ともう一本、赤い触手が噴き出した。
「よーし、それじゃあ」
「後半、戦、すたーと」