被虐性癖転性者は絶対に曇らせない   作:甘朔八夏

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「おはよ、詩乃……あれ? 髪型変えた?」

「ゔ。やっぱり気づかれた……」

「えぇ、どうしたの急に?……あ、もしかして自分で切った?」

「うん。前髪が目にかかるから、少し短くした。それくらいなら、自分でできると思ったんだけど」

「ふんふん。確かに、言われてみれば髪の先、ギザギザしててちょっと変かも」

「……由依、辛辣(しんらつ)

「ふふ、ごめんごめん。でも詩乃、お世辞嫌いでしょ?」

「図星。人から見て違和感があるなら、直したいところ」

「美容室行ったら? 手直ししてくれると思うよ」

「——わい

「え?」

「前髪だけのために美容室行くの、店員さんにどう思われるか分からなくて怖い……」

「いやいや、別に普通のことだって」

「厳しい。勇気が出ない」

「そんな自信ありげに言うことじゃないでしょ……。どうしよう。うーん……」

「「あ」」

 

 

 

 

「それ、で、私に、頼みたい、と」

 

由依の自室。快晴に笑う太陽の放つ白光が、じんわりとカーペットを温める。その上で粛々と正座する詩乃は、申し訳なさそうに頷いた。

 

「前に学校へ来た時、ミツキが髪の手入れが上手だって知った。カットも出来るって由依から聞いて……もし迷惑じゃなければ、お願いしたい」

 

詩乃の背後に立っていた由依が、こっそり俺にアイコンタクトを取る。どうやら、一緒にお風呂に入った時に、俺が美容師だと言ったのを覚えてくれていたようだ。……風呂。

おいおいまたかよ、思い出そうとするな! ぶんぶん頭を振って記憶を飛ばす。

 

「ミツキ?」

 

やべ、詩乃が目の前にいるんだった。余計な思考は頭の隅に追いやって、

 

「頼って、くれて、嬉しい」

 

紛れもない本音だ。いつもお世話になっている詩乃に、自分の得意分野で礼ができるなんて、これ以上ありがたいことはない。

 

まっすぐ詩乃の顔を見据える。あちゃー、元々フルバング———重め前髪ぱっつんだった詩乃の髪が、微妙に短くなって少々の違和感を醸している。顔が整っているのもあり、詩乃が危惧するほどおかしいとは全然思わない。だが、女子高生からすると前髪は死活問題だろう。

 

「任せ、て。もっと、詩乃、を、可愛く、してみせる」

 

胸をとん、と叩いた。

 

 

 

 

 

———イヴァン戦から早くも三日である。なんとか犠牲無しで戦いを乗り切った矢先、由依たちの高校では体育祭やらテストやらが目前に迫っている。忙しい事この上ない。

 

 

「そう、いえば、琴音、は?」

 

洗面所の鏡の前。リビングから運んだ椅子に座った詩乃が、鏡越しに俺の方を見て答える。

 

「部活。後輩が文化祭で展示する絵の手伝いに行ってる」

 

琴音自身の絵はすでに完成しているらしい。あまり意識していなかったが、琴音にも当然、俺たち以外の交友関係がある。「部を任せられる後輩がいる」って言ってたっけ。先輩や後輩に対して、琴音はどのような態度を取るのか。興味があるが、もう学校には行きたくない。色々と疲れすぎるから……。

 

詩乃をここへ連れてきた由依は、ついさっきバイトへ出かけて行った。彼女が暇そうにしているところを、俺は見た事がないかもしれない。

 

「詩乃、は、部活、入って、る?」

 

詩乃から借りたセルフカット用のハサミにオイルをさしながら訊く。このハサミ、ネットショッピングで買ったらしいが、思ったより質が良くて驚く。

 

「うん。化学部に」

「カガク、ブ……」

 

漢字が2通りあることは知ってる。その区別がつかないまま勉強は諦めたので、専門外の極みだ。どんなことするの、と訊くと、詩乃は少し考えた後、

 

「ミツキは花火、やったことある?」

 

花火? 意図の読めない質問に戸惑いながら頷く。

 

「花火はカラフルな光が出て綺麗。あんなふうに炎をカラフルにしよう、ということをしてる」

「ふむ、ふむ」

「絵を描く時は絵の具を使うけど、炎の色を変える時に使うのは金属。……例えば、銅を炎の中に入れると、炎は何色になると思う」

 

銅。頭の中に銅メダルの渋い輝きが浮かぶ。あの色、なんて言うんだっけな。

 

「赤、褐色?」

「…難しい色の名前、よく知ってるね。すごい。でも答えは『青緑色』になる」

 

へー! 知らなかった。たぶん高校生の時に習っているだろうが、知らないものは知らない。

 

「おも、しろい。さす、が、未来、の、先生」

 

俺の言葉に詩乃は目を丸くすると、白い頬を少しだけ赤く染めてはにかんだ。

 

「前に学校で話した事、覚えてくれてたの」

「? もち、ろん」

 

彼女たちの話を、それも夢を、忘れるはずがないじゃないか。何を当たり前の事を。

 

「ねえ、金色、の光、も、で、きる?」

 

大人になってから聞く勉強の話は、不思議と学生時代より面白い。興味津々で詩乃に尋ねた。詩乃は鏡越しに、目を輝かせる俺をじっと見つめた後、堪えきれなくなったようにくすくすと笑った。

 

「な、に?」

「今のミツキ、昔の由依に似てたから」

「昔、の、由依?」

 

聞き捨てならない情報の気配に、俺は学問への探究心を捨てた。

 

「私たちがまだ小さかった時、由依は私のお姉ちゃんみたいな存在だった。昔から引っ込み思案だった私の手をいつも引いてくれていた記憶。でも、会話する時だけは逆。由依はいつも目をきらきらさせながら、私の話を聞いてくれた——今のミツキみたいに」

 

懐かしげに細められた詩乃の目が、ゆっくりとこちらを向いた。以前、校庭で俺の頭を撫でた時よりも淀みなく、詩乃の手が俺の顔に伸びる。ほっそりした指の先が、ふに、と俺の唇に触れた。

 

詩乃の手が離れた瞬間、俺はなぜ彼女が唇に触れたのかを理解した。

 

「怪我を見せて」

 

赤赤とした液体が、詩乃の指についていた。

 

「……なに、も、心配、いら、ないよ?」

「分かってる。ミツキの怪我を、私たちが気に病むのが嫌な事。分かってる。でもお願い。これはただの自己満足」

 

こんなに詩乃の声が震えているのは、久しぶりのことだった。『ゲルニカ』戦の直後、異界から帰る直前。抉れた背中を地に付けて、皆の涙を止める覚悟をした時以来だ。

 

俺ははさみを置き、黙って服を脱いだ。

 

包帯だらけの貧相な体に、詩乃は小さく息を呑んだ。一度だけ深呼吸をして、

 

「由依、しっかり手当てしてくれた?」

「それ、は、もう」

 

穏やかな顔で包帯を巻いてくれた———関節が曲がらなくなるほど。

 

詩乃は、俺が()()普通に話せなくなった原因の、半分ほどが赤色に染まった喉元の包帯を見据えた。

 

ごめん

 

 

(謝ることなんて、何もない)

 

小さく呟いた言葉に、反射的に否定を返そうとする。俺はその欲求を、寸前で押し留めた。謝罪さえ受け取らない最低人間になりたくなかったからだ。

 

「こち、ら、こそ、ごめん」

 

しかし、このくらいはいいだろう。実際、詩乃は俺たちを何度も、身を(てい)して守ってくれた。それは俺の未熟さであり、彼女にかけた負担そのものだ。

幸い詩乃は大きな怪我をしていない。だからといって、怪我の度合いを当人の苦労と対応させてはいけない。本来、怪我しなくて済むならその方がいいのだから。

 

そう詩乃に伝えても、結局「どちらが大変だったか」の押し問答になる。詩乃の論理的な説明に上手くきり返せず、「先の戦いで最も重責を背負った者」の座を押し渡されそうになった時、

 

「はい、おしま、い」

 

ちょうど、詩乃の前髪の手入れが終わった。セーフ。無理やりの話題変換に、少々不満顔を浮かべていた詩乃が、鏡を見て「わ」と小さく呟く。

 

 

「おでこ、を、出しても、良いって、さっき、言って、くれ、た、から、ベビーバング、に、して、みた。抜け、感が、出るし、表情が、見えて、可愛い」

「……すごい。まるで本当の美容師さん」

 

さすが詩乃、慧眼。ドキッとしたのと自慢げなのが半々だ。

 

ふわりと笑う詩乃の表情は、家に来たときよりずっと素敵になったと思う。

この笑顔を守りきる。それは『イヴァン』を倒した今、もはや夢物語では無くなった。

 

 

()()()()

残る怪物(メァナス) の特徴を、俺は何も知らない。

 

 

 

 

 

ーー

 

 

 

 

バイト先の友達の誘いを断って、由依は寄り道もせずに帰宅する。今日も母親は夜勤に出かけており、玄関に出ている靴は、由依が中学生の頃に使っていた、焦茶色のローファーだけだった。

 

「おか、えり」

 

リビングへ続くドアが開く。少女は嬉しそうに顔を綻ばせ、由依の肩にかかっていた鞄を受け取る。

シルクのような艶を持った長い黒髪はポニーテールにくくり、前に由依がプレゼントしたエプロンをつけていた。

 

「ごはん、は、あと、ボタン、押すだけ。おみそ、汁は、出汁(だし)、が、できた、ところ」

「ありがとう。夜ごはんがすごく楽しみ」

 

当初は毎日みそ汁の出汁を取ることに驚いていたミツキも、今では由依に代わって作ってくれるようになった。

 

「あと、詩乃の髪もありがとう。詩乃ったら、すっごく喜んでたよ」

「それは、よかった。美容師、みょうり、に、つきる」

 

バイトに行く前よりも、明らかにピカピカになっている洗面所で手を洗う。

ついさっき電車に揺られながら見た、詩乃から届いた写真。そこに写る詩乃の笑顔は、幼なじみの厳しい目で見ても、文句無しに可愛いと思った。

 

「由依。今、の、アップ、ポニーテール、も、素敵、だけど、たまには、髪型、変えて、みたら?」

「今日の詩乃を見ちゃうと、それもいいかなって思うよね。そのときはミツキに任せちゃおうかな、なんて」

 

軽い冗談のつもりで言ったけれど、ミツキは思いのほか熱のこもった声で、由依の頼みを引き受けた。申し訳ない気持ちの陰に、由依は密かな満足感を見つける。

 

(「満足」……?)

 

由依はその正体が分からず、首を傾げた。

 

チャッと夜ごはん作るから、と言うと、ミツキは楽しそうに「じゃあ、お風呂、いつでも、沸か、せる、準備、してくる」と、ソファからゆっくり立ち上がる。

 

由依はその小さな後ろ姿の、首筋を見た。正面まで広がる大きな傷を、自分がつけた傷を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

「は」と漏らしたミツキの声は聞いたことが無いほど固くて、由依は自分がなにか恐ろしいことをしてしまったのでは無いか、と怖くなった。

 

ミツキが平静を崩したのは、前のお風呂の一件を除き、ほぼ全てが由依たちに関わることだった。まさに今、何かが起きているのではないか。

 

「……ごぼう、だけは……」

 

杞憂だった。

食卓に座り、他の料理を平らげてなお、ミツキはごぼうのきんぴらを見下ろしながら渋い顔をやめない。

 

「ミツキ、嫌いなものあったんだ。いつも何でも美味しいって言ってくれるから意外だなー」

「ごぼう、だけ、なんで、す。本、当に……」

 

ごにょごにょと言い訳を続ける少女の姿は、ただをこねる小学生……どう頑張っても(きた)る反抗期を予期させる中学生にしか見えない。

 

「大人なんでしょ」

「大人、だ、から、こそ、自分、で、食べる、物、を、こんとろーる、できる、と、いう、側面、も、ある」

 

本当に食べないつもりらしい。珍しく断固とした様子のミツキは新鮮で、しかしちょっとイラッとした。そうだ、杞憂に気を揉まされた鬱憤(うっぷん)を、ここで発散してやろう。

 

由依はミツキの隣に席を移動し、立ち上がる事を禁止するかのように、ぐっ、とミツキの頭に手を置いた。

 

「食べて」

 

ミツキは石のように固まった。有無を言わせぬ声色を察したか、ミツキの口から言い訳の言葉がぴたりと停止した。由依はミツキの目をのぞき込み続ける。瞳孔が段々と開くのが見えた。

 

「……ひと、くち、なら」

「駄目。全部食べて」

 

目をのぞき込み続ける。ごくりと唾を飲む音がした。ミツキの喉に巻かれた包帯が、顎のガーゼとほんの少し擦れた。

 

ミツキの小さな手に自分の手を重ねて、由依は箸で料理を掴んだ。ぷるぷると震える箸の先が、ゆっくりミツキの口に運ばれて、食べた。

 

どんな調理をしても決して食べられない、という食べ物が存在する人もいる。噛むたびに青い顔をいっそう青くするミツキを見ると、本当に苦手なんだな、と由依は悟った。

 

「こ、れで、勘、弁、して」

 

息を荒げたミツキの顔を見ている。由依の苛立ちはすっかり鳴りを潜めており、もう許してあげてもいいかな、と考えている自分に気づく。

 

「……え」

 

か細い声にハッとする。由依はもう一度、料理を箸で掴んでいる。

 

あれ、私、もうやめようと思ってたのに。どうして?

 

答えを求めて胸の内を探せども、自分が意地悪を続ける理由はどこにも見当たらない。

 

「由、依?」

 

潤んだ黒い瞳が由依を見ていた。由依の首の後ろが痺れるように疼いて、何かが引っ張り上げられそうな快感。それは確かに快感だった。

 

「——なんで、」

 

この少女は。

 

そんなにも嫌がりながら。

 

 

「嬉しそうなの?」

 

 

 

ミツキを覆っていた透明な何かが、いま間違いなく粉々に砕け散った。少女の出しうる恥じらいを全てさらけ出したような、赤く染まった頬に、うるむ瞳のそばに、由依は愛おしく手を添えた。

 

愛おしい。

 

由依は思ってしまった。

 

 

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