金子家——由依の自宅に、俺の部屋というものは無い。当たり前だ。俺はただの居候なのだから。しかし、衣食住を受け取り、ろくな見返りを渡せないカスな俺にも、隠しておかなければならない秘密はあるものだ。
由依の自室。俺は、自身の胴よりも一回り小さい長方形のキャンヴァスと、無言で向き合っていた。
キャンヴァスに描かれた絵を、じっくり観察する。
角がすり減って木の色が覗いている白いデスク、その上に鎮座する型落ちのパソコン。学生の頃から買い替えていない子供じみた
俺の部屋だった。
それは見間違えようもなく、もとの世界の自室だった。
———全部終わったら、
———ミツキは帰れるの?
今までずっと考えないようにしてきた「その後」が急速に輪郭を帯びていく。
心臓が激しく脈打っている。先ほどと同じように、俺はキャンヴァスに手を伸ばした。画布に乗った絵の具に触れそうになった指先は、まるで不感温度の湯船に入ったかのように、わずかな感覚だけを残して
プラスチック包装の感触。それを握って手を引き抜く。デスクに常備していたチョコレートが、俺の手の中にあった。
どくん、と心臓がまた大きく跳ねた。額に汗がにじんでいる。
この絵がもとの世界と繋がっている事を、俺は受け入れざるを得なかった。
このキャンヴァスは、イヴァンを倒した直後、異界から戻ってきた時に知らぬ間に俺の手に握られていたものだ。描かれている絵を見て、俺はすぐにそれを隠した。だから由依たちは、このことを知らない。
縦横比は2:1程度の長方形。同じものを2枚並べてやっと、俺の体がなんとか通り抜けられるくらいのサイズ感。
つまり、この大きさではくぐり抜けることができず、キャンヴァスからもとの世界に帰ることは不可能だ。
でも、もっと大きいものを手に入れられたら?
最後の
その時、玄関の戸が開く音がした。大慌てでキャンヴァスを本棚の端の端に隠して、俺は玄関へお出迎えへ向かう。
(由依たちに言えばいいじゃないか)
ああ、その通りだ。由依は俺が帰れるのかを心配していた。この事を伝えたら、彼女はきっと喜んでくれるだろう。
(本当にそうか?)
帰ってほしくないとしても、俺と笑顔でお別れをしてくれるはずだ。あの子たちは、人を想える優しさを持っているから。
(じゃあ、なんで俺はキャンヴァスを隠してるんだろう)
分からない。自問自答を繰り返しても、増えたのは胸騒ぎだけ。
リビングを抜けて玄関へ続く扉を開ける。いつもの三人に、俺は変わらない笑顔を向けた。
ーー
「由依。音頭よろしく」
「えっ、私?」
「そうよ、由依がわたしたちを誘ってくれたんでしょう?」
「んー、じゃあ……中間テスト勉強会を、ここに始めます!」
わーわーぱちぱち。明後日に体育祭を控えた本日は、同時にテスト直前期でもある。体育祭の後だと、気持ちがだらけて勉強に身が入らないのでは、という詩乃のアドバイスをもとに、由依が勉強会を企画したのだ。
教科書やら問題集やらを前にシャープペンシルを握る三人のそばで、なぜか混じっている俺。
「私、ここ、に、いて、いいの?」
くっつきそうな近距離で俺の隣に座っている琴音に小声で訊くと、彼女はにっこり笑って俺の頭をそっと撫でた。
「もちろんよ。わたしもミツキちゃんと一緒の方が嬉しいわ。あ、でも、退屈だったら出ていってもいいからね」
俺にやる事がないと悟ったのか、あせあせ、とでも形容できそうな態度を見せる琴音。
「私、ここ、に、いたい」
琴音は一瞬ぽかんとした後、嬉しそうに俺とぴったりくっついた。この距離感、もはや慣れたな。
ふっふっふ、しかし俺は、何も無策で勉強会に居座っているわけでは無い。理系科目はマジで分からんが、英語くらいなら高校生に対してマウントを取れるんじゃないか、という密かな自信があるのだ。
というのも、うちの店、ごく
そろそろ俺の大人らしいところを見せる時が来たようだ
と思っていた時期が俺にもありました。
「ブンシ……コウブン…??」
何この英語。主語も動詞も無いじゃん。は? こんなの単語並べてるだけじゃね?
「こっちの文は主語が無いのに、あっちの文は主語が書かれているわ。いったいどういうこと?」
「主節……一番伝えたい文のかたまりと、主語が同じ場合は省略。分詞構文は英文法の中でもややこしい方だから、じっくり理解していこう———」
諦めて参観に徹する。これは逃げたのではない。大人の慎ましさを見せて、出しゃばるのをやめただけである。
詩乃と琴音、頑張れよ。お前たちの努力はずっと見てるぜ。腕を組んで後方彼氏面を、
「ミツキ、高校英語わからなかった?」
のけぞりそうになった体を意志で抑えた。そうしないと不味い、という確信を持った。テーブルから少し離れた位置にいる俺の隣。気づけば由依が座っていた。
「…うん、もう、忘れ、ちゃった」
「そっか。そんなに可愛い見た目で知識も無いなんて、もうただの小さい女の子だね」
かすかに、それでいて確かに侮蔑の混じった言葉にぞくりとする。俺は逃げるように由依から目を逸らした。
いつも通り優しくて、俺を気にかけてくれているのは一緒。でも、二人だけの会話になると、肌に爪を立てるような焦ったい罵倒が、ごく自然に言葉に混ざる。
優しく細められた目に射すくめられる事が増えて、俺は由依とあまり目を合わせられなくなった。
「お…私、トイレ、行って、くる」
由依は俺が動揺しているのを知って、その態度を続けている。由依は触れようとしていると、思う。俺の心の内、焦燥の薄皮に包まれた、濃くて甘い
それは意図的な行動というよりは、最初から由依がそんな性格だった、と言ったほうが自然なほどの
数学。
「数列の和の公式、いつもこんがらがっちゃうんだよねー」
「一回証明してみると、頭に入りやすいと思う」
は? なにこのMが横になった変な記号? ドMな俺への当てつけか? なあ。
国語。
「『めざまし』って単語、どっちの意味なのか見分けられないの……」
「この単語は意味が真逆だし、私は両方のパターンで訳して確認してるよ」
『おかし』だけ知ってる。え、字が違う? 『をかし』?
それで何が変わるんだよ。細かいこと気にすんなって。
地理。
「熱帯雨林気候にステップ気候、砂漠気候……見たら分かるけど、知識に穴抜けが出る」
「あれ、珍しいね。詩乃のことだから、これも『こうしたら上手く覚えられる』っていうのがあるのかと思ったな」
「自分で体験できない事は覚えにくい……」
「……アフリカ、は、アフロ、の、人が、多い」
そして中東では、ターバンを巻く人が多い。
アフリカ——その教科書でいう所の「熱帯雨林気候」では、高音多湿な気候で自分の頭を守るため、髪が縮んで熱を防ぐ。一方、中東——「ステップ気候」や「砂漠気候」では、乾燥や砂から髪を守るため、ターバンを巻いている、という側面がある。むろん、宗教的な意味も強いが。
過去、俺の美容室を訪れた外国人客に対応した時に得たうろ覚えの知識。それでも、詩乃は瞳に輝く好奇心を浮かべて、俺の話を聞いてくれた。
「…そうか。機械的に勉強するんじゃなくて、人を見れば良い。ミツキ、ありがとう」
そんなにまっすぐ褒められると照れくさい。役に立てたのなら嬉しい、と一言伝え、三人に勉強の再開を促した。
結局、彼女たちは日の入りまで勉強していたらしい。なんで
ぽかぽか陽気で寝落ちしたから。
ーー
夜。火照った体を冷やそうと、ベランダに出た。昼寝のおかげか目は冴えていて、もう21時を回っているというのに身体は元気いっぱいだ。
その場所で俺は見つけてしまった。
「これ、は……」
タバコだ。
そう、前から吸いたいな、と少しばかり思っていた不健康の象徴。紙箱との久しぶりの再会に、予想より高揚している自分がいた。
「何してるの?」
その時、掃き出し窓を開けて、由依がベランダへ出てきた。彼女の目をうかがう。よかった。今は大丈夫な時だ。
「あれ、それってタバコ? お母さん、箱ごと置き忘れてるじゃん」
「あの、由依」
これも何かの縁ですし、とおねだりを敢行。
「頼む」
俺の口調に、由依は少しだけ固まったように見えた。あの夜を越えてから、俺は由依に一つ、頼み事をした。
『二人きりの時は、俺は男として振る舞いたい』。
そうしなければ危ない、と思った。何が危ないかは、まだ上手く言語化できていないけれど。由依はそんな
正直、自分の口から出る高い声が、自分本来の口調であることに違和感はある。しかし、これが正しい態度で、これが由依との正しい距離感なのだと、俺は思うべきだ。
すぐにいつもの様子に戻った由依は、悩ましそうに腕を組んだ。
「本、当に、一本、だけ」
「いや駄目でしょ。タバコは成人しないと吸っちゃいけないし」
「俺、二、十、超えてる」
ドヤ顔でそう言うと、由依は忘れていた、とでも言いたげな表情をした。
「……いやいや、それは元々の男の人の体の話じゃん。今のミツキの肉体年齢は何歳?」
「一緒、じゃ、ない、か? 二十、五、歳」
え、その見た目で?みたいな顔やめてほしい。
「…まあ、いっか。一本だけだよ」
わーい。タバコまでねだりだすと、とうとう自分がカスのヒモになったような気分だが、これで最初で最後にするから許してほしい。
由依に火をつけてもらい、煙を吸った。咳き込むと由依が心配するので、ここは慎重に、ワインを飲むように。
息苦しい。頭にモヤがかかったみたいに、ぼんやり心地いい。
「……気持ちよさそうに吸うね。そうしてると、ホントに大人みたい」
体に悪いから離れていてくれ、と忠言したのに、断固としてそれを拒否した由依が、頬杖をついて俺を見る。
「なにも、メリット、無い、から、おすす、め、しない」
「目の前で吸っときながらそれ言う?」
呆れた声に言い返さない。忠告する資格は無いけど、紛れもない事実だし。
「でも私、別に吸っても良いんだよね」
「いや、駄目、だぞ?」
「え、なんで? もう成人してるのに」
「え?」
聞くところによると、どうやらこの世界では、男も女も16歳で成人であるそうだ。
何その裏設定。知らんわ。
しかし、思い返してみると、原作で荒んだ由依がタバコ吸ってるシーンがあったような、なかったような。作者、なぜそこだけモラルを気にするのだろう。
「まぁ吸わないかな。興味ないし、健康にも悪いし」
「それ、が、いい」
激しく首肯すると、指の間に挟まっていたタバコの先から、小さな火の粉があぐらをかいていた俺の脚に落ちた。
「〜っ!」
悶える。不意打ちの痛みはやっぱり効くね。
「……今わざと火、落とした?」
すっ、と細まる由依の目に、俺は慌ててかぶりを振った。事故なのでどうか許してほしい。灰皿にタバコを押し付けて途中で消した。もうこれで終わりだ。由依の詰問から逃れる言い訳を探りながら、俺は立ち上がった。
雲が晴れ、この世界特有の青い月が、俺たちをぼんやりと照らした。
夜は更けていく。