被虐性癖転性者は絶対に曇らせない   作:甘朔八夏

19 / 27


 

 

金子家——由依の自宅に、俺の部屋というものは無い。当たり前だ。俺はただの居候なのだから。しかし、衣食住を受け取り、ろくな見返りを渡せないカスな俺にも、隠しておかなければならない秘密はあるものだ。

 

由依の自室。俺は、自身の胴よりも一回り小さい長方形のキャンヴァスと、無言で向き合っていた。

 

キャンヴァスに描かれた絵を、じっくり観察する。

角がすり減って木の色が覗いている白いデスク、その上に鎮座する型落ちのパソコン。学生の頃から買い替えていない子供じみた柄物(がらもの)のカーテン。くしゃくしゃになったベッドシーツの上には、昔好きだったキャラクターのぬいぐるみ。

 

 

俺の部屋だった。

それは見間違えようもなく、もとの世界の自室だった。

 

 

———全部終わったら、

 

———ミツキは帰れるの?

 

 

()()

今までずっと考えないようにしてきた「その後」が急速に輪郭を帯びていく。

 

心臓が激しく脈打っている。先ほどと同じように、俺はキャンヴァスに手を伸ばした。画布に乗った絵の具に触れそうになった指先は、まるで不感温度の湯船に入ったかのように、わずかな感覚だけを残して()()()()()()()()()

 

プラスチック包装の感触。それを握って手を引き抜く。デスクに常備していたチョコレートが、俺の手の中にあった。

どくん、と心臓がまた大きく跳ねた。額に汗がにじんでいる。

 

この絵がもとの世界と繋がっている事を、俺は受け入れざるを得なかった。

 

 

 

このキャンヴァスは、イヴァンを倒した直後、異界から戻ってきた時に知らぬ間に俺の手に握られていたものだ。描かれている絵を見て、俺はすぐにそれを隠した。だから由依たちは、このことを知らない。

 

 

縦横比は2:1程度の長方形。同じものを2枚並べてやっと、俺の体がなんとか通り抜けられるくらいのサイズ感。

つまり、この大きさではくぐり抜けることができず、キャンヴァスからもとの世界に帰ることは不可能だ。

 

でも、もっと大きいものを手に入れられたら?

最後の怪物(メァナス) を倒したら?

 

 

その時、玄関の戸が開く音がした。大慌てでキャンヴァスを本棚の端の端に隠して、俺は玄関へお出迎えへ向かう。

 

(由依たちに言えばいいじゃないか)

 

ああ、その通りだ。由依は俺が帰れるのかを心配していた。この事を伝えたら、彼女はきっと喜んでくれるだろう。

 

(本当にそうか?)

 

帰ってほしくないとしても、俺と笑顔でお別れをしてくれるはずだ。あの子たちは、人を想える優しさを持っているから。

 

(じゃあ、なんで俺はキャンヴァスを隠してるんだろう)

 

分からない。自問自答を繰り返しても、増えたのは胸騒ぎだけ。

 

リビングを抜けて玄関へ続く扉を開ける。いつもの三人に、俺は変わらない笑顔を向けた。

 

 

 

 

ーー

 

 

 

 

「由依。音頭よろしく」

「えっ、私?」

「そうよ、由依がわたしたちを誘ってくれたんでしょう?」

「んー、じゃあ……中間テスト勉強会を、ここに始めます!」

 

わーわーぱちぱち。明後日に体育祭を控えた本日は、同時にテスト直前期でもある。体育祭の後だと、気持ちがだらけて勉強に身が入らないのでは、という詩乃のアドバイスをもとに、由依が勉強会を企画したのだ。

 

教科書やら問題集やらを前にシャープペンシルを握る三人のそばで、なぜか混じっている俺。

 

「私、ここ、に、いて、いいの?」

 

くっつきそうな近距離で俺の隣に座っている琴音に小声で訊くと、彼女はにっこり笑って俺の頭をそっと撫でた。

 

「もちろんよ。わたしもミツキちゃんと一緒の方が嬉しいわ。あ、でも、退屈だったら出ていってもいいからね」

 

俺にやる事がないと悟ったのか、あせあせ、とでも形容できそうな態度を見せる琴音。

 

「私、ここ、に、いたい」

 

琴音は一瞬ぽかんとした後、嬉しそうに俺とぴったりくっついた。この距離感、もはや慣れたな。

 

ふっふっふ、しかし俺は、何も無策で勉強会に居座っているわけでは無い。理系科目はマジで分からんが、英語くらいなら高校生に対してマウントを取れるんじゃないか、という密かな自信があるのだ。

 

というのも、うちの店、ごく(まれ)に外国人客が訪れる。年に一回くらい。その都度俺は自身の英語力を駆使し、うまくその場を乗り切って、お客様に満足して帰っていただいている。

 

そろそろ俺の大人らしいところを見せる時が来たようだ

 

 

 

と思っていた時期が俺にもありました。

 

「ブンシ……コウブン…??」

 

何この英語。主語も動詞も無いじゃん。は? こんなの単語並べてるだけじゃね?

 

「こっちの文は主語が無いのに、あっちの文は主語が書かれているわ。いったいどういうこと?」

「主節……一番伝えたい文のかたまりと、主語が同じ場合は省略。分詞構文は英文法の中でもややこしい方だから、じっくり理解していこう———」

 

諦めて参観に徹する。これは逃げたのではない。大人の慎ましさを見せて、出しゃばるのをやめただけである。

 

詩乃と琴音、頑張れよ。お前たちの努力はずっと見てるぜ。腕を組んで後方彼氏面を、

 

 

「ミツキ、高校英語わからなかった?」

 

のけぞりそうになった体を意志で抑えた。そうしないと不味い、という確信を持った。テーブルから少し離れた位置にいる俺の隣。気づけば由依が座っていた。

 

「…うん、もう、忘れ、ちゃった」

「そっか。そんなに可愛い見た目で知識も無いなんて、もうただの小さい女の子だね」

 

かすかに、それでいて確かに侮蔑の混じった言葉にぞくりとする。俺は逃げるように由依から目を逸らした。

 

()()夜から、もっと言えばイヴァンを倒した後から、由依はずっと変だ。

いつも通り優しくて、俺を気にかけてくれているのは一緒。でも、二人だけの会話になると、肌に爪を立てるような焦ったい罵倒が、ごく自然に言葉に混ざる。

 

優しく細められた目に射すくめられる事が増えて、俺は由依とあまり目を合わせられなくなった。

 

「お…私、トイレ、行って、くる」

 

由依は俺が動揺しているのを知って、その態度を続けている。由依は触れようとしていると、思う。俺の心の内、焦燥の薄皮に包まれた、濃くて甘い(よろこ)びに。

それは意図的な行動というよりは、最初から由依がそんな性格だった、と言ったほうが自然なほどの(よど)みない仕草。

 

 

(ころ)んで大きな音を出さないよう慎重に歩いて、由依の部屋に戻ってくる。みんな集中し始めていたので、俺は端っこに腰を据えた。……が、暇だ。壁に手をつき、体を支えて立ち上がった。俺はテスト中の先生みたいに後ろから勉強の様子をのぞき込むことにした。

 

 

数学。

 

「数列の和の公式、いつもこんがらがっちゃうんだよねー」

「一回証明してみると、頭に入りやすいと思う」

 

は? なにこのMが横になった変な記号? ドMな俺への当てつけか? なあ。

 

 

国語。

 

「『めざまし』って単語、どっちの意味なのか見分けられないの……」

「この単語は意味が真逆だし、私は両方のパターンで訳して確認してるよ」

 

『おかし』だけ知ってる。え、字が違う? 『をかし』?

それで何が変わるんだよ。細かいこと気にすんなって。

 

 

地理。

 

「熱帯雨林気候にステップ気候、砂漠気候……見たら分かるけど、知識に穴抜けが出る」

「あれ、珍しいね。詩乃のことだから、これも『こうしたら上手く覚えられる』っていうのがあるのかと思ったな」

「自分で体験できない事は覚えにくい……」

 

「……アフリカ、は、アフロ、の、人が、多い」

 

そして中東では、ターバンを巻く人が多い。

アフリカ——その教科書でいう所の「熱帯雨林気候」では、高音多湿な気候で自分の頭を守るため、髪が縮んで熱を防ぐ。一方、中東——「ステップ気候」や「砂漠気候」では、乾燥や砂から髪を守るため、ターバンを巻いている、という側面がある。むろん、宗教的な意味も強いが。

 

過去、俺の美容室を訪れた外国人客に対応した時に得たうろ覚えの知識。それでも、詩乃は瞳に輝く好奇心を浮かべて、俺の話を聞いてくれた。

 

「…そうか。機械的に勉強するんじゃなくて、人を見れば良い。ミツキ、ありがとう」

 

そんなにまっすぐ褒められると照れくさい。役に立てたのなら嬉しい、と一言伝え、三人に勉強の再開を促した。

 

結局、彼女たちは日の入りまで勉強していたらしい。なんで伝聞(「らしい」)かって?

 

ぽかぽか陽気で寝落ちしたから。

 

 

 

ーー

 

 

 

夜。火照った体を冷やそうと、ベランダに出た。昼寝のおかげか目は冴えていて、もう21時を回っているというのに身体は元気いっぱいだ。

その場所で俺は見つけてしまった。

 

「これ、は……」

 

タバコだ。

そう、前から吸いたいな、と少しばかり思っていた不健康の象徴。紙箱との久しぶりの再会に、予想より高揚している自分がいた。

 

「何してるの?」

 

その時、掃き出し窓を開けて、由依がベランダへ出てきた。彼女の目をうかがう。よかった。今は大丈夫な時だ。

 

「あれ、それってタバコ? お母さん、箱ごと置き忘れてるじゃん」

「あの、由依」

 

これも何かの縁ですし、とおねだりを敢行。

 

「頼む」

 

俺の口調に、由依は少しだけ固まったように見えた。あの夜を越えてから、俺は由依に一つ、頼み事をした。

 

『二人きりの時は、俺は男として振る舞いたい』。

 

そうしなければ危ない、と思った。何が危ないかは、まだ上手く言語化できていないけれど。由依はそんな我儘(わがまま)な俺に、「ミツキが望むなら」、と笑ってくれた。

正直、自分の口から出る高い声が、自分本来の口調であることに違和感はある。しかし、これが正しい態度で、これが由依との正しい距離感なのだと、俺は思うべきだ。

 

 

 

すぐにいつもの様子に戻った由依は、悩ましそうに腕を組んだ。

 

「本、当に、一本、だけ」

「いや駄目でしょ。タバコは成人しないと吸っちゃいけないし」

「俺、二、十、超えてる」

 

ドヤ顔でそう言うと、由依は忘れていた、とでも言いたげな表情をした。

 

「……いやいや、それは元々の男の人の体の話じゃん。今のミツキの肉体年齢は何歳?」

「一緒、じゃ、ない、か? 二十、五、歳」

 

え、その見た目で?みたいな顔やめてほしい。

 

「…まあ、いっか。一本だけだよ」

 

わーい。タバコまでねだりだすと、とうとう自分がカスのヒモになったような気分だが、これで最初で最後にするから許してほしい。

 

 

由依に火をつけてもらい、煙を吸った。咳き込むと由依が心配するので、ここは慎重に、ワインを飲むように。

 

息苦しい。頭にモヤがかかったみたいに、ぼんやり心地いい。

 

「……気持ちよさそうに吸うね。そうしてると、ホントに大人みたい」

 

体に悪いから離れていてくれ、と忠言したのに、断固としてそれを拒否した由依が、頬杖をついて俺を見る。

 

「なにも、メリット、無い、から、おすす、め、しない」

「目の前で吸っときながらそれ言う?」

 

呆れた声に言い返さない。忠告する資格は無いけど、紛れもない事実だし。

 

「でも私、別に吸っても良いんだよね」

「いや、駄目、だぞ?」

「え、なんで? もう成人してるのに」

「え?」

 

 

云々(うんぬん)

聞くところによると、どうやらこの世界では、男も女も16歳で成人であるそうだ。

 

何その裏設定。知らんわ。

しかし、思い返してみると、原作で荒んだ由依がタバコ吸ってるシーンがあったような、なかったような。作者、なぜそこだけモラルを気にするのだろう。

 

「まぁ吸わないかな。興味ないし、健康にも悪いし」

「それ、が、いい」

 

激しく首肯すると、指の間に挟まっていたタバコの先から、小さな火の粉があぐらをかいていた俺の脚に落ちた。

 

「〜っ!」

 

悶える。不意打ちの痛みはやっぱり効くね。

 

「……今わざと火、落とした?」

 

すっ、と細まる由依の目に、俺は慌ててかぶりを振った。事故なのでどうか許してほしい。灰皿にタバコを押し付けて途中で消した。もうこれで終わりだ。由依の詰問から逃れる言い訳を探りながら、俺は立ち上がった。

 

雲が晴れ、この世界特有の青い月が、俺たちをぼんやりと照らした。

 

夜は更けていく。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。