「そこの君、もしかして迷子———」
「お嬢ちゃん、親御さんは———」
「おじさんがママのところまで送って———」
「ウザす、ぎ」
叫ぼうとするも、結局咳き込んでうずくまってしまうだけ。分かっていたことだが、異界で負った怪我は現実世界に戻って来ても治ったりしない。声を出すたびに刺すような痛みが走るので、恐らく声帯に傷が入っているんだろう。
(全然上手くしゃべれねえ)
喋るだけで痛みを感じられるのは俺にとってはご褒美だが、叫べないのは思ったよりストレス。
舌打ちしようとすると誤って舌を噛んでしまい。口からは掠れた音しか出なかった。
小さくため息をついた後、近くに違法駐車されていたミニバンの前に仁王立ち。身に纏っていたゴミ捨て場出身のカーテンを脱ぎ去る。しぶとくも光沢を保っているボディは、今の俺の姿を表面に映し出した。
「……素材は、悪くないん、だよな」
服と言えないほどにボロボロの布から覗く栄養失調目前の身体は、触れただけで折れそうな程に弱々しい。
そして職業柄見逃せないのは、背中まで伸びたボサボサの長い黒髪。これが顔の側面を完全に隠しているため、見た目が重くて仕方ない。
警察官や見知らぬ大人に話しかけられまくったのも納得の見た目である。
とはいえ、適切な位置に鎮座する顔のパーツや歪みない骨格にポテンシャルを感じるのだ。
こいつは磨けば光る、と。まあ今は俺の身体なんだけど。
割れた爪で頭を掻くと、意外にもその
「…うげ。血、洗わないと、な」
本当は体型なんて気にするような場面ではなかった。
まず目に飛び込んでくるのは、先の
傷の深さの割に、止血がすぐに完了したのはラッキーだった。肌の裏側の薄赤い真皮まで丸見えではあるが。
肌が病的なまでに真っ白なせいで、その傷の血色がやけに映えている。運良く捨てられていたカーテンを発見しなかったら、俺を発見した人は警察ではなく救急に電話する羽目になっていたに違いない。
「ドM道」は性別に縛られないため、女になったことはそんなに気にしてない。しかしこの傷はいただけない。当然この世界の戸籍なんて持っていない俺にとって、警察による保護は「終了」を意味するからだ。その結末は誰も幸せにならない。俺はもちろん、警察側も俺を捕まえた後大いに困ることになるだろう。
『部外者に迷惑をかけるべからず』。本流派の鉄則である。
いや待てその言い方だと自分で望んで怪我したみたいじゃないか。一応俺も被害者のはずだ、うん。
呑気な独り言はそこで途切れた。自分が胸中で発した「被害者」の称号。それは原作では、なんの罪もない少女たちに課されるものだったから。
原作の主人公——
油断した。異界の綻びを見つけて、もう任務完了だと鼻歌気分だった。
うなだれて叫びたい気持ちをぐっと抑え、ゆっくりと歩きながら考え込む。
彼女たちと接触すべきか。
異界から帰ってきてからずっと考えていることだ。俺は彼女たちが戦うのを、苦しむのを見たくない。だからといって由依たちが異界に飲み込まれるのを避ける方法なんて知らず、加えて俺一人で残りのメァナスを倒せる保証は無い。
やはり彼女たちの仲間に加わって共闘するのが最善だろうか。しかしそれでは原作の強制力が怖い。
記憶が確かならば、彼女たちが倒さなければいけない怪物は全部で4体。原作では3体目で全滅して打ち切りという形だった。思い出すだけで気分が悪くなって、その感覚だけは不快だと思える。最悪の事態だけは、絶対に避けなければいけない。
どの行動にもリスクが伴う。最善の選択はどれなのか、正史の知識を持つ者としてじっくりと考える必要が
「見つけた」
快活な声が後頭部を叩いた。
…人間、本当に驚くと声も出せないらしいが。あげそうになった悲鳴は、喉でつっかえて案の定出なかった。
「見つけた」。つまり探していたということ。その言葉を発することができるのは、この世界で一人だけ。
「…出血多量、で、見てる、幻覚だったり、しない?」
おずおずと振り向くと、そこには予想通りの人物が立っていた。警察をも撒いたこの場所で、まさか発見されるとは思っておらず……驚きを隠せないのも仕方ないと思う。
「残念、本物だよ———って何その傷!?あ、どうしよう私、絆創膏しか持ってないけどそんなのじゃ意味ないよね?!……それなら。もしかしてあの肉片って本当に……ぅぷ」
俺の体の前半分を見た由依は、みるみるうちに顔を土気色に変え、口を押さえてそっぽを向いた。
まー無理もない。痛みでンギモチがる方を優先するあまり感覚が麻痺していたが、今の俺の姿はスプラッタ映画も真っ青の様相である。
…いや待てよ? 由依の反応からも明らかなように、このタイミングで原作キャラと関わるのは都合が悪い。何を言っても怪我で頭がおかしくなった奴と見なされて流されてしまう可能性がある。
(由依が下向いてる隙に逃げれるんじゃね?)
そうと決まれば決行だ。今逃げ切ればワンチャン「幻覚を見ていたのかな…?」で誤魔化せる。多分。
———set.
脳内でアナウンスを鳴らして、クラウチングスタートの構えをする。高校を卒業してからはろくに走ってないけど、きっと身体が覚えてくれているはず。
せっかく探してくれたところで悪いが、俺は逃げさせてもらうぜ!
想像の中でスタートダッシュの銃声を鳴らした。
瞬間、信じられないくらい大音量で俺のお腹が鳴った。
ズべしゃっ。
「……え?」
体に力が入らない。左足が地面を踏み抜いたところまでは良かったものの、次の右足が動かない。そのまま無様に硬い地面にスライディング。
なるほど、これが栄養失調かと呑気に自己分析している暇などあるはずが無く。せっかくの逃走チャンスもこうなってしまえば台無しだ。
誰かの影が俺を覆い、視界が僅かに暗くなった。振り向きたくない…まぁ振り向く気力がそもそも無いが。
俺のすぐそばまで来て屈み込んだ由依は、俺の気分とは裏腹に割と深刻な声で。
「まずは病院、だよね」
めちゃくちゃ抵抗してそれだけは勘弁してもらった。