被虐性癖転性者は絶対に曇らせない   作:甘朔八夏

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言葉が出ない。明日の予定を伝えるかのような軽い声で、由依は言った。

俺の足が動かない、と。

 

「な……」

 

隠し通せていたつもりだった。()()は違和感程度だったし、悪化してからも、由依のクラスメイトにだって気づかれなかった。ゆっくりと悪くなっていたものだから、いつも一緒にいる由依が分かるはずない。

 

それがただの楽観視であったことを、俺は今さら知った。

 

「初めて会った時からボロボロで、いつもふらふらしてたから、気づくのに時間がかかっちゃった。ねね、ミツキ。さっき琴音に持ち上げられた時、ミツキの足、カカシみたいになってたよね?」

 

 

——ぶらんぶらん、と力無く揺れる俺の足。

 

 

「…偶、然」

「それだけなら偶然かもしれない。だから私、ちゃんと思い返してみたんだ。そしたらびっくり。こないだのテスト勉強の時、ミツキは壁に手をついて、やっと立ち上がってた」

 

 

——壁に手をつき、体を支えて立ち上がった。

 

 

「そして、その夜のタバコ。今考えると、やっぱり変だよ」

「どこ、が」

「なんでミツキはベランダで地べたに座っていたの?」

 

 

——小さな火の粉があぐらをかいていた俺の脚に落ちた。

 

 

「あんなの、ほとんど外の地面と変わらない。もっと言えば、タバコを外で、あぐらをかきながら吸うなんて、私は見た事ない」

 

由依はあまりに淡々と、俺の逃げ道を潰していく。心臓が痛いほど跳ねる感覚と共に、望まぬ傷口が再び開いたような不快感。視界がだんだん狭くなる。

 

「でもね。普通に歩くこともできない怪我を、ミツキが今まで平然と隠せていたーっていうのが、私、信じられない。だってミツキ、痛かったら気持ちよさそうにするもん。だから私、調べたんだ。足に感覚がなくなっちゃう怪我ってなんだろうって」

 

やめろ。

口は動くのに、喉からは掠れた息しか出なかった。由依は青ざめた俺を、ぼんやりと見ている。

 

「ミツキの怪我、麻痺(まひ)なんじゃない? それなら動かしにくい事も、痛くない事もありえる。麻痺が起こっちゃうのは、どこを怪我した時かな。脳とか、脊髄っていう首から背中に伸びた神経なんだって」

 

つまり、と由依が一拍おいた。「違う」と俺は言った。出た声は、肺を握りつぶして出したようなしゃがれた声だった。

 

由依は俺の首筋に、自分の指の先を向けた。

 

「イヴァンのガラス玉を割る時、私が傷つけた怪我。私のせいなんだ」

違う!!

 

無理やりに発した声がガラガラと喉を揺らす。激痛に、俺は生まれて初めて顔を(しか)めた。

 

「由依の、せいじゃない。本当の、最初は——」

「ゲルニカの時?」

 

目を見開いて硬直すると、由依は「あはは、やっぱり」と笑った。

 

「なん、で」

「今のはほぼ当てずっぽうだよ。強いてあげるなら、時々違和感がある感じで足を見てたから、かな。……つまり、それはミノタウロスの斧の怪我だ、って。ミツキはそう言いたいの?」

 

俺は由依に導かれるように頷いた。明確な失敗だった。

 

「私と琴音を(かば)ってくれたもんね」

「——ッ」

「私が邪魔せず、ミツキが事前に琴音を逃がせてたら、ああはならなかったかも」

「そんな事ない。ただの、仮定」

「うん、仮定だね。現にあなたは重症を負ってしまってる」

「——ちがっ、そんな、つもりじゃ」

「私がいなかったら、ミツキはきっと怪我しなかった。しかも麻痺って、普通の怪我とは比にならないくらい大変な事だよね」

「…治る、可能性は、ある」

「治らない可能性だってある」

 

一生そのままだってあり得る。私のせいで。

 

快活な口調で由依は吐き捨てた。

 

競技場の巨大なスピーカーから流れる音割れしたJ-POPが、体育祭を盛り上げている。大音量が体の中に渦巻いて、平衡感覚が揺らぐ。

 

俺は気づいた。穏やかに話す由依の握り拳は固く、固く。自壊する星のように、握りしめた懺悔に飲み込まれて消えてしまう事を彼女は望んでいる。

 

俺は由依を見上げていた。やはり顔色に動揺は見えなくて、俺は困惑する。なんで、

 

「なんでこの話をしたと思う?ミツキを傷つけるって分かってるのに」

 

その声が、瞳が、明瞭に答えを示す。俺はうめいた。

知らなかった。ここまで強い意志を持った少女に俺は出会ったことがなかった。

 

「……償う、ため」

「んー、惜しい。正解は」

 

由依はくすりと笑った。その目はひどく真剣だった。

 

「責任を取るため」

 

由依の手が俺の手首を握る。熱かった。人肌のはずの手は、焼けるように熱く感じた。

 

「私、ずっとミツキを守るよ。ずっとミツキを支えるよ。だから———」

 

アナウンスが由依の声を遮った。二年生全員出場の徒競走。

 

ぱっ、と由依は手を放し、勢いよく立ち上がった。

 

「またね」

 

 

この後、由依は2位に大差をつけてゴールテープを切ることになる。

号砲が鳴ってから、由依の髪のたなびきが治まるまで。俺は彼女の走り姿から、目を離すことができなかった。

 

 

 

ーー

 

 

 

体育祭が終わり、中間テストが終わる。

季節は巡り、朝夕には冷たい空気が頬を撫でる季節。

 

由依との喧嘩……とまではいかないが、それでもどこかぎくしゃくとした空気はいっこうに消えず、俺は彼女と寝食を共にしながらも、その関わり方に困り果てている。

もっとも、由依の態度は平静のひとことであり、やきもきしているのは俺だけだったが。

 

 

 

そんな昼下がり。いつもの部屋で、俺は差し出されたものを見て、返す言葉を探していた。

 

黒い革のベルトだ。しかしそれは腰に巻くには短すぎるし、少々細くもあった。

 

「…なんだ、これ」

「チョーカー。中間テストの勉強とか、体育祭とか、いろいろ付き合ってくれてるから。そのお礼だよ」

 

由依は自分の首筋を、とんとん、と軽く叩いた。

 

「それならミツキの傷跡、隠せるでしょ?」

 

 

イヴァン戦から数週間が過ぎた。これが三度目の異界でなければ、あの体験を夢だと疑ってしまうほど、俺は平和な日常を生きている。時間は、俺の体を痛々しく彩っていた怪我をかなり回復させた。

 

由依の指摘に俺はおしだまる。首は他の部位より激しく損傷したにも関わらず、普通に服を着ても隠せない場所だ。いつまでも包帯を巻いているわけにはいかないし、それをアクセサリーで隠す、というのはいいアイデアだと思った。

 

……そう、それだけ。他意は無い。これ、首輪みたいだな、とか別に思ってない。

 

「ありがとう」

 

素直に感謝を示す。チョーカーを受け取ろうと手を伸ばすと、由依はにっこり笑って俺の手を()わした。

 

「着けてあげるね」

 

由依は(かが)んで俺と顔の高さを合わせる。一瞬、すっ、と細められた目に、俺は縫い止められたかのように動けなくなった。

 

「はい、オッケー」

 

予想は外れ、由依はすぐいつもの笑顔に戻って立ち上がった。

彼女は俺の首に巻かれたチョーカーに手を伸ばし、

 

ぐい、と乱暴に引っ張った。

 

 

喉の隙間から、不意打ちに押し出された嬌声が、か細く響く。由依は先ほどの笑顔のまま、蛇の目で俺を射すくめていた。

 

「ペットみたいで可愛い」

 

彼女の甘やかすような罵倒は、何度聞いてもぞくり、とする。

「大事にする」と無理やり話を打ち切って、俺は逃れるように身をよじった。由依はチョーカーから手を放し、簡単に俺を解放した。

 

由依は俺から決して目を離さない。その視線の意図は分かっていたから、俺は深呼吸を一つ、口を開いた。

 

「駄目だ」

「駄目……それは、客観的に見て良くない、ってことだよね。この会話は、私とミツキ、二人だけのものだよ」

「…わかった。じゃあ、言うぞ。由依、俺は君に、支えられて、生きていくのは、『嫌』だ」

「なんで?」

「俺が、歪な存在で、これ、からの、由依の人生の、足枷に、なるからだ」

 

俺はこの世界の人間ではない。それに、仕事以外で高校生と深く関わることのない大人だ。大人が子供たちの世界に入りこんでいいのは、今のような、そうしなければ子供たちが傷つく時だけ。

 

確かに俺は頼りがいが無くて、精神的に幼くて、その上救いようのない変態であるだろう。しかし俺は大人だ。そこだけは、何としても崩してはならない。

 

 

数秒の睨み合い。俺の表情に確固たる意志を感じたか、由依はつまらなそうに目を逸らした。

 

「ざんねん」

 

簡単に引き下がってくれたことにほっと息をつく。

 

「そのかわり、一つ教えてくれない?」

「……なんだ」

「ミツキの本名。せめて名字くらいはいいでしょ」

 

考える。交換条件に焦ったものの、これは破格と言っていいだろう。そもそも最初に本名を伝えていなかったのは名前が男性名すぎるから、という思慮のない理由だ。とはいえ、なぜ俺の名字なんかが知りたいのだろう。体育祭での質問は、俺を怯ませるためだけだと思っていたのだが。

 

周藤(すどう)。それが、俺の名字、だ」

 

由依はそれを飲み込むように反芻(はんすう)し、俺に感謝を告げた。

返事も待たずに由依は部屋を出る。ドアが閉まる時の、かちゃん、という音が、どうしてか俺の喉を苦しくさせた。その理由を探る。閉塞感だった。見えない檻に閉じ込められたように、俺はその場から動けなかった。

 

空気を求めて水中でもがくみたいに、俺は本棚まで行って、長方形のキャンヴァスを手に取る。自室の絵は暗くて、仔細な描写がぼやけて見えた。俺は鉄格子の隙間から外を眺める囚人のように、窓の外に目を向けた。出ようと思えば簡単に出られる、外に。

 

厚い雲が、延々と空を覆っている。

 

 

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