被虐性癖転性者は絶対に曇らせない   作:甘朔八夏

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近々に文化祭を控えた休日。俺は二度と行く事はないだろうと思っていた、由依たちの高校を訪れていた。その目的は一つ。

 

松葉杖に半身を預けながら、扉をノックする。

 

()いてるわ。入ってきて」

 

ほんわかした声に従い、ガラガラと引き戸を開ける。溶き油と絵の具の匂いがツンと鼻を刺す。その匂いはどこか懐かしく、安心する感じがした。

 

「いらっしゃい、ミツキちゃん」

 

秋の落ち着いた陽光が差し込む部屋の真ん中で、琴音が角椅子に座っていた。

膝の上にはスケッチブック、利き手には鉛筆。表情はいつも通りやわらかいのに、作業中だった彼女の雰囲気は静謐に張り詰めていて、俺は無意識に背筋を伸ばした。

 

「お招き、ありがとう」

 

琴音は朗らかに頷いて、「チョーカー、似合っているわ」と言った。

 

今日、俺がこの高校の美術室を訪ねたのは、4体目の怪物(メァナス) について情報収集するためだ。ここ数週間、俺は図書館へ足しげく通った。何十冊もの美術の本を見漁ったが、依然手がかりは掴めていないままだった。

その徒労をつい夕飯時に漏らしてしまったところ、このようなお誘いをいただけたのだ。つまり俺のぼやきを、由依が琴音たちに伝えてくれたという事。

 

現在、俺と由依の関係は、正直言って微妙だ。俺は面と向かって由依にお礼をすることが、いまだできていない。

 

———『責任を取るため』。

 

由依の前でどんな顔をすればいいか、俺は分からなかった。

 

「大丈夫?」

 

目の前まで来ていた琴音が、放心する俺に声をかけた。我に返り、こくりと頷いた俺の頭を琴音は撫で、ない。

 

「ごめんなさい。いまは手が汚れているから、ミツキちゃんに触れるのはやめておくわ」

 

その言葉を聞いてやっと、自分が撫でられ待ちをしていることに気づいた。かぁっと熱くなる頬を叩いて、膨らむ羞恥心から意識をそらした。

 

椅子を勧めてくれる琴音に、松葉杖でも軽やかに動けるところを見せて、まずは安心してもらった。

彼女にひとこと断って、イーゼルや壁に飾られた作品群を拝見する。どれも高校生が描いたとは思えないほどのクオリティだ。情報収集というよりは、美術館に来たような気分で絵を眺めている自分がいる。

 

「これは?」

 

目に留まったのは、枕元に大量の目覚まし時計が山積みになっている油絵。特徴的なのは、その時計の文字盤が全て、ぐにゃぐにゃに歪んでいることだ。

 

「後輩に、ダリが大好きな子がいるの。いわば、彼のオマージュ作品ね」

 

曰く。様々な深い意図が込められたサルヴァドール・ダリの主題をより身近に感じたい。そこで、「柔らかい時計」に込められた、夢と現実の曖昧さを、二度寝中のまどろみと繋げた、らしい。彼は名作『記憶の固執』で故郷・カタルーニャを描いた。それに倣って、後輩は自分が生まれ育った自宅をモチーフとしている。さらに目覚まし時計の前にある布団は、実は自画像の側面も持たせていて——

 

途中から、何を言っているのか全然わからない。一瞬、耳に「シュルレアリスム」という妙にかっこいい単語のみ飛び込んできた。こういうキャッチーな言葉()()聞こえるの、高校時代の英語のリスニングを思い出すなぁ。あの置いていかれてる感、マジで絶望してた記憶。

 

しかし、非常に面白い事をしている、というのは琴音の熱を帯びた語り口からわかった。

 

 

「……あっ。ごめんなさい。美術部にお客さんが来ることなんてそうそう無いから、つい、止まらなくなっちゃったわ」

「ううん。難しい、けど、面白いことは、伝わってくる。もっと、色々、教えてほしい」

 

琴音の顔がぱっと華やいだ。ここまで喜んでくれるなら、どんな話だって聞いてやろうじゃないか。……ただ、全く理解していない者に行なう説明は、ほぼ壁打ちと変わらない。頑張って相槌を打てるくらいは理解するぞ。

 

 

「これ、は?」

 

印象派に傾倒する偏屈な先輩による、独特な筆触(タッチ)の美人画。モナ・リザを意識しているらしい。色彩を暖色に統一したのは自分のアイデアなのだ、と琴音は自慢げに語った。はえー、すごい綺麗。裸眼でイルミネーション見たときみたい。

 

 

「こっち、は?」

 

幻想生物の骨格標本。日本的な(ドラゴン)の化石を空想したようだ。仏像オタクとファンタジーオタクを兼ねている世にも珍しい同級生がいるらしく、この作品は「脱活乾漆技法(ダッカツカンシツギホウ)」? で作った、とのこと。高級な(うるし)を表面に塗っているらしく、製作にかかった金額は驚異の三万円! 熱意に圧倒される。

 

 

 

琴音は俺が興味を持った作品すべてを、心底楽しそうに解説してくれた。月並みな素人意見しか言えない俺に、満面の笑みを浮かべて付き合ってくれた。

 

 

「すごい、ね」

 

口から素直な賞賛が漏れる。手を拭きながら、俺の突然の発言にきょとん、としている琴音。俺は言葉を続けた。

 

「大好きなものが、あって、それに、全力で。自分の、やりたいことに、まっすぐな、誇りを持つのは、難しい。琴音に描かれる、絵は、琴音に、見られる作品は、きっと、幸せ者」

 

琴音は驚いた表情をした。言葉の真意を探るように俺をまじまじと見て、ふっと顔を綻ばせた。

 

「それをミツキちゃんに言われるのは、すごく不思議な気分ね」

「?」

「……由依と詩乃には、ごめんなさいをしなくちゃいけないのだけれど。わたしの優先順位は、絵が一番上。教室でどれだけ仲良くしていても、心の奥では、あの子たちよりも絵を大事にする。わたしはそんな、薄情な人間だった」

 

遠くを見つめるような琴音の瞳に、俺はIF(もしも)の世界の彼女を見た。彼女にとって、絵は生きる価値であり、魂そのものだった。戦いの中、自身のアイデンティティを生む手を、利き腕を失う恐怖に、彼女はずっと耐えてきたのだろうか。

 

「でも、いまは違う」

 

琴音は俺を見た。その優しい眼差しに、俺は目を奪われた。

 

「ミツキちゃん。あなたと出会って、その順番が変わっちゃったの。ミツキちゃんは「絵にまっすぐな誇りを持ってる」って言ってくれたけど、それは昔の話。由依や詩乃。そしてミツキちゃん。絵よりも、みんなの方が大切になっちゃったわ」

 

ぷりぷりと怒る振りをする琴音は、なぜか楽しそうに見えた。

花のような雰囲気は、柔らかい笑顔は、いつもの琴音だ。俺はそんな彼女に戸惑っている。困惑している。

 

 

「言ってくれたでしょう?」

 

———大丈夫。ぜんぶ、大丈夫。

 

「大丈夫だって」

 

———信じ、てる。

 

「信じてるって」

 

 

「あなたが」琴音は俺の頭に手を置いた。さらさらと俺の髪を撫でて、あたたかい笑顔を浮かべる。

 

「後輩の子に、言われたの。なにか良いことありましたか、って。ふふ。今までのわたしは、そんなに冷たかったのかしら。……絵を描くのは人だって、どんなに大変でも、人を大切にしていれば、きっと願いは実るって。ミツキちゃんが教えてくれたのよ?」

 

 

琴のような声が、音色となって俺の耳を心地よく揺らす。原作の、この漫画の最終話をふと、思い出した。ひどく落ち込みながら、失意に本を閉じたあの日を思い出した。俺は、

 

「み、ミツキちゃん!?」

 

泣いてしまった。

俺の頑張りに意味があったのだと、琴音は教えてくれた。不安だった。俺のせいで、むしろ彼女たちが苦しんでいないか、恐れていた。琴音は笑ってくれた。いまやあり得ない、絶望と憎悪の「もしも」を乗り越えて、琴音はほほえんでくれた。

 

願いは実った。俺の願いは、確かに実っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ご、めん。恥ずかしい、とこ、ろ、見せちゃった」

「ほんとうにもう大丈夫なの?どこか痛いところは無い?」

 

不安を露わにする琴音に申し訳なさを感じる。元気いっぱいを表現するために、俺は薄い胸を張った。ふと思いつく。

琴音に同じことをしてもらう。彼女の豊かな胸がたゆむ。それを見て、俺はショックを受けた顔をする。とたんに焦り出す琴音を見て、俺はくすくすと笑った。からかわれたのだと分かった彼女は、俺と同じようにくすくす笑った。

 

 

「そう、いえば。琴音の、作品は?」

「わたしのはこっちよ」

 

案内されたのは、隣の美術準備室。そこに立てかけられた大きなキャンヴァスに、つい俺は嘆声をもらす。

 

絵は全部で三枚あった。幽霊の前で立ち尽くす若者の絵。豪華な建物の中、若者が何かを叫んで女の人を遠ざける絵。男に剣を穿ち、穏やかな顔で息を引き取る若者の絵。

 

どれもはっとするほど美しく、俺はひととき呼吸を忘れる。

琴音の文化祭発表は、戯曲『ハムレット』そのものだった。

 

「ショッピングモールで見てもらったオフィーリアの絵、覚えてるかしら?」

 

そう言われた途端、脳裏に鮮やかに蘇る、歌うように川へ沈んでゆく女の人の絵。琴音の作品は、この三枚に「オフィーリア」を加えて完成する。どうやら今回の文化祭で、あの絵を再び、この高校へ持って帰るようだった。

 

「そこまでするなんて、びっくりだわ」

 

少し呆れたように呟く琴音の声には、照れ臭さと誇らしさが同居していた。

 

 

 

 

ーー

 

 

 

 

秋の休日。過ごしやすい気候にも関わらず、帰り道には人っ子1人いない。枯れ葉をくしゃりと踏みながら、走馬灯のように巡る先ほどの記憶を振り返る。

 

ぐにゃりとゆがんだ目覚まし時計。そのリスペクト先の画家・ダリは、性的倒錯を持っていた、なんて言われているらしい。

 

自分と重なったような気がした。いつもなら笑い飛ばせる共通項が、どういうわけか頭に重くのしかかる。ぶんぶんと頭を振った。

 

笑い物にされた印象派。干魃(かんばつ)に喘ぐ民が縋りついた龍神信仰。

 

気分が悪い。苦難の先にある幸福はぼやけていて、人々の苦しそうな顔だけが、まるで見てきたかのようにまぶたの裏に浮かぶ。

 

俺は走った。ろくに動かない足で、何度もこけそうになりながら、走った。

 

ハムレットは悲劇だ。だから人に愛される。

 

 

嫌な予感に、根拠なんか無かった。いつものように笑い飛ばせばいい、杞憂のはずだった。

 

由依の家に転がり込む。一目散に彼女の自室へ。本棚の端には、俺が隠し入れた時と寸分違わぬ位置に、長方形の板が挟まっている。

 

ため息をつく。ほら、大丈夫だ。何も変わっていない。さらなる安心を得ようと、長方形のキャンヴァスを取り出す。キャンヴァスが、本が開くみたいに()()()()()()()

 

「——っ!?」

 

ちょうど、二つ折りした折り紙を開いた時のように、キャンヴァスは正方形へと姿を変える。

 

……なぜ、今までこの事に気づかなかったのか。

キャンヴァスの裏側だと俺が思っていた面には、「キャンヴァスの裏側の絵」が描かれていた。そしてその面は、(おもて)面で俺が自分の部屋に手を突っ込むことができたのと同様に、立体感を持っていた。

 

本来の姿を取り戻したキャンヴァスが、ぐにゃり、と歪む。俺の部屋の絵は消えて、表面は真っ黒になった。

まるで落とし穴のように思えた。そう、ちょうど、縦横比2:1のキャンヴァスが2枚並んだ、正方形の穴。子供がギリギリ通り抜けられそうな、真っ黒の穴。

 

違和感に気づく。それは穴ではなかった。水だった。真っ黒で底の見えない、ひたすら暗い水の中。溺れたような息苦しさを感じて、ぞっとした。

 

 

また、表面が、ぐにゃりとマーブル模様を作る。次に浮かんだものは。描かれた絵は。それを見た俺は。

 

「……くそっ、たれ」

 

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