「ゲームしよう」と誘う由依の手をとるのをためらったのは、彼女が「負けた方が相手の言うことをなんでも聞く」という条件を提示したからだ。
それでも俺が誘いに乗ったのは、その条件は、「今日中にやってしまえることだけ」という制限があったからだ。
たかを括ったわけじゃない。その程度の甲斐性さえ持たない男だと、彼女に思われたくなかったのだ。
格子状の板の上に
由依の黒い石が置かれる。四隅の一つ。端どうしを取った由依は、一直線に並ぶ俺の石を、全て裏返す権利を得た。
「白色が黒色に変わるのが、やっぱり摂理だよね。何色を混ぜても黒は黒のままだけど、白は簡単に他の色に染められちゃうもん」
「そう、とは、限らない。光が、混ざった、結果は、白色」
「へぇ」
買い言葉で応じた俺に、由依は興味深そうな表情を向けた。ぱちん。ぱちん。一つずつ石を自分の色に変えてゆく。
「でも、今日の神様の気分は、減法混色だったみたいだね」
ぱちん。四十二対二十二。盤上の部分が黒く染め上げられる。
「…参り、ました」
そこに掲げられる俺の白旗は、さぞ映える事だろう。
由依は満足そうに頷くと、用は済んだとばかりにオセロを片付けた。今の酷い試合に、「感想戦でもどうか」と冗談を言おうとしていた俺は、目の前から消えたオセロ盤を想って、黙ることしかできない。
少し開いた窓の向こうから、雨の匂いがする。
「一緒にお風呂、入ろうよ」
まっすぐな目を向けて、由依は言った。
ーー
「前みたいに目つぶっちゃ駄目だから」と言われた俺ができる事といえば、ひたすら下を向いて何も見ないようにするくらいだ。
「先に私が背中洗ってあげる。その次は、ミツキが私の背中を洗ってね。それくらいならいいでしょ?」
「……背中だけならっ!?」
凍える冷たさに変な声が出る。由依は風呂椅子から落ちそうになった俺を支えて、あはは、と笑っていた。
「由依。さす、がに、冷水は……」
「せっかく目隠し禁止したのに、そうやって下向いてたら一緒じゃん。そんな体たらくで、どうやって私のこと洗ってくれるつもり?」
言い淀んだ俺に、由依は容赦なく頭上からシャワーを浴びせかける。本当にビビったが、今度はちゃんと温かかった。
「じゃあ私、ミツキちゃんで自分の身体隠すから。前は向いていいよ」
「……本当に、隠す?」
「うん。大丈夫だから」
意地悪を覚えてしまってからも、由依が嘘をついた事は一度もなかった。恐る恐る目を開ける。
「ね?」
風呂椅子に座る華奢な少女の後ろで、身体を上手く隠した由依が微笑んでいた。彼女は全く大柄ではない。しかし俺の体が小さいせいで、ギリギリ隠せているくらいだった。
やっぱり照れくさくて顔を背けようとする。「ゲームの約束」耳元で囁く由依の声は、優しいながら
逃げる事を諦めて、前を向く。鏡をまっすぐ見つめる。顔を真っ赤に染めた黒髪の少女の顔を、俺は凝視している。
「ミツキって、可愛いよね」
「……うん。その事は、認めざる、を、得ない」
鏡の中の少女が、俺と同じようにもにょもにょと口を動かす。
俺の他人事のような返事に、由依は少し怪訝そうな顔をした。「あ、」と彼女が呟いたのと、その顔が得心に変わったのは同時だった。
「ミツキ、違うよ」
「?」
「この体は、ミツキの体だってば」
鏡越しにうかがう由依の眼は、なぜか大人びて見えた。
「ミツキ、今の姿は、自分の本当の姿じゃないって思ってない?」
「——っ」
ぞわりと、心の表面を、直接爪で引っかかれたような感覚がした。見るからに動揺した俺に、由依は満足げな顔を浮かべて、そっと俺の手をつかむ。
「いま私の手が、ミツキの手を握ってるの、分かるでしょ?」
俺は返事をしない。しかし由依は口元に微笑をたたえたまま、つ、と指先を俺の手のひらにあてた。
「ミツキの体なんだよ」
俺たちは場所を交代する。ろくに動かない足を気遣って、由依は風呂椅子を俺に譲ったまま、俺の前に中腰になる。他でもない俺の視界が、由依の綺麗な背中を捉える。他でもない俺の手が、由依の背中を洗う。
俺たちは湯船に浸かる。由依は、俺が抵抗していない事をたしかめてから、そっと俺を後ろから抱く。由依の鼓動を感じる。由依も感じているはずだ。他でもない、俺の鼓動を。
ーー
「髪、いい感じに切ってよ」
風呂上がりに、「美容師なんだよね」と念押しした由依が、ぶっきらぼうに頼んできた。ゲームの約束は、今日いっぱい有効らしい。とはいえ、髪に関しては、強制でなくともやってあげたいと、前から思っていた。
だからこそ、残念に思う。
「無、理」
「なんで? 前にも切ってくれるって言ったのに」
棘のある声に、俺はますます眉尻を下げる。どんなに俺が望んでも、もう不可能なのだ。
「……はさみが、無い」
「あ」と由依が声を出す。以前、詩乃の髪を手入れできたのは、彼女がはさみを持参してくれたからだ。詩乃に借りればいいだけだが、少なくとも今日は、由依の願いを叶えることはできない。
「明日の文化祭、新しい髪型で行きたかったんだけどなぁ」
不満そうに言うも、その声は俺を責めているというより、自分の失念を悔やんでいる感じ。そうは言っても、俺の胸は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「しかたない。また今度なら、切ってくれる?」
再びのお願いに、俺は曖昧に笑って返事をごまかす。由依はそんな俺をじっと見て、答えを求めた。
「ダメなの?」
「…今の、由依の、髪型。すごく、似合ってる、から」
俺はお願いへの返答をしない。由依はそれ以上、詰問を重ねなかった。
「じゃあ、髪乾かすのは?」
それなら今日——今からできる。俺は勢いよく頷いた。
「わぁ……すごい。いつもよりさらさら」
自分の髪の手触りを楽しむように、由依は毛先を
喜んでもらえて良かった。もうすっかり感覚の慣れた、自分の小さな手を一瞥する。まるで、最初から自分の手がこんなに小さかったかのような錯覚を感じて、俺はあわてて目をそらした。
由依が振り返って、ドライヤーを持ったままの俺を見上げる。焦りを彼女に悟られないよう努めた。
由依の自室に戻った俺たちは、いつものように駄弁る。そのいつも通りに困惑する。でも、由依の様子があまりに普段通りだったので、気づけば俺の緊張もほぐれていた。
「私のクラスの、担任の先生知ってるでしょ? ほら、体育の時に会った」
「ああ、二十、五、歳の」
「年齢で覚えてるの珍し。知らなかった、先生25歳なんだ。……ああ、ミツキと同い年だね」
「そう、だ。だから、覚え、てる」
「あの先生、結婚するんだって」
「え!?」
「ミツキ、驚きすぎ。ふふ、まあ無理もないけど」
「けっこん……? 俺と、同い年の、人が……?」
「二十五歳で結婚かぁ。まあ、早いってほどでも無いよね。
「ぐふっ」
今の発言は意図してのものだったのか、苦しむ俺を見て、由依は楽しそうに笑った。
「そうだ、話は変わるんだけど。一つミツキに聞きたいことがあって」
「なん、だ?」
「これはゲームの「命令」ね。ちゃんと答えなくちゃ駄目だから」
由依は本棚に手を伸ばし——
「なにこれ」
———
「あ、え……」
屋根を打つ雨音を意識する。それは、家の中の沈黙を如実に表していた。
「こんなすぐ手に取れる所に置いて。ミツキったら、隠す気あった?」
呆れたように肩をすくめる由依を、俺は硬直したまま見つめている。
「このキャンヴァス、すごいね。絵の中に手が入る。ほらこうやって」
由依は、以前俺がそうしたように、キャンヴァスの中の、俺の自室に向かって手を入れる。由依は何かを取り出した。それは一通の封筒だった。なんの変哲も無い、俺宛ての広告。
「『周藤 勇征 様』、ね」
ぽつりと呟いた由依の声に、俺の胸がどくん、と痛む。キャンヴァスの事を隠していた罪悪感。今まで本名を言わなかった罪悪感。この不快な苦痛から逃れるためには、改めて、自分の口から秘密を吐くしかなかった。
「帰れるんだ」
俺はこくりと頷いた。何も嘘はついていないから。4体目の
静かに思案する由依を、俺は説教を待つ子供のように見上げる。
俺は怖かった。認めよう。俺は由依にこの事を知られるのを、恐れていた。
由依は、俺の帰還が可能になったことを喜んでくれるだろう。そう思いながらも、俺は由依が喜んでくれる姿を想像できない。由依の前から消える自分が、どんな顔をしているのか分からない。それに、今知られて何になる? やはり分からない。俺はどんな顔をして由依に向き合えばいい?
由依は、長方形のキャンヴァスをそっと胸に抱いて、
「——良かったぁ」
ふっと顔を綻ばせた。予想していたはずの声に、俺は面食らって動けない。
「もうすぐお別れなんだね」
「……あぁ」
「もう会えなくなっちゃうのかな」
「……あぁ」
「寂しい」
素直すぎる言葉が、むき出しの心に沁みていく。「また会えるさ」なんて陳腐な事は、言えない。胸が締め付けられた。でも、俺は安心も抱いていた。
由依は、俺との「さよなら」を受け入れてくれている。
由依は、もう俺がいなくても大丈夫だ。
(大丈夫だ)
頭の中で反響する自身の声は、少女の声だった。
目頭が熱くなる。ああ、俺のほうが、寂しく感じているかもしれない。しかし、もう迷いは無かった。
「由依。俺は———」
「『私』って言って」
ぐい、と。由依が俺のチョーカーを引いた。
「『周藤』さん。今日だけは『周藤ミツキ』になって」
「……それは、俺を」
「『私』って。そう言ってよ」
由依の瞳の中に、俺の姿が写っている。
「……『私』」
「もっと」
「『私』」
「あなたは?」
「『私』は、『周藤ミツキ』」
ぐにゃり、と。自分の中身が歪む感覚がする。導かれるように言葉を紡ぐ私を、由依は心底愛おしそうに抱きしめた。
「ミツキ。好きだよ」
涙が出た。嬉しくも悲しくも無かった。感情をどうにか外に出さないと、私は私でなくなってしまうという、確信だけがあった。
雨音が聞こえる。彼女の腕の中で、雨音だけが無感情の拍手となって、私たちを包んでいる。
早朝。まだ火が出る前の薄暗い時刻。今日は、文化祭当日だった。由依を起こさないように、そっとベッドから抜け出す。
雨は止んでいた。
必要最低限のものだけを手に、俺は窓を開けた。青い月が、まだ西の空から俺を見守ってくれている。ここで気づかれたら、先ほどまでの努力が水の泡だ。万が一、玄関で由依のお母さんに鉢合わせることがあったら大変だから。
俺はアルミサッシの上に座る。ああ、そういえば、二度目なのか。出会ったばかりの思い出を頭に浮かべて、俺は小さく笑った。
「さよ、なら」
窓から飛び降りる。