文化祭当日。開場を2時間後に控えた午前8時、いつもより早起きした生徒たちの顔に眠気はなく、学校全体にそわそわした空気が漂っている。
少し冷えた秋の空気を裂いて、由依は走っていた。
「詩乃、琴音」
並々ならぬ焦燥をにじませて自分たちを呼んだ由依に、二人は表情を固くする。
「いないの」
頬を伝う汗にも、息切れに苦しくなる胸にも構わず、由依は一つのことだけを繰り返す。
「ミツキがいない」
いなかった。目覚めると、大切な少女を抱いていたはずの腕の中は空っぽで、由依はベッドに一人だった。
「い、いないって、どういうこと? だってミツキちゃんは、由依の家にずっと泊まっていたじゃない」
琴音は声を震わせて、唇を噛む由依にすがりつく。由依は一枚の紙を見せた。
『多分、もう心配いらない。ここでお別れです。今までありがとう』
右下に書いたであろう差出人名は、黒でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていて読めない。しかしその手紙を書いたのは誰か、その答えはあまりにも愚問だった。息をのむ琴音。その隣では、詩乃が絶句していた。
恐らく、詩乃は自分と同じことを考えている。
由依の脳裏に鮮やかに蘇る記憶。ミツキは由依の前から去った。由依から逃げたのだ。そして、それは二度目の経験だった。
———このお礼は、必ず。
あの時、彼女は窓から飛び出した。
巻き込まないようにするため。以前ミツキは、たった一人で
「由依」
顔を青くして、詩乃が由依を呼ぶ。由依は頷いた。
「……琴音。多分ミツキは今、たった一人で4体目の
ーー
手がかりなんて、どこにもなかった。ただひたすらに走る。
最初、由依は「手分けして探そう」と言った。しかし、ミツキは恐らく異界にいるだろう、という予想のもとで、単独行動は危険だと詩乃がたしなめた。由依はその提言を受け入れた。焦れったさに暴れる心を押さえつけて。
由依は走った。詩乃と琴音を置いて行きそうなほど、速く。早く!ミツキを見つける。ただその一心だった。
学校を飛び出した由依たちは、あてもなく町を彷徨う。足は自然と、ミツキと一緒に何かをした場所へ向いた。
路地と言うには少々広い、建物の隙間の小道。ここで由依は、ミツキと出会った。あの日のミツキはいつ出血多量で倒れてもおかしくないほどボロボロで、初めて見る惨状に、由依は胃からこみあげてくるものがあったと、思い出す。
「!——あれは、」
ひらりと、布が舞うのが視界の端に見えた。詩乃が近づくと、そこには所々に穴の空いた古いカーテンがあるだけだった。由依はその布地に、真っ赤な返り血を幻視する。瞬きすると、その赤は消えていた。立ち止まった由依に、詩乃が「何かあった」と訊く。由依は無言で首を横に振った。
「行こう」
琴音の絵が飾ってあったショッピングモール。開館時刻はまだ先で、由依たちはガラスの外側から、真っ暗な店内を見回す。周りをぐるっと回っても、ミツキの影は無い。
ふわりと、いちご飴の甘い匂いを感じた気がした。振り向いても、当然そこには誰もいなかった。
雑木林と隣接した公園。道路は閑散としていて、ショッピングモールからはあっという間にたどり着いた。錆びたジャングルジムはビニールテープでぐるぐる巻きにされており、「使用禁止」の貼り紙が無造作に貼ってあった。トイレの裏まで探しても、誰かが居たような痕跡は見つからない。
ざり、と、誰かが砂利を踏んだような音がした。それはただの勘違いで、公園はひどく静かなものだった。
手がかりなく、由依たちは学校へと戻ってくる。
「むしろ、校内を探した方がいいかもしれない」
失意に暮れる空気を嫌うように、詩乃がそう提案した。過去に異界に飲み込まれた場所を整理する。
『サトゥルヌス』。
直前の記憶は曖昧だが、あれは確かに高校からの帰り道だった。
『ゲルニカ』。
授業合間の休み時間、まさに教室で飲み込まれた。
『イヴァン』。
完全に油断しきった授業後の、グラウンドから教室へ帰ってきた時だった。
法則なんて無い。傾向だって三つじゃ信用できない。しかし、由依たちはその当て推量に頼るしかなかった。
「あ」
琴音が、小さく小さく声を漏らす。
「ミツキちゃん、ちょっと前に美術室に来たの。4体目の
チャイムが鳴る。学校中の掛け時計が、午前9時を示している。琴音は美術室の扉を開けた。ツンとした有機溶剤の匂いに、慣れていない由依と詩乃がわずかに顔をしかめる。
「……あら?」
様々なペンキが飛び散って、一枚の絵のようになっている木製の床。そこに見慣れないものが落ちていることに、琴音は気づく。
由依の心臓は止まりそうになった。それは、そこにあったのは紛れもなく、ミツキが昨日まで隠していた長方形のキャンヴァス。
震える手で持ち上げる。長方形のキャンヴァスは、まるでデカルコマニーの出来を確かめようとするみたいに、真ん中を折り目にして開いた。
正方形に開いたキャンヴァス。そこに描かれるは、真っ黒な水の上に浮かぶ、献花のような花々。呆然とそれを見つめる由依の後ろから、琴音も絵を覗き込む。彼女の顔色が変わった。
彼女に似合わない乱暴さで、琴音は隣の部屋の扉を開ける。全員が、等しく言葉を失った。
琴音の描いた『オフィーリア』は、すでに美術準備室へと運び込まれていた。
歌うように笑う白いドレスの少女が、空を見上げて川に浸かっている。手の周りに散らされた花々はカラフルで華やかだ。そんな彼女を、
異常な血赤色は、まるで自分が木々に擬態できていると思っているかのように、様々な形で少女を包む。
たちまち、ぐにゃりと絵が歪んで、『オフィーリア』は琴音の描いた美しい絵に戻った。緑色に戻った背景は、先ほどの赤色とはあまりに違いすぎて、目がちかちかした。
「……これが、異界への扉」
詩乃がぽつりと言う。それは比喩ではなく、扉としか言いようがなかった———絵の真ん中から、琴音の作品を汚すように、金色に輝くドアノブが生えていたから。
この先にミツキがいる。
言葉にせずとも、三人はそのことを確信する。
しかし由依は、そのドアノブを握ることをためらった。扉を開ける。それは、絵を無理やり引き裂く事と同義だ。
由依は知っていた。その絵に琴音がどれほどの労力を尽くしたのか。だからこそ由依には計り知れなかった。その絵に琴音がどれほどの思いを抱いているのか。
ドアノブを凝視したまま硬直する由依の隣まで、琴音が歩いてくる。彼女は息を大きく吸って、
「——っなにをしているの!? 早く開けて!! ミツキちゃんの所へ行くんでしょう!?」
由依を叱責した。その気迫に由依はたじろぐ。その声は、大声を出し慣れていない人特有の、うまく声量を調整できていない揺れた声だった。
「でも、それじゃあ琴音の絵が」
「わたしは、この絵よりもずっと、ミツキちゃんのほうが大切よ」
由依は目を見開いた。彼女が明確に絵を優先順位の下に据えるのを、由依は初めて見た。琴音はどんなものより、どんなことよりも絵を愛する。彼女は今まで、間違いなくそういう少女だったはずだ。
「早く!」
もう耐えきれないと言わんばかりの叫びに由依は我に返る。迷いなく、絵の中心から生えたドアノブを握りしめる。琴音を横目で見た。
「この絵を超える作品、描いてね」
琴音は一瞬、ぽかんとした後、
「もちろんよ」
強く頷いた。
がばり、とドアノブを引く。最初から『オフィーリア』はドアを覆うように描かれたのだ、と言いたくなるほど、琴音の絵は綺麗な長方形にくり抜かれて開いた。
扉の奥は、濁流のように濁った先の見えない空間だった。なんの憂いも恐れも抱かずに、由依はその濁りに飛び込む。
——お別れ。
あの子は、初めて会った時と同じように、全部背負って「さよなら」をしようとしているんじゃないか。何も変わってない。あなたは私のことを何も分かってくれない。
(許さない)
彼女に会わなくてはならない。