どれほど濁りに揉まれていただろう。平衡感覚を失いそうになった直前、由依は土を踏む感覚に目を開いた。
そこは文字通り、絵の中の世界のようだった。
色とりどりの植物が由依の目を奪う。いくら摘んでも無くならないほどに満ち満ちた花々。重なり合う葉の隙間から漏れる、あたたかな日差しが光の線になって、苔むした地面を照らしていた。
「…綺麗」
遅れて由依の背後に立った琴音が、思わず声を漏らした。毒気を抜かれる光景に、由依の思考が一瞬止まる。
「琴音の絵は、女の子が川に沈んでいく絵。ミツキを見つけるには、川を見つけるのが先決」
その静穏を詩乃が破った。具体的な目標を得た由依の脳が、急速に回転を再開する。感謝を込めた目で詩乃を見る。詩乃は小さく頷いた。二人の間には、それだけで十分だった。
由依は目を閉じ、音を聴く。……聞こえた。かすかに、チョロチョロと何がの流れる音が。
あっという間にそこまでたどり着いた由依は、川の上流と下流を交互に眺める。
どちらに行くべきか。由依は逡巡する。しかし、その迷いを断ち切る必要は無かった。
由依の足元、十数センチ先で、地面を貫いて何かが飛び出してきたから。
由依は反射的に飛び退いた。その手には、身長ほどの大きさの絵筆がすでに握られている。
「なんで、邪魔してくんの」
苛立たしげに歪められた由依の視線の先。この異界の
木の幹ほどの太さがある二つの
その人物は、異様だった。
見た目は、太い
「なに、あれ」
駆けつけた詩乃が、キャンヴァスを盾のように持ちながら、困惑を声に滲ませる。
琴音は眉根を寄せた。今までの
「ミツキは
由依は淡々と聞いた。当然、
「——由依っ」
慌てて詩乃がキャンヴァスを拡大しようとする。由依は詩乃を片手で制しながら、
ぱん、ともう片方の手に握った絵筆で蔦を弾き飛ばした。
「ミツキは何処?」
問う。蔦が怯んだように震えた。本体へ駆けようとした由依に、蔦が再び迫る。由依は先ほどと同じように、蔦に絵筆を振るった。
「———っ!」
蔦は由依の一閃に沿ってくにゃりと曲がり、絵筆に絡みつく。絵筆を引き抜こうと由依が力を込めても、蔦は
蔦が脈動する。じわじわと由依の手に近づく蔦が、
突然力を失った。
「近接を引き受けるのは、私」
丸ノコのようにキャンヴァスを回転した詩乃が、由依の絵筆に絡みついた蔦を切断したのだ。目にも止まらない速さで断面を詩乃から逸らした蔦に、琴音の色弾が放たれる。矢継ぎ早の追い討ちに、たまらず蔦は由依から距離を取った。
「由依、怪我してないかしら?」
「大丈夫。…あの蔦、思ったより自由自在に動くね。油断しちゃった」
前方で、ずるん、という生々しい音が響く。確かに切断したはずの太い蔦は、疲れ知らずに再生を成した。
「蔦を攻撃しても、効いてる感じがしない。やっぱり狙うべきは本体」
詩乃の言葉に顔を上げる。
「詩乃、琴音。一本ずつ、蔦を抑えといてくれない? 私が、本体を叩く」
「了解」
「ええ、任せて」
二人の返答を聞き終わるが早いが、由依は地を蹴った。
——振り下ろされる蔦の角度にキャンヴァスを沿わせ、詩乃は
蔦の狙いに、詩乃は薄々勘づいている。詩乃の『美装』に絡みつき、詩乃の攻撃手段を奪うこと。油断は禁物、しかし狙いが分かれば対策ができる。
刺突するように迫る蔦を、詩乃は横へと弾き飛ばす。
「ッ!?」
避けきれない。頬に赤い線が走る。咄嗟にキャンヴァスを大きく広げて、蔦と自分の間に壁を作った。二、三度キャンヴァスに振動を感じて、飛び退きながら『美装』を縮める。
詩乃は蔦と睨み合う。嫌な汗が垂れる。
蔦は自らその先端をちぎり取り、独立したそれを、詩乃に投擲した。
その攻撃に、詩乃はひどく見覚えがあった。
——琴音の背後に、正六角形の色相環が浮かぶ。赤、橙、黄、緑、青、紫。色はイメージ。イメージは具現し、敵を穿つ弾丸となる。
「植物なら、火は嫌いよね」
宙に浮かべた青の絵の具を加工。どん、と放たれた色弾は、蔦の前で静止した。青い球体が一度震えたかと思うと、バーナーのような安定した炎へ姿を変えて、蔦に容赦無く熱を浴びせかける。
蔦の表皮はじわじわと溶けて、煩わしげにその身を震わせた。
燻ったように燃える蔦が、消火のためか滑稽にのたうつ。琴音の脳内で綿密にイメージされた炎は簡単に消えず、やがて、蔦の表皮に、乾き切ったペンキのようにヒビが入った。
「……?」
蔦の、蔦だと思っていた物の表皮が、バラバラと剥がれていく。琴音は目を見開いた。内部の色は、
由依は全力のもう一歩先の力を出して、
蔦の甲冑は、自分が危機に晒されていることに気づいてもいないかのように、穏やかに枝の上で座ったままだ。
「ミツキを返して」
由依は絵筆を振り上げる。
——嫌な予感がした。圧倒的に有利な状況下で、由依はえも言われぬ不安を感じている。
先ほどの油断を反省して、由依は第三の蔦について警戒していた。この鎧が
眼前の景色が、スローモーションのように由依の目に映る。迷いを感じた一撃は、
——違う。もっと前。もっと前から。嫌な予感がする。この場所はどこだ。異界だ。
少女を囲む
反射的に攻撃の手を止めて、由依は逃げるように後ろに飛び上がる。
その衝撃で、
由依の喉から掠れた音が鳴る。こぼれ落ちそうなほど大きく、目を見開く。
「——ミツキッ!!!」
蔦の——いや、触手の鎧に包まれていた、ミツキの本当の服装は、華々しい純白のドレスだった。眩しいほどの白の中に、たった今由依が傷つけた小さな傷が、ブローチのように赤く滲んで、そのドレスを
彼女の手には花輪が握られている。キンポウゲ、イラクサ、ヒナギク、紫蘭。その花々の名前を知っているのはこの場で琴音だけで、由依はそれがなんなのか、分からなかった。
我に返った由依が、眼前の少女に手を伸ばしたとたん。意地の悪い枝が折れ、花輪もろとも、まっさかさまに、ミツキは川に落ちていった。