最悪。かなり最悪に近い。
ざぱり、と、俺は川から半身を出す。純白のドレスの裾が、水面に大きく広がって、気分はまるで人魚だった。
川底に足がつかないので、触手を伸ばして木を掴み、半ば浮いているような体勢になる。
自殺してもいいが、それで由依たちが「倒した」という認定を得られなかった場合、さんにんが元の世界に帰れる保証は無い。今までの戦いと同様に、『美装』の一撃で、彼女らの手によって、俺は死ぬ必要があった。
しかしそれも、今では叶いそうにない。
詩乃のキャンヴァスがぎゅん、と拡大し、川には巨大な橋がかけられる。その上に詩乃と琴音が乗り、由依もそこへと飛び降りた。キャンヴァスは、俺が足を伸ばせば簡単に乗ることのできる位置まで広がっている……足を伸ばせれば、の話だが。
一心に、こちらへ向かってきた由依。私は彼女の前に、触手を叩きつけて威嚇した。
凍りついたように止まる由依、放心する詩乃と琴音。
「…なん、で、来た?」
予想はしていた。いや、それは予想というより確信だった。それでも、俺は言わずにはいられなかった。
俺がここにいる限り、異界は消えず、俺は一生この森から出られない。それでいいじゃないか。俺がここに閉じ込められている間——つまり、今後永遠に、きっと由依たちは異界に飲み込まれることはない。そうすれば、彼女たちは日常へ帰ることができたのに。
「ど、どうしてそんなこと言うの? ミツキちゃん。わたしも、由依も、詩乃も、とっても心配していたのよ。早く帰りましょう。早く、
て」
琴音が言葉を失う。気づいてしまった。きっと俺の顔を見た瞬間から、その事実を悟っていたであろう由依と詩乃に、俺は強い視線を送られ続けている。
「ミツキ」
由依が私から距離を取ったまま、その名を呼んだ。彼女は平静を取り戻したように、すっくとキャンヴァスに立っている。いや、それはきっと私の願望だ。由依の声は震えている。由依の瞳は揺れている。
「あなたは誰?」
「私は———俺、は、」
ああ、もうどうしたらいいか、何も分からない。俺は自嘲を示そうと、道化のように腕を広げた。
「『オフィーリア』だ。俺、が、4体目の、
『イヴァン』を倒した後、俺は一枚のキャンヴァスを手に入れた。長方形の画布は、二つ折りにした折り紙を開いたように正方形に広がって、そこに新たな絵を写したのだ。
川を左手に望む森で、由依たち三人が、白いドレスを着た少女と対峙している絵。少女の、黒髪の少女の半身は川に浸かっており、穏やかに目を閉じている。
少女の胸には、由依の絵筆が突き刺さっており、小さな口からは赤黒い血が漏れていた。
少女の死体の後ろには、森に不釣り合いな扉がぽつんと置かれており、少し開いた扉の先には、制服を着た三人が、日常を謳歌して笑っていた。
直観した。この「物語」は、俺が死ぬことで完成する。
由依たちには口が裂けても言えないが、俺は、自分が死ななければならない事がすごく嫌だった。傷とは違う。何も感じなくなる永遠の闇。それが怖かった。死にたくなかった。
「……俺、を、倒せば、全部、終わる。やっと、みんな、日常に、帰れる」
しかし、三人の幸せと俺の残りの人生を天秤にかけてみると、暴れる生存本能とは裏腹に、理性が簡単に覚悟を決めてくれた。
客観的に見ると、物語としては美しいラストだ。この世界の物でない
まるで何事も無かったかのように、由依たちの日常が再開する。
綺麗に風呂敷の畳まれた、収まりの良い終幕だ。この
「……他に方法はある。きっとある。ミツキ、早まっちゃ駄目。私たちが敵対する理由は皆無」
詩乃が弱々しく言った。彼女の言い分は正しいかもしれない。俺だって、詩乃たちの心に傷を残したくないし、できることならまだ死にたくはない。
しかし、「全員が生き残れる
そのとき、俺は素晴らしいアイデアを思いついた。
「……今、まで、三人、を、異界に、飲み込んで、いた、のは、私の策略。そう。私が、黒幕」
迫力を示そうと、俺は触手を足にして、詩乃のキャンヴァスの足場に乗り上げた。
非の打ち所がないシナリオだ。衝撃のラスボス。勧善懲悪という後腐れないお別れ。俺の嘘を暴ける証拠は存在せず、三人は、俺の言葉を信じざるを得ない。
「……どう、した? これが、正真正銘、の、最後。巨悪を、倒して、ハッピー、エンド」
詩乃と琴音は、痛ましいものを見たかのような、哀しい目を俺に向ける。……しまった。大人として俺は倒される、と言ったのに、内心で「ラスボス」だなんて子供っぽい言葉を使ってしまった。いいんだよ、大人にも幼稚な所があっても! 重要な所さえキチッとしていれば、それは誤魔化すことができる。諸君、年長者のアドバイスだぞ。しっかり心に留めておくように。
誰も笑わない。誰もが暗い顔をする。こんな空気は嫌いだった。
「ねえ、みんな。武器、を、構えて」
その力無く垂れ下がった手に、怒りを宿してくれ。俺を憎んで、嫌って、殺してくれ。
「あ! そうだ、私、いや、俺、男なんだ。今、まで、騙して、いたんだよ。何故、って? 役得、だから、さ。みんな、俺のこと、女の子、だって、思ってる、もんな。下卑た、欲望、を、満たさせて、もらったよ」
精一杯、下品に笑う。敵だ。俺は倒すべき
ああ、この子たちは筋金入りの甘ちゃんだから、こんな大悪党にも、情けをかけるかもしれない。じゃあせめて忘れてくれ。君たちは、俺を忘れて日常へ帰らなくちゃいけない。
詩乃と琴音は依然立ち尽くしている。俺の思いは届かない。これじゃあ本当に道化じゃないか。ならば、せめて笑ってくれないか。せめて滑稽だと、笑い飛ばしてくれないか。
突然の足音が沈黙を破った。彼女らの行動を待っていたはずなのに、俺はその事に動揺する。
「——ミツキ」
由依が私の名を呼ぶ。凪いだ湖に石を投げたように、沈黙が揺らぐ。空気が揺れる。
「『帰る』って言ったから、私、すっごく頑張って諦めたんだよ? ミツキの世界が、ミツキを待ってるだろうって思ったから、私、悲しいのを我慢して笑ったんだ」
どくん、と心臓が跳ねる。罪悪感だと思った。でも違う。俯いた由依の表情を読み取れない。由依は触れようとしている。俺に。私に。
「『私を倒して終わり』? ねぇミツキ、本気で言ってる?」
明確な怒りを感じた。目を逸らしても、その感情から逃げられない。悲鳴のように、私は言葉を重ねる。
「由依。戻るだけ、なんだ。私……俺、がいなくなって、も、由依たちは、何も、変わらない。君の世界、は、変わらないんだ。なのに、俺が、由依を、変えて、しまった。だから由依。君は、戻って、いいんだ。日常、に、戻らなくちゃ、いけない」
俺は琴音を変えることができた。同時に、私は由依を変えてしまった。君はそのままでいい。そのままでよかった。
「自惚れないで」
一歩、由依が私に近づいた。足は止まらない。俺はその行手を阻むため、由依のまわりに触手を打ちつける。由依は止まらない。まるで、その触手が自分に当たらないことを分かっているかのように。
私は覚悟を決めて、由依に触手を当てようとした。振り払われる触手。由依は絵筆を軽く振るう。触手は弾き飛ばされて、俺の体がバランスを崩しただけだった。
「ミツキ。貴女が私を変えたんじゃない」
由依の目は、強い覚悟に染まっていた。私はその目に射止められる。
「私が変わったの」
ばん、と、由依は私の背後の木を叩いた。気づけば俺の足は、キャンヴァスでなく土を踏んでいる。彼女の圧に押されて、私たちは川から脱していた。
「あ——え、わた、私は、」
何を話しているのかも分からずに、私は喘ぐように声を出す。
不意に、由依の表情がやわらかく崩れた。にっこりと笑顔を作る由依の顔。私は目を奪われた。もう目を逸らすことはできなかった。
「私ね、異界に入るときに決めたんだ」
黒い革のチョーカー。由依はそれを引っ掴む。首が締まる。息が詰まる。由依は、やさしい顔に、こわい目を、強くて深い想いがいっぱいに込められた瞳を向けて、
「『許さない』って」
私の唇に、自分の唇を重ねた。
「〜〜〜っ!?!?」
ぬるりと侵入してきた舌が、俺の歯をなぞる。たまらず開いた口内に、由依は容赦なく攻め入った。ぢゅ、と唾液を吸われる。吸い取られるように由依の口の中へ導かれた私の舌。
由依はそれを、
「ん″ん″ん″っ!?♡」
噛みちぎるほど強く噛んだ。由依の歯が俺の舌に突き刺さる感覚、突然の
鉄の味と、自分のものではない唾液の味が混ざり合う。由依の歯は万力のように閉じられたままで、じくじくと疼く舌はいっこうに解放されない。痛い。気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。
由依は私の両耳を、自分の手で塞いだ。脳内で、ぐちゃぐちゃと濡れた音が大きく反響する。頭がおかしくなりそうだった。
ぼとり、と、私の体が地に落ちる。私と由依の口を繋いでいた透明な糸が、名残惜しそうに落橋した。
由依は爛々と光る目で、私をじっと見下ろしていた。その瞳に捉えられるだけで、脳に、舌に、お腹に、痺れるような快感が走って全身の力が抜ける。負けた。私の体は、心は、完全に彼女に敗北した。
私の目の前、何もない空間にヒビが入る。何かが割れる音と共に、眼前に光の穴ができた。異界が崩壊する合図。
その穴は瞬く間に体積を増大させて、私たちを飲み込んだ。
次回、最終話です