文化祭は、大賑わいを見せていた。展示や企画を行う教室からあふれ出た人々が、廊下に広がっている。彼らは豪華な白いドレスを見にまとった私を見て、驚いたりだとか、
私はその視線に顔を赤くしながらも、端に隠れておくことはできない。着替えることもできない。
由依が、私の手を引いているからだ。
「気になるところ、どんどん入っていこっか」
由依の口が軽やかに動いて、私に言葉をかけている。わずかに見える口内、舌。わっと顔に熱が
こくりと頷く。私にはそうすることしか出来ない。私の口の中には、じくじくと鉄の味が広がったままだ。
「ここ、化学部だって。詩乃いるかな……」
返事も聞かずに、由依は私の手を掴んだまま実験室に入る。
やっぱり足はうまく動かない。竹馬に乗っている時のような感覚で、ひたすらに不安定だ。上手く歩けているかさえ自覚できなかった。
「あ、由依……と、ミツキ」
「やっほー」
自分たちで金属を調合しオリジナルの炎色を作る展示。詩乃は黒い机の前で、夢中に議論する子どもたちを見守っていた。
近くにいた部員に断って、詩乃がこちらへ向かってくる。
「盛況だねー」
「うん、ありがたい。特に小中学生が興味を持ってくれるのは、私にとって嬉しい誤算。日本の未来は明るい」
「ふふ、大げさ。でもあの子たち、詩乃の将来の後輩かもね」
雑談の後、詩乃は由依の手に捕まっている俺を見下ろした。
「…ミツキ。由依から詳しく聞いたんだけど。男の人って本当なの」
俺は頷いた。詩乃はじとっとした目を俺に向けて、
ぴし。
「あぅ」
俺のおでこを弾いた。
「また髪、切ってほしい。次は前髪だけじゃなく、全部。もちろん無料で」
額を片手で押さえる俺に、詩乃は少しだけ照れた表情で言った。
「それでチャラにする」
「!……あ
ぐい、と首のチョーカーが引っ張られる。「え゙ぅ」喉に快感がつっかえる。詩乃の目が驚愕に染まった。
「また来るね!」
由依は快活に笑い、私を無理やり引っ張って教室の外へ出た。
「次は琴音のとこ行こうよ!」
由依の指が私の口元に垂れた血を強引に拭う。荒い息を必死に整えながら、私はなんとか頷いた。
何度目かの美術室。由依がガラガラと引き戸を開ける。その瞬間、部屋を埋める
「うわぁ、すっごく混んでる。前に琴音、「人が少ないだろうから、休憩がてら遊びに来てほしいわ」なんて言ってたのに」
絵の具と溶き油の匂いを感じながら入室する。人混みの渦中にいるのは琴音だった。
私を連れ戻すために、琴音の『オフィーリア』は一度、台無しになったらしい。
異界を脱出してからの数十分。琴音は開場までの時間を使って、一度壊した『オフィーリア』の絵を、その扉型の傷を利用して新しい作品にリメイクしてしまった。
「ただの突貫工事よ」と苦笑していた琴音。謙遜に反して、そのリメイク作品には教室に入りきらないほどの客が詰めかけていた。
「ええと、これはもともと『ハムレット』を好きなシーンを四枚の絵で描く、というコンセプトだったのだけれど——」
琴音はかつてない忙しさに目を回している。由依は変わらず私の手を、自分の手のひらの中に閉じ込めながら、くすりと笑った。
「琴音の手が空くまで、他の作品見て待っとこうか」
私は嫌だった。でも由依の言葉を、私が拒否できる道理はなかった。
琴音の作品は『オフィーリア』以外の三枚も大人気。白い髭を生やした芸術家っぽい人も、彼女の作品と対面しては感嘆するように唸っていた。
とはいえ琴音の作品以外も力作揃いで、観客のいない作品は、現在一つもない。
壮年の男の人と熱い談義を交わす小柄な女生徒を傍目に、文字盤の歪んだ目覚まし時計の絵のわきを抜けた。
隣の壁にかけられていたキャンヴァスを見て、私はひゅっ、と呼吸を止めた。そう、私は、これを見たくなかったのだ。
扉ほどの大きさのキャンヴァスには、精巧な
私は気づいた。心の中の独白が、すべて「ミツキ」の声で聞こえる事に。それが異常なのか、当たり前のことなのか、分からない。私の思考は混濁している。俺は
「——とっても、とっても、つかれたわ……」
「お疲れ、琴音。大変だね」
密度を減らした人波を縫って、よろよろと姿を現した琴音。由依はいつのまにか購入していた紙パックのジュースを彼女に差し出す。琴音はぱっと顔を明るくして、由依からジュースを受け取った。
「異界に入る前の約束、こんなにすぐ果たしてくれるなんてびっくりしたよ。扉型の傷が活きてて、むしろこの表現を制作の最初から狙ってたみたい」
新たな作品へと昇華を果たした、琴音の傑作。
絵の具が剥がれたオフィーリアの髪の部分は、綺麗で長い黒髪に。オフィーリアの手や髪の毛の一部が、扉型に切り取った部分の隙間から、こちら側の世界へ飛び出そうとしているように描かれている。
現実と絵の世界の境界が曖昧になったような絵は、たしかに言葉にできないほど美しかった。
由依の称賛に琴音はふふん、と胸を張り、
「これはまだ序章よ。わたし、これからもずっと、自分が大好きな絵を描き続けるから」
琴音は由依の後ろに控える俺に気づくと、視線を合わせるために少し
「こうしてまた会えて、本当にうれしいわ」
微塵の
琴音はいつものように俺の頭を撫でまわし、「あら」と思い出したように、その手を止めた。
「ミツキちゃん、男の人だったのよね。こうして撫でるのはよくないかしら」
もう片方の手で人差し指をたてて、琴音は口元にその指をあてる。少し考えたあと、吹っ切れたように撫で撫でを再開した。
「わたしにとって、ミツキちゃんは、ミツキちゃんだもの。いいわよね?」
ぶんぶんと頷く。すべて許された、と思えるほど、俺は図々しくなれない。でも琴音の優しさは、全身の力を預けてしまいそうな包容力があった。きっと償う。同時に、彼女のほんわかした笑顔に甘えたい。それもまた本音だった。
また由依が私の首輪を引っ張る。仰せのままに、私は由依に付き従って琴音に「またね」の挨拶をした。
「ミツキ」
私の手を引いて廊下を歩きながら、こちらも見ずに由依は名前を呼ぶ。
「あなたは誰?」
由依は、先ほどと同じ質問をする。
何を言えばいいのか、分からなかった。俯いた私に、由依はもう一度同じ言葉を繰り返す。「あなたは誰?」本当は何を言えばいいのか分かっているような気がした。
「由依、おはよー! あ、ミツキちゃん!久しぶ……り?」
体育の授業や体育祭の時に会ったお団子髪の少女が、私たちに気づいて手を振る。彼女は私の顔を、姿を見た瞬間、頬をボッと赤く染めて、手を上げたポーズのまま硬直した。
由依は彫刻と化した友人にハイタッチだけをして、彼女のわきを通り過ぎる。
「…?」
お団子髪少女の態度に困惑する。由依の足は階段の方へ向いた。突き当たりに大きな鏡があって、そこに写る自分と、私は目を合わせる。
「———っ」
赤く染まった頬。だらしなく潤んだ瞳は、とろんとしていて焦点が定まらない。今の今まで気づかなかった。由依の手は、私の手と恋人繋ぎをしている。
足の上がらない私を半ば抱えるようにして、由依は階段を上る。上る。立ち入り禁止のテープの傍を超えて、上る。最上階と屋上へ続く扉の狭間へ。
「ミツキ」
踊り場には、私たち以外に誰もいなかった。
「あなたは誰?」
俺は、大人でなくてはならなかった。由依を日常に返さなくてはならなかった。
「俺、は」
「違うでしょ」
ぱん、と軽く、由依が私の頬を叩く。甘い感覚にめまいがした。
「私たちを守る貴方は、『オフィーリア』として死んだ。元の世界に帰る事を、貴方は選ばなかった」
「……ちがう。ちがう」
いやいやと、俺は首を振る。もう隠せない。抑えられない。それは否定のふりをした、おねだりだった。
由依はにっこり笑って、ポケットから何かを取り出す。タバコだった。私があの夜吸いかけで消した、半分ほどが残っているタバコ。
由依はライターでそのタバコに火をつける。しけっていたのか、そのタバコはぶすぶすと、燻った煙を小さく出した。
一口吸って、「……まっず」ぺっぺっ、と、由依は舌を出す。
タバコの先が炭のように赤く光っている。由依は私を見下ろして、言った。
「あなたは誰?」
「——私、」
言葉が喉でつっかえる。最後の警鐘だった。頭がガンガンと痛む。それさえも、もう快感にしか感じなかった。
「私は、ミツキ。由依の
突然、由依が私の口に手を突っ込む。舌を掴んで、ぐいと引っ張った。
もう片方の手に燃えるタバコを持ったまま、由依はにっこりと、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべて、
「よくできました」
その燻る赤色を、俺の舌に押し付けた。
「———え″え″あ″っっっ♡!♡??!!♡」
じゅうじゅうと焼ける熱さが、噛み跡が生傷として残る舌に深く染み渡る。痛みが脳天を駆け巡る。快感。快感。点滅する視界。嬌声。身体まで広がる。快感。唾液濡れになったタバコが踊り場の床に落ちる。ピンぼけする視界。ピンボールカメラみたいに狭くなる視界。
由依は強引に、私の顔を自分の方へ向けた。「ミツキ」彼女の声を聞くだけで心が
由依は私を、心底愛おしそうに抱きしめた。
「好きだよ」
私はもう、駄目かもしれない。