今日もまた、4時間に及ぶ事情聴取が終わった。学校帰りに直行したためか、座りっぱなしの体は激しい悲鳴をあげている。凝り固まった腰をぐっと伸ばして由依は独り帰路につく。ふと激しい喉の渇きを自覚して、カバンから水筒を取り出す。
蓋を取った瞬間、
「ひっ」
飲み口で蜘蛛の死骸と目が合った。
驚きから水筒を落としてしまう。プラスチック製の安っぽい容器が、地面との衝突で勢いよく割れた。
水浸しになったアスファルトを由依は呆然と見つめる。蜘蛛の足は無惨にもばらばらに外れて、それはまさしく死体だった。
道ゆく人が自分をちらちらと見ていることに気づいて、由依は割れた水筒をカバンにしまう。
視界は涙でぐちゃぐちゃだった。
詩乃は私を庇って死んだ。頭を食いちぎられて死んだ。
詩乃を殺した怪物は、私が殺した。いつのまにか握っていた身長ほどもある絵筆を叩きつけていたら、やがて怪物は地面の染みになった。
怪物が死ぬと、しばらくして元の世界に帰ってこれた。それでも詩乃の首無しの体はぴくりとも動かなくて、生き返るなんてことは決して無かった。
『人殺し』
何回言われたことだろう。不思議な世界に迷い込んで怪物に殺されたなんて、信じる方が馬鹿だろう。
この世界では男も女も16歳で成人である。
高校生である由依は、もはや責任能力の無い子供として扱われない。証拠は皆無であった。それでも由依は警察から「被疑者」として取り調べを受けることになった。詩乃との関係、詩乃の死の経緯、詩乃への恨みの有無。
何度嘔吐したか分からない。何度顔を泣き腫らしたか分からない。由依が顔を俯かせるたびに、警官は優しく「本当のことを言ってくれ」と圧した。
登校すると、詩乃の席に花が生けてあった。詩乃の好きだったペチュニアが一輪。目の前が真っ白になった。
自分の席まで歩くと、周りの机が由依の机と微妙に距離を離していることに気づく。机の端にカッターナイフで、『人殺し』と彫ってあった。目の前が真っ暗になった。
「由依」
耳元で詩乃の声がする。その声は由依を恨んでいない。架空の優しさは自分の妄想が作ったものだ。
「由依」
確かに私は『人殺し』だ。私は結局、あの怪物を殺すことができたのだ。それなのに私は詩乃が殺されるのを震えて見ていただけだった。
怪物が、ぎょろりと剥いた目で、詩乃をまじまじと見つめて、「逃げて」と叫ぼうとした詩乃に、大口を開けて、その歯並びの悪い歯で、
「由依っ!」
「!!!」
飛び起きた勢いで椅子から転げ落ちそうになる。咄嗟に机を持って重力に逆らい、絶妙な姿勢でなんとか転倒を回避した。
「…相変わらずの無駄に優れた体幹」
そんな由依を、詩乃は呆れた目で見下ろしている。当然のように五体満足の彼女を捉えて、由依は目を
「由依が居眠りなんて珍しい。それに今の反応。怖い夢でも見た?」
首を傾げる詩乃の瞳はむしろ自分よりも眠たげだ。彼女の疑問に従ってさっきの記憶を掘り起こそうとするけれど。
「…忘れちゃった。でも、やけにリアルな夢だった気がするんだよね」
「所詮夢だし、覚えてないなら気にしなくていいんじゃない」
「うーん…」
顎に手を置いてポーズを取ってみるも、一度目覚めてしまえば頭を占めるのは別のこと。
「…ミツキの夢、だったりして」
「!」
胸の内を読んだような詩乃の言葉。驚いて彼女に顔を向けると、思い悩んだ暗い顔と鉢合わせた。由依の心にも不安が湧き上がって、思考はどんどん後ろ向きへ。
謎の少女———ミツキと出会い、そして不本意な別れをしてから。由依たちは一週間近く、少女の手がかりを見つけられずにいた。
「…また、お腹空かせてないかな」
脳裏に鮮明に浮かぶのは、ミツキが食事に飛びつく姿。
……おい、しい。
何も特別な食事ではない。それでも一口食べただけで、傷だらけの少女はぼろぼろと涙をこぼした。小さな手でお椀を傾けるミツキの姿は、まるで数日ぶりに食事にありつけた傷ましい幼子そのもの。
(…いや、)
きっとそれは比喩ではないのだろう。折れそうな程に痩せ細った、軽くて脆い身体が思い出される。
胸が強く締め付けられた。
「素人目でも分かる栄養失調に、見たことない程のひどい怪我。一瞬しか見れなかったけど、立つことさえ難しい状態だったと思う」
「…どうして、あそこまで小さな子が酷い目に」
「普通に考えれば、虐待やいじめとかの犯罪絡み。でも、ミツキに限っては———」
「「怪物」」
詩乃の声に重ねるように由依は言った。詩乃の視線は自己の発言を疑うように揺れている。自分も全く同じ気持ちだった。
まだ夢だったんじゃないかと疑っている、暗雲と岩だけの世界。そこで見つけた怪物の死に姿。怪物の口から垂れるは、きっとミツキの体の肉。
「応急処置した時、ミツキの胸がえぐられたみたいに怪我してて……ぅ」
思い出してまた気分が悪くなる。口を押さえた由依の様子に、詩乃は慌てて彼女の背中を撫でた。
「ごめん詩乃。もう大丈夫」
「…由依がそうなるくらいの、酷い怪我だったんだ。しかもミツキは怪物のことを知っていたんだよね」
『わたしにまかせて』と、弱々しい胸を精一杯張って、傷だらけの少女は由依に言った。
使命のように。
義務のように。
由依は確信している。あの子はあらゆる苦痛を全て自分だけで抱え込もうとしている、と。「はいそうですか」と見捨てられるわけが無かった。
しかし現状、ミツキの抱える秘密も異界に対する情報も皆目わからない状況だ。そもそも彼女の居場所さえも不明なのだから、八方塞がりもいいところ。
由依は深く肩を落とす。そうしてがら空きになった背中に、つつ、と指が触れる感触がした。
「おふたりさん。どうしてそんなに落ち込んでるのかしら?」
「…
声をかけてきたのは同じクラスの友人。見るからに元気の無い由依たちを眺めて、心配そうに眉を落としている。
相談してしまいたいという欲求が由依の中に湧いた。しかし理性は働いて、判断を仰ぐように詩乃の方へ視線を向ける。詩乃もまた難しい顔で黙っていた。
荒唐無稽な体験談に、正体不明の少女の行方。もし自分が話を聞く側ならば絶対に信じないであろう内容。それを何も知らない琴音に話していいものなのか。
「無理には聞かないけれど、助けが必要なら言ってほしいわ。ほら、三人よれば文殊の知恵って言うでしょう?」
返答を迷う二人を前に、琴音は困ったように人差し指を立てる。
一理あると思った。ここ一週間、放課後は部活を休んで詩乃と一緒にミツキを探し回っている。しかし一向に手がかりは得られず、写真も彼女の私物も無い状況では、警察も由依の話を真剣に聞いてくれない。
「…そうだね」
このままでは埒が開かない。そう思ったのは詩乃も同じだったようで、互いに頷きあってから琴音に向き直り、
「あれ?」
ふと、窓の外に見慣れない物を見つけた。
「どうしたの?」
「あそこに飛んでる真っ黒の飛行機。変じゃない?」
由依の言葉に従って琴音は振り向く。思わぬ近さに驚いて、琴音は「わぁ」と感嘆とも驚愕とも取れない声をあげた。
窓を開けて空を見上げた。たとえ近隣を航空機が飛んでいたとて普段は気にもかけない。しかし、由依は不思議とその黒から目を離せなかった。
しかしその異様にも関わらず、周囲のクラスメイトは誰一人として航空機に注目するものはいない。私たちだけが見えてるんじゃないか、なんてあり得ない想像をしてしまう。
「おかしい」
「だよね。なんで皆あれを無視してるんだろう」
「それもだけど」
由依に続いて窓から身を乗り出した詩乃が眉間に皺を寄せて言う。
「あの機体との距離はかなり近い。じゃあなんで、全く音がしないんだろう」
「あ。確かに」
言われてみれば、その飛行機は不気味な程に静かに飛んでいる。今度は違和感を探すように観察する。形や大きさなど、見れば見るほど変な点が多い。しばらく眺めていると、真っ黒な航空機は何かを落とした。
「え?」
向かう先は、眼前に広がるグラウンド。そこでは他のクラスの生徒が体操服姿で授業の開始を待っている。
事故。嫌な予想が脳裏をよぎる。その間も細長い何かは地面との距離をぐんぐん縮め、衝突までは秒読みになる。
危ない———そう叫ぼうとした瞬間。
突然由依の視界は真っ赤に染まって、そのまま意識は刈り取られた。
ーー
「逃げて——ッ!」
跳ね起きる。広がった光景に由依は面食らった。
雲一つ無い青空。その下では西洋風の石レンガの建物が立ち並び、穏やかな日差しが心地よく降り注いでいる。
「起きた?」
耳を打つ声に顔を向けると、そこには詩乃が立っている。既視感しか感じない経験に、由依の背筋が凍りついた。
「ここって、もしかして」
「うん。多分、あの変な世界」
詩乃の顔も同様に真っ青だ。脳裏を駆け巡るは、岩だらけの世界で見つけた巨大な「怪物」の死体。
…あれは、由依、たちを襲う、危険、な、もの。
ミツキの言葉が蘇る。じわり、じわりと嫌な予感が心を埋めていき、由依は詩乃と顔を見合わせることしかできない。
「ここはいったい、どこかしら?」
「っ!?」
予想外の声に、二人は肩を激しく跳ねさせる。
「今の会話…ふたりとも、何か知ってるの?」
振り向いた先で琴音が首を傾げていた。何でここに。反射的に尋ねそうになるが、それは琴音の台詞だろうと思い直す。自分たちがこの異界に迷い込んだ理由も分からないのだから当然だ。
こうなってしまえば隠す意味も無い。前回の経験を洗いざらい吐こうと由依が口を開こうとした時、琴音はおもむろに由依の背後を指差した。
「あの子は、由依たちの知り合い?」
「「えっ」」
指の向けられた先。隠れることに失敗したと言うよりは、偶然鉢合わせたかのような。呆然とした表情で立ち尽くし、こちらを眺めている長い黒髪の少女。
ミツキは、一週間前と変わらない包帯姿で冷や汗を流していた。
「まじ、か」