人々の悲鳴、炎が立ち昇る音、建物が崩れ落ちる音。
地獄の中心で、二人の少女が無我夢中に走っていた。
「由依、由依?ここはどこなの?なんで周りで爆発が?…怖い、こわいわ」
「黙って走って!!」
「ひっ」
「死にたくないでしょッ!?」
燃えさかる家を傍目に琴音の手を引いて走る。一歩進むごとに、押し潰されそうな恐怖で足がますます重くなる。
ここが
詩乃が死んで以来、自分も彼女を追いたいと本気で考えていた。しかしいざ明確な死を前にすると、由依の心を埋めるのは
(そ、そうだあの絵筆なら)
ブラウスのポケットから目当ての絵筆を見つけ出し、縋るように両手で握る。
「あれ、え?なんで」
しかし絵筆は光らない。いつまで経ってもただの小さな筆のままで、由依の体には少しの力も湧いてこなかった。
「急に立ち止まってどうしたの?」
「…だめだ」
「由依?」
怪物を倒すにしても、逃げるにしても、絵筆の不思議な力が無いと不可能だ。琴音の疑問も耳に届かず、その場にへたり込む。瞬間、
巨大な斧が、由依たちの真横の家を真っ二つに叩き割った。
…うげ、嫌なこと思い出した。
展開を把握するのは大事だ。だが詩乃の死を回避して俺と合流できている現状、起こり得ない嫌な展開を回想するのは気分を落とすことにしかならない。
余計なことは考えないようにしよう。ただでさえ、町の様子は地獄なのだから。
「ミツキ?」
数度目の呼びかけでハッとする。そうだ、今の俺は「ミツキ」だった。声の主に顔を向けると、由依が不安そうに俺の顔を覗き込んでいる。その手はかたかたと震えていた。
由依は強い意志で「手伝う」と言ったし、俺もその本気にあてられた。そうはいってもやはり、未知の異界や怪物が怖いのは当然だろう。
安心させるように由依の手を握った。ぎゅっと握り返された。彼女の手の震えが止まる。顔に少女らしからぬ覚悟が宿る。……いや、これ多分庇護対象と見なされてるな。
「きっと大丈夫だよ。ミツキをこれ以上傷つかせない」
これ絶対庇護対象と見なされてるな。
微妙な気持ちには蓋をして頷きを返す。爆撃の音はピークの時に比べてかなりマシになっていた。
「…それに、しても。詩乃の武器、に、こんな力が、あるとは、知らな、かった」
「早速役に立てて良かった。この「守る力」、すごく私に合ってる」
そう言って口角を上げる詩乃。案の定、彼女は武器の顕現を容易に成功させた。詩乃が作り上げた簡易的な防護壁は爆風をしっかりシャットアウトしてくれており、非常に頼もしい。彼女の武器であるキャンバスは大きさによって設置型、持ち運び型の両方に使える盾となるようだ。
「私だけ大きくできなくて、肩身が狭いわ。ミツキちゃん。私、足手まといにならないかしら?」
琴音が不安げに困り眉を作る。まあ無理もない。由依と詩乃がいとも容易に武器を顕現させたのだから、できない自分は劣ってる、と思ってしまうのは必然ともいえる。
しかし違うのだ。
「この、二人が、おかしいだけ。普通は、こんな簡単に、出ない」
武器を使うためには、混じり気の無い強い気持ちを宿さなければならない。だが純粋な感情を持つ、というのは案外難しい。自分では一心に思っているつもりでも、人は色々なことを散発的に考えてしまうものである。余計なことを考えるのがもはや癖と化している俺なんかまだ一回しか武器を出せていないんだから。まあ、
「おかしいって…酷いよミツキ、私がヘンな人みたいじゃん!」
「褒めてる、褒めてる」
「なんかあしらおうとしてない?」
「…してない」
「今の間は何?」
良い傾向だ。由依にほっぺをつままれながら思う。
「怪物による幻影のようなものだ」、と事前に念押ししていたおかげか、キャンバスの向かいで響く悲鳴にも爆発音にも彼女たちは強く心を惑わされていない。
メァナスは美装少女たちの恐怖と絶望を煽るような行動をする。そうして膨らんだ
ぞわり。
「!」
突如、全身が粟立つ不快感に包まれた。三人もその異様な感覚を味わっていたようで、途端に額に脂汗を滲ませている。耳を澄ませた。爆撃の音はすでに止んでいて、ずぅんと重い足音は、怪物がすぐそばに居るかのように錯覚させる。『ゲルニカ』の本体のお出ましだ。
「ここ、からが、本番。約束して。ちょっとでも、危ない、と、思ったら、すぐ、逃げること」
うなずき方が曖昧なのが気にかかった。
◇
先ほどミツキと由依が遭遇した広場。
四メートルの体躯が悠然と地を踏んでいる。手にはその恵体にも余りある巨大な戦斧を据え、獲物を待つようにたたずむ。頭部は、鋭い両角をすっくと伸ばした牡牛であった。
やがてその怪物の前に、贄が一人現れる。長い黒髪を携えた包帯姿の弱々しい少女。
牡牛は斧を振り上げる。しかし一撃の下に仕留めるのでは無い。たとえ少女が怯えて動けなくとも、すぐに殺すことはしない。まるでやすりで磨き上げるように。丹念に攻めて獲物の恐怖をじっくりと熟成させるのだ。
牡牛の予想に反し、黒髪の少女は弾かれたように此方に背を向けて走り出した。
がら空きの背中を追いかける。逃げる少女の足取りは、走っているとは言えないほどに遅く、ふらついている。それでも逃げに徹する少女の動きは羽虫のように捉え難く、重い戦斧とは相性が悪い。
ならば攻撃の手段を変えてしまおう。牡牛は斧を地面に置いた。
「今」
黒髪の少女がぽつりと呟く。
瞬間。がら空きになった牡牛の背後を、巨大な絵筆が横一文字にえぐった。
「——由依、こっち!」
爆撃を逃れた数少ない建物の屋根の上で詩乃が叫ぶ。屋根から地面まで立てかけられた大きなキャンバスを
「ひぇ。あんな腕に殴られたらひとたまりも無いや」
「一発食らったら終わり、くらいで考えないと。ミツキの言った通り慎重に攻めていこう」
二人揃って屋根から反対側に飛び降りる。ミノタウロスは突然の奇襲に苛立ちを見せ、荒々しい咆哮を上げた。
「二人とも、いい感じ」
事前に隠れ場所に決めていた建物の裏まで移動して、一息ついている由依たちに歩み寄る黒髪の少女。俺である。
「ミノタウロス、は、私たちを、見失って、いる時、あの場所、から、動か、ない。ひっと、あんど、あうぇいで、行こう」
俺が囮をしてミノタウロスを引きつけるから、後ろから攻撃を入れてほしい。
由依たちに頼んだ事である。由依の持つ絵筆でミノタウロスを不意打ちし、詩乃のキャンバスで避難及び防御。
さすがは物語の主人公といった所か、彼女らは強い意志で恐怖を抑え、その役割を全うしてくれている。作戦がちゃんと機能していてややテンションが上がっている俺に対し、由依は一言。
「ミツキは大丈夫だった?」
「!」
心配を隠そうともしない顔。素直に驚いた。この命を賭けた極限状態でなお、彼女の視線は
確かに俺はヘイトを一身に受け止める囮役を担っている。が、直接攻撃を加える役割の由依も俺に劣らない危険を孕んでいるのだ。
あまり気にするな、自分の心配をしろ、ありがとう。
いろんな返事が頭に浮かんだ。
でも彼女の揺れる瞳を見て、本当に心配してくれてんだな、と気づいて、つい俺は由依の頭に手を置いた。
「ミ、ミツキ?」
「ちょっと、だけ。撫でさせて」
その年齢に似合わない利他の心が、背伸びしたような気高さが、俺にはひどく微笑ましく思えたのだ。
突拍子も無い行動に、由依は困惑して俺の顔をうかがっている。この子が子供なんだって思い出せた。
彼女たちを怪物なんかに傷付かせてやるものか、と再び意志を固めて立ち上がり、
赤子を抱いた女と目が合った。
「ッ!?!?」
本能的に飛び退いて距離を取った。首をあらぬ方向へ曲げている赤子の体、女のやるせない歪んだ表情。とてつもない密度の感情が込められている気がして、俺は間違いなく怯えを抱いた。由依たちは驚いて
危機感が警鐘を鳴らしていた。
「うしろ———」
「ZergaAAAAAAAAAAAAtik!?!?!?!?!?!?」
絶叫が耳をつんざく。耳鳴りがする。体の平衡感覚が失われる。
ふらつく体を必死に持ち堪えて焦っていた。
なんだこいつは。原作での脅威は空襲とミノタウロスだけのはずだ。予想外の不意打ちを、こちらも完全に喰らってしまった。三人とも耳を押さえてまだ立てない。しかし早く此処から離れないとまずい。あんな爆音を鳴らされたら、当然俺たちの隠れ場所はバレてしまったわけで。
眼前、すさまじい音を鳴らして建物が
…そろそろ俺は、隠れるのが下手だと認めたほうがいいかもしれない。現実逃避しながらやけくそ気味に見上げる。
たった今、家を一棟両断した戦斧が、ミノタウロスによって再び担がれた。
「…攻撃は、まず、俺、からにして、くれない?」
最悪だ。女が絶叫する前に、俺は短い距離ながらも飛び退いた。退いてしまった。その結果、俺だけがミノタウロスから距離を取った。ミノタウロスの視線の先は俺ではない。まだ耳をつんざく叫びのダメージから回復せず、怪物の目の前で動けない三人の少女。
この状況でなお、由依は強かった。半ば身体を引きずりながら、脅威の最も近くにいる友人———琴音の前へ移動する。
膝立ちをして、琴音を守るように絵筆を構えた。
「!!!」
俺は駆け出していた。
危ないと思ったら逃げろって言ったのにこの子は!ああそうだ、この子が友人を見捨てる訳がない。でも今それは重要じゃない。真っ直ぐに走れない事もどうでもいい。それよりも、
俺はこの情景を知っている。
では、友を守ろうとする少女を最も絶望させるには?
「あっぐ!?」
由依がミノタウロスの手によって
「あぶ、な—————」
全く同時に琴音を体当たりで押し飛ばした。重すぎるはずの巨大な斧が、軽々と紙細工のごとく俺の身体を裂く。
「ミツキッッ!!」
勢いは衰えず、慣性に負けて俺は真横にぶっ飛んだ。
…今、おれ気絶してた?いやいや、だいじょうぶ、多分一瞬のことだ。まさか由依の行動からミノタウロスの攻撃まで、原作と同じ展開が来るとは思ってなかった。でも、なんとかまにあった。斧は背中に食らった。体感、背骨まで刃が入った感じで、あの武器やっぱりエグかったんだと実感。疼く。痛い。呼吸するだけで、いや、何もしてなくても痛い。痛いだけじゃなくて熱い。いや、冷たいかもしれない。疼く。分からない。思考がぼやける。どうしよう。どうしようも無く、
「…これ、や、ばぁ♡」
気持ち良い。