「トレーナーさん、髪、伸びましたね?」
「え?ああ、まあ、確かに?」
キーボードを叩く手を止めて、代わりに前髪をひと房、指先でつまんでみる。彼女の……メジロアルダンの言う通り、もう間もなく鼻先まで届きそうな程に伸びた焦げ茶色の束が、ぼやけながら瞳に映った。
「そろそろ整えにいった方がよろしいのではないですか?ほら、もう本格的に暑くなってきましたし、思い切ってさっぱりとイメージチェンジしてみたりなんて、いかがです?」
「そうだなあ……でも今は、主治医さんに送る夏合宿の計画書をもっと詰めないと……」
「あら?それは昨日もう送ったのでは?」
「草案は、ね?もっともっと練りこめる所はあるはずだから、まだまだ気は抜けないよ」
「あらあら……」
軽くみぞおちを擦りながら、僕は再びパソコンの画面に目を移した。とにかく、アルダンを夏合宿へと連れていくこと、そのためにメジロ家の主治医さんを説得すること、それが今の僕にとっての、最優先事項なのだ。
……まあ、それはそれとして。
「それはそれとして、美容室自体がそもそも苦手なんだよなあ……」
「あら?それはどうして?」
「気まずいじゃない?カット中に美容師さんと話してないとさ。でも仕事の話を外でベラベラするのはよろしくないし、かといって他に話せるようなこともないし……」
「そうなのですか?ふふ、私はつい話に花を咲かせすぎてしまって、毎回気づいたら終わってしまってますけれども?」
「ほんと、やっぱり流石だなあ、アルダンは……」
そりゃもちろん、アルダンのような相手であればいくらだって話していられるだろうが……なかなかそうはいかないのが世の常である。
とはいえ、もちろん身だしなみを整えること自体は、円滑な人間関係を築く上で何よりも大切だ。ということくらい僕にだって分かる。なおかつ曲がりなりにも、あのメジロアルダンのトレーナーを勤めているのであるのだから、その意識は他人の更に数段高く持ち続けなければならない。僕の個人的な好き嫌いごときで、僅かでも彼女に恥をかかせる訳には、いかないのだ。
「もちろん、夏合宿前までには……いや、そうだな、この作業が終わればすぐにでも整えてくるよ。みっともない姿なんて、みんなにももちろんだけど、なにより君にだけは見せたくないからね」
「ええ、とっても楽しみにしてま……あ……」
「……アルダン?」
相変わらず饒舌に話すアルダン。であったが、突如突然、その口が止まってしまう。なんだか彼女の頭の上、小さな豆電球が見えた気がして、僕はしばし、目をはためかせるのだった。
──────────────
「ええと、アルダン、ほんとにここ……で、合ってる?」
「ええ、間違いありません♪」
そんな他愛もない会話を繰り広げた、翌日のこと。僕はアルダンに連れられて学園から徒歩20分、なんだかすごく高級そうな住宅街の一角、これまたセレブリティ溢れる小さな店舗の前に二人並んで立っていた。
「私の遠戚が経営している美容室、本日は店休日なのですが、特別に場所をお貸し頂きました。普段なら二時間待ちはくだらないのですよ?」
「それはまた……気を使わせちゃってごめんね?」
「いえいえ、好きでやっている事なので♪」
なんとも末恐ろしい行動力。ではあるが、彼女のトレーナーになってからこれくらいのことは日常茶飯事なのだった。感謝の心と庶民感覚だけは見失わないように、アルダンとお店に対して、僕は深々と頭を下げる。
「ここまでしてくれたんなら、苦手だなんて口が裂けても言えないなあ……あれ?しかし場所はいいとして、美容師さんは?」
「そちらもご心配なく、間違いなく『信頼を置ける方』にお願いしておりますから」
「へえ、信頼を置ける方、かあ」
僕なんかより遥かに物の価値を分かっている彼女がそこまで言うとなると、きっと相当な腕利きなのだろう。
ますます後に引けない雰囲気ではあるのだが、まあ、この程度のこと慣れていかなければ、彼女のトレーナーなど勤まらないと言ったところか。精一杯の強がりを絞り出して、見よう見まねでニヒルな笑みを作ってみる。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな?」
「ふふ、その意気です♪さて、立ち話はこれくらいにして、早速入りましょう?」
彼女の自然な笑顔に誘われて、強ばった顔面のまま戸を開く。なんともゴージャスでファビュラスな香りに包まれた店内は、アルダンの言っていた通り貸切状態。人影のひとつも見当たらな……
「え、マジ?こんないいハサミ使っていいの?てかシャンプー種類すご!?これとかボトル一本ウン万するやつじゃん……やっぱメジロ家ってヤバいわ……」
「えっ」
……いや、いた。とてつもない存在感を発しながら独り言を呟く、金色に輝くかのような影が、ひとつ……
「ふふ、おまたせいたしました。もちろん今日は全てご自由にお使いいただいて、構いませんよ?」
「あ、きたきた、待ってましたよー?アルダン先輩、と……先輩の、トレーナー?」
絹糸のようなプラチナブロンドの髪を揺らめかせ、青みがかった澄んだ瞳でこちらを見据えてくる、一人のウマ娘。ひどく見覚えのあるその凛とした立ち姿に、眉間の皺もそのまま、僕は思わず間抜けな声を上げてしまう。
「ゴールド……シチー……?」
「ん、それじゃ、とっとと始めますんで、早くここ、座ってください?」
──────────────
「それで?今日はどんな感じにします?」
「えっ、えっ、えっ?」
「だいぶ伸びてるから結構色々出来そうだけど。夏だし、やっぱ軽い感じにします?ブロックとかいれたりして……」
「えっ、えっ、えっ、えっ?」
「…………アルダン先輩ぃー?」
「ふふ、申し訳ございません。トレーナーさんにはお伝えしていませんでしたね?」
わけも分からぬまま席に座らされ、クロスを被せられ、身動きも取れぬまま見目麗しい女学生に囲まれる。なんとも珍妙な昼下がり。内容とは裏腹なやたらと朗らかな声で、アルダンは続けて言葉を紡ぐ。
「昨日、トレーナーさんと美容室の話をしていた時に思い出したのです。シチーさんのことを」
「『一度でいいから、美容室とか本格的な環境でガチでカットしてみたい……』って言ったやつですよね?あんな雑談、よく覚えてましたね、ほんと?」
「ふふ、それで思いつきました。私と同じ、トレセン学園のウマ娘であるシチーさんがカットするのであれば、トレーナーさんも緊張せずに美容室に行けるのでは……と♪」
「えっ、えっ、えっ、えっ、えっ?」
「……なんか、逆効果みたいなんですけど?」
「うふふふふ……」
……とはいえ、大体の経緯は理解ができた。理解ができたし、なんというか、アルダンらしいなとも思えた。突拍子もない行動に見えて、それらは全て、何かに困っている他人のための行動。他人のために、他人を思う存分振り回す事が出来る、それがメジロアルダンというウマ娘なのである。
「一応言っとくと、アタシのことは気にしなくていいんで。てか、マジでこんないい環境でカットできんの願ったり叶ったりだし、男の人のカットすんのも学園じゃそうそう出来ないから、めちゃくちゃ勉強になるし、さ?」
「……そう?君がそう言ってくれるのなら、そうだね、お言葉に甘えさせてもらおうかな?」
「ん、りょーかい」
ゴールドシチー、アスリートとしての道と、ファッションモデルとしての道。二つの道を同時に突き進む彼女の生き様は、学園の中でもまさしく異端と言うべき存在であった。
けれども、確かに。彼女の言葉……口調こそ軽めに砕けた若者言葉だが、その奥には間違いなく実直で真摯で、純粋な、そんな精神が宿っているように思える。今だって、僕が気にして、引け目を感じていたことに対して、的確なフォローを差し込んでくれた。
きっと『自分が他人からどう見られているのか』に関しては、誰よりも鋭敏に察知してきたのであろう。その視野の広さ、感性の鋭さにはただただ舌を巻く他なかった。アルダンの言う通り、『信頼の置けるウマ娘』であるのは、間違いない。それだけは、確かなようだ。
「てなわけで、改めて、今日はどんな感じにします?」
「あっ、えっと……そう、だなぁ……」
「………………」
「……こう、なんというか。とにかく、その、なんだ、すっきりー、さっぱりー、しゃっきりー。みたいな、なんか、そういうあれを、なんか、お願い、したいんですけれども……」
「……おっけー、じゃ、全部すっきり丸坊主にさせてもらいますね?バリカンは2ミリぐらいでいいすか?」
「う、うそうそうそ!ちゃんと真面目に考えるから!」
気合いの入ったバリカンを目の前でブンブンと鳴らすシチーに急かされながら、必死に頭を捻らせる。
どんな髪型になりたいのか……なんて、生まれてこの方真面目に考えたこともなく、美容室では毎度適当に受け答えをしてそれっぽい感じに仕立てあげてもらっているくらいなのだが、どうやら今日はそういう訳にもいかないらしい。
「髪型……髪型……何がある?あんまり大胆に変えちゃうとなんだか浮いちゃいそうだし、かといって似たような髪型じゃやりがいもないだろうし……うーん?」
「熟考されているところ、失礼します、トレーナーさん?」
「アルダン?」
知恵熱が出そうな程考え込んでいた僕の後ろから、ひょっこりと顔を出したアルダン。やや至近距離に置かれたその小さく整った顔にしばし瞳を奪われる僕。をよそ目に、彼女は自身の携帯を手際よく操作して、その画面を僕とシチーに見せてくれた。
「こんなこともあろうかと、トレーナーさんに似合いそうな髪型をいくつか探してきたのです、これなんか、いかがでしょうか?」
「おお、これは確かに、なんかかっこいい気がする!」
「ふんふん、なるほど。確かにいいかも、ですね。これくらいなら余裕で出来ますよ?」
アルダンが見せてくれたのは、ファッション誌の切り抜き画像。男性モデルの凛々しい姿であった。なんとも腑抜け顔な僕に似合うかどうかは疑問だが、これはまさしく渡りに船。全力でアルダンに乗っからせていただくことにしよう。
「……ていうか、アルダン先輩ってそういうの趣味なんだ……なんか、意外かも……」
「……?何か、呼びましたか?」
「あ、いやいや、なんでもないですよ?そんじゃこれベースにそれっぽく似合う感じでやっていきますね?」
「よ、よろしくお願いします!」
早速、滑らかに櫛で整えてから、シチーは手際よく僕の髪にハサミを入れていく。素人目から見ても分かる、その手際の良さ。全く引っかかる所もなく、軽く、優しく扱われる僕の髪。噂には聞いていたが、まさかこれほどの腕前とは……思わず、感嘆の声を上げてしまいそうになる。
「………………」
「てか、え?思ってたよりめちゃくちゃ髪綺麗じゃね?なんか特別、ケアとかやってるんすか?」
「あら、私が先日お送りした、ヘアオイルのおかげでしょうか?私がいつも使っているものなのですが……きちんと使っていただけているのですね?」
「……え?先輩達なんか似た匂いだなって思ったら……そんなの送りあってたんすか?マジでどういう関係?」
「ふふ、シチーさんにもご紹介いたしましょうか?」
「気にはなりますけど、大丈夫です。アタシまで一緒の匂いになるのはちょっと、勘弁なんで……」
「ふふふ、そうですか?では他のものを……例えば、ブライトが使っているヘアオイルなんかも、とても良いものでしたね?」
「あ、それはめちゃめちゃ気になります!アタシも結構癖毛だから、他の娘がどうしてんのか色々知りたくって……」
「確かブライトは……ウマ・スチュアートのオイルを使ってましたね?ええと、どの種類だったかしら……」
「うわ、やっぱいいもん使ってるんすね……でもたしかに、あの人もめちゃくちゃ綺麗だしなぁ……そういえばアルダン先輩は……」
「………………」
あれ?なんだろう、今日めちゃくちゃ楽だ。
というか、そうか、なるほど。今日はアルダンとシチーで喋ってくれるから、僕が無理して話さなくていいのか。もしかして、アルダンはそれを見越して……だとするならば、また助けられちゃったなぁ……
「尻尾ですか?尻尾は昔から特注のトリートメントを使っているのですが、私も最近悩んでいるんですよね……」
「ああー、難しいですよね尻尾。すぐ湿気て膨らんじゃうし」
「尻尾についてはむしろ、シチーさんのお話を聞きたいですね?普段どうされているのですか?」
「アタシ?アタシは……そうだなあ……」
ショキショキと子気味いいハサミの音と、つつがない二人の会話模様が心地よい昼下がり。緊張で強ばっていた眉間の皺もすっかり取れて、なんなら少しずつ、うつらうつらと眠くさえなってきて……
ヴーッ……ヴーッ……ヴーッ……
「んっ?」
「電話?誰の携帯?」
「あ、私ですね?申し訳ございません、少し失礼します……」
「あっ、アルダ……ン……」
立ち上がって、軽く一礼してから、店の奥にスタスタと早足で歩いて行くアルダン。友達の多い彼女のことだから、こういったことは、よくあること、なの、だが……
「………………」
「………………」
出来れば、出来れば今だけは勘弁して欲しかったなあ……
「………………」
「……は、はは、アルダン、なんだか忙しそうだったね?」
「え、ああ、確かにそうっすね」
「はは、はは……」
「………………」
「………………」
ショキショキと冷たいハサミの音。ただそれだけがこだまする昼下がり。ただただひたすら気まずいだけの空間に、なんだか少しずつ、視界がぐらついてくる。何か、話題、話題はないか……?
「……あの、ちょっと、もしかしたらあんま触れられたくない話題なのかもしれないんですけど」
「へっ?」
……なんてぐるぐる考えているうちに、先に口を開いたのは、シチーの方だった。
「その、現地で見させてもらいました。アルダン先輩のダービー……マジで凄かったです。あんな走り、もしかしたら他じゃ見た事ないかもってぐらい」
「あ、見に来てくれてたんだ?うん、ありがとう、きっとアルダンも喜ぶから、本人にも直接言ってあげて?」
「……やっぱ、凄いですねアルダン先輩は。アタシは、あそこまですぐに切り替えられなかったから。クラシックの時のレースは……やっぱ今考えても、どうしても後悔することばっかりだったし」
「……そっ、か」
学年で言えば後輩、けれどもトゥインクルシリーズへのデビューは丁度アルダンの一年先輩にあたるゴールドシチー。すなわち、今現在アルダンが突き進むクラシックレースの道程は、既に彼女が一年前に駆け抜けた道でもある。
「でも、君のクラシックだって本当に凄まじいものだった。僕は現地では見れなかったけど、それでも」
「それは、どーも。まあアタシは全然、いいとこ無しだったんですけどね」
「そんなことはないよ、皐月賞に菊花賞、本当にあと一歩……それも年度代表ウマ娘を、あと一歩の所まで追い詰めることができたんだから」
日本ダービー、最後の最後、メジロアルダンがサクラチヨノオーに差し切られてしまったように。彼女もまた、最終直線ギリギリで惜しくも『星』に手が届かなかったウマ娘である。
クラシック三冠レース、その全てに出走し、それでも一冠も戴くことが出来なかった。その悔しさは、とても僕なんかが計り知れるものでは無いのだが。それでも。
「いや、ほんと、いいとこなんてなかったですよ。こないだの春天だって大した結果残せなかったし」
「それは……いや、それでも掲示板には入れてるんだから、充分……」
「アルダン先輩はさ、夏合宿、行けそうなんです?」
「え?ああ、それは必ず。僕が行けるようにしてみせるよ。彼女が望んでいることだからね」
「ふーん、そっか」
突然移り変わった話題に目を回しそうになつたが、なんとか食らいついていく。アルダンと話してる時よりもずっとトーンを落とした声が僕の鼓膜を揺らめかせたが、それでも、やはり彼女のハサミ捌きは正確無比であった。
「だから、そうだなあ。もし空いた時間あったら、一緒にトレーニングとか出来たらいいね、夏合宿」
「え?ああ……はい、そうすね」
「……?」
夏合宿の話題、持ち出せば大抵のウマ娘は浮かれた展望を口にするものであるが。しかし彼女の口振りは、ひどく冷淡なものであった。
「もしかして、あんまり行きたくない?夏合宿」
「そんな事ないです。全然、そんな事ない。けど、『アイツ』は一体、どう思ってんだか……」
「アイツ?」
「……うちのトレーナーですよ。春天のあと、アイツから『一回モデル業に集中してみたらどうか』って言われて、そしたらマネジも張り切っちゃって、最近ずっとモデルの方ばっかやってんです」
「ああ、なるほど、あの人らしいなぁ……」
彼女のトレーナーのことは、よく知っている。同僚の中で微妙に浮きがちな僕に対しても、しょっちゅう気さくに話しかけてきてくれる、心優しいトレーナーだ。きっとその言葉も、彼女の負担や精神的な重圧を少しでも和らげようとした結果なのだろう。けれども今の彼女は、やはり彼が期待していたような晴れやかな顔つきには、なっていなかった。
「もちろん、モデルだって楽しいしやりがいはあるし、絶対手なんて抜かないって思ってますよ。思ってますけど、でも、そんなん『走るな』って言ってるみたいなもんじゃないですか」
「ううん、そう、かなぁ……?」
「……別に今更、誰になんて言われようが気にしませんけど。でもやっぱアイツに言われんのだけはマジでムカつくし。ほんと、都合のいい時ばっかりしつこく追っかけてきたり、お人好しみたいにうんうん言う事聞くくせに、こういう時ばっかり変に突き放すの、マジで、なんなの、ホントにさ?」
「……シチー」
カタカタと、足元から不思議な物音が聞こえてきて、チラリとその方向に目線だけを動かす。
「ほんと、どうしたいんだろ……アイツも、アタシも」
彼女の、ゴールドシチーのつま先がうずうずと床を叩いていた。『さっさと走らせてよ』なんて、そんな恨み節が聞こえてきそうな情景だった。
「……髪、ってさ、何回綺麗に切りそろえて形を整えたとしても、その度に新しく好き放題生えてきちゃって、望んでもいないのに形が変わっちゃってさ。また整えに行かなきゃいけない……本当に、不便なものだよね」
「……はい?」
「そんでさ、僕ら人間も、君たちウマ娘だって、そう。変わりたくなくったって、きっと変わっていってしまうんだろうな」
……けれども、やっぱり感じた彼女の純粋さ。嫌いと言っても嫌いになりきれない、不安定さ。とても、とても放っておけなくって、思わす僕は、口を開
「ちょいまち、ストップ、そこまで、はいはい終わり終わり」
「えっ」
……開いた口もそのまま、僕は思わず間抜けな声を上げてしまう。そんな僕に向けてシチーは、これといって表情も変えぬまま、けれどもなんとも、微妙な困惑を織り交ぜた視線を向けていた。
「……うちのトレーナーもそうだけど、アンタも大概、周りから変なヤツだって言われたりしない?」
「えっ?なんで知ってるの?」
「いや分かるでしょ?なんでこのタイミングで急に髪の話するワケ?」
「いやそれは、その、君のこう、悩みをさ?なんかこう……うまいこと……例え話で……その……えっと……」
改めて訊ねられると、ひどく小っ恥ずかしくなってくる。一体全体、僕は何の話をしようとしたんだか……
「……ふっ、あははっ!マジで、上手いこと言えないんだったら喋んない方がいいよ?ほんと、ふふっ……」
「は、はい、すみません、ごめんなさい……」
青みがかった澄んだ瞳を細めながら、呆れ返ったように笑顔を浮かべるシチー。その笑みは、なんというか、果てしなく『自由』であった。
「はあーぁ、ほんとアンタも、アイツも、トレーナーってのはなんでそうみんなして結論を急かすワケ?」
「え?ど、どういうこと?」
「確かにアタシ、今、悩んでます。もしかしたら走んのも、モデルやんのも、どっちも辞めちゃうかもしれないぐらい、ガチで悩んでる」
「えっ!?えっと、それは……!」
「だーかーらー、焦んなし。まだ『かもしれない』つってるだけじゃん?」
「でっ、でも!」
確かに、僕は彼女のトレーナーではない。けれどもやっぱりウマ娘達には、一人残らず幸せになって欲しい。その願いだけは間違いはないし、その為に僕に出来ることがあれば、例えなんであろうとやりたいと、心からそう思う。そう思う……けれども。
「確かに悩んでるよ?悩んでるけど……アタシ、誰にも『助けてくれ』だなんて、頼んでないんですケド?」
「えっ、でも……」
「わかってる、みんな、アタシの為を思って何でもかんでも言ってくれてるってのはわかってる。けどさ、アタシにだって『悩む権利』はあるわけじゃん?」
「悩む、権利?」
「悩ませてよ、考えさせてよ、アタシにもさ。何でもかんでも決めないでよ、大人達だけでさ」
「…………あっ」
彼女の、幼さが残る輪郭が目に映る。冷たい風が頬を通り抜けたような、不思議な感覚に少しだけ身震いをした。
「てなわけで、ほら、出来たよ?」
「……あれっ!?いつの間に!?」
彼女に促され、慌てて目の前の鏡に目を移す。そこには……
「……えっ?これが……僕?」
「……ぶっ……!あはは!マジで言うやついるんだそれ!」
頭の上に夏らしさを詰め込んだような、先程よりも、ずっとずっと爽やかな顔が映っていた。
「セットの仕方、ちゃんと見てた?自分でも出来る?」
「えっ?ええ、ええーと?」
「ああ、いいよ、いい、いい。アルダン先輩に教えとくから、やってもらいな?」
「は、はいっ!」
クロスを外されて、ようやく解放された僕の身体。深く深く伸びをして、もう一度じっくりと鏡を見据える。
「いや、本当に凄いなぁ、独学なんだよね?凄い、ほんと、流石だなぁ……」
「ふふん?ま?これくらい朝飯前、なんですケド?」
「やっぱり、いいね、髪型を変えるのって。侮ってたけど、全然心持ちが違うや」
「ん、でしょ?ほんと、生きてく中でそんなに役に立たない、ほんのちょっとした違いかもしんないけど……なんにもしないより全然いい。アタシ達がやってる事って、結局全部、そういうもんなのかもね?」
「うん、ほんと、そうなのかもしれないね」
髪型なんてものは、本当は変える必要なんて、ないのかもしれない。美容室なんて無くたって、ほんとはなんにも困らないのかもしれない。そしてそれは、きっとモデルだって、レースだって同じなんだろう。
「そういや、君は……シチーは、どの雑誌でもいつもその髪型だけど、変えたりしないの?」
「うん?まー、たまに聞かれるけど、やっぱこの髪型気に入ってるし、それに……」
「それに?」
「人に指図されんの、アタシ、嫌いだし!誰になんて言われても、変わってなんか、やるもんか、ってね!」
「……ふふっ、そうだね?君はそれがいいよ」
けれども、そんなものに僕らは夢中になる。子供っぽい意地を張って、悩んで悩んで傷ついて、それでもそこに留まろうとする。それでいいんだと、正しさや正確な答えなんて必要ないんだと。そうやって僕に教えてくれるように、鏡に映る彼女の顔は、やっぱりどこまでも『自由』であった。
「でも、まあ、君のトレーナーの言う事くらいは……ちょっとだけでも聞いてあげなよ?彼、いっつも君の事心配してるんだから」
「それは…………まあ、考えとくし……」
「まあ……!?トレーナー、さん……」
「あ、アルダン?随分遅かったようだけど……」
「…………」
「アルダン?」
「……あっ!あ、と、トレーナーさん。終わられてたのですね……その、とても、お似合い、です……」
「……あ、あ、うん、ありがとう……アルダン……」
「……はぁーぁ、見てらんないわ……」
──────────────
「それで、ですね?一つトレーナーさんにお伝えしたいことがありまして」
「ん?なになに?」
ひとしきり、ぐるぐると僕の事を褒めちぎったあと、襟元を正して、アルダンは話し始める。
「先程のお電話は、メジロの主治医からでした。色々とお話はありましたが……トレーナーさんに一つ、言伝を預かっております」
「主治医さんから!?な、なんて!?」
「今回の夏合宿については……ふふ、参加を認めます、と♪」
「……うおおおっ!?ほんと!?ほんとにほんと!?」
「声デッカ……」
「ええ、本当です。今年の夏はよろしくお願いしますね?トレーナーさん?」
彼女が語った吉報に、シチーもいるのを忘れ、年甲斐もなくはしゃいでしまう僕……であったが、まあ、今日ぐらいは多めに見てほしいなぁ……本当に大変だったし、提出用の計画書まとめるの……
「うわーっ、どうしようかなぁ?海かぁ、どんなトレーニングしようかなぁ?」
「ふふふ、という訳で、シチーさんにひとつお願いが……」
「あ、アタシ?」
「ええ、トレーナーさんと同じように、私の髪も是非、夏にピッタリの色に染め上げて頂けないでしょうか?」
「なーんだ、そういうこと?いいですよ?お安い御用。丁度肩慣らしも終わったとこですしね?」
「えっ、僕のこれ、肩慣らしだったの?」
なんとも聞き捨てならないことを言われた気がしたが、まあいいや。なんとも朗らかな顔で席に着く彼女の姿が、昨日よりもずっと、ハッキリと目に映った。
「そんじゃ、先輩はどうします?今はめっちゃ気分いいんで、なんでもやってやりますよ?」
「ふふ、実は色々と考えていたのです♪これなんて、どうでしょうか?」
「へー、やっぱアルダンは流石……えっ?」
「これ……ショートボブ?って、50センチぐらいは切る事になりますよ?いいんすか?」
「もう本格的に暑くなってきましたし、思い切ってさっぱりとイメージチェンジしてみたりなんて……ふふ、いかがでしょうか?」
「いやまあ、アタシは全然出来ますけど……やっぱ凄いわ先輩。躊躇無さすぎでしょ、変わる事に……」
「ふふ、トレーナーさんは?どう思いますか?」
「ええと、えと、僕は……」
「……ほら、聞かれてんよ?いいの?ダメなの?どっちなの?」
「ぼっ、僕はその。アルダンは、今のままが一番……!その、いいと思う、かな……?」
「……ふふふっ!そうですか?それなら仕方ありませんね?シチーさん?髪型はそのままで、綺麗に整える形でお願いできますか?」
「……ふふっ、ほんと、見てらんないわ!」