flare 作:イタドリ
あれはまだ私が幼かったとき、いつかの晴れた雪の日の朝のことだった。
「・・・!」
太陽の光で目が覚め、何かに導かれるような感触を覚えた私は徐に窓の外に映る見慣れた森を見た。
「・・・
外を見ると、白銀色に染まった森と優しく照らす雲一つない快晴の空の隙間から、
「あれ?いない・・・」
だけど私が家の外に出ると、コロボックルは姿を消した後だった。どこを見渡しても、どこを探しても姿が見えず、次の朝になっても、また次の朝になっても、コロボックルは現れなかった。
それから二度と、コロボックルは私の前で姿を見せることはなかった。
「お疲れ様です。打ち上げ以来ですね、山野上さん」
突然の来訪で少し戸惑いながらも1階のエントランスに降りてきた花子に、千世子は被っていた
「あの、どうして百城さんがここに?」
一方で千世子がこの場所を訪ねてきたことを全く予期していなかった花子は、まだ理解が追いついていない。
「山野上さんに
そんなことなどお構いなしに、千世子は普段より畏まった口調でプレゼントと称して斑田から受け取った封筒を花子へ差し出す。その無駄にはきはきとした千世子の表情と振る舞いが不気味に見えて、素直にプレゼントを受け取ろうとする意思を妨げる。
「これは何ですか?」
「それは開けてからのお楽しみで」
疑心暗鬼に封筒の中身を聞こうとした花子の言葉を半ば被せながら、千世子は容赦なくひと押しを仕掛ける。これは間違いなく何かしらの裏があって彼女はここにいるということを、つい3日前にも別の
「本当に終わったことだって思ってるなら、それなりに拘る必要もないんじゃないの?」
「・・・とにかくあなたのような方をこんなところでこれ以上立たせるわけにもいきませんので、中へどうぞ」
このまま無礼にならない程度に追い返すべきかどうかを一瞬だけ考えた末、花子は千世子を住処の部屋へと案内した。
__________
「うわぁ・・・コテージみたい」
4階建てのデザイナーズマンションの3階にある花子の部屋に案内された千世子は、リビングに入ると彼女の独創性が垣間見える部屋に思わず声を溢す。
「(凝った配色に騙されがちだけど、随分シンプルな部屋ね)」
「紅茶なら出せますけどよろしいですか百城さん?」
「あ、はい。ありがとうございます」
と思わせて、冷静に花子の部屋を吟味する。間取りは1LDK。幾何学模様に組まれた木目調の天井と床。ソファーとテーブルと収納棚しか置かれていない必要最小限な部屋を暖かく照らす、淡いオレンジの照明。奥にあるキッチンの食器も含めて部屋に置かれているもの全てが自然色で統一されているためか、まるでコテージに来たかのような感覚になる。
「(扉・・・絶対何かあるな)」
そしてリビングの入り口の右隣に置かれた扉。多分、この部屋が書斎なのだろうと千世子は考えを巡らせながら、視線をリビングへ戻す。
「ねえ、このキャンバスは何?」
リビングを見渡す千世子の眼に、1枚のキャンバスがとまる。ソファーの奥の壁に掛けられた形で置かれた、何も描かれていない真っ白なキャンバス。
「ああ、これはその日その時の気分でリビングに飾ってあるものです。あまり深い意味はありませんが」
千世子からの疑問に、紅茶を淹れるためキッチンへと向かう花子は少し戸惑い気味に何も描かれていないキャンバスの意味を教える。
「ふ~ん」
今の花子の心境をそのまま表すという、白い壁に掛けられたキャンバス。これが一体何を意味するのか、千世子は考えを巡らす。
「だとしたら夜凪さんに稽古を付けてたときは真っ赤な炎の絵をここに掛けてたりしてたの?」
頭の中で考察すること数秒、視線を真っ白なキャンバスに向けたまま千世子が問う。やはり斑田の言っていたことが本当であるとしたら、彼女は本当に絵を描くことをやめてしまったのだろうかと考察する。
「・・・そうですね。まあ、今は炎どころか絵自体も描けなくなってしまいましたが」
核心を突いた千世子に、キッチンで紅茶を淹れる準備を始めた花子は一見毒のない穏やかな口ぶりで答える。だが人の感情を読むのが得意な千世子からは、その言葉が本心ではなく自らに無理やり言い聞かせている迷いのように聞こえていた。
「それはどうして?」
リビングを見渡しながら、千世子は更に掘り下げる。リノベーションされた1LDKの間取りに目を向けつつ、意識だけはこちらへと傾け心の内を読む彼女を、花子もまた様子を視ながらケトルに紅茶を淹れる。
「先日の舞台で燃え尽きたんです。何もかも」
もう絵を描く理由なんてない花子は、恐らくまだ自分が創作をやめることを心に決めたことを知らないであろう千世子に包み隠すことなく「燃え尽きた」と告げる。
「何で?絵なんて描こうと思えば何にも考えなくても描けるじゃん。台本がなくたってアドリブだけでもどうにかできるお芝居みたいに」
その一言に、千世子の視線がスッと花子のほうへと向く。無邪気な笑みと口ぶりで取り繕う表情に反して、どこか睨んでいるかのように開かれた天使の眼。それが自分に対する挑発を意味していることを花子は理解した。
「完全な無心なまま自分を表現することなんて出来ませんよ。それは百城さんも分かってますよね?」
穏やかさを保っていた花子の語気が、少しだけ強まる。
「じゃなければ、あなたはあそこまで憎しみに満ちた恐い顔で夜凪さんのことを見れなかった・・・・・・私にとって作品を創るということは、それだけの感情を伴うものなんです」
心を無にして何かを創る。果たしてそんな
「だから
夜凪さんはともかく、
「そっか、山野上さんはそこまで自分を追い込んであの炎を創ったんだね・・・ごめんなさい、言い過ぎた」
景たちサイド甲がサイド乙の舞台稽古の見学に来たときのことを話ながら言い返す花子に、千世子は空気が重くならないよう表情を和らげつつ申し訳なさを顔に出して張り合うことなく素直に謝る。
「百城さんが謝る必要は全くないですよ。これは私の勝手なだけですので」
反論することなく詫びる千世子に、花子は僅かばかりの違和感を覚えつつも彼女を気遣う。同時に、彼女が右手に持ち続けている封筒の正体が意識にちらつく。
「そうだ、
するとその封筒をテーブルに置きたいと、千世子は聞いてきた。
「ええ、いいですよ」
さすがに本人の言う通りずっと持っているわけにもいかないと思った花子は、それを促して紅茶を淹れたケトルの電源を押す。
「ありがとうございます」
キッチンに立つ花子がケトルの電源を押すのとほぼ同時に、千世子は感謝を告げて封筒をダイニングテーブルの上に置くとそのまま早歩きで入り口の隣にある閉ざされた扉に向かい、躊躇することなくその扉を開ける。
「・・・やっぱり」
扉を開けると、千世子の視線の先に花子のアトリエを兼ねた書斎が広がる。明るめな色の木製のデスクの上に置かれた何も書かれていない一枚の白い紙と、万年筆などの筆記用具に混じった形で少し雑に片付けられたライターが目に留まる。次にその奥のイーゼルに立てかけられた1枚の何も描かれていない真っ白なキャンバスと絵を描くための工具が入ったケースが床に置かれているのが目に留まる。その向かい側には、空いたスペースにちょうど収まるように置かれるベッド。
「(
決定的だったのは、扉を開けた瞬間に感じた匂いだった。シンプルに纏まっていたリビングとは打って変わった生活感のある書斎から仄かに香る、溶き油と絵の具が混じった独特な匂い。少なくともこの部屋の匂いからして、昨日もここで山野上さんはキャンバスを立てて何かを描こうとした。そして何も描けずに片付けた。机の上に置いてある紙と万年筆も、きっと理由は同じ。
「この部屋を覗くのは構いませんが、せめて一声かけてください」
断りもなく勝手に書斎の中に入った千世子を、キッチンから戻った花子が背後から叱る。振り向く視線の先に視えた眼鏡越しの瞳は、穏やかな注意の言葉に反して千世子のことを敵視するかのように見つめている。
「ねえ、山野上さんはもう燃え尽きちゃったんだよね?」
その視線を前に、振り向いた千世子は笑みを浮かべ凝視しながら花子に問う。
「はい。さっき言ったとおりです」
核心を問われた花子は、悪戯に笑みを浮かべる千世子の眼を真っ直ぐに見て毅然とした態度で言い返す。これが本当に心からの言葉なのか、あるいは惑う心を正当化するための盾なのか。花子の眼を視て、どちらが本当なのかをはっきりさせるために手を打つことを千世子は決めた。
「じゃあ、
そう言って千世子は花子にウインクをすると、書斎のデスクに置いてあった花子のライターを手に取り奥に立てかけられたキャンバスの前に立ち、そのままキャンバスを燃やす勢いでライターの火をつける。
「やめてっ!!」
ライターの火がキャンバスにかかろうとした寸前のところで花子が叫び、千世子はライターを持つ手を止める。
「百城さん・・・あなた今自分が何をしようとしてるかわかってるんですか?」
千世子が突然起こした常軌を逸した行動に気が動転しつつも、どうにか平然を保ちながら花子は静かな口調で怒る。千世子の手に握られたライターの火は、まだついたままだ。
「だってもう絵も小説も描かないんだったらこんなもの置いてたってしょうがなくない?」
「だからってここで燃やす必要はないでしょ」
「ああ大丈夫、これはただの
明らかに動揺を隠せなくなっている花子に対して、千世子はカメラの前で違う誰かを演じているかのような落ち着きぶりと飄々とした態度でニコリと笑いながら、一度つけたライターの火をふっと吹き消す。言うまでもなく、これは千世子による
「でもいらないならいらないでさっさと捨てるかどこかに売り飛ばしちゃえばいいじゃん。ここに立ててるキャンバスも机の上に置いた紙もリビングの壁に掛けてる
「・・・・・・」
そして相手に隙を与えないよう、すぐさま花子の眼を真っ直ぐ見つめて揺さぶりをかける。言い逃れのできない正論を前に、返す言葉が見つからない。
「それとも、どうしても
優美な微笑みと何もかもがお見通しだと言いたげな天使からの視線と言葉が、怒りという呪いに囚われていた花子の癪を逆撫でる。羅刹女を通じて自分を許してしまった私にはもう絵も小説も創れるはずなんてないのに、どうしてもキャンバスを捨てられない。描く理由なんてとっくに失っているはずなのに、あれから毎日キャンバスを立てて真っ白な景色に色を塗ろうとして何も描けず時間だけが過ぎたり、机の上に紙を置いて万年筆で何かを書こうとして何も書けずに日が暮れる。どんなに考え込んでも頭の中にある景色は無色透明のままで、何も描けないことをわかり切っているはずなのに、それが日課になってしまっているこの1週間。
「何なら当ててあげようか。山野上さんがキャンバスを捨てられない理由・・・」
「本当はまだ描きたい絵があるんじゃねぇのか?」
「・・・誰も彼も、癪に障ることばかり言う」
全てを知ったような態度をとる千世子に向けて、花子は一切の飾りがない本音を呟く。「燃え尽きた」と言い切るくせに全く死んでいない芸術家の瞳を視て、千世子は確かな手応えを感じて心中でほくそ笑む。これでようやく、この人に次どこかで会ったときに言いたかったことが言える。
「私はただ、
その言葉には、悪意も嘘もない。ようやく怒りの呪いから解放されて自由になれた幸せと、醜い自分を愛してしまう自分を受け入れて前に進みたいという思い。本当にただそれだけを願う、自らへの海容。
「(本当は全てを受け入れて許したいのに、どうしても
その裏側に潜む、受け入れたいが故に自由という呪いに縛られている現実に対する、煮え切らない怒りに似た思い。
「・・・そんなのは自由じゃない。ただの
本音を漏らした花子を見つめる千世子の視線と感情が、鋭くなる。景と共に羅刹女を演じた千世子もまたわかっていた。惚れた男への想いが、たかが一度の舞台ごときで消えるわけがないということを。花子が表現したかった羅刹女の正体が、他の誰でもなく
「私ね、共同稽古のときに夜凪さんから聞いたんだよ。初日の本番前に
正面から向けられる視線に怯む花子に、ゆっくりと一歩ずつ近づきながら千世子は共同稽古のときに景の口から明かされたことを告げる。
「山野上さんが焚きつけだんだよね?
一歩ずつ、一歩ずつをゆっくりと刻みながら千世子は近づく。不気味なまでに綺麗な笑みを浮かべながら優しく責め立てる天使の言葉と威圧が本物の羅刹女のように見えてしまい、花子は無言で受け止めることが精一杯。それほどまでに対峙する人間を追い詰める、千世子の怒り。
「あんな真似をしておいて自分だけ苦しみから逃れてまた1人きりになろうだなんて・・・夜凪さんや黒山さんが許しても、私はあなたを許せない」
「花子さん、ごめんなさい・・・・・・花子さんが1人きりだったこと、気付けなくて・・・」
「だから・・・次は私のために
拳の代わりに言葉でパンチを浴びせながら一歩ずつ花子へと近づいた千世子は、文字通りに目と鼻の先まで顔を近づけて言い放つ。白銀色の髪をした華奢な少女からは想像がつかないほどの冷淡な声と見上げるように睨む光沢の消えた据わる眼に、対峙された花子の緊張と苛立ちは最大値まで高まる。
「
目と鼻の先で感情を凝視する千世子に、花子は心の内側に溜まった苛立ちをぶつける。「描く絵はない」と言いながらも、その眼に映る感情には怒りの炎が小さく灯っているのを、千世子は感じ取った。
「・・・
「!?」
もうこれで心置きなく
「霧矢コウって
「・・・・・・」
そして動揺を隠せなくなった一瞬をついて花子の肩に手をやり、顔を耳元へと近づけて囁きながら心の奥に潜み続ける
「ついでに言うと、霧矢さんが初日の公演を観に来ていたことも知ってる」
「・・・さっきから何を言っているんですか?」
本番前に父親と不倫をしていたことを景へ打ち明けた花子と同じように、自らの心に抱える炎を焚きつける。全てはミカという役を、自分だけのモノにするために。
「きっとあの人はあなたの書いた
「僕のために一枚描いてくれないかな?燃えている絵を」
名前しか知らないあなたに・・・
「ッ!!」
千世子からトラウマを揺り起こされた花子の眼が一気に見開き、拳を握り締めた右手が後ろへと動く。それを反射的に察知した千世子は手を離してすぐさま後ろへと一歩下がる。
「(まずい、これだけは予想してなかった)」
公演初日のこともあって山野上さんが何をしでかすかわからないことは頭の片隅には置いていたつもりだったけれど、まさか感情が昂ると手が出るタイプだったとは。トラウマを掘り返されたせいで怒りの感情に飲まれ、殺気立った眼に薄っすらと涙を浮かべ拳を後ろへと引っ張る山野上さんの姿がスローで視界に流れるのと同時に、頭の中では何やら走馬灯のようなものが流れている。ああ、嫌だな。こんな下らないことで身体に傷がつくのは。でも、おかげでこの人の心にまた炎が灯った。これで絵を描く理由ができてしまった山野上さんは、私のために
「(とにかく顔だけは何としても守らないと・・・!)」
♪~_
右の拳を上げようとする花子を前にどうにか顔だけは守ろうと左手を顔の前にかざそうとした瞬間、淹れた紅茶が温まったことをリビングのケトルが知らせる。
「・・・はぁ」
リビングから聞こえたケトルのアラームが合図となって我に返った花子は、振り上げようとしていた拳を力なく降ろして溜息を吐く。
「これが全部ホントだなんてまだ一言も言ってないんだけど、何で山野上さんはそんなに動揺してるのかな?」
拳を上げようとするほど我を忘れた動揺を図星と捉えた千世子が、表情を和らげて確信をぶつける。ものの見事に術中に嵌った恰好となった花子に、反論の余地はもはや残されていなかった。
「辛い記憶を思い出させちゃったのは本当にごめんなさい。でもいくら腹が立ったからって“グー”は駄目だよ、山野上さん」
そして千世子はやれやれと安堵の溜息を吐きながら、自らの非を認め詫びつつも一回り年上の花子を優しく叱る。理由がどうであれ、手を出してしまえばその瞬間に被害者が加害者になってしまうという世の中の了解。ましてや千世子のような芸能人にとって顔は命、そしてこの身体そのものが商売道具も同然であるため、少しでもその命と商売道具に傷を付けようものならどんな仕打ちが待ち受けているのかは明白である。
「私のほうこそごめんなさい・・・熱くなり過ぎてしまいました」
千世子に優しく叱られた花子は落ち着きを取り戻して目に溜まった涙を拭い、斜め下に落としていた視線を目の前の千世子へと戻す。どうして我を忘れて殴り掛かろうとするほど、私は彼女へ怒ったのか。それは自分が一番よく知っている。どんなに悪しき存在として葬り去ろうとしても忘れることなんてできない、初めて私の描く絵を
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、私を殴ろうとしたときに山野上さんは誰を思い浮かべた?」
冷静さを取り戻した花子に、千世子はひとつのことを問いかける。彼女の眼を視た瞬間にわかる、わかり切った上での問い。
本当はわかっていた。
「話の続きは紅茶を飲みながらにしましょう。仕切り直しも兼ねて、百城さんとはちゃんと向き合ってお話をしたいので」
千世子がこの部屋を尋ねてきた理由と封筒の中身を察した花子は、本当の意味で全てを終わらせるために
前書きを巻頭カラーっぽく使うやつを、一度やってみたかった。