再会編・その一
確率というものは、いつだって平等である。誰にだって等しく、差別なく判別なく、その好機を振り分ける。それが希望であろうと絶望であろうと、頭上に隕石が落ちてくる可能性は誰しもが保持しているのだ。
確率というものは、いつだって残酷である。誰にだって等しく、分別なく識別なく、その不運を押し付ける。たとえば授業の時にランダムで生徒を名指しする教師然り、誰にだって唐突に指が付きつけられる日は来るものだ。
しかし、それにしても。
確率だとしても、平等だとしても、残酷だとしても。
どうして彼女でなくてはならなかったのであろう。
少女は善良な人間であった。皮肉ではなく嫌味ではなく、とにかく善良であった。誰も嫌わず、憎まず、世界すべてを美しいと考えるような徹底して純粋な少女であった。
まるで人間でないような。
まるで妖精とか。天使とか。女神とか。過剰な比喩表現かもしれないが、或いはそれが当てはまってしまうほど世界を愛していた、しかし実体はただの十八歳の少女であった。
ただの可愛らしい、十八歳の少女だったのだ。
二月十四日。全国的にバレンタインデー。雪の積もったその日、少女は死んだ。
胸に綺麗な円状の穴を空けて、真っ白な雪を真っ赤に染めて、誰が見ても明らかなほどに死んでいた。
胸の穴は赤くて、黒かった。酸素を失った肺が黒く変色したのだろう。ただその黒より暗く、見開かれた瞳は濁っていた。
綺麗な瞳だったのに。
大きくて、真っ直ぐで、何もかもを信じていて、何もかもを好きでいられた、綺麗な瞳だったのに。
彼女がどんな人間であったか。思い出をたどったところで詮無きことだ。眼前に広がっていた惨劇は消えることはないのだ。
帚木鵆(ほうきぎ ちどり)。
僕が十八年の人生の中で、唯一愛した人間。
僕の十八年の人生の中で、唯一好きになった人。
それは彼女の死から十年経った今でも変わらない。きっとどれだけ時を経ようとも、箒木鵆以上に人を愛すことは無いだろう。
愛するって。
恋するって。
やっとわかった感じがしたのに。
その時、帚木鵆の遺体を見た僕が何を感じたのかは今となっては憶えていない。放心状態。混乱状態。激しい頭痛。酷い吐き気。崩れる価値観。歪む景色。世界の反転。雪。赤。黒。血。
空から降る雪が雨に変わる頃、僕は彼女が殺されていたという結果にようやくたどり着いた。
ああ、なんだ。だったら簡単だ。僕のやる事は決まった。おーけい、もう大丈夫。すっきりした。落ち着いた。これから正常運転だ。今までがおかしかったんだよ。
雨が降っていた。僕は泣いていた。僕は笑っていた。僕は壊れていた。僕は狂っていた。彼女は死んでいた。
きっとこれが、これより十年間の地獄の始まりだったのだ。神を追う復讐劇。鬼共の巣。最悪。オルターナティブ・
ともあれこの日、夢浮橋芥(ゆめのうきはし あくた)という人間が一人、終わった。
----------
「夢浮橋先生?」
声を掛けられて、ようやく僕は覚醒した。
「はい?」
「いやだから初恋の話ですよ、先生の。どうされたんですか、急にぼーっとしちゃって」
そこはいつもと変わらぬカウンセラー室であった。玄舟(くろふね)学院東校舎一階、カウンセラー室。それが心理学教師とスクールカウンセラーを兼任する僕の根城だ。ただ少し異質だったのは、黒い高そうなスーツの中にアロハシャツを着た女性が目の前に座っていたことだろうか。
「ああいえ、何でもありません。初恋を思い出してたらちょっと変なところに行っちゃって」
「はあ、そうですか。変な人ですね」
一蹴されてしまった。女性の名は東屋法被(あずまや はっぴ)。確か『初音(はつね)なんたらかんたら』っていう地方情報誌の記者さんだ。
取材である。
この、僕に。
何でもどっかの馬鹿が『初音なんたらかんたら』に僕の情報を流しやがったらしく、それに編集長さんが興味なんか持ちやがったらしく、うちの最悪校長が一瞬でオーケーしやがったらしく、この混沌たる状況に至る。
取材とか、緊張するじゃないか。
「えっと、初恋ですね。小学一年生の時、須磨洟子(すま はなこ)っていう一個上の女の子に恋しました。いやあ、よく遊んでくれる優しいお姉ちゃんでしてね」
当然、その子が約十年後に自殺したことは伏せておく。
「んー、何かそういうのじゃないんですよね。初恋ってのが良くなかったかな? 女の人と付き合った時のこと、教えてください」
嫌な女だな、と印象が決定した。
「別に、大した話じゃないんですよ? 初めてジョセイと付き合ったのは普通に十八歳の冬で、二ヶ月もせず別れたって言う、まあ典型的な高校生の若き日の過ち的な」
死別、が。典型的だとは思わないけれど。
「ふうん、でそこからは?」
「あー、今の嫁に会うまで特に真剣な交際はしたことなかったな。たまに適当な女と寝るくらいで。恋愛ってのは特に」
「……変な人ですね」
冷たい目で見られた。
おお、人の視線はここまで温度を下げることができるのか。
「それで、奥さんとの馴れ初めは?」
なぜこの女性記者は込み入った質問を臆面もなく投げかけることができるのだろう。カウンセラーはそういうところ気をつけるんだぞ。ていうか質問内容がいちいち俗っぽい。
「……去年ですね。仕事上、仲の良かった人と結婚する気になったから結婚したって感じ。式は挙げてないし、仕事上の都合でただ今別居中。今頃ドイツで大暴れしてますよ」
「はあ、それって結婚と言えるのでしょうか」
「言えないでしょうね。一般的に。ただ配偶者が存在するってだけでメリットはあるんですよ。免許は持ってるけど車に乗らないのと同じです」
「身分証明ってところですかねえ」
難しそうな表情で東屋さんはメモを取る。察するに彼女の未婚のようだった。
「東屋さんは結婚されてないんですか?」
「あら、私に質問ですか? まあいいですけど。――端的に言えばしてないですね。彼氏はいますが」
「結婚する気は?」
「ありませんよ。彼、奥さんいますし」
室内の重力が1.2倍ほど強くなった。畜生、僕はなんて質問をしてしまったんだ。
「そういえば、この学校に赴任した理由は校長先生の強い推薦があってのことでしたが?」
「強い推薦、なんてことはないですよ。もちろん斡旋でもありません。僕はただあの人に拾われただけです。どちらかといえば……」
来たくなかった、と出そうになったのを無理矢理押し込んだ。そんなカミングアウトを雑誌に掲載されるのは困る。
「カウンセラーになってなかったら何になっていたと思います?」
「ん、霊媒師とかじゃないですか」
「れーばいし……?」
怪訝そうな表情を浮かべる東屋さん。何だかちょっと楽しくなってきた。ひょっとして僕はマゾヒストだったのかもしれない。
「えっと、お化けが見えるんですよ。あと神様とか」
「はあ……、え? えっと、霊感が強いんですか?」
冷淡でもなく怪訝でもなく、いよいよ彼女は困惑した。やばい人の取材に来てしまった、とでも言いたげな風だ。
「まあ、そんなところじゃないですかね」
「好きな漫画は『BLEACH』ですか? 『幽遊白書』ですか?」
「どっちも読んだことありません」
信じないだろうなあ。
僕が彼女の立場でも信じようとは思わないだろう。
「冗談ですよ。言ってみただけです」
だからこうやって、誤魔化す。いつだって僕はそうやって、この世界の秩序に合わせて逃げてきた。少なくともこの世界で暮らすためには、普通に生きるのが一番なのだ。
それが、嘘でも。
「ではいよいよ、生徒たちのことを訊きたいんですけど……」
東屋法被の質問は、その後一時間ほど続いた。当たり障りのない質問と、奇をてらった質問。最後に写真を数枚撮って、その日の特別業務は終了した。
「あー……、ったく」
午後になって、僕はカウンセラー室のソファにだらしなく寝転がった。
「嫌なこと思い出させやがって……うんざりなんだよ、畜生」
六月の中盤。湿気ばかり高くて雨が降ったり降らなかったりの日々。むしろ太陽が厳しい毎日だ。あの日の、真逆。
「……ほうきぎ、ちどり」
呟いたところで、何も起こるはずがなかった。
前章より長くなるし、
酷くなります。