「八年くらい前の話なんですけどね」
唐突に、紅葉賀弦弧(ももじのがげんこ)は語り出した。場所は街中のアーケードの入り口に位置するスターバックスコーヒーのテラスだ。僕はトールサイズのアイスティー。彼女は呪文のような言葉でカスタムされた抹茶ラテ(これぞ女子力)がそれぞれ目の前に置かれていた。
「私と空蝉(うつせみ)くん。二人で卒業旅行したんですよ」
「へえ、お前らそんなに仲良かったっけ。思い出すにむしろ仲悪かった気がするんだが」
「別に私はそう思ってませんよ?」
「そりゃそうさ。空蝉が一方的にお前のことを嫌ってたからな」
「何ででしょう?」
「お前が十年前から既にカリスマ的な変態だったからだ」
照れながら弦弧ちゃんは抹茶ラテを口に運んだ。彼女にとっては自分を一言で表現できる『変態』という称号は褒め言葉以外の何でもないのだ。
まったく、酷い人間だ。
「話を戻しますけど、一応私たちには目的があったんですよ。じゃなきゃ大学一年生の忙しい時期に当時高三の空蝉くんを捕まえて日本を駆け巡ったりしません」
「まあ、そうだな。大学一年目が忙しいかどうかは知らねえけど」
「大学の話に入ったりしませんからね」
話を逸らそうとする作戦、失敗。玄舟学院の数学教師に落ち着いただけのこともあり、紅葉賀弦弧先生は意外と頭が良かった。
「まあ、えろい話をされたらそっちに行かざるを得ないですけど」
基本はバカだ。
「私たちはあの日、あなたを探してたんですよ。芥先輩」
「……そうかよ」
案の定、といった感じだ。事実僕は八年前、日本に帰ってきた折に偶然ながら空蝉と出会ったのだ。
偶然か、必然か。僕を探していた空蝉是空(ぜくう)と邂逅を果たした。
「結局会えませんでしたけどね。ただ観光しただけ。別に無駄とまでは言いませんが、一週間という時間とアルバイト代を損した気分にはなりましたね」
しかしながら、弦弧ちゃんとは顔を合わせることはなかった。それも偶然か、必然か。何者かが導いたかのように、僕と空蝉は一対一で語り合うことになったのだ。
「そいつはまあ、残念だったな。確かにそのとき僕は日本にいた。場所によってはお前たちに会えたかもしれないってわけだ」
「さまざまな条件を仮定して計画的に行動したつもりなんですけど、どうにも思うようにはなりませんね、人生って」
「確率は一様に平等で、残酷なんだよ。パーセンテージを当てにし過ぎると落胆が強くなるだけだぜ。思いもよらぬところから嫌なことってのは飛びかかってくる。きっと今だって運命は僕たちに這い寄ってるのかもしれない」
箒木鵆。彼女のことがまた脳裏に浮かんだ。
「……運命。運命、ですか」
難しそうに弦弧ちゃんは何度か呟いた。数学に関しては高い能力を持つ彼女の苦手分野は哲学である。理数系はお手の物だが文系となれば壊滅的。せめて一般レベルまで文系が出来ていれば、高校教師なんかよりもっと活躍できる場があっただろうに。
「よく分かんないんですけど、運命って何ですか? 信じるか信じないかとかよく聞きますけど」
「運命。デスティニー。僕の考えを述べさせてもらえば、何かの意思によって決められているフローチャートのことじゃないのかな。例えば弦弧ちゃん、スパロボ知ってる? スーパーロボット大戦」
「戦闘カットインで女性キャラのおっぱいが揺れるアレですね」
ああ、くそ。真剣な話の流れだから油断していた。
「……あれ、多少のルート分岐はあるものの結局話の流れは一本じゃん。まあスパロボだけじゃなくて大体のゲームはそうだけど」
「あ、でもエロゲーはキャラのフラグとかによってエンディングどころか話の流れまで多様なんですよ」
「せめて恋愛シミュレーションゲームと言ってくれ……」
紅葉賀弦弧、ここにきて飛ばし始める。
「人生もああいうゲームと似たようなもんさ。それだけ選択肢が在っても、数多のイベントが起ころうと、箇所の経過と行き着く結果は変わらない。たとえば、だ」
僕は財布から百円玉を取り出す。平成二十二年発行の特徴無き普通の百円玉だ。それを、自分の足元に放った。
空中の百円玉を革靴で小突く。硬貨は縦になり、さながらタイヤのようにアーケード街に入っていった。
当然、途中でその運動は限界を迎え、横に倒れてくわんくわんと衝撃を受けた後、落ち着いたように動きを止めた。表か裏か、五メートルくらい離れてしまったここからは分からない。
「あれ、誰かが拾うよね」
「まあ、拾いますね」
「この百円で運命がどんな感じかに左右されるかもしれない。百円程度で。たとえば手持ちのお金に拾ったあの百円を足して、宝くじの額と丁度良くなる。宝くじを買う。それで三億当てたらラッキーだよな」
「ラッキーですね。人生変わります」
数学教師ならばちょっとは確立の話でもすればいいのに、宝くじの話に関心すら示さない。ピンク系には嬉々として飛びつくのに。
「逆にあの百円でジュースを買ったとしよう。百円のジュースでいい。まあこれは宝くじに当たるより確率が低いかもしれないが、そのジュースに偶然、何らかの理由で毒物が混入されていた。さて飲んだらどうなる?」
「えろいことがしたくなります」
「死ね。間違った、死ぬよね。つまりあの百円玉には人生を薔薇色に変えることも、菊を飾られることも出来る」
「軽々しく拾得物横領罪なんかするもんじゃありませんね。まあ、拾って嬉しいのはお金よりえろほ……」
「違うんだよ、弦弧ちゃん。百円を拾おうが拾うまいが関係ない。そんなに運命は生易しくはない。宝くじに当たる人は百円が無くったってその内当たる。毒死する人間は百円でジュースを買わなくたってその内死ぬ。当たるべくして当たり、死ぬべくして死ぬ。百円玉はそのきっかけだっただけで、それが無くったって何か別の、いわゆる『代わり』が宝くじにも毒にも当ててくれる。運命ってのはそういうことさ。何かのおかげで、なんてことはないんだよ。だって決まってることなんだから」
「えっと……難しいですけど何となく分かりました。方程式の求め方は幾通りあっても、求めるべき答えはどの方法でも同じってことですね。Xを使役するかYを使役するのかは実は関係なく」
凄え。
弦弧ちゃんが数学で例えてくれた。
「全ては必然。――ま、これは僕の考える運命であって、もっと希望の持てる考えはあるだろうけど。あえて悪い言い方をすれば、運命は変えられないってことかな。どうやったって変えることが出来る代物じゃない。ただの人間に、法則はどうにも出来ないさ」
「はあ……でも、芥先輩がそう言うのならそうなんでしょうね。その通りなんですよ」
嫌味も皮肉も無く、真顔で弦弧ちゃんは言った。哲学能力の無さも、性癖の偏りも、気を付けてさえいればどうにだって出来る。ただ十年間、どう足掻いてもどうにもならなかったのがこれだ。
弦弧ちゃんは、僕を尊敬し過ぎている。崇拝と言ってもいい。どこに惚れ込んだのか何が気に入ったのかはほとほと理解出来ない。何にせよ、鬱陶しいことには変わらないのだが。
「……じゃあ、芥先輩」
突然、彼女は目を伏せた。何かを迷うような、悲しむような、およそ僕の前では見せることはない、妙な顔色だった。
「鵆先輩も、ですか?」
「………………」
何も言えなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
「あ、あの、ごめんなさい。――失言でしたよね」
ほら、謝らせてしまった。何か言えばいいのに。何でもいいだろう。そういうことを言うな、って否定してもいい。そうかもなと頷くだけでもよかった。
何をぶれているんだ。
十年経つんだぞ、あの子が死んで。
「え、えーとですね。最近私、良い感じのDVDをゲットしたんですよ。熟女ものなんですけどね。芥先輩は熟女とかどう思い――」
「僕は!」
叫んだ勢いで、足が振れた。テーブルに強く当たり、アイスティーが倒れる。
ごてごての抹茶ラテは弦弧ちゃん自身の手にあった。――よかった。蓋がしてないから、倒れたら机の上に緑色がぶち撒かれていただろう。蓋がしてあったアイスティーは、隙間からとくとくと、少しずつ零れていくだけであった。
白いテーブルの上に、紅茶。
白の上に紅?
真っ白な雪の上に――気持ち悪いほど鮮やかな、血。
「――っ!」
もがくようにカップを捕まえ、強引に起こした。手の甲を濡らした液体は温くどろりとしたものではなく、あくまでも冷たかった。上がった体温を冷ます、心地良さだ。
「……弦弧ちゃん、僕はさ。『まだ』なんだ」
停滞している。
その場足踏み。
ストーリーばかり進んで、レベルはまるで低い。まるでガキだ。年齢ばかり喰って、何も解っちゃいない。
糞が。
屑が。
「僕はまだ――十年前にいる。あいつが死んで、あちこち巡って、地獄まで堕ちて、這い上がろうとしてまた墜ちて、突き抜けるほど墜ちて、結局どこかに引っかかって、一段落が付いて、それで十年だ。だけどまだ――帚木鵆が死んだっていう現実が、上手に受け止められない」
残響が続く。
苦痛が刺さる。
糾弾が聞こえる。
「……すみませんでした」
弦弧ちゃんが謝った。
沈黙が続いた。
人波に目を遣った。
百円玉は、消えていた。