「夢浮橋先生」
それは放課後のことだった。
遊びに来た若紫志吹が帰って行った後、簡単なデスクワークを一通り終え、荷物をまとめ始めた時のことだった。ノックと共に現れたのは、数学教師の紅葉賀弦弧(げんこ)という若い女性だ。長い髪を一つに結んだ、この学校で最も厳しく、無愛想で、恐ろしいと言われる女性教師である。
「すいません、少しお話よろしいでしょうか」
彼女の厄介な人間であるということはよく知っている。
――とは言っても、この学校で通っている厄介さではなく、誰も知らない、この学校内では僕しか知らないであろう彼女の面を、僕は嫌と言うほど思い知っているのだ。
「えっと、すいません今から少し行くところがあって……」
だから、断ることにした。用事なんか無いくせに適当にでっち上げて、逃げることにしよう。
「いえ、お時間は取らせません。一時間もあれば済みます」
いや、長いよ。
何故短針一回り分も渡さなきゃいけないんだ。
「――いいでしょ? 芥先輩」
ドアを閉めた彼女は、豹変した。
悪戯っぽく笑い、何と僕を見据えたまま隠れるように鍵まで閉める。何故、閉めるのだ。
「……相変わらず融通が利かねえな、弦弧ちゃん」
「ふふふ……甘く見られては困ります、芥先輩。芥先輩の人間理論の一つにこんなのが有りましたね。『変わるから人間』――それで私が痛く胸を打たれたのは確かですが、しかしここは言わせてもらいます、芥先輩」
びし、っと僕に人差し指を突きつけ、宣言するように彼女は言った。
「私は変わらない! 十年経ってもあなたの奴隷であると!」
「何を言ってるんだお前は!」
彼女は僕の高校時代の後輩である。断じて奴隷などではない。
高校で知り合って以来、どういうわけか痛く気に入られて、十年間飽きもせず、僕の奴隷を名乗っている酷い変態である。
彼女の行動は僕が変態と勘違いされる要因の一つだったりするので、それが所以で出来るだけ僕は彼女から距離を置いた人生を歩みたいのだが。
「……あのさ、こういうところを生徒に見られたらどうするんだ?お前は『恐い先生』なんだから、そのキャラを突き通す努力をもっと頑張ったらどうだ。僕になんか構わず」
「愚問ですね、芥先輩。私が生徒に厳しくするのは、単純に私が子供を嫌いなだけです。私が芥先輩の前で素直になるのは、私が芥先輩を大好きなだけです。人はこれを、ツンデレと呼びます」
「呼ぶな。つうか定義がちょっと違う」
「む、そうなのですか?」
「ツンとデレを使う対象は一人に限れ。お前のそれは、ただ人で態度を変えているただの社会的に嫌われがちな人間なだけだ。そして決定的なことを言うと、お前は特にツンとすることはあるけどデレてはいない。言うなればテロだ。ツンテロだ」
「なるほど、さすがは芥先輩! その道のプロフェッショナルなのですね、感服致しました」
「ちょっと待て。僕を変態の親玉みたいに言うのはやめろ」
まあこいつは、『変態』という肩書を褒め言葉だと勘違いしてるから、やめろとか言っても「ご謙遜を」と返してくる。本当、高校時代にどうにかしておくべきだった。
「あと、どうせ褒めるんならジョークの方を褒めろよ。上手いだろう?」
「ジョーク? 失礼。よく聞こえなかったようです。どんなジョークでしたか?」
「………………」
きっとこいつ頭が悪いんだ。
僕のジョークが高尚過ぎたんだ
「ふむ……それではさっそく」
少し考えて、弧弦ちゃんは口を開いた。
「芥先輩なんか、好きじゃないんだからねっ」
呑み込みが恐ろしく早かった。
いや、ベタだけどさ。
「芥先輩なんか、好きじゃないんだからねっ」
「そしてそれしかパターンが無いのか……?」
「そっ、そんなことないんだからねっ!」
「語尾のパターンもどうにかしろ」
紅葉賀弦弧は骨の髄まで理数系の人間だが、徹頭徹尾、文学に対しての力が皆無だ。最低限でも文系が出来ていれば、数学教師なんかよりもっと凄い仕事に就けただろうに。
「いえいえ、私はこの学校に来てとっても嬉しいですよ? 何故かって? そう、それは芥先輩と再会できたから……!」
どうしよう。
ガチでウザい。
「ツンデレしろ」
「芥先輩なんて好きじゃないんだからねっ!」
やってみせて、
「――あああ! やっぱり無理だ! 尊敬する芥先輩にこれ以上、好きじゃないなんて言えない! 申し訳ない芥先輩! 大好きだ! 好き好き大好き愛してる! お願いだからいますぐ私に土下座をさせて下さい!」
咆哮した。
難儀な性癖だ。
「昔、お前に土下座を許した途端に服を脱ぎ始めたことから、僕は土下座というワードだけでもトラウマなんだけどな」
「え? 土下座って全裸でするものですよね?」
「それを本気で言っているお前が恐いよ。恐過ぎだよ」
何かもう、通報とかしても大丈夫なような気がした。こういう奴を牢屋に鎖しておくべきなのだ。
「――それで、何だよ」
「何だよ、とは……? ああ、土下座のフォルムについてですか。あのですね、まずパターンは主に三種類から始まります」
「違う。例え土下座する機会があったとしても、僕は綺麗に土下座したいなんて思わねえよ」
そして三種類のパターンと言うのが不覚にも気になる。
「お前の用事だよ。わざわざ若紫が出てくのを見計らって訪ねたってことは、それなりの用なんだろ?」
「……まったく、芥先輩には私のことなどすべてお見通しなのですね。――きっとパンツの色も分かるのでしょう?」
「だからお前は僕をどうしたい」
いや、もう大人の阿呆で無邪気な会話はここまでだ。とっとと本題に入ろう。
「結局何なんだよ。このカウンセラー様に話して御覧なさい。お前のことだ。まさかただ僕と遊びたかっただけじゃないんだろ?」
「ふ……さすが過ぎます、芥先輩。その読心術の一端でもこの愚かな私に学ばせてもらいたいものです」
いや、それは勝手に学べよ。
そういう本とかあるよ。
「いえ、実は大した用ではないのです。ただ遊びに来たというのも否めませんし、あわよくば芥先輩に色々とエッチなご命令を頂けたらなと」
「どうしてお前のような酷い人間が教師になってしまったのだ。おかしいぞ、この世の中」
「芥先輩。あなたはごくたまにですが、『何かをしてるような』時が有りますよね」
「…………」
紅葉賀弦弧――馬鹿のくせに頭が良く、秀才のくせに天才で、勘が良くて、野性的で、僕を信じるが故に僕のことをよく見ていて、僕を崇めるが故に僕のことをよく知っている。
だから僕は、彼女のことが苦手だった。
「あ、いえ……私は芥先輩のことをお慕い申し上げていますから、芥先輩の成そうとしていることに図々しく関与・干渉するつもりはありません。ただその昔、意味も意図も目的も伝えられこそはしませんでしたが『それ』にこの不肖めの有り余った力を役立てて頂いたことにはいまでも感謝はしております」
「ああ――そうだったな」
だがそれはあくまでも学生時代の話でしかない。十年経った今になってその話を持ち出されても、反応に困る。
同窓会のつもりでもないだろうに。
「その節は、まあ感謝してる。お前のおかげで意味も意図も目的も成り立ったしな。そこは本当に助かったよ」
「勿体無いお言葉です――で、私が何を言いたいのかと言うと、まあ、こんなことは私などに言われなくても芥先輩には確固たるプランがあるでしょうから絶対に大丈夫だと思いますが――」
弦弧ちゃんは少し言い辛そうに、しかし気丈な風に笑っていた。
「本当は、またお手伝いしたいんですけどね」
何て、独り言のように呟いてから。
「お気をつけて」
また今回も、僕は彼女を巻き込まずに済むようだ。
僕の小説は、こういう変な人ばっかりです。