「傷害事故?」
「ああ。このトイレでそういう出来事が起こっているらしい。突然何か揺れたりとか、モップが飛んで来たりとか、そんなおかしな根も葉もホモ無い……」
「ほも?」
しまった。何だ、この落とし穴。
「ほもってなんです? 人類ですか?」
「いや、何でも無い……、とにかく馬鹿みたいな話だけどさ。何か知らないかな。ここで暮らしてる君なら何か知ってるんじゃないか? 須磨」
幽霊は首を傾げた。
「んー……知らないですよ」
「そっか」
それだけを聞いて、僕は鞄から漫画本を取り出した。
「はい。頼まれてたやつだ」
「わーい、実はこれ好きだったんですよね。少女のくせに少年漫画好きだなんてなかなか人には言えないんですけど」
須磨は大喜びで僕の手から数冊のコミックを取ろうとした。だが……。
「あれ」
すかっ、とすり抜ける。彼女の手が、コミックと僕の手を貫通した。
「『馴染んで』ないと触れられないんだよ、幽霊ってやつは。僕が開いててあげるから、それで読みなさい」
「うう……不便だよう……、何だか手の動かない病人になったみたい」
死人が何をほざくのだ。
「ところでこの漫画、全何巻ですか? ルフィは海賊王になりました?」
今、ファンがそう言うのを聞いたらどう思うのであろう。
「あのな、須磨。この漫画は未だに続いている。ルフィは今、新世界だ」
そういうと少女はあぽんと口を開けて硬直する。これが本当の死後硬直だ。
我ながらそこそこ上手い。
「だ……って、私が死んで、十年でしょ? じゃあもう百巻くらい続いてる計算になりませんか!?」
「ならねえよ」
どうやら生前、数学は苦手だったようだ。
「やっぱり読むのやめちゃえば? アラバスタ編まで分かってればそれでいいだろ」
「い、いえ! まだベラミー編が終わってません!」
「空島辺の前哨戦だろう? ベラミー編とか無いよ。ベラミーはただのパンチ一発で倒したぜ?」
「何で先に言うんですか!?」
次々と繰り出される須磨の手が僕の身体に埋まる。気持ちが悪い光景である。須磨は他の人には見えないが、もし見えるとしたら相当シュールな光景だ。
いや、僕が女子トイレにいる光景を見られたら困るのだった。コミックを重ねて独り言。もはや変態とかそう言うレベルではなく、伝説になってしまう。
「呪いますよ!」
「やり方わかんねえくせに」
「じゃあ祝います!」
どうやら国語も苦手なようだ。ていうか数学と国語の双璧が駄目なら、けっこうヤバいと思う。十年前の玄舟学院の偏差値が窺える話だ。
「むー……、ところで」
不機嫌そうな表情を浮かべたまま、また脈絡も無く突然須磨は話を持ち出してきた。
「なんだ」
「どうして夢浮橋先生は、私がやったと思わないんですか?」
それは、不安そうな顔だった。何か後ろめたがっているような。尋ねておいてこんなに委縮するのも変な話だ。さながら蛇に睨まれた蛙のような(女子に蛙とか失礼過ぎる)。
「何をだ?」
「だから……その公害事件です」
「傷害ね。公害ヤバい」
スケールが物凄くデカくなっていた。どうやらこいつはやはり、基本的に頭のネジが緩いようだ。
「何だ? きみは自分が犯人だとでも言いたいのか?」
「い、いえ! もちろん私はやってませんよ? やって、ませんけど……、何も無いところからモップが飛んできたなら、それが出来るのは私だけじゃないですか? みんなに見えない、私だけ」
僕は溜息を吐く。そして拳を作り、無防備な彼女の頭に振り下ろした。
「っ!? ――い……痛あ……!?」
僕からは触れる。霊体だろうと視えて障ることが出来るから、僕はこの体質を厄介と思っているのだ。
「きみは、そこの掃除道具入れのもんを、ベタベタと霊体に馴染むまで触っていたのか?」
「え……?」
打たれたところを痛そうに撫でながらも、須磨は僕の言葉に不思議そうに反応する。
「きみはそんな子じゃない。僕は一人の教師として、そう思っている」
ひょっとしたらこの時、『そう信じているよ』と言っていれば、この後の展開は大きく動いていたのかもしれない。
そう言えば、『あんなこと』にはならなかったかもしれない。
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帰宅した僕を待っていたのは、世界の反転だった。
突如として子の身体が一回転し――叩きつけられる。床に、だろうか。背中に強い衝撃が走った。
「――貴様という奴は……一体何を考えておるのじゃ!」
そして激昂。
獣のような、炎のような、畏れを纏った激昂だ。
幼女の――否、桐壷つむじの激しい怒りだった。
「儂には貴様という人間が――存在が心底理解出来ん! 何なのじゃ貴様は!」
小さな手は僕のシャツを破り裂かんばかりに掴み、視線は怒りと不可解に燃えている。どうやら僕の、『あの行動』が気に障ってしまったらしい。
「また策か! それともただの愚鈍か! 策で、愚鈍で、どうして貴様はあのような無意味なことをするのじゃ!」
分かっていた。
僕があそこであんな行動を、言動を取ってしまえば、十中八九つむじが怒り狂うということを。しかし神の怒りに触れてしまうということを覚悟して、僕はあの行動に出たのだ。
「生徒の小娘に言われたばかりじゃろうが……! 貴様は、もはや人間ではない!」
――『先生って、人間じゃないみたい』――
それは少し前、若紫志吹に言われたばかりの言葉だった。
確かに僕には人とは少し違うところがある。冷静であり、淡泊であり、消極的であり、無気力であり、省エネであり、聡く、狡く、小賢しい。それは他人から見れば人間的ではないと思われることもある。
きっとそれは、この眼の所為。
――だと責任を押し付けてしまう、弱い僕の所為。
「この――馬鹿がっ! くそっ!」
暴言を吐きながら、つむじは自分の頭を抱えた。
普通、神と言う存在は感情的にならない。よもや人間の為にこんなぶちキレるということは、もはやあってはならない事態なのだ。
彼女が苛立っている理由の一つが、『それ』なのだ。
「――つむじ」
恐怖。それくらいは感じる。
僕の上で苦悩している幼女は神であり、その気になれば――その気にならずとも、うっかりで人の命すら消してしまえる、世界の器に収まりきれないほどの恐れるべき、畏れるべき存在なのだ。
そんなモノに、怒りを向けられている。命が脅かされている。いくら僕でも、恐怖くらいは感じるのだった。
僕に憑依している――故に僕が死ねばおのずとつむじも消えてしまうのだが、そんなことは僕が安全な理由にはならない。
恐怖を感じつつも、僕は声を掛けた。下手をすれば殺される。だけど、僕は桐壷を、震えているかもしれない声で『つむじ』と呼んだ。
「すまない」
言いくるめようとしたような気がする。神であるはずのこいつだが、上手くすれば言いくるめられる。だがどういうわけか、僕はそれをしなかった。したくなかった。
ただ、謝罪の言葉を述べてみただけだった。
「策なんて無い。ただの馬鹿なのかもしれない。――だけど考えがあるんだ。だから――」
或いは命乞いのようなものなのかもしれない。助けて下さい。許して下さいと、下がる位置にはない頭を、一生懸命下げてのただの懇願なのだ。
否、助けなくてもいい。許さなくてもいい。殺してくれたってもはや構わない。
ただ、その願いとは矛盾するようだけど、
「――もう少しだけ、信じてくれないか」
「………………」
燃えるような瞳が、依然として僕を見下ろしている。眉間に皺を寄せて、幼女がする筈もない鬼のような神の形相で、桐壷つむじは僕を俯瞰していた。
「……分かっておるのか? あの雪隠の霊――生徒を傷つけているのは、あの霊であるということを」
「ああ。分かってる」
「凶器に使った『もっぷ』とやらも、とうに霊体に馴染ませておるということも」
「ああ。分かってる」
「あの娘の霊が白々しく嘘を吐いていることも、相談役である貴様でなくとも簡単に判別出来たであろう」
「ああ。出来た」
「……はあ」
それで終わりだとばかりに、つむじは深く、溜息を吐いた。呆れたように僕の上から体を退け、リビングの方へと身を翻す。
「貴様は本当に愚鈍じゃ。いくら貴様が信じた振りをしたところで、あの娘は生徒への暴行を止めはしまい」
「ああ」
分かっている。
そんなことは、分かっている。
だけど僕は、須磨を信じる。
僕だけは彼女のことを、信じないといけないのだ。
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翌日、体育館の女子トイレの立ち入りが禁止されたと連絡が入った。
それは、所詮僕の信頼などその程度のものだったということの、証明に他ならなかった。