砂の導きが聞こえるか?
ユメ先輩からのメッセージは、『砂漠で砂嵐に遭って──』や『手帳の場所は──』以降なにもない。ホシノが何度も送っていたメッセージに既読すらつかない。
確かにここは電波が悪い。でも最新の端末であればおおよその位置情報を掴むことができるはずなのだ。しかしユメ先輩は節約のために機種変更を頑なにしなかった。
スマホの充電も余裕がなくなってきた。使用に制限をかけなければ0%になってしまう。ユメ先輩を発見できた時、すぐに救助を呼ぶためにしなければならない。
ユメ先輩はまだ見つからない。
「くっ……!」
──九日目。
いくらホシノといえども限界が近づいてきていた。24時間ずっと叩きつけられる砂。極端に気温の変わる朝と夜。環境の悪い寝床。最小限の栄養補給。これでは身体が十分に休息できない。荷物になるからと替えの制服を持ってこなかったが選択ミスだったかもしれない。
服の中は砂まみれだし、顔を髪も砂にまみれて肌が痛い。だからといってそれを洗い流すために貴重な水を消費するわけにはいかない。9リットルあった水は残り2リットルになっている。思ったより消費ペースがはやい。もう数日は持つが、極限状態になることは避けられないだろう。それでも。
「ユメ……先輩、を……」
必ず救う。その一心のためにホシノは捜索をやめない。一度急ぎ帰還し、装備を補充してから戻ってくることも選択肢として浮上はした。だがそれをホシノは却下した。それをしている間にユメ先輩がここに到達し、そして死亡したらどうするのだ。
自分の都合で離れた結果、その間にすべてが終わっていたらホシノはもう二度と自分を許すことはない。
だから意地でも帰還はしない。
脚に力が入らない。銃を杖代わりに立ち上がり、周囲を見渡す。空になったボトルが3本。砂を詰めて重りとして簡易寝床がずれないように置いている。辺りは何も変わらない砂の海。
ユメ先輩のリミットはすでに秒読みに入っているだろう。歴史通りなら、あと五日でホシノはついに発見する。だがそれは死亡したのが五日後というわけではない。
「頑張ら……ない、と」
カイザーPMCに身を売った時。ひとりで列車を破壊しに行った時。自身の存在が完全に反転しかけた時。
先生たちは果たしてどんな気持ちで自分を救い出そうと必死に動いてくれたのだろう。今ならよく理解できる気がする。
大事な仲間が命の危機に瀕しているという状況。仲間を絶対に失いたくないという気持ち。持てる力のすべてを使って必ず助けるという強い意志。
あの時の自分は、そのどれもがとは言わないが後輩たちに比べてまるで足りていなかった。ユメ先輩というまだ短い人生の中でかけがえのない存在を『当たり前のもの』だと思い込んでいた。
ああ。
……ああ。
私の方がよっぽどバカだったなと。そう自嘲する。だが今のホシノは先生や後輩たちの存在を『当たり前のもの』と知りつつ、それがかけがえのない奇跡だということをもう知っている。
だから与えられたのかもしれない。
ユメ先輩を救うチャンスを。
「ん?」
ずっと向こうに砂埃が高く立ち込めているのが見えた。人が起こせるものではないだろうから、おそらく車。軽トラか。数は……二。こちらには気づいていなさそうだ。脚は自然とそちらを向き、進んでいた。
あれは貴重な移動手段だ。もうなりふり構っていられない。捕まえて、ユメ先輩を見なかったか聞き出して、後払いにして数日捜索に使わせてもらえないか交渉する。極貧ゆえに正直お金なんて本当にない。でもそれでユメ先輩を見つけられる可能性がぐんと上げられるのならきわめて安い買い物だ。後で死に物狂いで働くか、所持品を質屋に入れるなどすればいいだけだ。
「ぉーい……ゴホッ、」
思ったように声が出せない。ひびが入ったような枯れた声しか出せない。こんなのでは到底届きそうもない。またとないチャンスを棒に振ることはできない。
決死の意志力を込めて脚を動かして喉を張り裂かんばかりに声を上げようとした、その時。なんと向こうの方からこちらにやって来るではないか。勘違いかとも思ったがそうでもなさそうだ。
「あ、これか」
首に垂らしている手鏡。これに気づいてくれたのだ。
自分の豪運に感謝しながらホシノは両手を大きく上げて自己の存在をアピールした。接近してくる軽トラ二台。
無意識に笑みが溢れるホシノだったが、その顔色はすぐに変わった。
「あれ、ちょっとこれってもしかして……ッ!」
向かってきてくれているのは良いが、明らかに一台がホシノを轢いてやるという速度だった。少し横に移動しても追従するように軽トラは向きを変える。
緊急回避。
ギリギリのところで回避は成功し、直前まで立っていた場所を軽トラが猛スピードで通り過ぎた。受け身を取る余裕もなく顔面から砂にダイブすることになったホシノは、速やかに身体を起こして戦闘態勢を取った。
15メートルほど離れた位置に二台は止まり、計五人の少女が降りてきた。その服装を見てホシノは内心で舌打ちした。
ヘルメット団だ。運の悪い。何かの道中なのだろう。
へらへらした感じでリーダー格らしき少女が声をかけてきた。距離は3メートル。
「こんなところで何してるんだお前?悪い人に襲われても何も言えないぜ?」
「……おじさんには目の前にその悪い人がいるように見えるんだけど?」
「おじ……おじさん?ああ、それは勘違いだよ。たぶん歳のせいでボケてるんだよ。私達はただこんな砂漠で彷徨ってる人を助けようと思ったのさ」
「軽トラで轢くことが人助けになるのなら、そうかもね。そんな思考ができるのは、きっとハイエナくらいだけど」
少し、無駄な挑発をしてしまった。明らかにリーダーは今ので頭に血が上ってしまったらしい。四人の部下がホシノを囲み、銃口を向ける。
今のホシノの見た目は浮浪者のそれだ。制服も荷物もボロボロだし、身体も小さいし、簡単に制圧できると思っているのだろう。
「まあ、何を言うのかわかってるだろうが言わせてもらうな?『命が惜しけりゃ持ち物全部置いてい』ふぎャ、ッ!」
獲物の前でそんなに無防備で語っているのが悪い。
懐に隠していたショットガンを瞬時に抜き取り、腹部に向けて発砲。額に当てたかったが、そこまでの反応速度を残念ながら今の体調では引き出せない。
一切の身構えなしで不意打ちショットガンを食らえば、身体が浮き上がるほどの衝撃になるのは当然だ。相手は何をされたかわかっていない様子。素早くバックステップ。呆気にとられるひとりに急接近して背中の荷物でタックル。そのまま圧し潰すつもりで全体重をかけて上から圧し掛かる。これだけでふたりに大ダメージを与えられた。ダウンまで取れれば良かったのだが、そこまでできなかったのが痛い。
1v5というのはいささか分が悪い。万全の状態であれば敵でないのだが、今はそうではない。こいつらは自分が何か貴重品を持っていると思っているのだろうが、実際は何もない。財布はあるが、数百円しかもう入っていない。なるべく消耗を抑え、リーダーを叩いて撤退させる。これしかない。
「こいつ!絶対許さないからな!お前らっ!」
「……悪いけど、速攻でいかせてもらうよ。今のおじさん──あまり余裕ないから」
意識を戦闘モードに切り替え。
超攻撃型。味方は誰もいない。この場、この時代に、ホシノの単独行動を諫めるストッパーはない。だから在りし日の戦闘狂になることができる。
ひとりがトリガーに指をかけ、引き絞る、その瞬間を見て跳ねるようにその場から跳躍する。逆海老反りのように身体を曲げ、半回転して着地──と見せかけてその刹那を刈り取ろうとしたのだろうが、読みが浅い。浅すぎる。膝を曲げ、砂をクッションにして頭を低くして銃撃を躱す。たたらを踏んでバックステップをしようとするが、反応速度が遅すぎる。足をひっかけ、倒れたところで頭部をヘルメットごとぶち抜く。
ヘルメットが割れて晒された顔はすでに気をやっていた。ひとりダウン。すぐにその場で全力で砂を蹴り上げる。巻き起こる砂に紛れて緊急離脱。リーダーのいた方向は分かっているから、その方向に全力で体当たりをして──右前方から銃口が鈍色に光ったことに気づいた瞬間、回避行動をとる。しかし間に合わない。思考に身体が追い付かない。
「く、そっ!」
肩に数発。そしてバッグを貫通して背中に強い衝撃がホシノを襲い、地面に叩きつけられる。咄嗟に身体を起こそうにも、忘れていた不調を今思い出したかのようにさらにホシノを襲う。全身の血が鉛になったように重い。
「ぐ、ぅ……」
止まるな!止まったら蜂の巣にされると思え!ただでさえ不利な状況なのだ。相手に『一斉射撃で仕留められる』と絶対に思わせてはならない。
鋭く息を吸い込む。砂が肺に飛び込んできたが構うものか。乱暴に転がりながら続く追加射撃を回避し、適度なタイミングでバッグをその場で放置して身軽になり、向上した俊敏性を活かして銃身を手で振り払い、ゆるりと隙間を縫うように背後に回り、盾代わりに後ろ手にして拘束する。
「お、前っ!!」
「黙って。舌噛むよ」
電光石火。
岩壁のような強固なフィジカルで盾役の団員を素早く押し出しながら残りの三人に急速接近。おそらくその姿は、弾かれるパチンコ弾に見えたかもしれない。
「はやっ!?」
そんな驚愕の声を無視して超至近距離まで潜り込むことに成功すればもう勝ちも同然。声を出して驚いている時点でド三流だ。ホシノの敵ではない。ショットガンを相手の顎に照準を合わせ、トリガーを引き絞る。
ズドン!と重い音とともに相手の身体が一メートルほど浮き上がる。そいつが倒れるのを確認するまでもなく、急反転させて次の獲物を狩りに行く。
味方だろうが容赦なく発砲してくるサブマシンガン。盾は身体を捻って被弾面積を減らそうとするが、そうはさせないと左肩を肩甲骨に、左肘を背骨にがっちり当ててホールドすることで逃がしはしない。もう大きく身体を振ってフェイントを仕掛けられるような状態ではない。弾が尽きてリロードを挟んでいる間に盾を力任せに蹴り飛ばして互いを衝突させる。情けなく倒れている隙に最後のリーダーを、と顔を持ち上げたところで、二方向からの乱射。回避。回避。なるべく高く砂を蹴り上げながら走り、起こした砂埃を煙幕代わりにして紛れる。
砂丘を隔てた安置で素早く弾をリロード。まさか戦闘をするとは思わなかったから手持ちがあまりない。予備のハンドガンでも持ってこればよかったなんて無い物ねだりをしても仕方ない。
ふたりは確実にダウンさせられているし、残りふたりは大ダメージ。リーダーは無傷という場面まで引っ張ってこれたが、果たして向こうは決着を望んでいるか。
軽い気持ちで絡んできたように見られるから、この戦況だと退却してくれるだろうか。もし最後までやるというのならきっちり倒して軽トラに積んであるであろう物資を強奪させてもらうつもりでいる。襲ってきたのは向こうだ。こちらは極限状態。仕方ないというもの。一呼吸おいて再出撃せんと飛び出し──。
「ああ……」
すでにヘルメット団たちは逃げ帰っていた。遠くに軽トラの影が見えるのみであった。
それが小さくなり、やがて見えなくなって。ホシノはその場に力なく倒れた。いつの間にか命中していたのか、頭部から流れた血が目に入り、視界が半分赤くなる。どくどくと頭が熱くなる。流石にすぐに捜索続行はできない。受けた傷は軽症だが、この戦闘での消耗が発生したことがあまりにも予想外すぎた。残念ながら今日はここまでにして、休息をとらないとミイラ取りがミイラになってしまう。どこかに置いておいた穴だらけになったバッグを拾い上げ、開け、水と食料を摂取しようとして、手が止まる。
「……うそ」
水の入ったボトルに穴が開いていて、そこから水が漏れていた。ただでさえ残り少なかったのに、その大部分が漏れ出ていた。まだ中部あたりならばよかったが、下部に穴が開けられている。底に残ったのは僅かしかない。コップ一杯分もない。
食糧はいくつかダメになったが、まだなんとかもつ。コンパスは弾が貫通しているため完全に壊れている。スマホに弾は当たっていないが、激しい動きをしたせいか画面が少し割れている。起動しなくなっているとかはなさそうだからそこは安心。手鏡はスマホと同様でどこかに無くしてしまったようだ。
喉の渇きが酷い。今水分補給をしたら、もうユメ先輩を見つけるまで一切水を口にすることができない。だがこの状態のままでもいられない。喉が激しく傷ついている。少しでも潤して炎症を防がなければならない。
いや……これはユメ先輩の分だ。食糧からでも少しは水分は摂取できるからまだ持たせることはできる。気怠げに身体を起こす。弱気になってはいけない。何のために
戻って来た頃にはすでに夜だった。あれほど暑かった日中では考えられないほどの寒暖差。もう一週間以上この砂漠で生きているのだから……などということはなく、なかなか慣れない。寒色の砂色は、ホシノの体温をさらに奪っていっているように見える。
血はとうに固まっており、額を拭った袖は汗と血が混じって気持ちが悪い。身体は異臭を放っている。
はやく家に帰りたい。熱いお風呂に入って砂まみれの身体を洗い。ふかふかのベッドで泥のように眠りたい。
鼻も喉もジャリジャリする。目も充血しているかもしれない。
「ダメだ……ユメ先輩を見つけるまでは……」
負けられない。これは敵との戦いではない。自身との戦いである。
もう一度ユメ先輩と話したい。触れたい。『何やってるんですか』と馬鹿なことをしようとする彼女にまた言ってやりたい。
もう一度。何度でも。いつまでも。
数日前に経験したあれではまだ足りない。全然足りない。だって、短すぎるじゃないか。ほんの数分の出来事にしか思えなかった。ユメ先輩が目の前にいて。言葉を交わし。触れ合うことのできるチャンスがもう一度訪れたのならば。
『もっと』と求めるのも、そのために命を懸けるのも当然のことだよね?
それに、結局は自己補完するしかなかった手帳の事実を知ることができるのかもしれない。ホシノの知っている場所と言いながら実はうっかり置いてある場所が間違ってましたなんて可能性、全然あるじゃないか。ユメ先輩なのだから。
「うへ」
想いを馳せていると、つい口元が緩んでしまった。それと同時に口の端にしょっぱい水気が触れる。自分が泣いていると気づいたのは、多少のラグがあった。
こんなにも堪らない感情の吐露。先生にすら吐いたことのない正直な気持ち。
一人だからこそできる、恥も外聞もない情けない姿。
鼻の頭がツンと痛くなる。じんわりと熱が伝播し、視界が歪む。急に嗚咽がこみ上げ、誰もいないし聞いてないからいいだろうとつい口にしてしまう。
「あい、たい……会いたいッです……ユメ先輩……、!」
それが全て。小鳥遊ホシノが求めつつも絶対に叶わないと自分でもよく理解していた、何物にも代え難い願い。
喉が壊れていることなんて忘れて泣き叫ぶ。遠く、遠くにまでその慟哭は響く。
もしこのまま見つけられなかったらどうしよう。それより先に自分が死んでしまったらどうしよう。そんな恐怖。
こんな後ろ向きな気持ちではダメだと律しながらもホシノは瞼を閉じた。明日こそはユメ先輩を見つけられますように、と。
◆
一定の周期で身体が揺すられる。
地震か?と思ったがそんなことはない。接触面が砂のような質感ではなく、確かに柔らかい感触だった。
ホシノは薄っすらと目を開く。何か……砂ではないものが見える。わからない。今すぐに身体を起こして確認しなければならないが、どうも身体が思うように動かない。脱水症状だ。おそらく意識障害を起こしている。今の現状を理解することができない。相当まずい状況になった。これではユメ先輩を助けに行くことができない。リミットまでまだ数日あるというのに、なんて……悔しい。
「ッ──」
口から漏れ出た音。途端に、揺れが止まる。そして揺れではなく接地面が明らかに大きく動いた。よく、わからなかった。起こっている現象が何かわからない。砂漠のほとんどを理解しているつもりだったが、これは初めての現象だ。
砂漠では体感できない、妙な安心感がある。たぶん、寝ぼけているのかもしれない。夢かもしれない。
それでももう少しだけこれに浸りたいと思った。ホシノは二度寝をするつもりで混濁した意識を手放した。
◇
自分がまっすぐに寝ている状態を自覚して、ホシノは急に目が覚めた。
砂漠の上で寝るときは、熱が逃げないようになるべく身体を縮めて寝ていた。跳ねるように上半身を浮き上がらせると、見慣れない布団が掛けられていた。
「ここ、は……?」
病院。
綺麗な白いベッドで寝かされていた。左腕には点滴がされている。依然として体調はあまり良くないが、意識は鮮明だ。
規則的に鳴る心電図の音。自分の呼吸音。少しする薬品の匂い。
何が起こったのか。誰かが助けてくれたということになると思うが、いったい誰が。偶然通りがかった善人か。いや、そんなことよりも──!
「今何日!? ユメ先輩は!?」
こんなところで寝ている場合じゃない!
ここでどれだけの時間を過ごした!? 半日くらいならまだ許容範囲か? とにかく今すぐにあそこに戻らないと!
ベッドから降りて、直ぐ側のスリッパを履く。強引に点滴の針を抜き取り、倒れそうになりながら歩き、ドアへ向かう。そして次の行動を脳内で羅列する。
まずは今日が何日かを確認し、リミットから逆算して必要量の水と食料を確保。戦闘が発生する可能性を甘く見積もっていたから、今度は予備のハンドガンも持参する。常識的に考えて、ここに運んでくれた人に会って感謝の言葉を述べなければならないのはわかっている。しかしそんな余裕などない。
急げ。
ドアの取っ手に触れた指は自分でも驚くほど細く、棒のようだった。いやそんなことはどうでもいいと勢いよく引いて飛び出そうとした、その時。
目の前に現れた何かに顔面衝突した。
「ぅぶっ!?」
「わっ!」
とんでもない弾力。反発係数が1に限りなく近い物体だ。力負けして尻もちをついてしまう。今ぶつかった物は果たして何だ。顔を持ち上げる。そこには。
「あ、ホシノちゃん」
「──────」
息を呑む。
羽のように軽くて、透き通った声。かつて毎日聴いていた、懐かしい声。
鋭く息を吸う。
大きなアホ毛。三年生のホシノと同じくらい長い髪。綿のように柔らかい表情。
金縛りに遭ったように、その場にホシノは縫い留められた。思考が完全に停止する、というのはこういうことを指すのだと人生で初めて知った。手、足と感覚を失い、やがて自己を認識するの物理的輪郭を失って空間に滲んだ。目の前の光景が、過去の情景をフラッシュバックさせているものに過ぎないものと錯覚してしまう。しかしそれは違うとすぐにわかる、圧倒的リアル感。極めて現実に等しい没入感。わななく自分の唇。ホシノは声を出すことができなかった。
「あー!ダメだよホシノちゃん!勝手に点滴抜いたら看護師さんに怒られちゃうでしょ?」
ホシノと同じ病衣に身を包む彼女は呆けるホシノを立ち上がらせようとし、両脇に腕を差し込み、猫のように持ち上げた。されるがままのホシノはベッドへ運ばれる。かけ布団をかけられても視線は彼女から一切外すことはなかった。
「ぁ──」
「とりあえず人を呼んでくるからちょっと待っててね」
そう言って離れようとする彼女。その袖を、ホシノは無意識に親指と人差し指で強く掴んでいた。
「────……」
「?」
言葉を発せない。発したい言葉がありすぎて、その濁流が全く脳内で完結しない。脳が沸騰する。胸がすごく苦しくなる。痛い。すごく痛い。弾丸を撃ち込まれる痛みなんかよりもずっと。身体中を感情が巡る。とても長い時間、ホシノは袖を掴んだままだった。口を小刻みに震わせ、しかし何もできない。何分経っても彼女はホシノの言葉を待ってくれた。そうやって辛うじて絞り出せた言葉。それは、
「いかないで……」
そっとホシノの手を包むように握りしめる。そして彼女はホシノの身体に触れ、優しく抱きしめた。
「──うん。そうだね。そうだよね。ごめんね。一緒にいるよ」
感じたのは……暖かくない、燃えるように熱さ。
でもそれで良かった。あの日抱きかかえた彼女の冷たさではなかったから。たぶんこれは彼女だけでない、自分自身の熱も合わさっているのだと思う。
脳裏に浮かぶ、これまでの高校での思い出。1年の時から3年の時まで、すべて。今のホシノを人格を形成したのはこの人。だからこそ後輩に恵まれた。だからこそアビドスの問題に先生と良好な関係を築くことができ、アビドスの問題に憂いなく取り組むことができた。昔のやさぐれたままだったら、ここまで進むことができなかった。
この人。この人こそが、ホシノの最も尊敬する──
「……ユメ、先輩」
「うん、私はここにいるよ。ごめんね、ホシノちゃん」
「いったい、どうやって……」
あの状況から生還できたのか。ホシノは結局、ユメ先輩をついに発見することはできなかった。
「それはえっと、私も本当に死ぬかと思ったんだけど、どこかで銃撃戦の音がしたから、そっちの方に行くことにしたの。結局夜までかかっちゃったんだけど、そこでホシノちゃんを見つけたって感じかな」
「私は……助けられたんですね。助ける側だったのに」
「そんなことないよ。ホシノちゃんがいたから頑張れたんだよ? 私を探すために来てくれたんだよね?」
ぎゅっ、とユメ先輩はホシノを抱く腕に力を込めた。
「はい、そうです。私、ユメ先輩にたくさん言いたいことがあって……まだまだ全然言い足りなくて……本当は謝りたくて……あの時怒ったこと。すぐに謝りに行かなかったこと。手帳の場所が今もわからないこと。いっぱい……いっぱいあって……っ、!」
「そっか」
あの時は、ユメ先輩に背中を押された。
私はもういないから。まだやるべきことがあるだろうと。でも今は違う。ユメ先輩は生きている。ならば言葉も変わる。ホシノが言いたいことも変わる。
ひとつひとつ丁寧に説明したいのに、頬を伝う熱いものが止まらない。ユメ先輩の前でまた、泣いてしまう。数日前の状況と全く同じ。顔を押し付けているユメ先輩の病衣が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。しかし嫌がる素振りは一切なく、ホシノの言葉を待った。
「ごめんなざい……! ずっと、ずっと後悔してて……ッ! あんなことを言わなければ良かったのにって! そしたらユメ先輩を失わずに済んだはずなのに。苦しくて苦しくて、でも謝るチャンスなんてもうなくて、それで……っ!」
記憶が混同する。
いざ口にし始めると支離滅裂なことになってしまっている。それでもホシノは止まることができなかった。
もしかしたらこの瞬間が奇跡なのかもしれない。今、すべてを伝えないとまた後悔するから。失って初めて大切さを思い知るのは骨身に染みて理解しているし、繰り返すのは絶対に嫌だ。
「う、うぅ……っ!先生も皆もいっぱい励ましてくれたけど……ッ、やっぱり前を向くのがまだ難しくて……!」
反転したシロコも言っていた。
過去の思い出を手放せるか。それに対して、断言ではないものの今なら考え方の方向性を示すことができると思う。
否だ。
人は過去の思い出を手放すことはできない。それは忘却することと同じだから。記憶を失わない限り不可能だ。
思い出はその人となりを作り上げる重要な要素。思い出があるからこそ、生きていける。もちろん目標だとか他の要素もあるが。
過去に引き摺られる。大いに結構ではないか。それが良いものでも悪いものでも、人として成長するために通過しなければならないフェーズだ。これなくして人は『前』という概念に向き合うことは難しい。
だから、少しでも顔を上げて前を向けるようになりたい。そう思った。
「許す。全部許すよ。私だって悪いところいっぱいあったもん。いつも注意してくれてることをちゃんと守らなかったし、もしあそこまでホシノちゃんが来てくれていなかったら私、きっと諦めてた。私こそ謝らないといけないの。ホシノちゃんをひとりにしていたかもしれないんだから」
「いいえ……いいえ! 私はそれすらできなかったんです……ッ!」
「──今回はできた。それでいいんじゃないかな」
その言葉で、すとんと物事がすっきり落ち着いた気がした。胸の中の大きなしこりが取り払われたような。
もう見ることが一生できないと思っていたユメ先輩の笑顔。それが実際に、実物として目の前にある。できない。抑えられない。陽だまりのような暖かさ。
「ユメせんぱい……」
「大丈夫。私たちはずっと繋がってるよ。いつだって。どこにいたって」
「ゆめ、せんぱい……っ!」
「……いつか別れがやってきても。思い出も、心も、消えることはない」
ユメ先輩は自分の手をホシノの胸に。ホシノの手を自身の胸に押し当てさせた。
「ほら」
ずるい。
「だって、私たちはこんなにも通じ合っているのだから」
すでに決壊していた涙は、今度こそ大粒になる。もう顔はぐずぐずになっている。
いつもはあんなにバカなのに、どうしてここでそんなずるいことを言えるのだ。いままで先輩面を一度もしたことがないくせに、どうして、今。一番言ってほしいことを的確に言うことができるのだろう。
「──うぅ、ぁあっ、ああぁっ……!」
これまでずっとずっと流せなくて貯まっていた涙を、ようやくすべて吐き出すことができた。
目を真っ赤に腫れ上がらせたホシノがやがて泣き疲れて、再び眠りに落ちるまでユメ先輩はずっと寄り添っていた。眠ってからもずっと。ずっと。
まるで離れ離れになっていた時間を、ようやく取り戻し始めるかのように。
◆
「先輩!ホシノ先輩!いつまで寝てるんですか!」
結構乱暴に肩を揺らされて、ホシノは沈んでいた意識を浮上させた。思った以上に熟睡してしまっていたようだ。会議はもう終わってしまっている様子。ホワイトボードには落書きのような殴り書きで満たされ、会議がいかにカオスだったかを物語っている。
ホシノを起こした張本人であるアヤネは怒り心頭といった様子だ。
「ホシノ先輩が全然起きないなら会議がめちゃくちゃになっちゃいましたよ!とりあえず視察の日程だけは決めましたが、ハイランダー……って、ホシノ先輩?」
「んぇ?」
やはり、あれは夢でしかない。それもそうだ。あれも都合の良い妄想の世界である。『ユメ先輩が生存した場合』なんて所詮、ホシノの願望に過ぎない。
しかしまあ、夢の中とはいえ救うことはできたので気分はいい。気持ちも晴れている。
ごめんね〜アヤネちゃん〜、なんていつもの調子で返事しようとした時、アヤネの言葉が止まった。
「先輩、泣いてるの?」
「え?」
言われて、気づく。
寝起きの涙だとは誤魔化せないくらい、ホシノの袖元は濡れていた。
たくさん泣いちゃったからね。仕方ないね。あっちではもっともっと泣いていたし。とはいえさすがにこれを適当に誤魔化すのは少々厳しいかもしれない。
「いや〜、アヤネちゃんとセリカちゃんがアイドルになってライブしている夢を見てさ。おじさん感動のあまり泣いちゃったよ〜」
「どうして私がアイドルをやってるんですか……」
「ほら、前にノノミちゃんが言ってたスクールアイドルってやつだよ。たぶん無意識にすごく頭に残ってたんだろうね〜」
ドームを埋め尽くすほどの超大勢の観客。
超大歓声の中、白いハチマキをし、ふたりのイメージカラーのカラーライトを持って号泣するおじさんホシノの絵面。それもいいかもしれない。
ふたりの可愛さがキヴォトスにバレてしまうのが残念だが、逆に皆にも知ってほしいという正反対の気持ちもある。
そうやって話をうまくずらして、部室の片付けを行い、最後に委員長であるホシノが鍵を閉めた。
「じゃあ、帰ろっか」
窓から廊下に差す陽光。
五人は下駄箱で靴を履き替え、外に出る。
いつも通り他愛のないことを談笑しながら、校門へ。校門はすでに早速砂が流れ込んできていた。まだ数日は問題ないが、掃除をする必要が出てくるだろう。
ホシノはふと後ろを振り返り、校舎が高々と掲げる校章を眺めた。
あれはユメ先輩のヘイローとよく似ている。これが運命的な結びつきであったと、ホシノは思っている。なぜなら、ユメ先輩と過ごした日々はなんだかんだとても楽しかったから。あの人がいたからこそ、たったふたりでも楽しかったし、学校を存続することができたのだ。
そして今度はホシノの番。後輩たちはアビドス高校で過ごす学校生活を果たして楽しいと思ってくれているのだろうか。
……きっとそれは愚問だ。
「先輩。どうしたの?」
するりとホシノの横に立つシロコ。
「うひゃあシロコちゃん!」
「なんかすごい切ない顔をしていたから気になって」
「おじさんも歳だからね。アンニュイな気持ちになることがあるんだよ。ささ、帰ろっか。あごめん違う、アイス買いに行くんだった」
「ん、その通り。今回こそは当たりを引いてみせるから」
「当たるといいね〜」
シロコに手を引かれてホシノは学校を後にした。
ユメ先輩の死を乗り越えて前を向くことはまだ難しい。それでも進まなければならない。
全てがうまくいく、なんてことは誰も約束できない。課題も完全に解決できたわけでもない。さらに大きな壁に直面し、たくさん苦しむことになるかもしれない。
でも大丈夫。皆がいるから。先生もいる。ユメ先輩も、きっとホシノを見守ってくれている。
だからきっと大丈夫。安心して進める。
未来へと。
非有の真実は真実であるか
以上。
ユメホシに脳をしっかり灼いてもらったか?