六月に入り一週間が過ぎ、コンクールに向けてより練習に熱が入るということはなく、北宇治の吹部にあるのは怠ける先輩と温い環境であった。俺と一緒に演奏した日以降も傘木達は変わらず先輩へ立ち向かい続けた。ただ、彼女のあの日に見せた悲哀に満ちた様は影を潜め、南中の子達と徒党を組み部活に真面目に取り組むよう先輩に促し続けている。俺は引き下がることのない傘木にあの日掛けた無責任な言葉に後悔を感じていた。とある放課後、部活の最中滝野を教室に呼び出した俺は彼に心中を吐露した。
「純一…傘木達のことどう思う?あのままでいいと思うか?」
「先輩に反抗してることか?何を言っても聞かない奴らによく毎回言いに行けるなとは思うけど…もう少し穏便に解決できねぇのかな、あと一月もすれば先輩はいなくなるんだし。そういや、先輩達の嫌がらせも酷くなってるみたいだぜ?こっちは香織先輩が抑えてくれてるからまだマシだろうけど…」
滝野の言うように南中一年と三年の溝はかなり深くなってしまった。小笠原先輩や中世古先輩、斎藤先輩が三年生を宥め一年生を庇ってくれているため、あからさまにいじめを行うことはなかったが限界まで膨らんだ不満がいつ爆発してもおかしくなかった。俺は椅子にへたり込んで肩を落として言った。
「俺さ、傘木に聞いてみたんだ、何かあったのかって。そしたらあいつ目が腫れてた。きっと泣いてたんだ。だから、助けになりたいって思って、つい君は間違ってないなんて言っちまった…」
「お前、傘木が落ち込んでたからって嘘ついたのか?」
滝野は責めるように言った。彼のそしりに声を荒げた。
「あれは本心だ!!傘木が間違っているだなんて思ったことはない!ただ、もう少し長い目で見れないかと伝えるべきだった。あの時は言葉が足りなかったんだ...」
「なら、傘木にそういえばいいじゃねぇか。今からでも遅くないと思うぞ」
滝野の言葉に俺は項垂れながら首を振る。
「春先に俺と純一で引き留めたのを忘れたか?止まらなかったんだぞ。多分今はもう引き返せないところまで来てる。…そうさせたのは多分…俺のせいだ…」
「なにが侑にそこまでさせるんだよ。傘木にそこまで肩入れする理由はないだろ?」
彼の疑問はもっともだった。実際、俺と傘木の関係は深いわけではない。
「純一、中学のコンクール満足してるか?悔いは残らなかったか?」
突然の話に滝野は当惑しつつも遠い目をした。
「満足してるさ。最後のコンクールは府大会銀賞だったけど、出せるもんは全部出したしやり切ったと思ってる」
俺の言葉に滝野は言い切った。まるで中学での思い出が宝物であるかのように、噛み締めるように話した。
「俺は、関西ダメ金だった時悔しいと思えなかった」
自慢か?ジトっとした目をする滝野を無視して続けた。
「毎日寝る間を削って練習をして、部の内部の諍いがないように仲介もしたし、部長として皆を束ねるために多くの本を読むことだってした。でも、全国を目指すといったのは先代からの伝統だからで、部のために動いたのは良い結果を取ったら喜んでくれる誰かのためだった」
自嘲するような語りを滝野は黙って聞いていた。
「そんな何もない自分が嫌で北宇治に逃げてきたんだ。北宇治ならコンクールに本気で取り組むようなことはなかったから。…でもずっと求めてたんだ。変わるチャンスを、誰かに示された道じゃなく自分で選んで本気でやって、やり遂げた後にどんな結果が待っていてもそれを誇れる自分になりたかった!」
「そうか、それで傘木に…」
嗚咽交じりに喋る俺の背中を滝野は優しくたたいた。背中に来る暖かな振動に、震える言葉で続けた。
「俺は屑だ…勝手に傘木に夢を背負わせて、俺は安全なところから見てるだけだ。こないだの言葉もどこか他人事だったに違いないんだ…」
「ほんとに屑なやつは自分を屑だなんて言うもんか!お前は自分がやったことで後悔してるって思ってんだろ?」
滝野は無理やり俺を椅子から引っ張り上げた。無理やり立たされたせいで見上げる形となった俺の目に滝野の目が映る。彼のアイオライトのように輝く瞳は真っ直ぐこちらを見据え、目を逸らさせることを許さなかった。
「俺は、傘木達が落ち込んでるとき何もしなかった。先輩に目を付けられるのが怖くて日和ってた。でも、お前は傘木が苦しんでるとき手を差し伸べたんだ!そんな奴、いい奴に決まってる!」
だから、侑がやりたいようにやればいい!彼はそう言って笑った。俺は彼のさっぱりとした性格に入学してから助けられてばかりだった。
「ありがとう純一。もう一回希美と話してみるよ」
「おう!またなんかあったらすぐ話せよ?。……待って、お前と傘木ってそんな仲なの?」
彼の追求を適当にはぐらかし、教室を出た。
俺が吐いた言葉に傘木が影響されていようといなかろうと、彼女が正しいと言った以上責任を取らなければいけない。彼女にだけ夢を背負わせるのではなく自分も背負う。彼女が泥を被るなら自分も一緒に泥を被る。それが責任を取るということだと、誰かのレールを歩いてきた俺が初めて感じた重圧に少しだけ中学時代より前に進めた感じがした。
滝野と話した二日後、俺は傘木を昼休みに屋上へと続く階段へと呼び出した。ここは人気が少なく聞かれたくない話をするのに打って付けだった。
「何?話って?」
「…部活のことで、少し話がしたい」
乾燥した喉を潤すために唾を飲み込んだ。閉鎖的な空間は夏の暑さと息苦しさで俺の鼓動を速め、手汗が滝のように流れ出た。緊張と不安を押し殺すように強引に手の汗をズボンで拭った。
「このまま先輩に真剣にやろうって言うだけじゃ何も変わらないじゃないか?」
顔を歪める彼女を無視して続けた。
「希美が間違ってるわけじゃない。これ以上抗議しても暖簾に腕押しなだけだ」
「なら、どうしたらいいの!!みんなと約束したの、真面目に練習できる環境にするって。私がやらなきゃ…」
「先輩に言ってだめなら、もっと上に頼ればいい。梨花子先生に大勢で伝えれば多少は改善するはず…部活の問題を自分の査定に持ち込まれたくはないだろうから解決に向けてきっと動いてくれると思う」
彼女はハッとした様に顔を上げた。
「そっか…そうだよね。一か月も言い続けて何もなかったんだからやり方くらい変えなきゃ!
また、侑に助けられちゃったなぁ」
身近にある嫌悪感に充てられきっと視野が狭くなっていたんだろう。彼女の真っ直ぐに行く人柄は魅力的だと感じる反面、こうした危うさが俺は気がかりだった。
「俺も全力でやってみたいんだよ。だから、部の改革、手伝わせてよ」
ありがと!そう彼女が元気よく言うとちょうど予鈴が鳴った。一年の教室は一階にあるため急がなければいけないかもしれない。
「うわ、もうこんな時間!?侑、早く戻らなきゃ!」
階段を駆け下りる彼女に俺も続いた。踊り場が暗かったせいか窓から差し込む日差しが眩しく思わず目を細めた。
「侑!今から時間ある?こないだのこと、みんなで話したいの」
とある放課後、部活も終わり帰宅の準備をする俺を傘木が呼び止めた。
「今、南中のみんなと話してたの、梨花子先生に直談判しに行こうって。侑にも来てくれたらうれしいんだけど…」
「わかった。すぐ行くよ」
彼女をあまり待たせないようにといそいそと片付け、教室を出た。傘木は俺を待っていたことをあまりに気にしていないのか上機嫌に鼻歌を歌い跳ねるように歩いた。
「それなんて曲?」
「昔よく見てたアニメのオープニング。女の子が変身して戦うやつ、知ってる?」
小さい頃、梓が好きだったような。休日はクラリネットの習い事で朝から家を空けることが多くなったからか傘木の言った曲はあまり印象にない。
「妹が好きだった…と思う。俺はあんまり」
「そっか。侑、妹がいたんだ。妹さんは楽器とかやってるの?」
「北中でトロンボーンやってる。立華でシングやりたいからって頑張ってるんだけど最近、根を詰めすぎてて心配で」
「侑、ちゃんとお兄ちゃんしてるんだね。兄がいたらもっと楽しいんだろうな。うち、一人っ子だから」
そう言うと、想像しているのか目を細めた。一人っ子は上の子よりも下の子を両親が甘やかすということを知らないのだ。
「いいことばっかりじゃないよ。喧嘩だってするし」
「そうなの?侑が喧嘩してるとこなんて想像つかないなぁ」
そんなにいい人に見られているのかと彼女の言葉に苦笑した。
「着いたよ。ここでいつもみんなで音合わせたりしてるの」
「わざわざ呼びに来たの?距離あるんだから連絡くれればよかったのに」
「顔見知りしかいない教室に一人で入るのは勇気いるでしょ?だから、迎えに行ってあげたの!」
おまたせ!扉を思い切り開けると視線が一気にこちらへ向いた。値踏みするような不躾な視線に眉を潜め、視線の元へ行くことを躊躇う。
「なにしてるの?早く入ろうよ!」
傘木に促され、重い足取りで教室へ入った。二、四...南中出身者は八人もいたのか。この人数で抗議すれば流石に無視はできないはずだ。
「初めまして、佐々木侑です。えっと...今日は梨花子先生に抗議する内容を決めるって聞いてるんだけど…」
そう!強く机を叩く音が聞こえる。驚きのあまり身を竦め、ちらと音の主を見るとぴょこぴょことあまりに大きいリボンが揺れていた。
「あいつら全然練習しないの!ずっとトランプとか化粧してるだけ!」
叫んで落ち着いたのかはたと此方をようやく認識したように見ると溜息をついた。
「希美が紹介したい人がいるなんて言うから誰かと思ったけど佐々木だったのね。本気でこいつが全国目指したいなんて思ってる風には見えないんだけど」
同じ部活の人間にあたりが強すぎるだろ。あまりの物言いに面食らったが作り笑いを乱さぬように一つ咳払いを入れた。
「…金管と木管じゃあんまり関わりないもんね。今日はよろしく吉川さん」
吉川は不機嫌そうに顔を背けた。その態度に困ってしまい、傘木の方を見ると彼女も苦笑いしていた。ごめんねと口パクをすると次の人を紹介するように言った。
「こっちがサックスの若井菫。中学からずっとサックス吹いててすっごい上手なの!」
彼女は同じ木管のため吉川に比べれば交流はあった。最も会話をしたことはなく、演奏を聞いた程度でしかないが、傘木の評するように高い技術を持っていた。
「よろしく。佐々木君の話は希美からよく聞いてる。プロ顔負けの演奏だって」
若井はうんざりしたように言った。その言葉に焦ったように反論する。
「そんな何回も話してないでしょ!本人がいる前で言わないでよ!」
顔を真っ赤にして異議を唱える彼女を無視し若井が紹介を引き継いだ。一気に七人も紹介をされると全員の名前と顔を一致させるのは難しそうだった。吉川のように目立つアクセサリーでもつけてくれればいいのに。
「最後があそこに座ってる中川夏紀」
名前を呼ばれた中川はダルそうに片手を上げるとまた腕枕に顔を埋めた。彼女は何のためにここにいるのだろう。すぐに寝たのか呼吸に合わせ体が揺れる。いつからか照れも治まったのか傘木が勢いよく宣言した。
「じゃあ、みんなの紹介も終わったことだし、梨花子先生に抗議する内容を決めようの会を始めまーす!」
何だその名前は。特徴的というには些か飛び出しすぎた名前に困惑したが周りはいつものことなのか誰も指摘することなく会議は続けられた。先輩の嫌がらせ、不真面目な様、共通認識を確認していくがそれ以上進展はなく、いたずらに時間が過ぎていった。
「侑はどう思う?」
顎に手を当て思案する俺を傘木が呼ぶ。俺も大体同じ意見だったため特に何かあるわけではなかった。
「そうだなぁ…あまり風呂敷を広げても仕方ないしこの内容でいいと思う。ただ、梨花子先生にはいじめが酷くなってるってとこを中心に伝えよう。三年たちも最後のコンクールには出たいはずだから先生に釘を刺してもらえれば練習態度は幾らかよくなるはずだ」
こちらの真面目に練習をしたいという思惑を通すために嫌がらせを盾とするのは心苦しいが先生がみんな仲良くと言ってる以上そちら方面でしか部を動かすことはできないだろう。
「そうだね。最近、物が隠されたりしてる子もいるみたい。そのことも一緒に話そうよ」
なんとか最終下校時間までには決まったみたいで胸を撫で下した。時計はすでに六時十分を指していたが、空はいまだ明るく強い日差しが照り付けていた。帰りの汗による不愉快さを思い憂鬱となる俺を傘木の一言が現実へ引き戻した。
「よし!直談判の内容も決まったことだし明日梨花子先生に言いに行こう!」
「明日!?」
俺の叫びに傘木は首を傾げた。
「何かまずかった?」
「いや、そうじゃないんだけど…」
「こういうのは早い方がよくない?折角決まったんだからさ」
傘木の言葉に俺は押し黙った。彼女の言うことは何も間違っているところはない。俺が小心者だから心配しすぎているだけなのだ。
「わかった。明日抗議しよう。行くときはこの場の全員で行こう。みんなで行けば説得力も増す。きっと先生も分かってくれる」
「うん、そうしよう!みんなでこの部活を変えよう!!」
手を上げた傘木に追従しみんなで拳を掲げた。
ついに決行の日、昼休み職員室を団体で訪れた俺たちに梨花子先生は目を丸くした。
「そんないっぱいで来てどうしたの?傘木さん、部活のことで何か質問?」
決意を固めるように両手を握り締めた。
「…三年生の練習態度、どうにかなりませんか?もう少し真面目にやるように先生から言ってください!」
「そうは言ってもね、あまりハードにやったら音楽が嫌いになっちゃう子もいるのよ。うちの部はみんなで楽しくやりましょうっていう活動方針だから」
ごめなさいねと手を合わせる先生に傘木達は苦い顔をした。ここまでは想定内。部全体が向上心を持たずにやっていることは入部してからしている。俺は傘木から話を引き継ぐように一歩前に出た。
「先生は最近、一年生がいじめられていることをご存じですか?」
「いじめ?そんな話聞いたことないけど。みんなで仲良くやっていると部長から聞いてるわ」
「ここ数週間、無視されたり物を隠されたりしているそうです。ここにいる佐伯も楽器ケースに着けていたキーホルダーが入ってもいない他のパートの教室にあったと言っています。幸いそこで練習していた一年が見つけてくれたため大事にはなりませんでしたが...」
そこまで言うとようやく梨花子先生は重い腰を上げた。
「…なるほど。あなたたちの主張はわかりました。いじめがあるかどうか、部員にヒヤリングして判断しようと思います。勇気を出して伝えてくれてありがとう」
先生は優しく笑いかけた。その言葉に俺たちにどっと疲れが襲ってきた。一先ず部の環境改善に向け、一歩進むことができた。職員室を出て話せばわかってくれそうでよかったと盛り上がっているみんなを遠巻きに見る。
「いやー、緊張したよ。侑が入ってくれなきゃ話すこと全部飛んでたかも」
「協力するっていった手前あれくらいしなきゃな。それよりあっちに混ざらなくていいの?」
いつからか隣にいた傘木にみんなに混ざるように言う。彼女ははにかみながら首を振った。
「今は、侑にお礼を言いたくってさ。それにまだ、先輩達が真面目にやるようになったわけじゃないから」
「ありがとね。ずっと助けられてばっかりだ、私」
申し訳なさそうに彼女は言った。
「これくらいで助けなんて思わなくていいって。礼なら結果が出てから言ってよ」
「そっか。ならこれから頑張ろ!」
差し出された手を俺はしっかりと握った。握る前に拭いたはずの手汗はすぐにまた噴き出した。