取り残されたミアザは少しの間、ドラグオークの立っていた場所を見つめたまま動かなかった。否、動けなかった。
「……負けた」
あの男、ドラグオークは明らかに本気ではなかった。撤退の理由も決して負傷からではない、ほんの気まぐれのようなもの。そもそも
あのまま続けていたら、圧倒的な筋力差にミアザは押し切られていただろう。
「そうだ。オルカと、リューゼインさん」
気分を切り替え、疲弊した体を引きずるようにして来た道を戻ったミアザ。彼女が見たのは、王都方面へと続く真新しい蹄と車輪の跡。
少なくとも、無事に出発はできたらしい。まあ、それなら良い。
「問題はね……私は王都に歩いて戻るか、迎えが来るまでジメジメの湿地で待つかしなきゃいけないってことじゃない」
ドラグオークの実力を考えれば、二人を先に逃がした判断に間違いはなかった。
頭では分かっている反面、目一杯戦った直後にこの二択はあんまりだろう。そんな衝動に駆られるミアザであった。
幸いリューゼイン達の迅速な行動により、ミアザは夕暮れも終わった頃王都に帰還できた。
「オ~ル~カ~」
「やめるっス先パ……あれっ本当にやめるんスか」
「……やめてない」
とりあえず騎士団宿所前の噴水で鎧の血や泥を落としたミアザは、私室で無事を喜ぶついでにオルカに絡む。が、ミアザのへにょへにょな組手をオルカはあっさりと掴み取ってしまった。
「よっぽど疲れてるみたいっスね」
サイレンスタイガー流剣術は相手の全霊を砕く力強さが身上だが、その負荷を受け止めるだけの
「あの男、相当の強敵だったのでしょう。モルトゥヤ先生に簡単な報告はしてありますから、今日はとにかくお休みください。本当に、ありがとうございました」
「お言葉は、ありがたいんですけど……急ぎの用事があるんです」
「急ぎの?」
「はい。私の家と、あの男に関わることです」
そう言い残したミアザは普段の鎧を着替え、虎革のガウンを羽織ってサイレンスタイガーの邸宅兼道場へと向かった。
彼女の生家でもある豪邸は、騎士団宿所から二十分ほど歩いた場所に門を構えている。鉄柵の上では家紋の虎がいたずらに近づく者を威圧し、門を超えた先は直角に幾度も曲がる通路が侵入者の勢いを削ぐ。
「我が家ながら、部外者立ち入り禁止過ぎて……っとと」
歩きなれたミアザですらつんのめる凸凹の地面。王宮と見まごう程美しい白亜の城も、客を迎えることなど欠片も考慮していない構造のせいで台無しである。
どうにか歩き抜けたミアザは、
「お嬢様、お久しゅうございます」
そこの門番を務めているのは、現当主の甥っ子。ミアザにとっては従兄にあたる。
「様付けはまだしも名前で呼んでよ、トゥルーファ。お爺ちゃんは起きてる?」
「ええ。ユーゲン様はお夕飯の後、何やら部屋で
「……あぁ、そう。元気で良かった」
先代当主ユーゲン・サイレンスタイガーはかつて酒の席で「ワシの体には赤い血ではなく子種が流れておるんじゃあっ」と言い放ったほどの豪傑。齢七十となってなおその精力は衰えていないらしい。
「お呼びしますので、少々お待ちを」
マシェットの案内で広々とした応接間へと通され、座して待つこと暫し。扉が開き、蝋燭の灯りを禿頭が反射した。
明らかになったユーゲン・サイレンスタイガーの姿は、ミアザの記憶より少し痩せたように見える。しかし世間一般に照らせばまだまだ肩幅逞しく、眼差しにも力が満ちている。
「やっ。いつぶりかのぉミアザ」
「年明け以来です。ご無沙汰しておりました、お爺様」
「あっはっは! やめてくれやめてくれ、」
ミアザの挨拶を聞いたユーゲンは、くすぐったそうに大笑いした。が、ミアザの浮かない表情から茶化している場合ではないと察する。
「……何じゃ。此度の相談は重そうじゃのぉ」
「単刀直入にお聞きします。お爺様は、ドラグオーク・サイレンスタイガーという名に聞き覚えはございませんか」
「どこでその名を聞いた」
ドラグオークの名が出た途端、ユーゲンの目がきっ、と鋭くなった。ミアザの肌が一瞬で粟立ち、蝋燭の灯さえその揺れを増す。
「そう名乗る男と、今日剣を交えました。
「奴が、鬼龍派に……。こりゃワシとお主だけで収まる話じゃないのぉ」
そう呟いたユーゲンは、一度席を立つ。
「待っていなさい。マシェットも呼んでこよう」
マシェット・サイレンスタイガー。よく手入れされた浅黒い肌にダンディな口髭、後ろで束ねたしなやかな茶髪は、一見して武門の当主とは思えない洒落っ気を纏っていた。
若い頃はさぞや美少年と持て囃されただろう。不惑を超えた今でも相当の二枚目であり、ミアザにとっても自慢の父。
「ドラグオーク。確かにそう名乗ったのだな。ひとまず、よく無事で戻った」
ミアザから事の経緯を聞いた彼は、ひとまずそう労った。
「して、どうだった? 奴の力の程は」
「……今の私では、逆立ちしても敵わないと思います」
マシェットの問いに、ミアザは率直な所感を述べた。癪ではあるが、大人と子供の喧嘩といっても過言ではないほど両者の力には差があった。
「お前をしてそう言わしめるか……。伊達や酔狂で名乗っているわけではなさそうだな」
「一体、あいつは何者なんです? 持っていた『
知っているなら勿体ぶらずに教えて。そんな思いからミアザはずいっと前のめりになる。無言の圧を感じ取ったマシェットはユーゲンを見る。
ユーゲンはゆっくりと一度頷き、ドラグオークという男について語り始めた。
「ドラグオーク。かつて『猛虎を超えた猛虎』と称された……ワシの兄じゃ」
「兄? サイレンスタイガーの正統後継者候補だったんですか」
「ウム。奴に何事もなければ、当主になっておろうなぁ」
記憶を掘り起こすユーゲンの表情は惜しんでいるようにも、怒りを堪えているようにも見えた。
「本当に強かったよ、勿論ワシよりもね。じゃが、ドラグオークには致命的な弱点があった」
「弱点? ま、まさか……」
ミアザにふと一つの可能性が思い浮かび、ユーゲンに促されて言葉を続ける。
「
「ご名答、よく分かったのぉ。サイレンスタイガーの象徴たる虎咬が、奴を拒んだのよ。まっ、お主の話を聞くにそうもなるわな……」
鬼龍派に身を落とすような者を、魔性を祓う宝剣が後継者と認めるはずもない。ドラグオークの本質を、虎咬はしっかりと見抜いていた。
「虎咬を握れぬ者に、継承者となる資格なし。ドラグオークは後継者から外され、ワシが当主に決まったんじゃ」
「それでドラグオークは、サイレンスタイガーを憎んでいるんですね」
「憎んでおるだけなら、まだ良かったんじゃがのぉ」
ユーゲンは深くため息をつき、続ける。
「奴はサイレンスタイガーの血縁を絶やそうと、ワシらに刃を向けたんじゃ」
「! そんな……」
「ワシの親兄弟に甥っ子姪っ子……まあ大勢荼毘に付したよ。そして奴の剣は優秀な剣士の血を浴び過ぎた結果、魔剣『
自らの頭をペシッと叩くユーゲン。当時虎咬を所持していた彼の奮戦により、ドラグオークは重傷を負い姿を消した。
語り終えたユーゲンは、マシェットに水を向ける。
「マシェットは、この時まだユミコバの腹の中じゃったか」
「母上から直接聞いております。父上のおかげで、自分は生きて産まれてこられたと」
「あっはっはー! 惚れた女も守れんでは『豪傑』の名が廃るからのぉ」
「……」
黙って二人のやり取りを見守るミアザ。
「どうしたミアザ。父上の話が怖かったか?」
「なっ、違うわよ! あっ……」
「あっはーっはっはっは!! ついに仮面がはがれたのぉ」
「ですねえ」
ユーゲンが爆笑し、マシェットもずっと堪えていたらしい笑いが遂に漏れる。頬を膨らませたミアザはぷぅっと息を吐いた。
「頑張って敬語使ってたのに」
「何じゃあ、覚えたばかりの言葉を使いたがるガキんちょかお主は」
「この家で肩肘張る必要はない。ドラグオークについては、私達も調べておこう。お前は何も心配せず、強くなれば良い」
「強く……うん、頑張る。二人ともありがとう」
敵の正体は分かった。ミアザはすっきりした笑顔を見せる。
「ドラグオーク、良い目、標……」
そのまま席を立とうとして、彼女の体から不意に力が抜ける。
「あ、ぇっ?」
「なにっ。どうしたミアザ!?」
マシェットが血相を変え、床にくずおれたミアザを助け起こす。明らかに疲労から来たものではない。
「まさか……。ドラグオークめ、どこまで外道かっ!!」
まるで生命力そのものが急激に萎んだような倒れ方。真相を察したユーゲンが怒りに吼えた。