翌日、三人の間に流れる空気は気まずかった。リーゼに関しては、正確にいうとアレスが一方的に気まずさを感じているだけで、彼女自身は至って通常運転だ。他の船員たちも、その空気に気付いているのかいないのか、態度は昨日と変わらない。
変わったことといえば、アレスが露骨に二人を避けるようになったことくらいだ。チトセは自分から避けることはないが、できる限りアレスに近付かないように気をつけているようだった。それでも時折アレスを気にするような素振りを見せたが、アレスはそれを気付かぬふりをしてやり過ごした。
次の島に着くまで、アレスはもうこのままでいるつもりだった。チトセともリーゼとも顔を合わせず、話もしない。リーゼにはまだ未練があったが、話してもまた惨めな気持ちになるだけに思われて、とてもじゃないが声をかける気にはなれなかった。そもそも彼女は相変わらずチトセとセットなので、話しかけようにも近付く気さえ起こらない。
最初はやや浮かれていたこの船での滞在も、今となっては苦々しいばかりだ。
早く島に着くことをひたすらに願いながら、アレスは与えられた雑用に勤しんで時間を潰した。
そんなとき、突然それが起きた。
ドォン!!
突然の砲撃音、そして激しい揺れ。
船は何者かの襲撃を受けていた。ちょうどアレスが甲板でモップ掛けをしていたときのことだ。
「船長!! 2時の方向から海賊船が!!」
双眼鏡で辺りを確認した船員がそう叫ぶ。その声につられてその方向を見ると、確かに船の姿が確認できる。大きさはこちらの船の倍はありそうだ。その船はこちらに向かって砲撃を撃ちながら、ぐんぐんと距離を縮めてくる。
アレスはこの事態に顔を青ざめさせたが、周りの船員たちの様子は違った。
「久々の獲物だな」
「どっちがたくさん倒せるか勝負しようぜ!」
「シャチはそればっかだな」
「その方が張り合いがあって楽しいじゃんか」
準備運動をするように腕や足の筋を伸ばしながら、そんなやりとりをしている。
まるでこれからちょっとしたゲームでも始めるかのような口振りだ。
(こいつら、そんなに強いのか?)
彼らの余裕そうな態度にアレスは不安が拭えない。ジャンバールという大柄の船員や、船長であるローはいくらか強そうに見えたが、他の船員はそれほどでもないように彼には見えていた。特に、リーゼとチトセ。
まさかあの二人も戦うのだろうかとつい彼らの姿を探していると、チトセだけは見つかった。彼はローとなにかを話しているところだった。そのチトセの視線が不意にアレスの方を向く。必然的に二人の視線はぶつかり合うこととなった。
アレスは思わずぴしりと固まったが、突然辺りを覆った影にすぐに我に返った。
敵方の海賊船がこちらの船に横付けしてきたのだ。
「乗り込め野郎どもォ-!!!」
そんな掛け声と共に、次々と海賊が飛び移ってきた。
見るからに凶悪そうな顔をした男たちを前に、アレスは立ち竦む。だが、その彼の腕を引いて導く手があった。
「チ、チトセ……」
「ここにいたら危ない。中に入ろう」
そう言って、チトセはアレスを連れて早足で船内に入る扉へと向かっていく。背後ではすでに戦いの喧噪が広がり始めている。そこから離れられるのかと一瞬ほっと息を吐いたアレスだったが、ふと気になることがあった。
「リ、リーゼは?」
「……リーゼは大丈夫だよ」
半歩前を歩くチトセがちらりとアレスを振り返ってそう言った。
その台詞で、アレスは彼女があの喧噪の中にいることを悟る。
「お前は戦わなくていいのかよ?!」
「え、俺? 俺は……うん、ちょっとパス」
困ったような顔でチトセが答える。その返事にアレスが感じたのは、激しい怒りだった。
(リーゼが戦ってるのに、こいつは戦わないのか? 安全なところで、戦いが終わるのを待つだけ?)
知らずとアレスは立ち止まっていた。船内への扉はほんの1,2メートル先のところにある。
チトセが焦った様子でアレスの腕を引っ張ったが、アレスは動き出さない。
「アレス!? 立ち止まっちゃダメだ、早く中に」
「うるさいっ!! お前みたいな卑怯者なんか、オレは……」
チトセの手を振り払い、アレスは叫ぶ。
例えば、少し冷静になって考えられたら、チトセがアレスを保護するために戦わないことを選んだことがわかったかもしれない。さきほど目が合ったことを考えれば、ローにそういう命令をされた可能性にも気付けたかもしれない。
だが、このときのアレスは完全に頭に血が上っていて、そんな可能性には微塵も気付けないでいた。戦っている仲間たちの影にこそこそと隠れている卑怯者。チトセのことがそういう風に見えていた。
チトセは呆気にとられた様子でアレスの言葉を聞いていたが、不意にその表情がハッと険しいものへと変わった。
「危ないっ!!」
そう叫んだかと思うと、次の瞬間アレスはチトセに飛びつかれるようにして後方へ倒れ込んだ。構える暇もなく床に叩きつけられた痛みに顔をしかめる。突然なんだよ、と思ってチトセの肩越しに視線を巡らすと、先ほどまで自分たちが立っていた場所に剣を振り下ろした格好の男がいた。
あのままあそこにいたら確実に斬られていた。そのことを想像して、アレスの全身から一気に血の気が引く。
「チッ、避けられたか……。ガキが二人でこそこそしてどうしたよ? せっかくだ、おれと遊ぼうぜ」
剣を片手に、その男がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて近寄ってくる。男はチトセより二回りは大きく、体つきもがっしりとしており、自分はもちろんのことチトセも到底敵うとは思えなかった。「おれと遊ぼう」ではなく「おれに遊ばれろ」の間違いではないだろうか。
殺される、とアレスが絶望に陥ったそのとき、しかし、チトセが立ち上がった。
「生憎だけど、見知らぬごっついオッサンと遊ぶような趣味はないんで」
「ハッ! 生意気言ってんじゃねェよ!!」
アレスは信じられないような気持ちでチトセの背を見上げた。
まさか戦う気か? とそう疑ったのも一瞬のこと、男が剣を振るうと同時にチトセは動いた。
チトセは男の一撃を器用にかわすと、次に男の手首に手刀を入れて剣を落とさせた。そして、男がそのことに戸惑っている隙に懐へと入り込み、みぞおちに肘鉄を入れる。呻いてふらついた男に、チトセはとどめとして顎に掌底を叩き込んだ。すると、男は白目を剥いてどさりと倒れた。
すべてが一瞬のことだった。
「アレス、今のうちに、ほら」
男をあっさりと伸したチトセが振り返って手を差し伸べてくる。
だが、アレスは呆然としたまま動けなかった。しかし、その掌を見てハッとなった。血が滴っている。見ると、二の腕の部分が斬られて辺りに血が滲んでいた。さっきの戦闘では男の攻撃は掠りもしていなかったから、おそらくアレスを庇ったときにできた傷だろう。
チトセも掌の血に気付いたのか、そちらの手を引っ込めて、もう一方の手でやや強引にアレスを助け起こした。
「また変なのに絡まれる前に入ろう」
そして、アレスはもう一度チトセに手を引かれて、今度こそ船内へと避難した。
扉の内側で、チトセはほっと息を吐いた。そして、すぐさまアレスに向き直る。
アレスは次に来る台詞に身構えたが、チトセの口から出てきたのは「怪我ないか?」という言葉だった。
「…………」
「アレス?」
「……ねェよ」
「あ、嘘。そこ擦りむいてるじゃんか。俺が押し倒したときか? ごめんな」
呆れてものが言えない、とはまさにこのことだ。
アレスの擦り傷なんて、チトセの傷に比べれば気にする価値もないようなものだ。しかも、庇うための行動を謝る。そのせいで自分は怪我をしたというのに、だ。
さらに言い足せば、アレスは前日に「嫌いだ」と面と向かって言っている、チトセからすればいい感情のない相手のはずだ。
アレスにはチトセの考えていることがさっぱりわからなかった。
「……お前、なに考えてんだよ」
「なにって……?」
「なんで、オレなんか庇うんだよ。……オレは、お前が嫌いだって」
言っただろ、とぼそぼそと言うと、チトセはぽりぽりと頬を掻いた。
「んー……まァ、言いたいことはわかるけどな。お前が俺を嫌いなことは俺がお前を助けない理由にはならないだろ?」
「だからって……」
だからといって、一瞬の躊躇もなく敵との攻撃の間に入れるものだろうか? しかも、自分が傷を負うことも顧みずに。
確かに、いくら相手と仲が悪かったとしても、酷い目に遭えばいいとは思わない。相手が窮地に陥っていれば、助けようとも思うかもしれない。だが、それは口で言うほど簡単なことではないはずだ。まして、こんな生死の絡む状況では尚更だ。
そう思ったが、それを口にするのはなんとなく躊躇われた。
そうしてアレスがなにかを言いかけて口を噤むと、チトセは後に続く言葉をどんなものと勘違いしたのか、「まァ、お前は俺みたいな腰抜けに助けられて不満かもしれないけどさ」と溜め息を零した。
嫌味にしか聞こえないその台詞にアレスがむっとなって「嫌味かよ」と返すと、チトセは意外そうな顔をする。
「え、全然。だってその通りだし。俺、基本的に争いごと苦手だしさ。実は、戦闘になると未だにちょっと足竦むんだ。海賊なのに、情けないよな。こんなんだから、アレスが俺見てイライラしたりするのもしょうがないと思う」
そう言って、チトセはへらりと笑った。アレスが苛ついてしょうがなかった、あの笑顔だ。
しかし、今のアレスはその笑顔にモヤモヤとしたものを感じていた。
「戦闘になると足が竦む」くせに他人を庇って飛び込む人間のどこが情けないというのだろう。
アレスでさえそう思うのに、チトセは自分のことをそういう風には認識できないらしい。
「ていうか、俺のことは置いといてさ、とりあえず手当てしよう。な?」
そうチトセが顔を覗き込んでくる。その言葉を聞いて、アレスはモヤモヤの正体に気付いた。
(ああ、そうか。こいつ、いつだって自分のことは二の次なんだな)
だから自分の悪口を言われても言い返さない。そのくせ、例えばリーゼが悪口を言われたら、きっと全力で反論したりするんだろう。
アレスはそのとき、唐突にチトセという人間について理解した。ローの言っていた言葉の意味も。
(確かにこいつのお人好しには「バカ」が付くな……)
他人のことにばかり一生懸命な「バカお人好し」、そんなチトセをリーゼは慕っていて、「かっこいい」と言ったのだろう。
そのことを理解したアレスは、悔しがるでも悲しがるでもなく、ただただ脱力した。
「……オレ……やっぱりお前のこと、嫌いだ」
ぼやくように言う彼の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
それからのアレスは、それまでのぎすぎすした態度が嘘だったかのように自然体で過ごすことができた。チトセに対しても、嫉みや苛立ちといった感情は消え失せ、多少生意気な態度を取ることはあっても、一応友好的な範囲内でのことだった。リーゼとも、チトセや他の船員を交えながら言葉を交わす回数が増えた。
ようやくわだかまりがなくなり、いろいろなことが上手く運び始めていた。
しかし、チトセたちとの航海は思いの外早く幕を閉じることになった。
次の島まではまだ少しあったのだが、アレスの乗っていた漁船と遭遇したのだ。彼らは、あの嵐の日からしばらくアレスを探してこの辺りの海を漂っていたらしい。
最初は海賊船だというので漁師たちはかなり怖々とした様子だったが、アレスがことの経緯を説明するとすぐに改まった態度で感謝を述べた。
「なんだ、もう行っちまうのか」
「元気でな」
「もう遭難するなよ-」
元の漁船へと乗り移るアレスを見送りに、甲板に集まった船員たちが各々声をかけた。
チトセはいない……かと思えば、奥の扉から慌てて出てきた。
「アレス! これ、よかったらアレスんとこのみんなで食べてくれ」
そう言って、木のバスケットを手渡してくる。なんだこれ? とアレスが首を傾げると、「コーヒーゼリーだよ」とチトセが答えた。
「本当は今日のデザートにと思ってイッカクさんと作ったんだけど、アレスもう行っちゃうって言うから」
「え、でも」
「餞別にってことで」
戸惑うアレスにチトセがにっと笑いかける。
「……お前って、ほんと変な奴だよな。世話になったのはオレの方なんだから、普通なにか渡すならオレの方だろ」
「ん? あれ、そうか? んー、でもまァ、いいだろ。俺があげたいんだ。受け取ってくれよ」
照れたように笑って、チトセがもう一度「はい」とバスケットを差し出してくる。
アレスは呆れたように肩を竦めてそれを受け取った。
(ほんと、変な奴。けど……うん、まあ、嫌いじゃない)
認めざるを得まい。
アレスは心の中で人知れず溜め息を零す。
そして、次にリーゼの方を見た。目が合って、顔を寄せるようにと手招きすると、彼女は少し不思議そうにしながらも素直にその通りにしてくれた。
距離の近さにどきりとしつつ、アレスはそっと彼女に耳打ちをした。
「チトセってさ、かっこいいな」
アレスの言葉を聞いてから顔を離したリーゼはきょとんとした後、「うん」と頷いた。顔に微笑みを浮かべながら。
それは初めてアレスに向けられた感情らしさのある表情だった。
(あーあ、ほんと、完敗だ)
今度は実際に溜め息を吐いて、アレスは短い恋の終わりを噛みしめた。
悔しい、切ない、寂しい。だけど、清々しい。
そんな不思議な気分だった。
「お前、今リーゼとなに話してたんだ?」
「内緒だ、バーカ! リーゼ、内緒だからな!」
チトセに言った後でリーゼにそう念を押すと、彼女はしばらく迷うような間を置いた後、こくりと頷いた。
「えェー、気になる……」
「一生気にしてろ」
「厳しいなァ」
と、そんなやりとりをした後、少しの沈黙が流れる。
「……じゃあ、オレ行くよ」
「うん。元気でな」
「お前もな」
最後の挨拶を交わして、アレスは自分の船へと乗り移った。
互いの船が出航し、だんだんと距離が開いていく。すぐに顔が見えなくなるくらいに遠くなる。
そのときになって、アレスは彼らの船に向かって大きな声で叫んだ。
「チトセー!! いろいろ悪かったな!! ありがとう!!」
それは、アレスにとっての敗北宣言であった。
チトセの影がひらりと手を振る。顔は見えないが、きっとまたあのお気楽な笑顔を浮かべているんだろう。
その様子を思い浮かべて、アレスはふっと微笑んだ。