毎日が師走のような忙しさだった。そんな日々に句読点を打つようなイメージで花見をしたかったけれど、舞いこんでくる書類を前に叶わぬ望みとなった。桜は気づけば葉桜となり、そして新緑となった。いっそのことオフィスに溜まった書類をすべて散らせば、花吹雪よりも見事な紙吹雪になるかもしれない。ユウカが絶叫する姿が浮かんだ。
ワイヤレスイヤホンの充電が少なくなったことを知らされ、そのいきなりの機械音に驚き、いったん生の世界の音を味わう。都会の環境音は乾燥していた。
スマホで時間を確認する。そろそろ杏山カズサがやってくる時間だ。イヤホンを充電して、替えは取り出さずに仕事を続けた。
オフィスにやってきたカズサは開口一番「ええと、何か手伝ったほうがいい?」と苦笑した。ひと通り室内を見渡したカズサと目が合う。
「難しい書類とかは読めないけど、それ以外のことなら手伝えるよ」
「平気だよ、ありがとう。いつものことだから気にしないで」
「う~ん……いつもこれはちょっとどうなんだろう」
ドアの前に立ったままのカズサに「ひとまずかけたら」とソファを示す。
学校から頼み事をされることは多いけれど、個人から頼み事をされたのはこれが初めてだった。もっとも、銀行強盗の誘いや温泉開発の誘いを除けば、の話だけれど。
「飲み物は紅茶のほうがいい? ティーバッグだからあれだけど」
「トリニティのみんながみんな茶葉にうるさいわけじゃないよ。私はそんなに詳しくないし。先生と一緒のであればなんでも」
「あとこれ」とカズサは後ろ手に持っていたケーキボックスをテーブルに置いた。
「差し入れ。先生が甘いの平気かどうか分からなかったんだけど……平気だった?」
「お~。ありがとう。ちょうど休憩したかったんだ」
人好きのする笑顔を意図的に浮かべた私を見て、カズサは肩の力を抜いた。
気合を入れてドリップマシンからコーヒーをいれる。二つのマグカップを持って席につく。ケーキをよそってくれていたカズサの顔が歪む。
「あ」と声を上げた私はスティックシュガーとミルクを一つ取って戻る。「あの」「おっけー」まだ駄目そうな表情なのでもう一組追加した。ついでにスプーンも差し出す。
「ごめんね、気づかなくて」
「こっちこそごめん。てっきり紅茶だと……そっか、大人だもんね、先生は」
カズサはマグカップをかきまぜてひと口飲み、ほほえんだ。一つひとつがゆったりした動作は上品だった。
ホログラム越しで自己紹介は済ませていたので、私はいきなり本題に踏み入った。
「それで、相談っていうのは」
「そんな大げさなことじゃないんだけどさ……」
カズサはケーキの鋭角をフォークで切り取る。あまりおいしそうに食べていない。ゆっくりと咀嚼する。喉が一度、小さく上下する。
「それに、大人に頼るのってあんまりしたことないから……その、順番とか、礼儀とか、間違ってたらごめんなさい。……すみません」
「大丈夫だよ。ここは依頼があれば猫探しから世界の危機まで取り扱うシャーレだからね。心配しないで。相談があるの一言で十分」
「それは取り扱い過ぎじゃない?」
口もとを隠して笑ったカズサは「それならお言葉に甘えて」と切り出した。
「私さ、ストーカーされてるみたいなんだよね」
カズサはなんでもないことのように言ったし、目を丸くする私を見てもその態度を変えなかった。動揺のあまり「キヴォトスではそれくらい当たり前なの」と聞くと首を振られたので、ストーカーは一般的ではないらしい。だが、カズサは落ち着いている。
詳しく話を聞けば、ストーカーの犯人に心当たりがあるようだった。加えて正義実現委員会やヴァルキューレ警察学校を巻きこみたくない様子だった。
ホールケーキで言う外周部を小分けにしておいしそうに食べるカズサは、茶色になったコーヒーを口に運ぶ。
「学校始まって部活があって、その上でバンドやって、そこからさらにストーカーだなんて私も手回んなくてさ」
「ずいぶんと多いね」
「いやまぁ、バンドはちょっとした出し物で決まっただけだから、文化祭が終われば落ち着くよ」
「へぇ、バンド」
ずくっと胸が痛んだ。心臓に刺さっている釘が槌によって打ちこまれ、一過性の鋭い痛みとなり、それが過ぎたら拍動とともに鈍痛が続いた。太陽が沈んでから徐々に和らぐ初夏の暑さのように、やがて痛みは穏やかになった。悔いが心の杭となっていることを、私は自覚している。
私はさり気なく両手をテーブルの下に隠した。そしてカズサの左手を盗み見た。女子にしては短いように感じられた。カズサが私の様子に気づいたようには見えない。
まるでテスト前に勉強していないことをあけすけに嘆く高校生みたいなノリで、カズサはストーカーの話を続けた。
特段してもらいたいことはない。解決すれば御の字。バンドに注力したいからその間だけどうにかしたい。あとは自分でなんとかしてみるから。
「ええと……トリニティの文化祭までにカズサが困らないような解決策を考えればいいの?」
「うん。そんな感じかな。でも無理そうならいいよ。こうして話せただけでも気が楽になったから」
「困っている生徒を放っておくわけにはいかないかな」
「そう? 先生だって忙しいんじゃないの?」
カズサは私の背後に控える紙の束を見た。よくできたメイドみたいに音のない確かな存在に私は苦笑する。
「急ぐものはそんなにないよ。それに、大きなものを見てばかりで目の前の悩みを見ないふりするのも違うと思うし」
「なんか先生っぽいね」
カズサはくすりと笑った。
ケーキを食べ終え、コーヒーを飲みながら軽い談笑をして、流れで勉強を教えることになったので勉強を見た。最終的に、ストーカー対策は明日から考えることになった。
オフィスに入る光の色が少しずつ変わっていく。影の傾きが大きくなる。長く伸びる。
空が燃え盛って、雲の下のほうが橙色に染め抜かれている。背の高いビルたちが夕日を取り合っていた。ビルの窓に反射した光は暖色を帯びている。太陽が沈む瞬間はどこにいたって、世界全体が淡黄色のベールに覆われる。
夕焼けの一瞬の力強さと儚さは、同じく一瞬を切り取る写真よりも鮮烈だと思う。一日の中で人々が感じた現実の厳しさや疲れが募り、昇り、焼かれ、輝く。
終わりはいつだって輝かしい。だから憎い。気づけば拳を握っていた。
勉強道具を片付けたカズサは、私を正面から見つめていた。目が合った。カズサは優しい笑みを浮かべた。
「仕事、手伝うよ」
「……いいの?」
「うん。してもらってばっかりだと私も居心地悪いし」
「ありがとう」
カズサに仕事を手伝ってもらい、八時に切り上げた。
「送るよ」荷物をまとめるカズサの背中に言葉を投げる。猫みたいにしなやかで華奢な背だった。
最初は「危ないから」とか「バス停からシャーレまでは誰が送るの」と拒んでいたカズサだったけれど、私の意思がかたいことを悟ってからは、渋々といった具合いで頷いた。ヘアピンからこぼれた髪を耳にかけた仕草の上で、猫耳がくすぐったそうに動いていた。
オフィスを出ていったカズサを追う。電気の確認のためにオフィスを振り返る。遠くのビル群が、滲んだ光を放っていた。背の高い輪郭が溶け合って一つの大きな怪獣のように見えた。
「気持ちいいね~」開いた自動ドアから屋内へひゅうと吹いてきた風に、カズサの髪が靡く。桜色の尾が流れる。
カズサは春の闇に疲れを溶かすように伸びをした。パーカーの袖が重力で落ちて、雪のような手首が覗いた。
冬は夜空が冷たい。春は夜風が冷たい。磨き上げられて澄んだそれらは孤高の冷たさを持つ。息を吸うたびに、私の体からはぬくもりが引いていった。
どちらともなく歩き始めて、不意に私が口を開いた。
「私のいた場所では、夜道を女の子が一人で歩くのは危なかったんだ」温度が下がらなければいいな、なんて思いつつ夜風に言葉を託した。
目抜き通りには街灯が多い。加えてそこかしこのビルから光がもれていたので歩くのには苦労しなかった。
「それ、女の子より弱い人がいるってことを忘れてるね」
「誰だろう。赤ちゃんとか?」
「ちょっと先生」咎めるような声に肩をすくめる。
鏡を見てなんて言われたら、私ってそんなに赤ちゃんに似てるかな、と返そうとしたのだが予想が外れる。
「先生ってけっこう冗談言うんだね」
「わりと本気だったんだけどなぁ」
「ふーん」
何かを含んだカズサの視線を受け流す。下のタイルを見て、それから上を見る。
ベッドの中にうずくまっているような、闇とも黒とも墨ともつかない重みが天に貼りついていた。そういえば夜からは曇りの予報だった。煌々と輝くビル明かりが重みに抗って広がっている。その下を私たちは歩く。
「普段からそんな調子なの?」
「それなりに、かな? どうして?」
「ううん。なんていうか、分かってないなぁって。優しそうなのはいいんだけどさ」優しさの中に不機嫌がまざったような声が返された。これはきっと夜のせいじゃない。そう思った。
シャーレから離れるに連れて人は多くなっていった。
どうやら今日は金曜日だったようで、一次会を終えた酔漢が多かった。赤ら顔で気持ちよさそうに二次会がどうとか言っている団体の隙間を縫い、私とカズサは粛々と最寄りのバス停を目指す。
同じ隙間を通り抜けようとときどきぶつかったり、お見合いをして二人揃って立ち止まったりする。
そのたびにカズサは照れたように笑った。
私もつられて穏やかな心地になった。
「みんな楽しそうだね」
「仕事終わりだからかな。土日もあるし」
「先生は?」
「私はもう少し……帰ってからも」
都会が抱えた闇に夜風が乗る。
背中に当たる風の重みが一瞬和らいだ。
同じタイミングでカズサが歩調を遅くする。私はそれに合わせる。上目遣いで見上げられたのが分かった。
「無理しちゃ駄目だよ? 先生、キヴォトスに来たときよりもちょっと痩せたでしょ。写真でちらっと見ただけだけど、なんか違うもん」
「それは写真写りの問題じゃないかな……?」
「いーや。頬のラインが違う。そのうち骨だけになっちゃうんじゃない?」
「あながち間違いじゃないかもしれないけど、そこは骨と皮って言ってね」
「またそうやってごまかして……まぁ、私も今のはひどかったけど」
夜に潜むようにして私は笑った。カズサはつんと唇を尖らせた。酔客たちの豪快な笑い声が夜を切り裂いて聞こえる。
二色のタイルが市松模様に配置されていて、私とカズサは一色だけを踏み続ける歩幅で進んだ。二人が踏むタイルの色はそれぞれ違っていた。
私たちは一直線にバス停に向かっている。人生という長い遠回りの対極にあるような、地図の上を指でなぞるような進み方は、正しく距離だった。
しかし、目的地が近づくに従って歩みは遅くなっていった。私はそのことに触れなかった。私はカズサに合わせて歩いていた。
「風、気持ちいいね」
「そう……かな。少し寒くない?」
「私いまパーカーも着てるし、ワイシャツだけだと寒いかもね。ジャケットは?」
「面倒くさいから置いてきちゃった」
「えぇ……? 寒さがこたえるよ」
「そんなに痩せてないって」
「私に喧嘩売ってる?」
「なんで……!?」
ひとしきり笑ってからカズサは静かに言った。なくなった風の分だけ、言葉があたたかく感じられた。
「なんか、春の夜って感じ」
化粧によって色づいたカズサの頬がビル明かりに照らされ続ける。遠目から見た夜の提灯のように朧げで、あたたかい色をしている。シャーレに来たときよりもほんの少しだけ穏やかな表情に、私は安堵した。
「夜ってあたたかいと思う?」
「なにそれ、どういう意味?」
「うーん」少し考えて言う。「季節とか関係なく、夜っていう単語はあたたかいのかどうかって意味」
「ますますなにそれ……」
しばらくカズサの唸る声が続いた。
ペースはさらに遅くなった。カズサがそれを気に病むことはなかったし、私も散歩は好きだった。
「あたたかい、かな」自信のない問題を答えるよう教師から当てられたときみたいに、小さく、不安げな声。
答えてくれたことに礼を言って「そっか」と言った。
「正解ってあるの?」
「ないんじゃないかな。少なくとも私は用意してなかったよ」
「じゃあなんで聞いたの」
「さぁ、なんとなく?」
カズサは深く息を吐いた。
「私バカだからさ、間違ってるんじゃないかって不安だった」
「間違ってもいいんだけどね……なんか、調べたらすぐに正解にたどり着けるのに慣れちゃうとどうしても不安になるよね」
「それはちょっと皮肉すぎるんじゃない?」
カズサは顔をひきつらせた。かと思えば悩ましげな顔つきになった。ころころと表情の変わる子だ。
私たちは初対面にもかかわらず、気兼ねなく言葉をかわした。私はそれが得意だった。これはカズサの表情からあふれる親しみやすい雰囲気も関係しているかもしれなかった。となり同士で交わすには大きくなりすぎた声を気に留めるものはいない。今日は金曜日だった。
「先生は?」
あらかじめ用意していた答えを、少し考えたふうに装って言う。
「冷たいよ。春も、夏も、秋も、冬も。全部ね」
「えぇ~? 夏も?」
「そう。真夏の夜も冷たい」
「暑いって。何よりベタつくのがヤだ」
「それは湿度の問題だって」
「で、どうして?」カズサは立ち止まって腰に両手を当て、眉を思いきり寄せる。まるで納得がいかない。全身でそう言っていた。
「真夏の夜は人が冷たい。だからだよ」
「人が? 何かあったの?」
「ううん、何もなかったよ。私の知っている歌にそんな歌詞があるんだ。歌詞の意味は分からないんだけどね」
「へぇ……不思議。なんて歌なの?」
「いや、マイナーだからさ」
やんわりと引いた線にカズサが気づくことはない。白線の内側を自転車が走っていって、私たちを追い越す。その外側を軽自動車がさらに追い越していった。
カズサは「最近バンド始めたから音楽のサブスク登録したし、いろいろ聞くようにもなったんだよ」と自慢げに話し始めた。どうしても気になるようだった。
腕が触れ合うくらいまで体が近づく。私はそっとタイルの色を変える。
「バンドの曲?」
「そう。バンドの曲。それにさっきマイナーって言ったけど、加えて言えば実はタイトルをよく覚えてないんだよね。歌詞だけ覚えてるみたいな」
「あぁ、あるあるだね……じゃあ思い出したら教えてよ。興味あるし」
「思い出せるかなぁ……頑張ってみるよ」
「そうそう、頑張って」
仕草に出さないようにほっと胸を撫でおろす。歌詞検索もできるよ、なんて言われたらきっとごまかせなかった。
バス停が近づいてきたころ、不意にカズサが足を止めた。マシンガンを肩にかけ直す動作をしたけれど、それだけのために足を止めるとは思えない。
数歩分先で私も足を止める。首だけで振り返るのではなくて、体ごと振り返った。
カズサは短いスカートをきゅっと握りこんでいた。デニール数の多いタイツに隠された素足は不思議と頼りなげだった。
「どうしたの」とできる限り優しく言った。幸いなことに都会のすべてが凪いでいた。まばゆい明かりだけがうるさく、私たちの存在を際立たせている。あちこちにいた人はみな、二次会の会場に行ってしまったらしい。
「……先生の時間がよければ、一つ分くらい、遠回りしたいかも、です」
「構わないよ。どっち方面?」
先生という生き方は難しい。何が生徒の模範となるのかを考え続けなければならない。Aという行いが、ある生徒にはプラスに働いて、別の生徒にはマイナスに働いてしまうところまで含めて全部ぜんぶ。
潰れてしまいそうだった。私が仕事に忙殺されているのは、責任感からではなくて、現実から目を背けるためだと思う。
目をまんまるにしたカズサを見て、化粧なんて必要ないくらいに目が大きいんだろうなと思った。
「いいの? 忙しいんじゃないの?」
「忙しいよ」
「だったら別に」
私は「うん」とも「ううん」ともつかない声を発した。それから「こっち方面でよかった?」と足を進めた。
小走りで並んだカズサは笑っていた。呆れたようにも、嬉しそうにも見えた。
次の日訪れた楽器屋で、私は偶然カズサを見つけた。