七月の終わりから八月初めの数日間は、大雨が続いていた。
水分をすべて失ったらしい青空が続く今日は、カズサの誕生日だった。私は詳しく聞いていないけれど、どうやら夕方からレイサと一緒に料理を作り、シャーレで三人で食べるという話になっていた。
夕方ころにやってきたレイサはオシャレモードで、髪を下ろしていた。白のワンピースにパステルカラーの長髪がよく似合っていた。
そしてオフィスでいそいそとパッチワークのエプロンを着用した。そのエプロンはオシャレとは程遠かったけれど、誰かの願いがこもっている気がした。
「いただいたものです」とレイサは言った。「杏山カズサも似たものを持っていると話していました」と続けた。制服以外を私に見せることがめったにないレイサは、目が合うたびに頬を染めていた。
カズサが遅いと思ったのは、それから数時間後のことだった。送ったメッセージに既読がつかない。レイサも同じようだった。レイサは料理を作り終えていた。ケーキを買ってくるはずのカズサはいまだに来ていない。
「嫌な予感がするね」言いつつ、裏でアロナに捜査を頼んだ。
レイサはソファにちょこんと座って、閉じた足の上で手のひらを重ねている。その手は力んでいた。
「前にもこんな事があったんだよ。ちょうど、一年と半年前。約束の前になっても、その子が現れないってことが」
虫の知らせとでも言えばいいのか、なんらかの予感をした瞬間に、妙な感触が胸の内を這い回った。あの日とよく似ていた。
今とは、一緒にいる人物といない人物が逆だった。
「ちょっと外に出てくるよ」
「でしたら私も」
立ち上がった私を見て、レイサもすぐさま後ろに続く。こういうときに一人で取り残される側の気持ちを考えられないところはまったく成長していないな、と思った。
ちょうどそこに連絡が入った。アロナからだった。
「再開発地区で大規模戦闘」と復唱した私は、パステルカラーの少女に戦闘の一切を任せ、事情を詳しく知っていそうな人がいる店に向かった。
弾薬屋の老猫は、突然の訪問にもほほえんで対応をしてくれた。私の姿を認めた彼女は「やっぱり来たんですね」と言った。
「予想していましたか」
「えぇ、まぁ。長い話になるかもしれませんから、どうぞおかけになって」
商店街のとおりに唯一ついた明かりに虫が群がる。ぴしゃりと扉を閉めた。外の闇に溶けていた私の影が扉にあらわれ、急にはっきりとした輪郭を持つ。
上がり框に腰を下ろした私に、いつどやらのように老猫はお茶を差し出した。やはり店を閉める動きには見えなかったけれど、この店にはすでに何も置かれていなかった。商品が減っていき入荷してこないのを見て、カズサの心も少しずつすり減っていたのだろう。
かつて.303ブリティッシュ弾が置かれていたショーケースも空だった。見ることのできない心だけが取り残されていた。
「私のせいなのよ」
老猫はためらう様子を見せずに話しだした。ありありとした後悔の滲む言葉だった。一気に老けたような顔になっていた。
この店が閉まったのを皮切りに、残っていた店はどんどん減っていったのだという。それで、再開発をするということで話はまとまったかのように思われた。
「今日、契約内容の確認ということで企業の人が来たけれど、内容がぜんぜん違っていてね。思わず声を上げてしまったの」
老猫から渡された紙を見る。トリニティの裕福層向けの家具を製作する工場というワードが目に入った瞬間に畳に紙を置く。重いため息がもれた。
「そこを、カズサに聞かれたわけですか」
「……お恥ずかしながら。私が声を上げることはあまりないものですから、あの子にとってもそれだけ大きなことのように思われたのでしょう」
せっかくの誕生日だからとここに来て、飲みこんだ現実が裏切られて。
「思い返すと、私も大人げないことをしてしまいました。大企業の力を持ってしても、再興は不可能と判断されたのかもしれません。なんとか使い道を考えてくださったかもしれないのに」
「それ、本気で思ってますか?」
老猫は自嘲するように鼻を鳴らした。
「年を取るといけませんね。諦めるのが早くなってしまう」
「諦めの早さを誇らないでください。いずれ終わると分かっていながらも、最後までやることをやりきろうとする人たちもいる。自分の大切なものを諦めることができるのは強さじゃない」
茶を呷り、畳に叩きつけるようにして置いた。礼を口にした。立ち上がってすぐさま歩き出した私の背中に、老猫は何も言わなかった。
大企業が雇った警備部隊とカズサは戦闘になったようだった。キャスパリーグは名前通りの強さを誇った。
部隊が壊滅に追いこまれたとき、ワンピースを着た少女が名乗りを上げてやってきたのだという。
今、みんなのスーパースター、宇沢レイサが助けに来ましたから、と。
彼女の大声には、今にも泣き出してしまいそうなほど切実な響きがあったと私は耳にした。
宇沢レイサは、杏山カズサと敵対する道を選んだらしかった。
その理由も知らされぬまま、レイサとカズサは病院に運ばれ、私は奔走した。
夜が更けて、朝が来て、太陽が昇り、焼かれる。私は動き続けた。
そして、空っぽの店内に長い影が侵入した。
「またあなたですか」と老猫は言った。今度は私の来訪を予想していなかったらしい。
「少し、お話をしに」
「なんだか嫌な予感しかしませんね」
うふふ、と老猫は丁寧に笑った。とんでもなく穏やかな対応には、絶対拒絶の意思があった。
だとしても、私は踏ん張らなければならない。
「カズサにとって、あなたがどういう存在か、自分で考えたことがありますか?」
老猫はさして考えることをしなかった。和服で正座をする彼女は、丁寧に重ねられていた片手を顎に当ててすぐに答えた。
「そのうちいなくなる年寄り、かしら」
「本当に?」
じっと老猫を見つめる。
老猫は目をつむったまま微動だにしない。やがて「えぇ」と首肯する。分かっていて嘘をついている。
「理解できませんね。カズサが、そのうちいなくなる年寄りのために、大企業を相手に戦いを挑んだなんて」
「中学のときみたいに、やんちゃしたくなったのかもしれないわ。それに……いえ、今どきの子の感性は、分からないから」
「あなたのその発言は、カズサの気持ちを踏みにじっている」
私は彼女を睨みつけた。老猫は黙った。その顔にほほえみはない。
奥歯を噛んだ。砕いてしまったかった。
カズサは、共感しやすい子なのかもしれない。
私たちが早々に諦めてしまったことへの葛藤に気づいて、誰よりも深く傷つくことができる。そんな子に手を差し伸べないのはあんまりだと思う。
私たちは大人になる過程で、大切なものを一つずつ落としてきた。振り返って路傍に落ちているそれを見つめ、奥歯を噛むこと。それが後悔だ。私はカズサの後悔になりたいわけじゃない。
伝わっていても、分かってもらえていても、老猫の気持ちはどうしようもない場所にある。
「あのね、先生。私の役割は、あなたに引き継いだほうがいいと思うの」
老猫はぽつりと言った。
「お茶を持ってきてもいいかしら」と、彼女は口にした。
私は訳も分からず、言われたことにただ頷いた。
一つだけ湯飲みを持ってきた老猫は、丁寧な所作で正座をして、それをひと口飲んだ。わずかに減ったお茶の面をじっと見つめ、やがてゆっくりと語り始めた。
「小さいころからお世話になっている店の店主。その中にはきっとね、カズサちゃんが言葉に出来ないような、憧れとか、心のよりどころとか、そういうものがあると思うの。カズサちゃんのお家って、ほら、……だったでしょう?」
お金に不自由はしていないみたいだけど、と。まるで両親が言い訳をするように老猫はつけ足した。
「それで、ね。そういう心のよりどころって、普通は変わっていくものでしょう? 常に変化し続ける社会で、自分も、周囲も変化していって、それなのに周りとの関係だけが変化しないって、それはある意味で不健全なことだから」
だから。私はお役御免、なのか。
「小さなころに私に向けられた眼差しは、今はあなたに向けられるべきだわ。それがいずれ恋愛感情を帯びるとしてもね」
「だとしても、いきなりいなくなることはないでしょう」
私の声は頼りなく震えていた。
「潮時だと思ったのよ。引き際じゃなくて、潮時。大企業が私たちの土地に目をつけてくれたのなら、この忘れ去られた土地は息を吹き返すはずだわ。私たちはもう十分。次の世代に繋げられるのならそれが本望」
「そうですか」
すぅっと息を吸い、時間をかけて吐いた。姿勢を正した私を見て、老猫の曲がった背筋がわずかに伸びる。表情に緊張が走る。
ほほえみを貼りつけて彼女を見据える。威圧しないように、優しく。
「私が今日来たのは、ちょっとしたお願いがあってです。大型ショッピングモールのテナントに、武器屋を置きたいそうです。その支店長をお願いしに来ました」
彼女は言われた言葉の意味が分からないというように眉をひそめた。
その大きな企業は、約束を反故にした挙げ句、大人のカードの前に屈した。私が言うことを聞かせるのは容易かった。アロナが案外のりのりで雑務や情報処理をしてくれた。
「もとの契約を守るのは、まぁ、大人として当然ですから」
白々しく私は言う。そして表情を一気に真剣なものに変える。メリハリをつけて話せば、真剣な部分の話は相手に届きやすいと思った。
「思い出は薄れていくものだ。記憶は欠けていくものだ。私もそう思います。忘れることが生きることです。でも、人間関係でいきなりそれをやったら、まして相手から忘れられるのではなく自分から消え去ることを選んだのなら、傷として、永久に記憶に残ります。引退するなら徐々に引いていくべきだ」
彼女の店の仕入先との関係を大企業が欲しがったとか、長年のノウハウを欲しがったとか、そういう裏事情ももちろんあった。
同時に、優良な顧客を抱えている老猫を追い出して、将来の大口顧客を逃すのはよくないとも拭きこんだ。その優良な顧客は警備部隊と戦うことも厭わないほどに義理堅く、喧嘩っ早い。銃弾だけでもそれなりの売上が見込める。
こうして私は大企業から交渉を任された。
「銃火器に詳しい名物ばあちゃんとして、もうちょっとだけ頑張ってください。それを頼みに。潮時だって言うなら、潮が引いていくみたいに徐々に引いてください。ね?」
目隠しをするのも、耳を塞ぐのも、全部自分の両手だ。そして
夜を迎えた私室は暗かった。橙を帯びた光は西の空に消えていき、東の空から濃紺が迫っていた。電気をつけず、記憶を頼りにそれを手にする。背負う。
机に置いていたタブレットを取ろうとすると、青白く光った。
『先生』
プラナの声だった。姿はなく、水色のロード画面が続いている。
「うん?」
返事からしばらく間があった。
『私の先生は、どんな状況になっても諦めず、生徒のために最善を尽くし続けました。後悔は、なかったと思います』
「どうだろう。きっと後悔してるよ」
『やれることをすべてやりきった人を、後悔なんて言葉で縛らないでください』
抑揚の少ない声には願いがこもっていた。
『悔しさも悔いもあって当然です。優しい方でしたから。でも先生は、後ろでなく、前に、先生に託したはずです』プラナの声で思い出したのは、一条の涙だった。『もう縛らないでください。私たちに託してくれたものを見ずにいるのはやめてください』
私は何も言えなかった。黎明の光に容赦なく照らされるオフィスに無表情で立ち尽くしていた。部屋は狭く、物は少ない。文化をごっそり削ぎ落とした私室は私そのものだった。陽光は無垢な期待だった。
『私も先生の生徒ですか?』
「もちろん」
『でしたら、お願いします』
「ずるくなったね」
『先生と一緒にいたからでしょうか』
一向に姿を見せないプラナが笑った気配がした。
「私には後悔が多すぎるよ。あの人のようにはきっとなれない」
『先生。それでも、あなたも私の先生です。生徒のために、全力を尽くせる先生です』
「私は泣けないよ」
『そばにいてくれる人が先生の分まで泣くと思います』
そばにいてくれる人がいなくなる可能性だってあるのに、と思った。プラナはそんなこと考えてもいないのだろう。
私は何も言えずに私室を出た。鞄の中の彼女が聞いているかは分からないけれど、ドアが閉まる静かな音に重ねるように礼を言った。
消灯間際に病院についた。怪我はレイサのほうがひどくないみたいで、入口まで私を迎えに来てくれた。病衣を来たレイサは私を見た瞬間に目を丸くして、それからふっとほほえんだ。
近づいてきて「懐かしい香りですね」と優しく言った。
総合病院のホールには独特な臭気が漂っていたけれど、私のセブンスターはそれに負けていないらしい。近くを歩いた看護師が露骨に顔をしかめ、私から距離を取って歩いた。
レイサがその様子をおかしそうに見ていた。
「最近はどこもかしこも禁煙だ。おかげで探すのに苦労した」
「先生が言っていいセリフじゃないですよ、それ」
私の手を引いて歩き出したレイサに「待って」と言った。
「一応理由を知りたいんだけどさ。レイサってどうして、警備部隊のほうについたの?」
「だって、杏山カズサが暴れたら全部壊れそうでしたし。強いんですよ、杏山カズサ」
「それは知ってるけどさ……」
自分の特別と敵対した事実を、レイサはこともなげに言った。
どうしてそんなふうに、孤独な道を選べるのだろう。
「先生ならなんとかしてくれるだろうって思ったんです。だからとにかく、先生の力でどうにかなるか怪しい大企業への損害を減らせたらなと思って。もしも先生が杏山カズサを庇ったとき、損害が少なければ、あと私が味方についてくれたという事実があれば、大企業の心証が最悪になることはないと思いまして」
「敵わないな、本当に」
「そうですかね」
レイサは決して自分を優先しない。そんな子が幸福な結末を迎えられたらいいと思う。でも、訊かなきゃいけないことがある。
「カズサとの関係は……大丈夫だった?」
「はい、なんとか。ちゃんと話し合いをしましたから」
レイサは儚く笑った。竜胆色の瞳が揺れた。きっと関係を失うことも覚悟していたんだと思う。だから、本当によかった。
「ねぇ、レイサ。いろんな正義があるって認めた上で、それでもちゃんと自分の正義を優先させて、カズサと敵対してくれてありがとう。レイサはよく頑張ったよ。一人にならなくて本当によかった」
思い切りレイサを抱きしめた私に、胸の中でレイサは呆れるように言った。その声は震えていた。
「それ、杏山カズサにやってくださいよ、もう」
二人はどうやらそれぞれ個室だったようで、レイサは私を、カズサの個室の前まで案内すると「それでは」と言って立ち去った。
病院の廊下は暗く、すでにレイサの足音は聞こえない。意を決してノックした。
カズサの病室を訪れたのは、八月六日の夜だった。
「せんせい」
カズサはベッドに仰向けになって月を見ていた。白い顔が血色を失い、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
通話口で謝り倒されたあとだったから、てっきりもう気持ちは落ち着いたと思っていたけれど、カズサは必死に口を開閉させて、何かを伝えようとしていた。
「怪我は大丈夫?」
「大丈夫だよ。もともとそんなにひどくないし、私丈夫だし。中学のころなんてもっとひどい怪我でも病院いかずに放置してたくらいだから」
「それは胸を張れることなのかな……」
カズサは冗談めかすように言った。
なおも心配そうな私を見て、カズサは「ほんっとに大丈夫だから」と声を大きくして、慌てて口を押さえた。
胸の中で暴れる罪悪感を私に気取られないようにしているのだと思った。自分の余裕がないときですら相手のことを考えてしまうことを優しいと言うのは、あまりにも残酷だ。
近くの椅子に私は腰を下ろした。ギターケースはカズサから見えない位置に置いていた。
ゆっくりと起き上がったカズサがベッドの側面に腰かけ、サンダルを履く。私たちはとなりに並んだ。
カズサは一瞬だけ不思議そうな顔をした。しかし幻でも見たかのように首を傾げてそのことに触れなかった。
「もうほーんと大変だったんだよ? スイ部のみんなになんて説明すればいいのか分かんなくってさ。まさか暴れて怪我しましたーなんて言えるわけないじゃん」
「ごまかしごまかしでなんとか説明したの?」
「そ。なんか巻きこまれたんだよねって。ヨシミとかは『あんたがそんなかんたんに怪我するわけなくない?』って言ってた。もしかしたら嘘だってばれてるかも。ちょくちょくみんなの前でぶっ放してるしさ、私」
月光が見守る夜は静かだった。空調が程よい温度に設定されていて心地よかった。レイサと同じ病衣を着たカズサから春の香りがして、私の心が自然とガードを緩めてしまう。
「誕生日、おめでとう」
言葉はすんなりと音になった。花火みたいに盛大なものではなかった。事実を淡々と言う調子の中に、花弁をそっと撫でるような優しさの響きがあった。
カズサはむっと唇を尖らせる。
「散々な誕生日だったよ。あと、過ぎてるし」
「言う機会がなかったんだよ」
「それはそうだけどさぁ」
おもむろに立ち上がった私を、カズサは不思議そうに見上げる。
私は月光のもとにギターケースをさらし、相棒を取り出す。
「誕生日プレゼント……それ、え、違うよね?」
「違う? うん?」
「いや、その……たとえば、なんだけどさ! 誕生日プレゼントとして歌を歌って、あともうそれ以降は歌わないとか、そういうことじゃないよね?」
カズサは不安そうだった。
「そういうんではないよ」
露骨に胸を撫でおろしたカズサが、今度また真剣な顔つきになる。
「もう一個確認なんだけどさ」様子をうかがうように私を見上げる。
「ギターのプレゼントとかでもないよね?」
「違うよ、もう、信用ないなぁ。少しずつ人前でも、と思って。まずはカズサに」
カズサは長いまつげを伏せて「また、先生の歌聞けるんだ」と言った。いまだに疑ってしまう心に言い聞かせるみたいに、何度もなんども言った。よかった、とも口にした。
そんなになのかな、と思った。でも、自分にとって大切なものが他の人にとってそうじゃないことの、逆もあるのだと思い直した。
私は自分の音に価値を見いだせない。だからきっと、また捨てたくなる。でも、悩んで苦しんで抱えて、生きていこうと思う。そのうち忘れてしまえることを願って。
「カズサと会えてよかった。カズサが今の道を歩いてきてくれてよかった」
「なにそれ、どういうこと、せんせい」
怪訝そうに、でもどこか嬉しそうにカズサは言う。
カズサは通話口で『私はやっぱり暴力でしか解決できないのかな』と言った。私にはそれがなんだかとても悲しいことのように思えて、だからこそ口にしたかった。
「過去は変えられないし、変わらないけど、それを受け止めてくれる人がいたら嬉しいかなって。カズサの嫌いな過去を、俺だけは慈しむよっていう意思表示。それが今のカズサに繋がっていて、未来にも繋がっていくものだから」
カズサは優しく笑った。「じゃあ、先生も」と言った。カズサは私の両手を包みこんだ。
「あなたの人生も、きっと今日まで意味があったんだよ」
「……そうかな」
「うん。そう」
振り絞った言葉があっさりと肯定される。
私は、逃げ込んだ先の袋小路が自分の居場所だった。私はきっといつまでも、平凡な葛藤を抱えながら、すべてを壁に囲まれた息苦しい場所で、みっともなくもがき続ける。自分の中ですり切れたものが、誰かの何かになればいいと思って。
私の音は揺らいでいた。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。