トリニティに出かける用事のあった私は、偶然見つけた店に吸いこまれた。楽器屋だった。おんぼろな木の看板が斜めにかかっている――というよりもぶら下がっているような有り様だったけれど、そこからは人々から愛されて続いてきたのであろう年季が感じられた。
個人が経営しているようで、店主と思われる老齢の猫人と若い従業員がいた。
入って右側一面の壁にギターが飾られている。自然と、縁深いほうに足が向いた。
入口側の壁から店の奥――レジ側に足を進める。エレキを流し見て、アコギに移る。
美術館を歩くように、一つひとつの楽器にこめられた意味を解きほぐす。演奏する自分を思い浮かべ、ステージに立つ姿を想像し、どれが一番しっくりくるかを吟味する。私はパッションを大事にしたい人だった。買うつもりがなくても見ているだけで楽しい。
音を楽しむから音楽。その受け皿となる器だから楽器。楽器とは、音という果実をより広範囲に収穫するための受け皿みたいなものかもしれない。
不意に私は昨日と同じシルエットを視界の端で捉えた。どうやらレジの近くに置かれている小物を眺めているようだった。
「兄ちゃん、何か目当てのもんでもあるのか?」
レジに座る老猫はカズサを通り越して、私を見て言った。太く低い声だった。
「いいえ。ただ、気になってしまって。品揃えとか店によって違いますからね」
「だろうと思ったよ。初めて見る顔だが、まったくの初心者ってふうには見えなかったからな」
「やっぱり分かります?」
「何年もやってるとな。アコギだろ?」
私はちらりと壁面に目をやって肩をすくめた。
「店があるとつい入っちゃいます」
「ま、バンドマンってのはそういうもんだろう」
昨日感じた痛みが再び私を襲った。「ははは」と笑った私の声は乾いている。
とっくの昔に灰になった心が実はまだ燃えているのだと指摘されたと思った。肌の内が火傷を負った。別種の痛みを覚えた。逃げ場を失った熱が全身をめぐる。諦めを焼き焦がしていく。
やがて熾火となり、私はそれを静かに消した。炭化した諦めが原型を取り戻していくのが、めぐる血の淀みで分かった。徐々に普段通りの体の重みとなっていく。
「先生」
カズサの声色は、どんな声をかければいいのかな、という迷いや困惑が伝わるものだった。あまり親しくないクラスメートの意外な一面に出くわしたときに近い――気まずいのだと思った。
カズサはぴっちりと足を閉じた状態でしゃがんだまま、振り返って私を見上げる。
「楽器やってたの?」かたい声にかたい声を返す。「うん、実は」
カズサのとなりにしゃがんでピックを眺める。とりあえず手にとったけれど馴染みがないので分からなかった。「指なんだ」という呟きが聞こえた。
「昨日、言ったほうがよかったかな」
「いや、無理に言わなくてもよかったと思うけど、なんか隠されてるみたいだったから」
カズサは普段通りを装っている。でも声にはどこか切実な響きがあって、端正な横顔をちらりと覗き見ると、命の尽きそうな花を見るように目尻が下がっていた。さっきまでいろんなピックを漁っていたのに今は身動き一つしていない。
「ごめんね」と、とりあえず謝っている感の強いごめんが口の端からこぼれ落ちた。
「ううん」カズサはふるふると首を振った。春に取り残されたように桜色が寂しげに揺れる。猫耳がぺたんとしていた。
頭上から声が降ってくる。
「あぁ、あんたがあの……先生」
「オフレコで頼みますよ。実際にはバレたっていんですけどね」
私は口もとで人さし指を立てた。
店主と目線を合わせるためにというのは言い訳で、カズサのとなりにいるのが気まずくなったので立ち上がった。
「分かったよ」老猫は穏やかに笑った。
「よろしくお願いします」私も爽やかな笑みを作った。
店内に流れている楽曲が変わったらしく、特徴的なギターのイントロが流れ始めた。私は今まで店内にBGMが流れていたことに気がつかなくって、つい音のしたほうに目を向けてしまう。
「よいしょっと」カズサの声は、かき鳴らされるギターにむりやりに合わせたような感じだった。「話があるんだけど、あー……」私にそう言ってから、歯切れ悪くちらと店主に目線を向ける。店主が鼻を鳴らす。
「今度買ってくれればいいよ。どうせ続けるんだろ?」
「そのつもりです。その、今はすみません」
「いいっていいって。若いのがあんまり湿気た面すんなよ? 笑ってるのが一番だ。なぁ、先生」
「そうですね。カズサは笑顔が一番似合います」
「振ったのは俺だが、言うねぇ、先生」
「調子いいなぁ」カズサはつんけんしていたけれど、顔には緩みがあった。カズサはマシンガンを肩にかけ直して、髪を耳にかけ直した。どこも何もずれていなかった。
「またよろしく」という声を背中に受けながら外に出た。
駅方面へ向かう適当な道を歩く。人通りが少なくなったのを見計らってカズサが口を開いた。
「先生、もしかして音楽かなり詳しい?」
「……さっきも言ったけど、ギターをかじってただけだよ。作詞とか音楽知識についてはてんで駄目」
「そう、なんだ」
もともと小さかったカズサの声はさらに小さくなった。秘密の話をしたいのかなと思った。もしかしたら私に気を遣ってくれている可能性もある。
音楽は私にとって神聖な地雷だ。ばれていないと思うけれど、確信は持てない。
小さな子どもたちがわいわい言いながら私たちとすれ違う。今日が土曜日だったことを思い出した。毎日が仕事だから、すっかり曜日感覚が狂ってしまっている。今日は何日だろうと考えて、それすらも失念している事実に、社会から追い出されたものの孤独を感じた。
全身に午後の日差しを受けているのはみんな同じなのに、さっきすれ違った子どもたちのほうがずっとずっと元気そうだった。大人になるにつれて、体に溜めこむことのできるエネルギー量は減っていく。この私見は決して表に出していいものではない。
苦笑した私をカズサは不思議そうに見上げた。
「昨日、オフィスにイヤホンあったから……その、いろんな音楽を聞いてるのかなぁって気にはなってたんだ。でもまぁ、会っていきなり聞くことでもないし、そのまま、ね」
「あ~……充電してたっけ」
「あれけっこういいやつでしょ。ネットで見たことある」
「どうだったかなぁ。いろいろ持ってるからあんまり覚えてないや」
「ワイヤレスイヤホンってそんなにいっぱいいらなくない?」
「まぁ、うん」
のらりくらりと、私は自堕落な大学生活みたいにカズサをあしらった。
音楽は私にとって聖域だった。だから、かなり警戒して、機密を取り扱うくらいの厳重な体制のもとで見せるかどうかを判別していた。
遠目に駅が見えてきたとき、おずおずとカズサが口を開いた。
「あー、その、よかったらでいいんだけど。教えてもらうことって、できる……できますか? 私だけじゃなくて、スイーツ部のみんなに。教本買ったはいいんだけど、活字が嫌いでやんなってきて……実際に見せてもらったほうが分かりやすいかもなって」
先生なら、なんと言うのだろう。力になれるのなら喜んで、とかだろうか。それとも、生徒の頼みだからもちろん、とかだろうか。
聖域と先生を天秤にかけ、私はしばらく迷った。一本、二本、と若い色の木の下を通る。
一度カズサが「無理そうなら」と言いかけたのを手で制した。
心の中を誰にも踏み荒らされないようにしつつ、指導する。歩いたことのない道だが、可能だと私の理性が告げた。
「分かった。文化祭が近いみたいだし、早速明日からスタジオを借りてやろう」
「あ~……実はまだ、使い方とか、予約とか、どこがいいとか分かってなくて。調べてる最中なんだよね」
「私のほうで調べて明日までにはなんとかしておくよ。明日の朝にまた連絡するって言うのでどう?」
「えっいいの? 忙しいんでしょ?」
「大丈夫だいじょうぶ」
驚くカズサに笑みを送る。
「そんなになんでもやってもらったら逆に悪い気が――」
「見つけましたよ杏山カズサっ!」
閑静な住宅街を揺らした大きな声。見通しの悪い交差点から飛び出してきたのは、パステルカラーの少女だった。
カズサの顔がみるみる苦々しくなる。実際に声は聞こえなかったけれど、こんなとこで出てくるなよ、と何もかもが言っていた。カズサはマシンガンのグリップに伸びた手をすぐさまポケットに戻した。
「まぁ、そういうこと」カズサが私を見上げる。
「なるほどね。この子が例の」ストーカーか。
もっと陰湿だと予想していたが、ずいぶんしゃっきりしたストーカーだ。長々と登場のセリフを述べた宇沢レイサなる少女は、びしっとカズサを指さした。
「さぁ! 今日こそ挑戦状を受け取ってください!」
「面倒くさいなぁ……」
カズサが背後に一瞥を向ける。すっと腰を落とした。
「それじゃあ先生。申し訳ないんだけど……」
「大丈夫だよ。何かあったら連絡してね」
ありがとう、と言葉を置き去りにしてカズサは駆け出した。
レイサもそれを見越していたらしく、初速からトップスピードに乗ったように見える。だが私の前で急停止した。私の胸に噛みつくようにぐいっと見上げてくる。
柔軟剤の香りがした――強すぎる香水をかいだときのように、香りが頭の中で跳弾した。
気づけば塀の上で寛いでいた二匹の猫が姿を消している。
「先生! みんなのスーパースター、宇沢レイサと申します! お噂はかねがね! ですがこうしてお会いするのは初めてですね!」
「そうだね」
「いいですか先生。杏山カズサはとても凶暴なんです。猛獣と言ってもいいでしょう。中学のときの二つ名をご存知でしょうか?」
早口でまくし立てるレイサに「さぁ」と言うと、キャスパリーグだと教えてくれた。
話しぶりから、言いたいことを言っている雰囲気がした。人から話を聞いてもらえない人に特有の焦燥だ、と思った。
「一緒にいれば先生にも危害が及ぶかもしれません。中学時代の杏山カズサは名だたるスケバンをまとめて締め上げ、二言目には銃弾を浴びせるような――」
「そんなに喋っていて大丈夫? もうカズサ見えないけど」
「何かありましたらご連絡ください!」
こうして香る嵐は過ぎ去った。私は犬ではないけれど、レイサを辿ることができそうなほどの残り香があった。
それから私は駅前を通り、電車に乗り、改札を抜け、公園を抜け、シャーレに戻った。いつもは意図的に見ないようにしているバンドマンがいやに目についた。演奏時の、自分の才能を信じて疑わない気持ちよさそうな顔が眩しかった。私は顔が醜く歪まないように必死に取り繕わなければならなかった。
私室にとあてがわれたシャーレの一室で一曲弾いてみる。
指は動くが、心が動かない。
筋肉を動かさないと退化してしまうように、音楽への感受性が衰えてしまっている。ため息をついてオフィスに戻った。
『バンドやろうぜ!』
もともとはただの音楽好きの集まりだったと思う。でも内輪のノリでそんなことを言い出したやつがいたものだから、私は気がつけば楽器を持っていたし、気がつけばバンドなんてものをやっていた。
高校に入ってからは、バイトで貯めたお金を音楽につぎ込む生活が始まった。それは大学三年の冬まで続いた。
懐かしい、と音を出さずに口を動かしていた。少し前のことなのに、記憶に霞がかかり始めていた。バンドメンバーで撮った写真も向こうに置いてきてしまった。スマホに手を伸ばして、やっぱりやめた。
……パソコンの手が止まっている。仕事が進まない。プレイリストを変えて作業を再開した。こんな日はピアノ伴奏だ。
『あたしドラム』『わたしキーボードで』『俺はベースかなー』
『ちょっとボーカル誰がやるのよ』『この中で一番上手い人にやってもらうのは?』『よっしゃ今からカラオケ行くか〜』
私にとってギターは、流されて漂着したところにあったものに過ぎない。そのはずだったのに。気がつけば。手にしたときと同じように、手放せなくなっていた。
一番影の薄い人がギターかとか、ちゃんとステージの前出てくれよとか、そんなふうに笑いかけられたことを思い出した。
「だ〜れだ」
視界が暗くなる。音楽が遠のいた。熱く柔らかいものに目もとが覆われたようだった。
忘れていた、春の香りがした。
メガネを外すようにそっと手首を掴み、左右に開く。夕日に目を焼かれて瞬きを繰り返した。手探りでワイヤレスイヤホンをケースに戻した。
「あんまり大人をからかうものじゃないよ、カズサ」
夕日に照らされるカズサの顔がはっきりと見える。表情全体がやわらかく、疲れを包みこむ優しさの形をしている。
私もつられて
「私、ちゃんと連絡したから」
「あれ……そうなの?」
「そーうーでーす〜。もう、先生。何かあったら連絡してほしいーとかって言っておきながらぜーんぜん見ないんだもん」
慌ててモモトークを見ると、確かに数件のメッセージが届いていた。
「ごめん、まったく気がつかなくて」
アロナは――あぁ、そうか、私が深刻そうな顔をしていたから気を遣って静かにしていてくれたのか。
カズサは机に片手を乗せて前傾になった。端正な顔がすぐそこにある。
「何か気に障ることしちゃったかなーとか、もしかして宇沢に変なこと吹き込まれたんじゃないかなーとか、けっこう真剣に悩んだんだよ? 来るかどうかも悩んだんだよ?」
「ごめんごめん。大丈夫だよ。私はカズサを拒まない」
言葉が上滑りしないよう、表情もトーンも調整して言う。
返答されるまでわずかな間があった。「それは今の私しか見てないから?」
だから私も、同じくらい間を空けて言った。「いいや?」
長い睫毛と韓紅の瞳をじっと見つめる。カズサの表情はこわばっていた。対して私は穏やかな表情を意識していた。
一瞬横に目をやったカズサが、意を決したように言う。
「宇沢、なんて言ってた?」
「キャスパリーグ、って」
カズサはそれだけですべてを察したようだった。天井を仰ぎ、目をぎゅっとつむり、眉間に深いしわを作り、深いため息をついて、そして深々と頭を下げた。しばらくそのままだった。
顔を上げてと数回頼んでやっとそうしたカズサは、もう一度軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。騙すようなまねして」
「騙す?」
「うん。だって、私は先生の善意を利用して、自分のことを話さずに先生に手伝わせようとしたから。嫌でしょ。中学のときに荒れてたことを知らされずに片棒をかつがせられてるみたいになったら」
私が何かを言う前にカズサは矢継ぎ早に口を開く。
「機会を見て話そうとは、してたんだけど」その声は頼りなかった。怒られることを恐れている子どもみたいだった。
「ううん、言い訳だね。ごめんなさい。気に障ったのなら手伝うのやめてもらっても」
カズサを手で制した。「お互い様じゃないかな。私も黙っていたことがあるわけだし」
少しの間ぽかんとしていたカズサは、やわらかく笑った。
「そっか。そうかも。先生も黙ってたもんね」
「うん、黙ってた。今は何もしていないんでしょ? それに、放課後スイーツ部を徒党にしようとしているわけでもないと。それならいんじゃない? 普通に生活したいだけなんだよね?」
「それはまぁ、そうだけど……なんか意外かも」
「意外?」
カズサは満足そうに笑った。後悔を共有するような、放課後に二人きりになった教室みたいな、ありとあらゆるものから切り離されて宙ぶらりんになった優しい空間があった。
「てっきり話した瞬間に怒られると思ってたから。覚悟してたとはいえ、思い出したくないことで延々と怒られるのは嫌だったんだ」
「あぁ。私がそんなことする人に見える?」
「……今は見えない」
「はいはい、今は、ね」
「しょうがないじゃん! 初対面でそこまで見抜けたら占いでもしたほうがいいって!」
私はカズサの抗議に対して声を上げて笑った。納得とともに、人間関係のままならなさを感じたからだった。占い師の才能にあふれた人間の多い社会は、今以上に生きづらいのか生きやすいのか、私には判断できなかった。
「ちょっといつまで笑ってるの」と両肩に手を置かれた。黒い笑みを浮かべたカズサによって、私の笑い声は強制的に中断させられた。
カズサに仕事を手伝ってもらいながら、ときおり言葉をかわす。中学時代を回想するカズサの言葉にはいつだって後悔が滲んでいた。
「誰しも思い出したくない過去の一つや二つ、あるでしょ?」
「あるねぇ」
近くのデスクにどすんと紙束を置きながらカズサはこぼした。
私は、なんと答えようかなぁ、相槌を打つだけで流そうかなぁ、と頭で考えていたけれど、反射的に出た言葉は違うものだった。あれ、今なんて言った、と思った。実感もこもっていた気がする。
顔を上げるる。目をまんまるにしたカズサと見つめ合った。
「そ、そうだよね! やっぱり誰にだってあるよね!」
カズサの勘は恐ろしく鋭かった。カズサは私の反応から、自身のスケバン時代に触れられたときのような何かを察して身を引いた。
私はキーボードから手を離して、片手を振った。自虐から笑ってしまった。
「そういうもんだよ。忘れてくれ」
「忘れてくれ?」
「あ~……」
やっべ、と反射的に言葉が出そうになったのをこらえる。口を押さえようとした手を顎に持っていく。さも君は今ミステリアスな部分に踏みこもうとしているんだよと言うように。
「……忘れてほしいかな。そっちも含めて」
「は〜い」
頷いたはいいけれど、カズサは私の過去を知りたがった。ときおり「誰しも思い出したくない過去の一つや二つあるよね。私ももう、卒業したし」というようなことを口にした。
きっと上手に割り切れていないから、繰り返し私に話して、自分の中でも整理をつけようとしているのだと思った。このとき私が過去を懺悔すれば、カズサも話してくれたのかもしれない。私は距離を縮められる雰囲気を感じていながら黙っていた。
私とカズサは、怪我をした人が赤い跡を残しながら歩くみたいに、切っても切り離せない過ちによって魂を滴らせながら歩いているのだと、このときに直感した。
「とにかく、スイーツ部のみんなに聞かれなくてよかった。知られてたら、もう一生フード被って行きてかないといけなくなってたよ」
「友だちだからって全部を話す必要はないよね」
「まぁね」
「秘密のない人間関係って、それはそれで苦しいし」
「ふふ、そうかも」
仕事が終盤に差し掛かるころ、カズサは私にスケバン時代の写真を見せた。カズサがカズサ自身の気持ちを見定めるためだと思った。いずれにせよ、カズサは話したがったし、私は黙っていたかった。
カズサは沈黙が訪れればため息をつき、自分に関する何かを言った。
夜風の吹かないオフィスは、それだけで数度あたたかいように思われた。処理済みの書類をまとめながら私は口を開く。
「当時の自分は浅はかで、自分で自分を特別だと思っていて、思い返すと恥ずかしいから、できるだけ思い出したくない……ね」
「ちょっと。わざわざ要約して言わなくても」
カズサは私を睨んだ。
「でも自分のことを特別だと思えることもきっと才能だよね。それから、変わらないでいることも」
「子どもっぽいって思うけどな」
カズサの声は冷たかった。攻撃的な調子ではない。むしろ呆れを含んだ冷たさだった。
カズサはレイサと対峙するとき、子どもっぽいと思ってしまって話を聞きたくならないのかもしれなかった。
過去に触れられたくないからとすべてを拒絶するあり方はよくない。
けれど、後悔に囚われるあまり、何度も後ろを振り返るようにして歩き続けることもまた、よくない。
今度は私とカズサのため息が重なった。カズサは驚いたように私を見たあと、ふっと寂しげに笑った。
カズサがシャーレを訪れた理由が分かったのは、私の仕事が終わってからだった。
「予約したスタジオの地図がほしかった」という枕詞のあとに、私のギターが見たいことと、指遣いを教えてほしいことをおずおずと伝えてきた。
私室からオフィスへアコギを運ぶ途中に、ふと思う。誰かの前で演奏するのは辞めにしたはずなのに、後悔が鎖のように心に巻きついていて、締め上げられる痛みから逃れるように、私はカズサに逃避したのだな、と。
「やっぱりヨシミのより大きいんだね~!」
カズサは先ほどまでの寂しさを感じさせない明るい声を出した。ヨシミもカズサもエレキだという話は聞いていた。エレキとアコギでは、アコギのほうが大きい。
近づいてきてしげしげとアコギを眺めるカズサの桜が揺れて、春が漂う。
「指見せて! 指!」
カズサがふにふにと私の指を揉んで感嘆の声をあげる。確かに、分からなくもない。かたい弦によって何度も血を流した私の指は、硬度と柔軟性を併せ持つギタリストの指となっていた。一度離れたとしても癖や体は変わらない。変われない。
いっそお手軽に手術できたらなと思ったけれど、私はそれを選ばない気がした。
「そろそろやってもいい?」私の声はひどく乾いていた。
「あっ! ごめ、ええと、そんなつもりはなかったんだけど!」
「ううん。大丈夫だよ」
いまだに指をふにふにしていたカズサが顔を赤らめ、ばっと離れた。カズサの指のほうがよほど触り心地がいいだろうに、と思う。
自分の言動の一つひとつを思い返しては反省する姿が思春期そのものという感じがしてほほえましい。自分の気持ちをすべて伝えようと言葉にしすぎて、その言葉が空回るところまでがセットだろうか。
かつての私が諦めたものだった。一つひとつきっちりと後悔の足跡が残っているから、もしかしたらヘンゼルとグレーテルみたいに、若かりしころまで辿れてしまいそうだ。
「なんか不思議な感じがするなー」
演奏を聞き終えたカズサの第一声はそんなものだった。
ソファに座っていたカズサはうっとりと私を見ていた。
「不思議な感じ?」
「うん。楽しそうで、悲しそう」
「へぇ」
「だから、不思議な感じ」
たったいま二人の間を通った沈黙も、不思議な沈黙だった。しんみりとした、曲の余韻を味わうようなものだと思った。
思い出したようにカズサが訊く。
「なんて曲?」
「自作のやつだよ。名前という名前はないんだ。練習用にいろいろと小技を仕込めるように作ったやつ」
「へぇ……あれ、でも作曲はできないって言ってなかったっけ?」
「それは人に見せられるレベルのものができないってこと。曲は全部キーボードが専属で作ってくれてたし、歌もベースとキーボードで分担してたよ。でもまぁ、練習用の曲だったら私が一番作ってたんじゃないかな。自分のために、だけど」
私の曲だから、楽しそうで悲しそうなんだ。
カズサの言葉がすとんと胸に収まって、思わず「あぁ、そうか」と口に出していた。
「なに?」「ううん」と静かに言葉を交わす。
過去の楽しさと、今の後悔。二つが重なっているのだろう。私の心を見透かすように、カズサは優しく問いかける。
「好き? ギター」
「好きだよ」
沈黙を恐れて、すぐさま言葉が滑り落ちた。間の少なさが余計に言葉を軽くしている気がした。軽い言葉と気持ちの落差が、そのまま重くのしかかる。
ほどほどに余韻を味わってから、私たちはエレキベースに移った。
カズサはケースから丁寧に取り出し、丁寧に肩にかける。不慣れな動きが、どこかにぶつけないように念入りに周囲を見回す仕草が、ほほえましい。
エレキベースが蛍光灯を反射する。新品の光沢がどぎつい輝きで目を刺した。
「あ……ごめん、シャーレにアンプ置いてないから、音出せないや」
「ん? あぁ、いいよ、ぜんぜん。指の動かし方とか姿勢とか見てもらえれば」
「でも音を出さないと単音の安定性とかを見れないんじゃないかな……明日にでも用意しておくよ」
心配する私に、カズサはいたずらっぽく笑った。
「ちょっと先生。明日からスタジオ使うんでしょ? 終わったあとここで居残り練習でもする?」
それから私たちは、教本を手に四苦八苦しながらベースを習った。
ベースに「やってみろ」と言われて触ったことがある程度だったが、まったくの素人よりかは教本に書かれていることに理解が及んだ。カズサは私の動きを見て、教本を読んだ。
一つのエレキベースを何度も交換し、互いの体温がボディに移る。カズサの熱を感じるたび、それが心に浸透する。
あーでもないこーでもないと互いの指をロボットみたいに動かし合う。「おぉ、すごい!」とか「さすがだね、先生」とかって笑いかけられるたび、胸が張り裂けそうになる。
懐かしくて、悔しくて、何度奥歯を噛んだか分からなかった。
気づいたころにはトリニティ寮の門限を過ぎ、一○時となっていた。
ベースケースを背負ったカズサを見て、彼女の華奢さが伝わってくる。オフィスから見下ろせる外は、いまだに夜を知らないきらめきが広がっていた。
「ごめんね、こんな遅くまで……寮長に何か言われたらシャーレの名前を出して」
「私も気づかなかったんだし、お互い様だよ。それにいっぱい練習できたしね、捉えようによってはよかったのかも」
時間が時間なのでバス停まで送ることは拒まれたけれど、せめて一階までは見送るつもりだった。
「あと、私、寮に住んでないし、門限とかないから気にしなくていいよ」
「あれ、そうなの?」
「うん。アパートに一人暮らし」
「へぇ……」
一瞬、家事できるのかなぁという疑問が頭をよぎったけれど、私を見つめるカズサの笑顔に黒いものがまざった気がして、慌てて視線を彷徨わせた。
頃合いを見計らって『無事に帰れた?』とモモトークを送ると、すぐさま既読がついた。
風呂上がりらしいスウェット姿の自撮りのあとに『心配ご無用』と送られてくる。穏やかな色味の写真かパズルが数枚写りこんでいて、カズサの息遣いを感じた。
自然と自分の頬が緩んでいた。
仕事を早く終わらせることと早寝することを注意され、最後に私たちはお休みを交わした。
『なんか今日は、先生のこといっぱい知れて嬉しかったかも』
翌日の朝に『昨日のことは忘れて!』とメッセージが送られてきていて、私もカズサにとって思い出したくない過去の一つになったのかもしれない、と思った。反射的に胸に手を当てて、痛むかどうか検診する。それはまるで聖域の痕跡を調べるような機械的な動きだった。