音色が繋ぐ、過去と未来   作:ぞんぞりもす

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カズサとバンド 四

 シャーレに戻ってカズサに連絡を入れたとき、キヴォトスはすでに日付変更線を跨いでいた。

 私室にギターを置いてオフィスに戻る間に既読がついており、返信まできていた。通話しても大丈夫かと聞かれたので『大丈夫だよ』と送ると、すぐさま軽快なメロディーが聞こえ始める。スピーカーに切り替えてから通話をつなげた。

 

「ごめんね、こんな遅くに」

 

 私は一言目に謝った。

『ううん。明日までの課題でかさないといけなかったから』とカズサの優しい声が帰ってきた。通話越しだと、実際の雰囲気よりもいくらかやわらかい感じがする。でも、私は優しさに浸るために通話を繋げたわけじゃない。

 

「レイサのことだけど」

 

 カズサが息をのんだのが分かった。小さな四角から放たれた張り詰めた空気がオフィスに満ちる。

 

「一応話したっていうか……うーん。言葉にすると難しいんだけどね。考える機会を作れたとは思うんだ」

『考える機会?』

「そう。どうしてカズサに突っかかるのか、胸の奥底まで考えたことはあるの? って、訊いてみた」

『突っかからないでっては言わなかったの? 私、あんまりあいつと話したくないんだけど』

 

 当初「バンドの練習に集中したい」と言っていたカズサだが、やはり、レイサのことを解決できるなら今のうちにしてしまいたいのだろうと思った。

 

「それって、思い出しちゃうから?」

『そう』

 

 カズサの声には研がれたナイフのような鋭さがあった。言葉を誤れば、私もレイサのように、特殊な立ち位置に遠ざけられることは明白だった。

 

 カズサがレイサに対して抱いている感情が読み取れない。

 嫌ってはいない。それ止まりだ。

 

 おそらくだけれど、カズサはレイサを通して過去を見ている。その過去に対する感情とレイサに対する感情がぐちゃぐちゃに混ざっているから、私は、レイサ個人に向けている感情が読み取れない。

 ということは、過去とレイサ個人を切り分けて考えてもらえばいいのだろうか。

 

 画面に映る通話時間が、もうすでに数分経ったことを告げていた。シャーペンを走らせる音だけが聞こえてくる。

 難しい問題にぶつかったのか、音が止まり、一つ小さな吐息がする。

 

 秒針の動く音が聞こえないデジタルな空間は、二人だけがそこに閉じこめられているように感じられた。

 小さな四角は世界を広げてくれるのに、私とカズサのいる無限はひどく息苦しい。

 眼の前に置かれている黒いキーボードと黒いマウスはむっつりと黙りこんで、電源のついていないモニターは私の湿気た顔をすりガラスみたいにぼんやりと映している。

 

 音のない夜は息が詰まる。過去を思い出してしまう。カズサの気持ちが、痛いほど分かりかけてしまう。

 

「私の知り合いに、熱血バカが三人いてね」

 

 走っていたシャーペンが止まる。こと、とペンを置いたらしい音がした。「うん」静かな相槌が耳を打つ。

 

「私は実は、そいつらとあんまり反りが合わなくて。何かに熱いバカって、無神経で、主語と述語と修飾語と言葉と声が大きくて、向こう見ずで、でっかい夢を持ってるじゃん」

 

「気に食わなかったなぁ」と蛍光灯を見上げた。侮蔑とともに、私は尊敬を彼と彼女らに向けていた。私が目をしばたたいてしまったのは、きっと光のせいだ。

 

「でも、眩しかった?」カズサは問いかけた。心を映す鏡に、真実を映してほしくて願うみたいに。白雪姫に登場する魔女が、自信たっぷりの願望を鏡に問いかけるみたいに。

「眩しかったよ」私の乾いた声がオフィスに響いた。

 

「私はきっと、幸せの閾値が低いんだと思うんだ。それに目標だって、エベレストじゃなくて日和山くらいのものを設定するようにしてしまう。そういう生き方を好んでいる。夢から醒めてしまった瞬間に、バカみたいに大きな夢を持つことはできない人種に変わってしまったんだ」

 

 きっとカズサも、そうだと思う。

 通話先の無言が続きを促している。

 

「でも、だからといってさ」

 

 脳裏に小さな背がよぎる。誰からも見られていないときに、道路の端をたった一人で、背を丸めながらとぼとぼ歩く姿がよぎる。

 一日あれば元気になれますから。一人で考えれば、きっと元気になれますから。そんなふうに心を踏みにじって、色褪せたタイルがいつまでも人の足の下から撤去されないみたいに、不動の心を持つ少女を思う。

 

 レイサは青い期待を胸に抱いて、何度それを赤く切り裂かれてきたのだろう。

 

「熱いバカとの関係を切ってもいいわけではないんだよね。生きる温度が違うのは分かるんだけどさ。その人が大切にしてるものとか矜持とか、考えたことがある? その人が何を求めていたのか、自分にどんな価値を見出してくれていたのか、考えたことはある?」

 

 私は出し抜けに問いかけた。答えを求めていない、問いの形をした過去だった。

 

「私の経験談なんて、私の人生にしか意味を持たないのかもしれないよ。でも、新しく関係を始めたいって、今度は突っかからないように努力するからって決めた人を、その決意すら見ずに突き放すのはよくないと思うんだ。心の中で言語化できないもやもやを見ないふりして関わりを絶つって、逃げてない?」

 

 優しい声。優しい表情。優しい雰囲気。

 紛い物の中に、本物の鋭さを一振り。

 

『先生って、そんなこと言うんだね』

 

 カズサの声は力なかった。

「うん、言うよ。ごめんね」と私はほほえんだ。

 

「私は後悔したから。今でもしてると思うから。確か、割り切れてないって話、したよね」

 

 見上げた天井からまばゆい光が降り注いでいる。蛍光灯に滅多刺しにされる、と思った。体の内側も外側も焼けそうなほど熱く、痛い。

 気づけば拳を握っていた。ふうっと息を吐いて脱力する。

 

 方向性が違ったとか、人間関係がややこしくなってとか、そんなふうに喧嘩別れをしたわけではなかった。

 

 ただ、私に親不孝を自慢できるほどの胆力がなかっただけ。

 また、離れたことを後悔しないだけの意思の強さもなくて。

 地縛霊みたいに、心がぽつんと置き去りにされてしまった。

 

「レイサは変わろうとしているよ。カズサはいつまでそうしているの?」

 

 カズサの神経を逆撫ですると思った。

 訳知り顔でのたまう自分もカズサと同じなのに、とも思った。

 それでも言わずにいられなかった。

 

 大きく息を吸い、吐く音がする。

 

 しばらくカズサは静かだった。

 私は自分の心をごまかすために曖昧な笑みを浮かべていた。表情筋が釘で刺されたみたいに動かなかった。

 

『先生って自分のこと話さないから、びっくりしたよ』

 

 出し抜けにカズサが言う。穏やかな声だった。

『いつもごまかすから』とほほえんだのが通話越しでも分かる。

 

『確かに逃げてたのかもしれないなぁ』と声が遠ざかった。私と同じように天井を見上げたんだと思った。きっと優しい色が飾られた額縁が彼女の視界には入っている。

 私のオフィスとは対照的にカズサの部屋には温度があると思う。

 

 何やら雑音が入って、んしょ、とカズサの声がまじる。体勢を変えたらしい。

 

『せんせい』と急に近い場所からカズサの声が聞こえた。びくっと背筋が伸びた。

 

 どうしたの、と言えずにいると、『やっぱりなんでもない』と甘い声が先んじた。ゆったりとした声だった。

 

『宇沢とちゃんと話してみるよ』

「そっか」

『今日はもう疲れちゃったから、休むね』

「うん」

 

 お休みを交わすと、カズサはすぐに寝息を立て始めた。

 過去を掘り返されても、きっとなんとかなるだろう。そんな直感があった。

 

 

 途中でアイリが練習に来なくなったり、三人が正義実現委員会に拘置されたりしたけれど、バンド練習はおおむね順調に進んだ。カズサとレイサの関わらないところでの私は、ほとんど完璧に先生の仮面を被り続けることに成功していた。

 また、レイサとカズサの間にどんな話が交わされたのかは分からないけれど、レイサはカズサの古い知り合いとして放課後スイーツ部と交友を持ったようだし、カズサの過去は忘れ去られたタイムカプセルみたいに掘り返されることがなくなった。

 

 

 しかし学園祭には、やはり魔物が潜んでいた。

 文化祭を前日に控えた夜のことだった。仕上がっていたシュガーラッシュに夜遅くまで付き合う必要のなかった私は、カズサからの連絡をオフィスで受けた。

 

『ねぇ、宇沢と今日会った?』

 

 アロナから着信を知らされ、私はカズサからのメッセージを読んだ。届いた時刻と現在時刻は同じだ。相手からすればすぐさま既読がついたように見えただろう。

 カズサからの一文からは、なぜだろうか、すさまじく嫌な予感がした。

 

『会っていないよ』

『当番でもないよね?』

『うん』

 

 ほんの少し間があいた。キーボードで打ちこんでいるときに出る吹き出しは現れない。

 小さな四角の先にいる相手のことを思うけれど、まったく状況が見えてこなかった。

 

『何かあったの?』

『……分からない。もしかしたら思い過ごしかもしれないし』

『それでも大丈夫だよ。とにかく話してみよう』

 

 送ってからまた少し経って音声通話がかかってくる。耳もとにスマホを近づけた。カズサはどこかを歩いているらしく、ごおごおという雑音が聞こえてくる。

 私はガラス窓に近づいて、キヴォトスの夜景を正面から臨んだ。深い闇の奥に、点在する星明かりとビル明かりの下に、冷たい夜風が吹き込んでいると思った。

 

『今、話しても大丈夫?』

『もちろん』デスクのメモ帳に向かって歩きながら答える。

『そっか』

 

 雑音に負けてしまいそうなほど頼りない声だった。いつもどおりのやり取りをすることで心の中から非日常を排除しようとするような必死さも伝わってくる。相反する二つが奇妙に同居していたので、私はただごとではないと直感した。

 

『さっきのモモトークを見るにだけど、レイサ、カズサたちのほうに顔出さなかったの? 私が帰ったあと』

『うん……あいつ、今日来るって息巻いてたのに』

『珍しいね』

『そうなんだよね。……あいつ私たち以外に話し相手いないし、急に予定が入るってこともないだろうから』

 

 そんなやつじゃないし。カズサは最後に呟くようにつけ足した。

 約束を破る人じゃない。カズサはそう言いたかったのだと思う。レイサの話となると途端に口下手になってしまうところに、カズサの抱える葛藤を感じた。今は触れるべきことじゃないけれど。

 

『だから、何かあったんじゃないかって。先生は心当たりある?』

 

「うーん」と言って、答えるまでの猶予を引き伸ばすけれど、何一つ浮かばない。

 ガラス窓に映る私は左手で持ったスマホを右耳に当てていて、右手にボールペンを持っていて、それがひどく滑稽に見えた。カズサは歩いて探しているのかもしれない。私は何をしているのだろう。

 わずかばかりの光景が外から飛びこんでくるけれど、何一つ意味のある実像を結ばない。私は鏡の世界に閉じこめられているようだった。

 

「たとえばだけど。騒動に巻きこまれた可能性は? 自警団なんだから、戦闘に巻きこまれてとか、そのときに怪我してしまってとか。考えられない?」

「ない……と思う」

「どうして?」

「だってあいつ、強いし、丈夫だし。そこらの不良に突っかかってやられるようなやつじゃないよ。怪我したって話も聞いたことない。宇沢が動けなくなるなんていったらそれこそ大人数に囲まれるとか――」

 

 不意に沈黙が訪れた。通話口から聞こえていた雑音が聞こえなくなり、私たちは通信の絶たれたウェブブラウザのように停止していた。現実を認識するために必要な時間だった。

 私が先に我に返り、カズサ、と何度か呼びかける。

 

「あ、う、うん。どうしたの、せんせい」寝起きみたいに要領を得ない声だ。

「何か分かった? 急に黙ったけど」対して私の声は急いていた。自分で自分の声に驚いた。

「もしかしたらって話なんだけど」

 

 カズサは慎重に話し始めた。

 

「前に、宇沢と言い合ったって話したことあったでしょ? あれ、トリニティの大通りでさ。放課後のけっこう遅い時間だったのもあって人通りあったんだよね。それで、キャスパリーグがどう、とか、あいつかなりおっきい声で言ってて。私、自分で言うのもなんだけどさ? かなり名前知られてたんだ。だから、その。キャスパリーグ復活の情報を持ってるって思われて、どこかに呼び出されてるのかも」

 

 カズサの声はどんどん苦いものに変わっていった。どこまでも切り離すことのできない過去への後悔といらだちと、自分が関係ないひとを巻き込んでしまった苦慮とがないまぜになっていると思った。

 

「不良が集まる場所なら何か所か心当たりあるし、私ちょっと探してみるよ。ごめんね先生――」

「また後でって言ってほしくはないかな」

「でも私のことだし」

 

 カズサは口早に言う。通話から聞こえてくる雑音が大きくなった。は、は、とカズサの息遣いも変化する。

 

「迷惑じゃないよ。どんどん頼って」

「先生、それ言えば私が言うこと聞いてくれるって思ってるでしょ」

 

 カズサの口調には咎めるような響きがあった。

「さぁ、どうだろう」とごまかす気のないごまかしをして、思いついたことを付け加える。

 

「でもほら、最後まで面倒を見させてほしいし、生徒の一大事かもしれない情報を得て動かないっていうのも、先生としてどうなのかなと思っていたり」

「嘘……ではないと思うんだけど、なんか胡散くさいんだよね」

「私がカズサに嘘をついたことはあったかい?」

「ないよ。でも隠してることはたくさんあるでしょ? 先生はなかなか本当の声を聞かせて(・・・・・・・・・)くれないもん」

 

 痛いところをつかれて私は黙りこんだ。

 カズサが勝ち誇ったような笑みを浮かべている姿が想像できる。

 

 雑音が穏やかになり、少しの沈黙を味わってから、雰囲気を一変させたカズサがおずおずと聞いてくる。

 

「その、いいんですか?」

「どんと来いだよ。戦闘は任せてもいい?」

「先生に怪我させるわけにはいかないからね。いいよ、任せて」穏やかな声ががらりと変わり、蚊の鳴くような声になる。「その……ありがとう、ございます」

 

 姿は見えないけれど、カズサは画面に向かって律儀に頭を下げたと思った。

 私はふっとほほえんだ。

 

 不自然に不良が集まっている場所をアロナに調べてもらうと、すぐに見つかった。

 適当な場所で合流した私とカズサはすぐにその場所に向かった。

 

 カズサは責任を感じていたけれど、変に力んでいるようには見えなかった。研ぎ澄まされた意識と神経が始終となりから放たれていた。

 キャスパリーグは場馴れしている。

 

 カズサの予想通り、キャスパリーグ復活の情報を握っていると思われてしまった宇沢レイサは、大勢のスケバンを相手に孤軍奮闘していた。

 廃れた市街地という入り組んだ地形を利用して近距離戦に持ち込み、むりやり数の利を覆している。出合い頭のショットガンは強い。レイサもまた、場馴れしていた。

 

 こっそり様子をうかがっていた私は小声でカズサに話しかける。二人で身をかがめながら、物陰に潜んでいた。

 

「どうする? 多勢に無勢だけど」

「一人で全部()せるからいいよ」

 

 カズサはこともなげに言った。肉食獣が獲物の隙を見定めるように、韓紅の瞳がじっとりと戦場を見つめている。

 私は予想外の言葉に目を丸くして、端正な横顔をまじまじと見つめた。

 

「え、ほんとに言ってる?」

「何その顔。文句ある?」

「すごいね……」

 

 キャスパリーグって。

 脳内で続いた言葉は、しかしカズサに察された。

 

 アルカイック・スマイルを浮かべたカズサが私の肩に両手を乗せる。みしり、と聞こえてきそうなほど力がこめられる。新品のジャケットには嘘のようにしわが寄った。

 

「なぁに? せんせぇ?」

 

 殺人的に甘い声だった。

 

「いや……はは」

「んん? どうしたの? ほぉら、せんせぇ。さっきの続き、言ってみて?」

 

 スケバンより先に、私にお迎えが来ると思った。もしかすると眼の前でほほえむ彼女こそが、遣いの天使なのかもしれない。

 

「あっ、レイサが、レイサが!」

 

 慌てて言うと、カズサは目を閉じて嘆息した。しょうがないから見逃してやる。そう言いたかったのだと思った。

 カズサは底冷えのする眼光で戦場を睨んだ。覇者の風格があった。

 

 もう一度ため息をついたカズサは膝を打ってゆっくりと立ち上がり、スリングを調整してから歩き出す。黒が揺れて、桜がのぞく。

 ゆったりとした歩みに、確かな威圧感。一頭の牛か象が行軍しているようだった。

 

 カズサに気づいたスケバンの何人かがメンチを切った。カズサはそれを無視した。大量の声を一身に浴びても、カズサは揺らがなかった。

 

「宇沢。もう休んどきな。先生が後ろいるから」

 

 労りも、威圧も、優しさも、何もない。

 念のために繋げていた通話越しに、真剣そのものの声が聞こえた。

 

「しかしこの数では」息も絶え絶えのレイサが大きな声で反論する。

「まぁ、見ときなよ」

 

 かつての頂点は多くを語らなかった。余裕たっぷりに浮かべられた自嘲の笑みが、雄弁に過去の武勲を語った。

 

「先生、始めるよ」

「分かった。あんまり気負わないでね」

「ううん。これは私のまいた種だから」

 

 

 事が片付いたころには、すっかり日が昇っていた。「サツが来るから」とカズサの助言で素早く移動し、公園の東屋に身を隠す。銃声が耳で反響していた。心臓が震える残響だった。

 私が狙われたときに守ってくれたレイサは、私とカズサが来る前から戦っていたこともあり、すでに疲労でダウンしていた。今はかたいベンチに横になっている。

 

 狭い東屋には三人分の疲労が満ちていた。

 カズサは先ほどまで戦闘していた方角をじっと見つめていた。

 

「ありがとね、カズサ」

「ううん。これで終わったらいいんだけど」

 

 戦闘の話なのか、過去の話なのか、私には判然としなかった。

 並んで立つと、カズサの小柄さがよく分かった。

 

「過去との決別はなかなかできるものじゃないよ」

 

 そう言った私をカズサがちらと見上げる。顔にはいたずらっ子のような笑み。

 

「説得力があるね」

「だろう? なにせカズサの先輩だからね」

 

 ふっと笑ったカズサが朝日に視線を移した。清々しそうな顔をしている。それでも夜通し続いた戦闘の疲れは隠せていない。

 

 手で庇を作って私も朝日を拝む。

 夜露のついた草や木々がきらめいていた。

 残響のなくなった頭で聞く外は静かだった。

 夜の冷たさを残した風が、眠っている猫を撫でるような優しさで吹いた。太陽が顔をのぞかせた瞬間に、夜風は夜風でなくなる。

 

 汗みずくで、土埃や血の跡をつけたカズサと、ぐったりと横になるレイサと、脛から下がわずかに汚れているだけの私。

 

「さすがに疲れたね」

「本当だよ。中学のときは全然いけたんだけどなぁ……もう歳なのかな」

「高校生でそれを言い始めたらおしまいだよ」

 

 カズサはおかしそうに笑った。

 草の青く甘い香りが風に乗って運ばれる。東屋を通り抜け、住宅街を巡る。

 

「本当にすごいね、カズサは」

「もう、やめてよ先生。こんなのなんにもなんないんだから」

「それでもだよ。私もレイサもその強さに助けられた。だからありがとう」

 

 キャスパリーグ。脳内の言葉が、またしてもカズサに察される。

 カズサは疲れた笑みに自嘲を混ぜた。汗のせいで化粧が崩れてもカズサは綺麗だった。

 怒らなかったのは、私のキャスパリーグ呼びに、嘲りや恐れ、からかいが含まれていなかったからだと思う。純粋に強さを褒め称えるために、私はカズサの過去を呼んだ。カズサはそれを感じて何も言わなかった。

 

 細い道を車がとろとろと走っていく。眠そうな顔をした猫人が駅に向かって歩いていく。街はまだ眠っている。誰にも知られずに、カズサの望み通りに、カズサとレイサの関係は幕を閉じた。

 

 

 あのあとカズサはすぐさまアパートに帰っていった。

「傷だらけだし、汗でべとべとだし、もうサイアク」そう言いつつも、カズサはどこか晴れ晴れとしていた。

 

 私はレイサを背負ってシャーレまで歩いた。そして二人でトリニティ総合学園の文化祭に向かった。

 

 レイサは始終不安そうで、ことあるごとに「私は見に行ってもいいんでしょうか」と私を上目遣いで見た。手を引いてやっと歩き始めた。レイサが私の手を握り返すことはなく、不安を口にするときにだけ、ほんの少し、まるで縋るものを求めるかのように力が入った。

 

 

 ライブが終わり、入賞者が発表され、様々な祝福を受けたシュガーラッシュの一行にレイサが混ざるのを見届けて、私はシャーレに戻った。

 バンド練習に遅くまで付き合った結果として、後回しにしていた書類があった。

 

 

 カズサがシャーレに押しかけてきたのは夜のことだった。

 涼し気なバンド衣装のままソファにどしんと座りこみ、むっつりと黙りこむ。腕を組む。ほのかに制汗剤が香った。ばっちりメイクを施された顔が怖い。

 

 私、今ご機嫌斜めです。

 

 カズサは全身からそんなオーラを放っていた。入賞しおいしいスイーツを食べたというのに、何があったのだろう。

 レイサのことではないと思った。レイサのこととなると、カズサはもっと天邪鬼な反応になるからだ。であれば、なんだろう。

 

 具体性のない、遠目に黒い球体を見つけたような嫌な予感があるだけ。

 

「先生、宇沢になんか歌ったの?」

 

 やにわにカズサが言う。

 私は顔に奇妙な笑みを貼りつけながら曖昧に頷いた。

 じとーっと。梅雨の湿気みたいな上目遣いだった。赤い唇をつんとさせたカズサは何も言わない。パソコンのファンが動く音だけが聞こえる。

 

 もしかして、と思った。レイサに対して歌を贈ったことに対して、不快感ではないにしろ、何かしら負の感情を抱いている。

 かといってレイサが、私から歌ってもらったことを自慢気に話すわけがないと思った。彼女は宝箱の鍵をかたく握りしめるタイプだと思う。不慮の事故で、私が歌った事実が露見したらしい。

 

「私の歌にはそんなに価値がないと思うけど」

「それ、先生がそう思ってるって話だよね?」

「そうだけどさ……」

 

 歯切れの悪い相槌を打つ。

 私とカズサの間に決定的な隔たりがあることをカズサは瞬時に理解してみせた。足がもぞもぞと動いて、その拍子にソファのしわが変化した。

 

 数時間前にいれたコーヒーはすっかり冷たくなっていて、おいしさを感じなかった。

 歌ってほしいんだろうな、と思った。

 しかし私の聖域に抵触する恐れがあると思って、深くは踏みこめない。そんなところだろうか。

 

「歌うこと自体は、まぁ、そんな、音楽とは関係ないんだよ。弾き語りとか暇なときにやっていた時期もあるから、嫌いでもないし」

 

 さっきコーヒーを飲んだのに口が乾いていた。むりやり唾液を作り出して飲みこんだ。

 あいつ歌上手いんだよとか、あいつ勉強できるんだよとか。そんなふうに身の丈に合わないハードルを設定されたときのような、心臓に何十個もの重りが吊り下げられているような痛みが走った。収縮し、膨張するたびに痛みは思考をずたずたに引き裂く。

 

「カズサ、今日、おめでたい日でしょ? そんな日に私の歌は合わないよ。私の歌はあまりにも、恨みとか、悔しさとかがあふれてしまう。カズサの気分とは相容れない」

 

 私の人間性と先生の境目があやふやな言葉だった。

 違う。素を出したい気持ちと、先生であろうとする気持ちがぶつかりあって出てきた言葉だった。

 

「聞いてみたかった」

 

 カズサは目を伏せている。軒先で膨らんだ水滴が地面に落ちて音を立てるみたいに、膨らんだ感情があふれてこぼれたような響きのある、主張のない声だった。

 私が歌を聞きたいのはレイサへの対抗意識ではない。それを遠回しに伝えたかったのだと思う。

 

 スーパーマーケットで「これを買ってもらえなかったら動かない」と息子から言われた母親のように、私は長考し、落としどころを口にした。

 

「ちょっと準備するから、少し待ってて」

 

 カズサは目を伏せたままだった。対処に困った私はレイサにするように頭をひと無でしてから扉に向かった。

 タバコを一本吸って、相棒を手にオフィスに戻る。

 

 私が戻ってすぐ、カズサは浮かない顔で鼻を鳴らし「たばこ?」と弱々しく言った。

 私は笑って肩をすくめた。

 

「しばらくやめていたんだけどね。ここ最近また吸うようになったんだ」

 

 キャスター付きの椅子がぐるぅっと低い音を立ててリノリウムを滑っていく。

 座って、息を吸い、構える。数回音を出して、頷く。

 

「やっぱりいい」私を見上げたカズサが目を丸くする。

「まぁまぁ、そう言わずにね」私はどんな顔で、どんな声で、そう言ったのだろう。ガラス窓に目を向けるのが怖くてできなかった。

 

 レイサに歌ったときもそうだったけれど、永遠に青にならない信号の前で立ち止まるようにしていた私の時が、少しだけ動いた気がした。

 

『TRAIN-TRAIN』アカペラで序盤を歌い、最後は徐々に演奏を小さくしていく。

 

「こんな感じかなぁ」と大きめに息を吐いて余韻を断ち切った。

 顔を上げたカズサが何かを言った。50円玉にあいた穴を通したような声だった。ありがとうか、ごめんなさいだと思った。

 

 整った容貌が、苦悶に歪んでいる。

 私は首を傾げ、かけるべき言葉を探す。

 

 ありがとうとごめんなさいが同居して、せめぎ合っていると思った。二つの大きな感情が左右から強烈に圧力をかけて、押し潰されそうになっている。

 カズサにとっては、お礼の言葉を口にすることすらつらいのだろう。その言葉は、自分のわがままを押し通したことの証明だから。

 

 ギターを丁寧に寝かせ、私はカズサに歩み寄る。無言で抱きしめて、猫の毛並みを整えるように丁寧に、後頭部のてっぺんから下に向かって何度も撫でた。カズサは細く、頼りなかった。桜の香りが心地よかった。

 

「化粧が崩れてしまうよ」

「あとで直すからいい」

「ちょっと前も聞いたなぁ」

 

 ぺたんと垂れた猫耳が痛々しい。しかし、桜色という差し色がなくてもカズサは綺麗だった。

 カズサが私の両肩をやんわりと押す。

 

「先生こそ、ジャケットについたら大変だよ」

「そうだねぇ」

 

 相槌を打ったが、私はカズサを抱きしめる力を緩めなかった。硝煙とタバコのにおいがついたジャケットにカズサがおずおずと顔を当てる。

 

 本心のこもっていない私の歌は上滑りしていた。大多数にとって足し算だった私の音の希少性は、どうやらカズサにとっては、掛け算みたいに増えていくものなようで。

 

 レイサに歌を贈ったのは自己満足だった。

 カズサに歌ったのは、他人の評価を軸にした歌だった。きっといつかまた混ざりあって、見分けがつかなくなるんだろうなと思った。夜はしとやかに更けていった。

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