アビドスとのことやエデン条約周りで奔走しているうちに、季節は巡り巡っていた。
ジャケットは一年前よりくたびれた。オフィスはたった一年で疲労と眠気とため息が降り積もり、年季が入った。
遠目に、川の流れに沿って桜が咲いていた。人にそう望まれたから咲いている。鮮やかな色合いが、私には人々を嘲笑しているようにしか感じられなかった。
『今度の文化祭でまたバンド組むんだけど』
『宇沢がギターやりたいって言い出して』
『ちょっと……その、助けて』
もうそんな時期になっていた。カズサに返事をして日程を合わせる。私がギターをできることは、放課後スイーツ部とレイサの中でのみ語られる秘密となっていたようだった。
話の流れで、レイサがピアノをできることが判明した。私は、ああ、だから昔、練習すれば上達することとしてピアノのことを言ったんだなと思っただけだった。
文化祭は無事に終わった。打ち上げに巻きこまれた私が歌をせがまれることはなかった。カズサとレイサの表情を思い出すことはできないけれど、何かを含んだ目を向けられたことだけを覚えている。
日々は平穏に過ぎ去った。
ある日ふとスマホが振動して、それから陽気なメロディーが流れ出した。いつだったか、着信音を好きなバンドの曲にしたらいいとカズサが言っていたけれど、未練がましい気がして、結局ずっと初期設定のままだった。
『カラオケ行こう』
開口一番にそう言ったカズサは、私を押し切って待ち合わせ場所を告げた。
カラオケに駆け足で向かうと、出入り口の近くに立つ制服姿のカズサをすぐに発見する。無機質な銃口が天をついている。「遅い」ぴんと逆立った毛並みの猫耳を見て、ただごとではないと思った。
「走ってきたんだけどなぁ」
「ダッシュ足りてないよ一年!」
「残念、ここに来て二年目だよ。カズサと同学年だね」
「……それはなんかノリ違くない?」
「同い年」
「絶対違うから!」
コースや時間の選択をすべてカズサに任せ、一人分の幅の廊下をカズサについて歩く。部屋に入った瞬間、どぎついネオンライトと、三つの画面に映された大音量のアーティストインタビュー映像が五感を刺した。
「歌うなら曲入れてね。私今日おもいっっっっっっきり声出したい気分だから、一人で何曲もいれちゃうと思うし」
映像に負けないくらいの声量を出しながら、カズサはてきぱきとタブレットを操作し、マイクを構える。
「仕事しててもいい?」
「うん」
私はカズサの声を聞きながら、しばらく私用のタブレットを触っていた。明るさ自動調節の機能がミラーボールに弄ばれていた。
ホーム画面を押した拍子に、天気予報のウィジェットに表示された日付が目にとまる。
たまたま自分の誕生日の近くだったことと、思いきり感情を乗せた力強い少女の声が耳に入ったことで、私は、そういえば彼女も去年に誕生日を迎えたのだなぁ、と途方に暮れた。
ひっそりと準備した言葉は、季節をすぎて湿気った花火みたいに、どこかに捨てなきゃいけないと思った。去年の誕生日、私は用事が立て込んでいてカズサと会えなかったような気がする。
未練がましく家の中に置かれている花火を来年に持ち越せるわけがないし、玄関先とかの目につくところに置いていたら、視界に入るたびに後悔がよぎってしまう。
『誕生日おめでとう』
たった一瞬のために準備された私の言葉は、夏祭りの最後を彩ることも、線香花火みたいに記憶に刻みつけられることもなくて。きっと過去と同化してしまう。思い出にはならない。なれない。誕生日にまつわる私の記憶がそうであるように、陳腐なセリフは、誰の足も止めることのできない凡庸なひとひらだ。
「せんせい?」
気づけばカズサの歌が止まっていて、三つの画面に見当違いな明るさが投影される。私はカズサを見てからテレビ画面に目を向ける。
アーティストは楽しそうに笑っていた。面白いと言葉にすることで、字幕に表示することで、人々を洗脳するみたいだった。洗脳されることを不幸とするのなら、小さな四角に操られている現代人はみな不幸だと思った。
「その……ごめんなさい。付き合わせちゃって」
「え、あ、いや! そんなことないよ!」
映像の沈黙を縫うように発された言葉にはっとする。聞こえないふりはできなかった。
私の言葉が空気の表面をなぞって、場を白けさせる。アーティストの笑い声が響く。ライトが明滅を繰り返す。
私はなんとか曲を入れた。いつだったか、カズサに聞かせた歌だった。
「その歌、好きなの?」
「うーん……どうなんだろう。でもカズサといると、なんとなくこれが浮かぶんだよね」
映像が切り替わる一瞬にそんな会話をした。カズサは浮かない顔をしていた。陽光にむりやり照らされる萎れた花がそうであるように、ライトの下にいるカズサもまた、綺麗で、鎖に繋がれているようだった。
歌が終わり、点数が伸びて、十の位がニ桁の中では一番大きなものになる。加点が入る。機械からわっと歓声が流れる。
「先生は全然大きな声で話さないし、本当の声も聞かせてくれないのにね」
廃線になって忘れ去られたバス停に聞かせるような呟きが、心の杭を深くした。
マイクをカズサの近くに置いた。となりに腰掛ける。
「カズサがそうであるように、私もけっこう考え事をしてしまうたちなんだ。気を悪くさせたらごめんね」
「……うん」
「私にとっては、こんなふうに素に近いものを出せる人が少ないから、貴重なんだよ」
狭い室内なのに、心の距離はずっとずっと離れていく。
「でも」とカズサが私を見た。韓紅の瞳はこんなときも意思の強さを保っているように見えた。
「ときには他人行儀な優しさのほうが身近に感じることもあるんだよ」
「そればかりは、ごめんね」
自覚できるほどに自分の目尻が下がった。
そっと頭を撫でると、カズサが身を寄せてくる。抱きしめて後頭部を撫でた。やわらかな体だった。
「タバコのにおい」
「最近は吸ってないよ」
「うん。だから寂しい。硝煙のにおいばっかり」
「……そのうち悪い男に引っかかるよ」
「もう引っかかってるかも」
私はため息をついた。
猫耳に当たったらしく、カズサが身を震わせる。
「化粧が崩れるよ」
「今日は泣いてない」
カズサの額が私の肩口に押し当てられ、その分だけ隙間が生じる。
「ジャケットについちゃうから」
「……クリーニングに出すから好きにすればいいよ。そろそろもう一着ほしいと思っていたし」
「ううん。ちょっと直してくるね」
猫のようにするりと抜け出して、カズサが廊下へ出ていく。
桜の香りが残っている。ミラーボールの色がころころ変わる。コマーシャルのライブ映像が耳障りな音を室内に響かせる。
なんとなく、一曲入れる。
カズサはしばらく戻ってこなかった。
化粧を直すのと同時に心の調子を整えてきたカズサは、時間まで気持ちよく歌い通した。
会計を済ませて外に出ると、そわそわするカズサがすぐに目に入る。わざわざ少し離れた場所にいたのに、とててと駆け寄ってきた。
「……ありがとう、ございます。私が言ったのに」
「いつもお菓子もらってるからね。これくらいは」
自分の気持ちをあらわすように、カズサはどうすればいいのか分からなくなってとりあえず笑ったような感じの笑みを浮かべた。
「そういえば喉乾いたかも。飲み放題つけたのに最後おかわり忘れちゃったから」
「もう、なぁにそれ」
察したカズサがおかしそうに笑う。口もとに手を当てる上品な笑い方だった。
「ちょっと待ってて」と離れたカズサは、やがて片手に缶コーヒーを持って現れた。
もう片方の手にはレモンティーの小さなペットボトルが握られている。
シャーレで出すときはいつもストレートだから、今度は水出しできるレモンティーを備えておこうと思った。シャーレに二人でいることは多いけれど、こうして出かけることはかなり珍しいのだとたった今自覚した。
帰路につく人の波に身を委ねながら、ぶらぶらと駅の方角に歩く。空になった缶とペットボトルを捨てるために立ち寄った公園で、なんとなく私たちの足が止まった。
「はぁ~っ」と色っぽい息を吐きながらカズサが伸びをした。制服が伸びて、さらさらした生地の黒いインナーが覗いた。ぴっちりとスカートに飲みこまれており、タイトなせいでくびれがはっきりしている。長袖が重力に引かれて落ち、手首があらわになった。
「すっきりした」と言いつつ、表情がどこかすっきりしていなさそうなのは、私を急遽呼び出したことと関係があると思った。
「話してもいい?」
ベンチを背に、両手を後ろにやったカズサが問いかける。
カズサが話したいのなら、とかいう気持ちを尊重する言葉は望まれていない。きっと彼女は肯定を欲している。
「そうだなぁ」と言いつつベンチにゆっくりと向かう。どっかりと腰を下ろす。
さ、さ、とスニーカーが土を踏んで近づいてくる。
「つらさっていうのは、抱えるためにあるんじゃなくて、手放すためにあるんじゃないかな」
私はカズサを見上げた。夕日がカズサの背後にあるせいで、影となった表情は見えない。しばらく見つめ合ってからカズサが口を開く。
「それって、逃げじゃないの?」
「難しいところだね」
人気のない公園を見回す。かつて子どもたちであふれていただろう公園は、時代に取り残され、今や緩やかな終わりの道を歩いている。ちょっと前にゴールデンウィークがあったけれど、この場所は誰かに訪れてもらえたのだろうか。
たとえ人から忘れ去られたとしても、緑の景観という観点から撤去されない公園は、終わるに終われない腐った恋人関係みたいに感じられた。
「たとえ話をしようか」
「うん」
頷いて、カズサがとなりにそっと座る。拳一つ分もない距離。シャーレのソファの距離が、そのまま私たちのいつもとなっていた。心の距離ではないと思う。
ほほえむと、照れくさそうな笑みが返される。じくっと心が痛んだ。
「夕日とか、滝でもいいんだけど」
私はカズサから顔をそらし、その色に目を細める。
「もしも夕日が視界に入っていないとして。背後にあるとして。カズサはどうやって太陽を認識する?」
カズサは怪訝そうに眉をひそめ、口元に手を当て、しかしすぐさま答える。見え透いた罠を回避しているにもかかわらず、自分の考えを疑っているような所作だった。
「背中に受けるあたたかさとか、こういう……なんていうかな。風景の色味? で、かな」
「そうだろうね。私もそうすると思う。じゃあ、滝は?」
「音と、水しぶき」
「だろうね」
ややあって、カズサが口を開く。
「それとつらさを手放すことになんの関係があるの?」
「今のところはなんの関係もないよ。つらさを手放すってのは結果だしね。私がここで言いたかったのは、つらさを認識している方法」
なおも不可解そうな目つきのカズサにほほえみを返す。
「つらいものからは目を背けろ。一つの教えだね。これは背中の太陽と同じだと思うんだ。そして、太陽からあたたかみを感じるように、つらいことは、記憶として私たちに重さを与えてくる。風景にはつらい記憶のベールがかかる」
さながら太陽が世界を問答無用で照らすように、過去は視界にのしかかる。
「じゃあ、対処しなきゃいけない。太陽や滝はいいけど、つらい記憶は文字通りつらいからね」
「その方法が、手放す」
「そう。抱えるんじゃなくて、手放す」
私は抱え続けた後悔を吐露するように、もしくは見せたくない感情をたくさんの落ち葉で覆うように、饒舌になった。
「抱えたところでいいことはないよ。しんどいだけ。忘れたほうがよっぽどいい。思い出を増やすことが生きることじゃないんだから。
忘れるために、人に聞いてもらう。自分から手放して相手に受け取ってもらい、対処を任せる。そんなイメージ。
人はみんな自分のことで手一杯だからね。本気で心配してくれる人なんてそんなにいないよ」
早口によって乱れた呼吸を整える。
ベンチの背もたれに上体を預けた。ソファよりもキャスター付きの椅子よりもかたい木の材質に、非日常を意識する。
今度はゆっくり話した。
「つらい記憶に苦しんで苦しんで、目を背けずに手放すことは強さだと思う。
そして、その存在を背後に感じていながら、目をそらし続けることは、逃避だと思う。逃避し続けることにも強さが必要だけどね」
「どっちも強いの?」
「太陽を見続けるのと、背中に浴び続けるの、どっちも地獄だろうさ。適度な距離感が大事なのに、人生はそれを許してくれない。だからどっちかを選ばなきゃいけない。やなもんだよ」
私の言葉には、人生に対しての倦怠が含まれていると思った。
「せんせ、くちょう」カズサが表情をやわらげる。私の機微を察したとは考えづらかった。私がそれを指摘することはなかった。
口寂しくなってジャケットの内ポケットに手が向く。中身のないそこを漁る。
手に何も握られていないのを見たカズサが微笑を浮かべた。私はふいと顔を背ける。
「癖なんだよ」
「入れとけばいいのに」
「一年も前のを入れてられるか。しけってるよ」
「タバコってしけるの?」
「さぁ? そこまで放置したことがないから知らん」
一年前に買ったやつは、どこにやっただろう。
「そっか」
カズサは確かにそう言った。短い言葉に、寂寥が見え隠れしていた。
日中の爽やかさを残した風が吹いた。桜が背後に靡く。遅れて咲いた桜がひっそりと散ったような気がした。
デニール数の多いタイツに覆われた太ももの上で両手が重ねられている。わずかに握られ、震え、やがて脱力した。カズサは俯いていた。
買い物かごを乗せた自転車が視界を数台横切り、帰り道を急ぐスーツの猫人やロボが公園を通り抜ける。銃声の聞こえないキヴォトスは平和そのものだった。
けれど、平和を甘受するだけでは亀裂が埋まることはない。
太陽が沈むと、街は一息に暗くなる。私は都会の闇で亀裂をうやむやにした。
「人を頼るってさ、主語も述語も大きいと思うんだ」
眠っていたのかと思うほど黙っていたカズサが、こくりと頷いた。
泣き疲れたような顔で私を見上げる。常に複数の感情を抱き、葛藤を抱え続けては、そりゃ疲れてしまうだろう。
「その大きさを自覚せずに立ち向かおうとするから疲れてしまうんだ。スイカを一人で食べるのは厳しいし、バカでかい荷物を一人で背負うのも無理。でも、それが一人でできないことなんだって理解していれば対処法がある」
スイカなら細かく切って数日に分けて食べるとか、友だちを呼ぶとか。
荷物なら、荷台を使うとか人を呼ぶとか。
指を立てたり、腰に手を当てたりして、私は重い空気に抗った。軽薄な人間を演じても、本心との乖離に息が詰まるだけだった。
「それと同じように、人を頼ることを細かくしてみればいい。解決しなくてもいいから話を聞いてもらうとか、お礼として何かをおごるとか、そんなふうにね。カズサはスイカを丸かじりしようとしてるよ」
最後の言葉を聞いて、カズサは力なく笑った。
上手に説明できたのかどうか、私には自信がなかった。そもそも何の話をしていたのか覚えていなかった。失敗したという気づきが足下から這い上がってくる。一瞬、体からすべての力が抜けたような気がした。
背もたれに全体重を預け、空を見る。尾てい骨が座面に当たっていた。
追い立てられるように西の空に逃げてゆく橙と、東から迫る紫がちょうどまんなかで溶け合って、空白の白色を形成していた。近くに悪魔の口みたいな三日月がぽつねんと浮かんでいる。
カズサに何かつらいことがあって、それを話してもらおうとしたのに、失敗している。会話をターン制バトルと評したのはどこの誰だったろうか。
先生の仮面を被り続けた一年。中途半端に人と関わり続けた一年。
それは、誰とも関わらない一年よりもずっと私を消耗させた。
誰かの射程範囲にいることで、黒い憔悴みたいなものがあふれてきて、窒息しそうになっている。
かといって、一人きりで平和を貪ろうとすれば、黒い焦燥みたいなものに心臓が締めあげられる。
ギターに打ちこんでいた青春時代、私は魂が燃える熱によってこの世の全てから身を守られていた。私は安心していた。
「ちょっと考えるよ」
不意にカズサは言った。いきなり声を出したせいか掠れ声だった。
カズサが立ち上がった音がする。手慣れた様子でマシンガンを肩にかけている。
「先生、死んだような顔してるよ?」
「お互い様だろうに」
「え。ちょっとそれどーゆー意味」
半目でずいーっと顔を近づけてくるカズサをかわして私も立ち上がった。別れの挨拶をして、違う道を歩いた。
カズサやレイサは、体の中に異物が入りこんだとき、よく咀嚼して取りこもうとする。それを私は、とても魅力的だと思う。
重いため息をあざ笑うかのごとく、夜の気配をはらんだ春の風が吹いた。
ほとんど深夜に近い時間に通話がかかってきた。カズサの第一声は、ライブ後半のアーティストみたいに掠れていた。
『今、話してもいい?』
「うん、構わないよ」
咳払いをして声を整えた音がする。
『ええと……まず、その。遅い時間に、ごめん、なさい』
私が気の抜けたような息を吐くと、カズサは『なに』とふてくされたように言った。その声には安堵が含まれていた。
とりなすように咳払いをして、カズサは話し始めた。
ずっと懇意にしていた弾薬屋がもうじき店を閉めるのだ、とカズサは言った。
年配の店主が一人で営んでいたらしく、冗談交じりにほのめかされることは過去にもあったという。けれど今回のは、冗談ではないらしかった。
ひと通りを話したカズサはどこかすっきりしたような調子で『飲み物取りに行ってくる』と言った。遠ざかっていった足音がしばらくして戻って来る。
テーブルにコップを置く音がしたかと思うと、雑音が入る。至近距離で発された悩ましげな声がスピーカーを通してオフィスを揺らした。
「いきなり別れを告げられるのって、けっこうしんどいんだね」それからぽつりと「あいつもこんな気持ちだったのかな」と言った。通話先の声は記憶を遡っていた。
またしても雑音が入る。
「考えたことなかったなぁ」カズサがため息をついて笑う。もしかしたらベッドに寝転がって話していて、今しがた仰向けになったのかもしれない。
それから適当な会話を続けて、適当なところで「おやすみ」を交わす。カズサは明日も学校だし、私も仕事だった。
カズサは通話を切る間際「新しい店探さなきゃなぁ」と言った。切迫していると言うよりも、自分の一部が切り落とされた痛みをこらえるような声だった。
寝る前、まっくらな空間に身を横たえせるようにしてベッドに滑りこみ、考える。その人が悩み抜いて決断したことが、周囲からすれば、突然の決意、もしくは気の迷いのように捉えられてしまうことがままある。
意識が夜の底に沈み、気がつくと朝日が昇っていた。
トリニティ郊外にある、木造の二階建ての建物をみて、これは確かに閉まりそうだと思った。
木の看板は腐食が進んでいるのか常に湿っている。文字は読めない。すれ違う自転車は錆びているものが多く、ひと漕ぎごとに悲鳴を上げていた。周囲にいる店番はほとんどみんな腰が曲がっていた。
新しくできた街に活気を吸われた商店街に特有の、空気の重みがあった。もうすぐシャッター街になることは明白だった。
「すみませーん」
開け放された戸口をくぐり、声を出す。レジの奥から呑気な返事が聞こえた。年老いた女性の声だ。と、と、とと畳を踏む音がゆっくりと近づいてくる。
老婆が現れるまで、私は店の中を観察した。
銃本体やボックスマガジンが店の年季からかけ離れてぴかぴかしていた。手入れに使うマイナスドライバーや替えの部品、バネなども丁寧にまとめられている。繁盛はしていなくても、黒字で営業できる程度には売上があり、店内の整頓ができている。
店を畳む理由が、一身上の都合以外に見つからない。
「はいはい、おまたせしてすみませんねぇ」
奥の和室から灰色の老猫が姿を現した。和服を着こなした老猫の背筋は前傾に曲がっていた。私を見て足を止め、開いていないように見える目もとにしわが寄る。
「あぁ、あなたが……カズサちゃんがお世話になってます」
「いえ、そんな。とんでもない」
私は戸惑っていた。目が合った瞬間に裏側まで知り尽くされているような雰囲気を感じ、自然と背筋が伸びた。
深々と頭を下げた老猫は、私をじっと見つめて要件を尋ねてきた。
「それで、本日はどのようなご要件で? 零細の店ながら、もう少しの間は銃についてのプロフェッショナルを名乗るつもりですが」
穏やかな物腰だった。老猫は始終ほほえんでおり、その雰囲気を一切崩さなかった。私は彼女から私とよく似た拒絶――他者の意思を跳ねのける意思を感じた。
私はため息をついて、老猫とよく似た形の笑みを顔に浮かべた。諦念からだった。
「……何を言いに来たのかは、おそらく察しの通りですよ。しかしまぁ、諦めたわけですが」
「お若いのに、疲れてしまったのね。あなたは」
乾いた笑い声が乾燥した店内に響く。猫は微笑を崩さない。
「ずっと立っているのもなんですし、掛けたらいかがかしら」
全てが彼女の舞台だった。肉球で優しく叩かれた上がり框に腰を下ろした。となりには座布団に正座する猫人がいる。着物から渋い香りがした。
この人からは、相対した人物が自然と自分の話をしてしまうような不思議な雰囲気が漂っていた。年の功は雰囲気にもあらわれるのだと思い知った。
自分の膝に肘を乗せ、前かがみになる。今から重い話をしますと宣言するようなポーズをとっても、彼女はゆったりとした空気を絶やさなかった。
「いい店、知らないんですか」
「仕入れの都合で紹介してあげられるお店や企業は多いけれど、それで紹介したとして、カズサちゃんのためになるのかしら。出会いと別れはつきものなのよ。なんて、先生に言うことじゃないのかもしれませんけどね」
茶化すように笑い「お茶でもいれてきますね」と老猫は立ち上がった。所作には緩慢さがあったけれど、丁寧で上品で、耄碌した様子はこれっぽっちもなかった。
本当は、店を畳まないでくれと頼みに来たはずなのに。目を合わせた瞬間に体がすくんで言えなくなった。よく躾けられた犬が「待て」と言われて動きをぴたりと止めるように、子どもが両親の放つ苛立ちを感じて黙りこくるように、絶対的な上下関係があるように思われた。
運ばれてきた湯呑みを両手で握り、ゆっくりと傾ける。いれたての熱さはなく、仄かなあたたかさと豊かな茶葉の香りがする。
ほうと息を吐いた老婆が私に言う。
「中学のころのカズサちゃんはねぇ、そりゃもう危なっかしくて……でも。今はこんな素敵な大人と一緒にいることができるなんて、嬉しい限りだわ」
「私が素敵な大人に見えますか」
「あら、違うの?」
しわの深い顔に、さらにしわが刻まれる。
先生という役職を背負っているから、私は老猫の言葉を否定することができない。それを分かった上で彼女は問いかけている。
もしかしたら、この老婆はずっと店を畳みたかったのかもしれない。中学時代のカズサは自分の思い通りにならなければ当たり散らす不良少女だったから言い出せなかったけれど、高校に上がり、穏やかに過ごすようになったことを確認して口火を切ったのかもしれない。老猫にだって、やりたいことや人生がある。
だとしても。
私は、カズサがどうして私に話したのか気づける程度には老いており、相談を受けてもいないのに様子見に来てしまう程度には幼稚だった。
やるせなさがこみ上げて、湯呑みを握る両手に力が入った。陶器が割れてしまえばいいと思った。波が立った湯面から茶葉が香る。
「こぼれてしまいますよ」
「加減できないほど揺らしてません」
「そうだったかしら? 地震みたいに、そのうち大きいのがくると思ったのだけれど」
言い返せない沈黙をごまかすようにして
「お下げしますね」
老猫は両手でしっかりと盆を持ち、空になった湯呑みを運ぶ。すり足だが、足取りは確か。とてもではないが店を畳もうとする人の動きではない。腹のうちが読めなかった。
私は自然と腰を上げ、.303ブリティッシュ弾のボックスマガジンのところに歩いていた。カズサの弾薬だ、と思った。
カズサは自身の銃を「ただ持ち歩いているだけ」みたいに言うけれど、アパートで丁寧に扱われていることはかんたんに想像できた。でも、私たちの前ではそんな素振りを見せないところがいじらしいと思った。
少し湾曲したボックスマガジンを一つ手に取る。馴染みのない重みを感じる。向こうと重さは同じはずなのに、命を奪えるかどうかで物理的な重さが違うような気がした。
それなりに普及している弾薬だから、ここ以外でも取り扱っている店は五万とある。しかし、そういうことではないのだ。
「ほほえましいわね」
店主がレジから声を上げた。
ゆっくりと商品を戻して老猫に向き直る。
「そうですか?」
「えぇ。誰かのためにそんなに一生懸命になれるなんて。カズサちゃんもいい人を見つけたのね」
一拍置いて「あぁでも、レイサちゃんとの間が複雑になってしまうのはよくないわね」と付け足した。
溺愛する娘の恋バナをするみたいだった。口調には茶化すような軽薄さがあった。しかしその芯には、相手の幸せを心から願う真心が感じられた。
「また明日来ます」
「何度来てもらっても、私の決意は変わらないわよ」
「思い返して時間の無駄だったことが、経験として無駄だったことはありますか?」
店主は力なく笑い「ないわね」と言った。
「でも、経験は人を足踏みさせるわ。何も知らないことこそが勇敢さに繋がることもある」
「無知な勇敢は無謀なだけ。大事なのは、経験して、乗り越えること」
「自分にできなかったことを他人に望むのは、年長者の悪い癖よ」
ぐっと奥歯を噛んだ。ふわふわと笑う前傾姿勢に背を向け、私は店を出た。
彼女は繁栄を求めて店を開くのではなく、死に場所を求めて店を構えている感じがした。病に冒された牛が動かずに黙って座っているみたいだった。
店内が日中でも薄暗かったことに、あとから気がついた。
私は翌日も店を訪れた。
用事が立てこんでいたこともあり、シャーレを出るころには空の色が変わっていた。駅方面に向かうサラリーマンに紛れ、ぱんぱんになった物置きにさらに不用品を突っこむような感覚で満員電車に乗り、息苦しさを我慢して脱出に成功する。
トリニティからはサラリーマンの群衆を逆行し、駅とは反対に向かって歩いた。人通りは次第に減っていった。
「あのね、カズサちゃん。カズサちゃんの気持ちも分かるの。でもね、この区画はもう今のままでは繁盛しない、できない。ここに住んでいる若い子たちは、遊ぶために都市部に行くしかないの。働き口だってどうしてもここは減ってきている」
店内から諍いのような声が漏れ聞こえていて、私は足音を忍ばせて近づいた。開け放しの戸口の近くで、店内からは見えない場所に身を潜める。
老猫の声はどことなく辟易していた。
「そんなことなら、私たち古い層が店を畳んで、大きな企業に買い取ってもらって、再興してもらうほうがいいと思わない? 老い先の短い私たちが次の世代に土地を明け渡したほうが、きっとみんなのためになる」
「思い出はどうなるの? そんなことして……! 土地に愛着はないの?」
「そんなことじゃないわ。誰かに土地を明け渡すことは、正当な契約で、売買よ。私たちはもう十分に幸せになった。人と関わることができた。ゆっくりと尻すぼみになる人生でいいの」
物分かりの悪い妹に道理を諭すような声。しかし、二人の声には少なからず怒気が含まれていた。
暗雲が立ちこめており、ともすれば店の外まで雷が届きそうな危険な雰囲気があった。
二人はしばらく黙っていた。私の心臓だけ、戦争を目撃したかのような極度の興奮状態にあった。
ことの成り行きを見守ろうとしていたはずが足を踏み出しており、私は戸口にそろそろと近づいていった。
いまだに早鐘を打つ心臓から緊張が伝わり、汗が吹き出す。夕日を背負った長い影がいよいよ店内に侵入した。背中が奇妙に曲がっていて、老人みたいだった。
老猫がぽつりと呟いた。
「最後が盛り上がる人生ってね、きっと、太くて短い人生で、最後には死が待っているのよ。もういいじゃない」
私は真正面から心臓に矢を受けたように棒立ちになった。
最後には死が待っている。そして成仏できないでいる、と思った。
「私はカズサちゃんにはそんなふうになってほしくないし、私自身も、もう盛り上がれるほど活き活きとはしていないの」
私はこのとき、往来をゆく人からいきなり心を鷲掴みにされて引き抜かれたような心地がしたのだと思う。瞬間的にぽっかりと空いた穴に、風が吹いた。初夏の風は、まだ冷たい。
引き抜かれた事実にやっと気づき、すると途端に痛みが走る。
会話は続いていたが、私の頭はそれどころではなかった。
「抱えた在庫を処分するまでは続けるけど、店を開き続けることはできないわ。土地の買い取りの話や大型ショッピングモール建設、マンション建設の話が出ているのは本当だしね。もちろん伝統を大事にしたいと言って反対している派閥もあるけど、私がどちらなのかは言わなくてもいいわよね?」
戸口からほんのわずかに見えたカズサは俯いていた。
「分かってる、けど」振り絞るように言い「考えさせて」と踵を返した。
二人の雰囲気は、冷めきったカップルが付き合い続けるかどうかを惰性で話し合っている現場とよく似ていた。結論だけがしっかりしていて、その間の論理の筋道がちぎれて宙ぶらりんになっているように思われた。
と、不意に強い衝撃が前からおとずれた。
「あ、ごっ、ごめんなさい!」先ほどとは一転して、他人行儀な明るさでカズサは言った。
「いや……こちらこそごめんね。こんな場所で突っ立ってて」
「せんせい」
カズサの言葉は夢を見ているみたいだった。河原でキャッチボールをしている最中にボールが予期せぬ方向にすっぽ抜けて、川のほうに飛んでいくのを眺めるような、時の遅さを感じているような調子だった。
徐々に現実に手繰り寄せられ、悲壮と驚きに顔が歪んでも、カズサの整った顔は綺麗なままだった。
不意にタブレットから慌てた声がした。
『先生! せんせい! 聞こえてますか!? おばあちゃんが倒れたって連絡が入りました!』
「あ、あぁ。うん」
視界の下で猫耳が立った。
私は動かずにいた。
アロナが『ですから、ご両親からおばあちゃんが倒れたと連絡が入りました』と繰り返した。憔悴していた。
「え、まさか」
目が合った途端、カズサは目を丸くする。私の雰囲気が一切変わっていないのが信じられないようだった。
私はキヴォトスで日常業務を繰り返すつもりでいた。社会規範に基づいて言えば、私の態度は裁かれるべきものだと思う。
しかし家族の温度とでも言えばいいのか、私たち一家は結びつきが弱かった。
「もしも危篤だったり、すぐにでも来てほしいのなら、そう明記すると思う。今来たのはたぶん事務連絡だよ。もしくは、私は来なくてもいいってことか、出しゃばらなくてもいいってことか」
聞くやいなやカズサは私の胸ぐらを掴んだ。
燃えるような怒りを滲ませた韓紅の瞳を、私は冷ややかに見下ろしていた。化粧の施された頬に、奥歯を噛んだとき特有の力みが走る。
「人っていきなりいなくなるんだよ。先生も知ってるでしょ」
閑静な街にカズサの怒声はよく響いた。
「先生は目の前がまっくらになって、道がいきなり途切れたみたいな経験したことあるの。どうすればいいか分かんない悔しさを感じたことないの」
「ない、かな」
私は即答した。
カズサは何事かを私に怒鳴った。数日間抑圧されていたものが突如として噴火したような、稚拙な感情の発露だった。八つ当たりと言い換えてもよかった。
いまだに動かずにいる私をカズサは思い切り引っ張った。
外部との往来を司るホームは人でごった返していた。
普通電車を何本も乗り換え、途中で新幹線も活用しながら祖母の家に向かう。新幹線の中でも私たちは無言のままで、カズサは居心地悪そうに何度も何度も寝返りをうっていた。
県庁所在地で新幹線をおり、切符を買ってさらに移動する。二○時四○分発、二一時二○分着の電車に乗った。祖母の家の最寄駅から一つとなりの、そこそこ栄えている駅に向かった。
田舎の夜は早く、二両編成の電車には私とカズサと車掌だけだった。マシンガンをコインロッカーに預けたカズサは手ぶらで、ひどく小さく見えた。
「迷惑をかけることと人を頼ることって、けっこう似てると思うんだけどさ」
外は暗い。時が進んでいないみたいだった。がたんごとんと重い音を響かせて、車輪だけが前に進んでいた。
俯いていたカズサがちらと私を見上げる。
「カズサってその二つを両方とも、迷惑をかけることって行為にまとめてない?」
「……ごめん、よく分かんない」
夜にぴったりの声だった。
カズサの頭を撫でると、いやいやをするように首を振って私を払いのけた。手首に毛先が当たってちくちくした。
私は人さし指と中指を立てて同じことを言った。私の言動は短絡的だった。重い空気を変えようとしたわけではなくて、カズサを打ちのめす現実から少しでも遠ざかれればいいなと思っていた。
カズサは黙ったままだったけれど、私が話をやめる気がないと悟ってか、渋々頷いた。
「グラデーションだと思うんだよ、グラデーション。中学の美術でやらなかった?」
「私、中学あれだったから」
「あぁ、そうか」
スマホを取り出して『青色 グラデーション』と検索した。
「謝ったほうがよかった?」
「ううん。謝られると余計に気にしてるみたいじゃん。私はできるだけ思い出したくないだけ」
「そっか」
「うん」
カズサの声は神経質だった。私とカズサにはどうしようもない隔たりがあった。
検索結果を画像に切り替える。たくさんの寒色が並んだものの中から一つをタップしてカズサに見せた。
「こんなイメージなんだけど」
「さらに分かんない」
カズサは段々といらいらしていた。
「そっかぁ」と言いつつ、白に近いほうを指さした。
「カズサには何色に見える?」
「空色……とか、水色とか」
「じゃあこっちは」
カズサは私を睨みつけた。どうして怒らないのとでも言うかのように、怒られないことに対して不信を抱き、いらついているみたいに感じられた。
私が気にする素振りを見せず意味の分からないことを話し始めたので、さらなる困惑が怒りに変換されていると思った。
「私は気にしないって言っても、カズサは気にしてしまうのかもしれないけど。なんだろうな。まずまぁ、話に付き合ってよ」
気楽な調子で笑いかけた。
スカートの上で拳が握りしめられる。
私は拳をそっと開かせ、握手をするようにした。
「思い切り握ってもいいんだよ」と言うと、カズサは一瞬固まってから、本当に握ってきた。恨みをすべてぶつけるような力強さに絶叫する。カズサはやっと笑った。
車掌がやってきて胡乱な目つきで私を見たあと、首を傾げながら戻っていった。
使い物にならなくなった手を呆然と見つめる私と、お腹を抱えて俯くカズサだけが残っている。
間抜けな私にカズサは毒気を抜かれたらしく、ふうと長いまつげを伏せたあとに私のスマホに目を落とした。
電車がトンネルを抜けた。ほんのわずかだけ窓の外に光が浮いていた。
「紺色とか、ぐんじょう……? いろとか。紫がかっていってる」
「そうそう。でも
「……大雑把すぎない? だって違う色じゃん」
「私たちはそう感じるね。でも虹が赤、黄、紫の三色で表現される国もあるくらいなんだから、色ってかなり適当なんだ。同じ色を見たとしても、実は一人ひとり感じる色がわずかに異なっているって説もあるしね」
「そうなの?」
「うん」
韓紅の瞳には先ほどまでの怒りが微塵もない。私の手はいまだにびりびりじんじんしている。
「それで話は戻るんだけどね。迷惑をかけることも、頼りにすることも、全部このグラデーションの画像と同じなんだよ。空色と紺色みたいに、若干違うけど、大もとは同じ、みたいな。どちらも人の時間をもらう行為だしね」
カズサは分かったような分かっていないような気難しい顔をしている。
「カズサは、人を頼りにする行為ですら、迷惑をかけているって感じすぎてしまうんだよ。どちらか片方に偏った感性をしているというか。うーん、難しいね」
カズサが私のスマホを指さした。
「これを全部青色って表現する人みたいに、私は全部を、迷惑をかけているって言葉にまとめちゃってるってこと?」
「そうそう、そういう感じ」
「ふぅん」とカズサが言う。唇を尖らせている。
「それが駄目ってわけじゃないんだけど、塩梅が大事なんじゃないかなって」
「でも、私」
カズサは言い淀んだ。
外に見える明かりの数が徐々に増えていく。
「あまり言いたくないだろうから聞き出すまねはしないけど、大人って一口に言っても、だよ。特に私は先生だから、どんどん頼ってよ」
球体だと思っていたものが、実は正二十面体かもしれなくて。
見る角度を変えれば、同じものでも違うように見えるかもしれなくて。
肉眼で夜空の星を見るように、すべてを遠くから観察することができるなら、痛みも変化も分からないまま傷つくことなく終えられると思う。
たまたま、たまたま器用なことができない人もいて、少しの変化に戸惑い、敏感でいる人もいて。
そういう人が疲れないように生きていくためには、事物を見る角度を変えたりして感性をごまかしていくしかないんだと思う。
カズサは私の話を静かに聞いていた。
新幹線には一人一つ肘置きがあった。この電車にはなかった。
カズサがそっと身を預けてくる。甘えるように、腕を絡ませる。初夏の入口で、カズサはいまだに春で立ち止まっているのかもしれないと思った。
「ごめんなさい」
カズサは謝った。何に対して謝ったのかも、どうして謝ったのかも判然としない、何もかもが不透明な謝罪だった。透き通らないことが美しいと思ったのは初めてだった。
ありがとうを言われなかったから、私はカズサの心に触れたと思った。