音色が繋ぐ、過去と未来   作:ぞんぞりもす

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カズサと田舎 二

 ホームに降り立ち、階段を上って切符を滑りこませる。交通系ICしか使ったことのないカズサは、切符が入っていって戻ってこないのを見て興味深そうに頷いていた。

 

 ここは祖母の家の最寄り駅から少し離れたところにある比較的大きな駅だった。そうはいっても所詮は田舎だから、最近になって券売機が導入されたばかりだし、二両編成が賑わうのは朝と夕方の一瞬だけ。

 土地の無駄と言えるほど広い構内は閑散としていた。節電のために歯抜けとなった電灯の下を私とカズサは進む。二人分の足音が響くことにカズサは最初戸惑っていた。

 

「え、ここ人住んでるの?」

「住んでるよ。ちらほらタクシーが見えるだろう?」

 

 外に出てそんな会話をする。建物の高さも、駐車場の広さも、人通りも何もかもが都会とは正反対の街。世界の裏側にでも来たみたいにカズサは目移りしては頷いていた。

 誰も並んでいないタクシー乗り場に向かおうとしたけれど、カズサがそれを制した。

 

「私、せっかくだから歩いてみたい。……急ぐんならあれだし、こんなときに不謹慎かもしれないんだけどさ」

 

 カズサはまだ申し訳なさそうにしていた。

 私はふと、カズサに今後の予定を話していなかったことを思い出した。私たちは裸足のままいきなり新幹線に飛び乗ったようなものだった。

 実は新幹線の中でホテルを取っており、私はそこに向かおうとしていたのだが、カズサはどうやら祖母の家に直行すると思っているらしい。

 

 ホテルに向かうことを伝えると、カズサは目に見えて狼狽した。

 

「え、ほ、ほてる? ほてるってあの?」

「うん」

「そ、そう……」

 

 ちらちらと私の様子をうかがいながら、そわそわと言う。両手の人さし指を胸の前で合わせる。

 構内から自動ドアをくぐった光が私たちを照らしていた。二人分の影が中途半端に重なっている。いかがわしいことをしているみたいだった。

 

 タクシー乗り場と自動ドアの中間で立ち話を始めたので、かろうじて誰からも声をかけられることはなかった。

 

「そんなに急いでもいないし、歩きながら説明するよ」

 

 タイルを踏んでゆっくりと歩き出す。カズサが声を上げ、慌ててとなりに並ぶ。

 タクシー乗り場を突っ切って、がらがらの駐車場を進んだ。タクシー運転手が暇そうにスマホを見ているのがガラス越しに見えた。駅はどこもかしこも順路を守らないでもよさそうなほど空いていた。

 

 私たちは都会よりも幾分か明るいタイルを踏みながら街に繰り出した。

 

「たぶん、ばあちゃんは今、病院にいるんだよね。検査が終わって、まぁ大事(だいじ)には至らなかったとしても、病院から『安静にしておくように』って一日くらいは泊まるように言われると思うから」

 

 木々から放たれる青く甘いにおいが溶けた街は静かだった。居酒屋やコンビニもあるけれど、どこかみんな粛々と営業している感じがして、駐車場だけがいやに広く取られていた。

 

「ばあちゃんの家に行ったとしても、たぶん鍵がかかってるんじゃないかなぁって思ったり。障子戸が開いてる可能性もあるけど、勝手に入るのもなんだかあれだし、行くって連絡も入れてないし……。だから明日の昼前とかに向かおうかなって考えてたよ」

 

「ふぅん」とカズサは相槌を打った。

「ところでさ」とおずおずと私を見上げてくる。

 

「宿って、ぎりぎりで取れるものなの? いきなりだと一部屋しか空いてないーみたいに言われるってイメージ、あるんだけど……」

「あぁ、ホテルの心配?」

 

 カズサの言葉は尻すぼみになっていった。くすっと笑うと、頬に朱の差したカズサから睨めつけられる。

 

「ここは田舎だから、ホテルが予約でいっぱいになるってことは珍しいんだよ。それこそおっきい花火大会があるーってときは、確かどこもかしこも埋まってた気がするけどね」

「じゃあ、二部屋なの?」

「そう。シングルで二部屋。カズサはお金出しちゃ駄目だよ」

 

 どこか残念そうなのは、夜が見せる幻覚のせいにした。愛に年齢は関係ないだとか、愛の多様性だとか――そんなふうに風呂敷を広げておきながら生徒と先生の間の恋愛を認めない世間が滑稽に思えた。ペドフィリアやロリータコンプレックスもまた愛情の形だと思うけれど、人々は鋳型にはまった愛じゃないと石を投げつける。

 

「ていうか、カズサは学校大丈夫なの? 明日」

「ちょっと先生。あした土曜日だよ?」

 

 カズサは呆れたように笑った。

 ホテルがやたらと高くついたことに合点がいった。呟くと「大丈夫?」と本気で心配そうな声が横から飛んでくる。

 予約したのにどうして曜日に気づいていないんだとさらに呆れられたが、笑ってごまかした。私も案外、動揺していたのかもしれない。記憶の中ではいまだにしゃきっとしている祖母が倒れた事実と、カズサから手を引かれてここまで流された事実に。

 

「まぁほら、補習とかあるかもしれないから、念のため聞いたんだよ」

「ざ~ん~ね~んでした~! こう見えて私、テストの点上がってきてるから。先生も知ってるでしょ?」

「そりゃまぁ」

 

 テスト前に何度か泣きつかれたことがあったので、カズサが勉強を苦手としていることは把握していた。中学時代にやんちゃしていたせいで勉強の下地がなかったが、追いつくどころか巻き返しているのは本人の性格によるものだろう。

 

「勉強で苦労してるイメージあったんだけど、それもそろそろ終わりかなぁ」

「だけどまぁ実際、それは見てくれる人がいるからだよ。宇沢とかにも迷惑かけてる――まぁ、なに、面倒見てもらっ……手伝ってもらってるし?」

「面倒見てもらってるんだね」

 

 足を踏まれた。いつの間にか腕が触れ合う距離まで近づかれていた。

 歩くのが困難になったので足を止める。ひとしきりぐりぐりとタイルに踏みつけてから、カズサは鼻を鳴らして足を開放した。

 

「手伝ってもらってるって言い換えはいいと思うよ」

「最初煽ったくせに!」

 

 静かな街にカズサの声はよく響いた。

 私の笑い声もまた、夜の空気に乗って街を抜けていった。

 

 

 翌朝、ホテル内に併設されているレストランで朝食を取った私たちは、チェックアウトギリギリの時刻にロビーで待ち合わせた。

 一人先に鍵――電子カードではなかった――を返却して、ソファに座ってタブレットを操作する。土曜日に会議は入っていない。急ぎの用件もないようだった。土日は一応、学校も私も休みということになっている。

 

 少しして、エレベーターから降りたカズサがたどたどしくホテルマンとやり取りしたあと、私のほうに向かってくる。

「これ」と茶封筒がいきなり差し出された。受け取ったときに小銭の音がした。光に透かす。札が入っている。昨夜ホテルに到着したあと、これで身の回りのものを買ってくれとカズサに渡したお金だった。

 

「全部使わなかったの?」

「使いきれるわけないでしょ。スイーツバイキング三回分くらいあったんだよ?」

「それってけっこう高いんだね。まぁもしかしたら使うかもしれないし、持ってて」

 

 カズサは差し返された封筒を受け取ろうとしなかった。私が自分から誘ったのに、と居心地の悪い思いをしていることが言外に伝わってきた。

 ややあって、私はため息をついて手を引く。

 

「何かあったら言ってよ? お金は出すから。逆にお金くらいしか出せないから」

 

 女性にいろいろあるというのは、ろくすっぽ人間に関わってこなかった私ですら知っている。慣れない土地での気苦労もあると思ったのだが、もらいっぱなしというのはカズサの性格的に、より深い自責に結びついてしまうのかもしれなかった。

 私が封筒をパソコンバッグに押しこんだのを見ながら、カズサが言う。

 

「なんか、慣れてる感じがしてヤ」

「えぇ……?」

 

 韓紅の瞳からは複雑な感情が見て取れた。それ以上のことが私には分からなかった。

 カズサはそれからしばらくの間むすっとしていた。

 

 

 私たちはちょうど昼ごろに到着した。呼び鈴を鳴らして出てきたばあちゃんは私の姿を認めた瞬間に目を丸くして「おっきぐなったな!」と笑った。

 次いでカズサの姿を認め、私とカズサを交互に見て、「めでてな〜」と大声で言ってしきりに頷いた。

 記憶にあるよりも、背が縮んでいた。

 

 私は昼ごはんを食べる間ずっと誤解だと主張したが、ばあちゃんに本当に伝わったのかどうかは定かではない。

 緩慢にご飯を食べすすめていたカズサは「もうお腹いっぱいです」と気まずそうに言って、出された食事を少し残した。

 

 私は初め敬語で話していたのに、必死なのも相まって、いつの間にか砕けた口調になっていた。

 

 

 洗い物を終えたばあちゃんが、盆に二つの湯呑みを乗せて歩いてくる。一つを私に出しながら言った。

 

「それで、どしたなや。いきなり」

 

 訛らないように気を遣っているのがすぐに分かった。

 パソコンを閉じて受け取り、ばあちゃんが対面に座るのを待った。

 

「訛っても聞き取れるよ」

んだが(そうか)

 

 カズサは「外を見たい」と言って席を外していた。

 虫よけを持っているか尋ねると「日焼け止めしか買ってない」と言ったので封筒を渡した。

 渋々受け取ったカズサを見てばあちゃんが笑い、「今の()じぇんこさ(お金に)興味ねなが(ないんだね)」と言っていた。

 そのあとなぜだか「ぃい、ぃい、ける」と諭吉を押しつけているのを見た。カズサは顔に困惑をありありと浮かべていた。

 

 私は何食わぬ顔でパソコンを座卓の隅に寄せる。

 

「倒れたって」

「んだな」

「うん」

 

 ばあちゃんは茶をすすった。

 

「んだがらどいって、おめだ(お前たち)は来ねはずだ。じいさんの二七回忌にも戻らんで、おえが倒れたぐれ(くらい)で戻るが? ふつう」濁音のまじった訛りが続いた。「三三回忌はでぎっが(できるか)分がらねな」

「縁起でもない」

「事実だべ」

 

 黙ってお茶を飲んだ私に、ばあちゃんは「ほれ、だべ?」と同調を促した。

 口の中でお茶を転がしても味が分からなかった。

 

「べづに家族のかだちだとか、常識がどうとか言うつもりは(ないよ)んだどもよ(だけれども)、おめだはちがっだはずだ。普通でねがった。現に、おめのとおちゃんかあちゃんは来てね。心配のれんらぐもみじけがった(短かった)

 この家ももうすぐなぐなるのに、なして(どうして)(ごろ)戻るなや(の?)。おえの葬式はひと集まらなぐで静かでいなって思ってだのに」

 

 あの老猫と同じだと思った。

 終わりを見据えて静かに暮らす人に、私はかける言葉を持たない。頭の中で言葉がまとまらない。掴もうとすると流体のように形が崩れていく。

 

「連れてこられたんだべ。あのめんけごさ(かわいい子に)

 おめはむがし()っからあだま()いがった(よかった)がら、おえには分がらねごとを考えてるのかもしんね(しれない)。だがら、好きに(しろ)。こごにいんのも、どんけ(どのくらい)いんのが(いるのか)も」

 

「ただ」と最後のイントネーションを下げる訛りでばあちゃんは言葉を切った。

 口が乾き、私はしきりにお茶を飲んでいた。気持ちをごまかそうにも湯呑みを掴む手が動かせなかった。

 ばあちゃんはゆっくりと湯呑みを口に運んで、呆れるように言った。

 

「やるごと、あったんでねなが(あったんじゃないの?)

 

 しわの深い顔が、優しく歪められる。小さなころに私がここを訪れたときとまったく同じ優しさで、ばあちゃんは私を見守ってくれるつもりだと思った。

 逃避を責めるのではなく、逃避しているのだと教えてくれた。心身をすり減らし続けても成し遂げなければならないことがあったはずだと訴えていた。

 私に残された生き方はそれしかないのだと思った。逃げて、逃げて、逃げた先の袋小路に、私の成すべきことがあったのかもしれない。

 

「落ち着いて考える時間も、ひづようなのは分がってっけどな」

 

 自分の年のとり方に自身のある年寄りは、みんな、こういうところがある。卑屈なところが一切なく、自分の見ている景色に自信を持って頷けるというか、視界が灰色でなくちゃんと彩りがあり、それを言葉にして相手に預ける強さがある。

 レースのカーテン越しに外を見たとき風景が少しだけ変わるように、私の視界には常にグレーのカーテンがかかっている。当然そこから見た風景は色あせているはずで。そんなところの一切ない口調だった。

 

「年寄りには敵わねな、まったく」

「訛りがちげど」

 

 ばあちゃんはからからと笑った。記憶にあるよりもずっと水分の抜けた声だったけれど、そこには確かに生命が宿っていた。

 

「ほれ、わげうちは女の子の尻追っがげだほうがいど」

 

 そう言って私のもとまで歩いてきて、予想外に強い力で私を立たせ、私の尻をばしんと叩いた。皮ばかりだと思っていた手は、大樹の幹のように固く、骨と血が通っていた。

 

 

 私は外に出て、歩いて二十分ほどかかるコンビニへの道中でカズサと合流した。それからしばらく、二人で散歩した。

 

 

 小学校近くの直売所に寄ったとき、価格の安さにも、農家の住所や顔写真の載った札を見ても、カズサは驚いていた。

 昼食を食べているときはどこか落ちこんでいるように見えたカズサだったけれど、興味を惹かれる様々なものを見て、徐々に明るさを取り戻していった。直売所に若い子がほとんど訪れないこともあって、カズサは猫耳やヘイローといった些事に触れられることなく、気のいいおじちゃんおばちゃんたちに迎え入れられた。

 都会に住む人と同じように、田舎の老人は他人を気にかけない。けれどもそこには、まるきり正反対の、人に対しての温度があった。

 

 擦り切れていない人の心は美しい。私はカズサを囲む輪に入らず、店の隅でそう思った。

 カズサはときおり私に視線をよこした。私はそのたびに目をつむって首を横に振った。

 初夏の太陽ががアスファルトを焦がしていた。開きっぱなしの手動のガラス扉から熱い風が吹いていた。

 

 

「いい場所だね、ここ」

 

 一つ三○円ほどのお手製あんぱんを頬張りながら、カズサは笑った。

 帰り道のことだった。対向車が通れるか通れないかぐらいの狭い道を、私とカズサは横に並んで、精いっぱい占領して歩いた。長い影法師が青田にかかり、私たちの輪郭を朧気に溶け合わせる。

「そうだね」と、カズサの笑みにつられた私が頬を緩める。

「ね」と私を見上げ、カズサは笑みを深めた。

 

 カズサはトリニティの制服を着ていて、私はスーツで。いつも通りの格好なのに、場所が違うだけで宝箱の鍵を回したみたいだった。

 けれども私は先生だ。場所が違っても、カズサの先生だ。

 

「こんなふうに緩やかな衰退を受け止めている土地もあれば、そうじゃない土地もある」

「どうしてそんなこと言うの。みんな笑ってたじゃん」

 

 笑ってた、と言ったカズサの声は震えていた。

 影法師が別れ、二つになった。

 笑ってた、と繰り返した私の声は乾いていた。

 

「みんないい笑顔だった。笑ってたけど、終わってた。あれはもう、自分たちの今後が閉ざされていることを受け止めているからこそできる穏やかな笑いなんだよ。笑ってることを正義とするなら、幸せになれる薬でもばらまいたほうがいい」

「違うでしょ。そういう話はしてない」

「そうだね」

 

 ぺらぺらのビニール袋をくしゃくしゃにして、カズサはスカートのポケットに押しこむ。歩調がゆっくりになった。私はカズサを振り返る。夕日が差した頬を見て、いつもと違う化粧に気づいた。

 

「今後を諦める代償として穏やかに笑えることと、今後の土地のために今までの自分を捨てること。どっちにも魂がこもってるよ。どっちを選ぶかは人の自由。それで派閥が別れて喧嘩してしまうのは仕方のないことだけれど、自分の意見を押しつけてばかりで相手の話を聞かないでいるのは、昔のレイサみたいだよ」

 

 昔のレイサみたい。カズサは反復した。

 自分が鬱陶しがっていた、昔のレイサと。

 

 もちろんあの老猫はそんなふうに感じていないだろうけれど、私はそれを黙っていた。半ば騙すように、私はカズサに言葉を伝えた。

 

 見知らぬ土地で、いつもの化粧道具もなくて、スキンケアとかもきっと思い通りにはいかなくて。そんな中で一生懸命に自分を貫こうとするカズサに、どうしてこんなこと言ったんだろう、と思った。

 猫耳が垂れた。カズサはこくんと頷いた。

 

 化粧が崩れてしまうよ。今日は言わなかった。言えなかった。

 

 

 家に戻った私たちを、ばあちゃんは大慌てで迎えた。午睡をしたら起きられなかったのだ、燥ぎすぎたのだ、とばあちゃんは笑いながら説明した。

 そのせいか二人の間にある微妙な雰囲気は察せられなかったようだった。

 

 夕食までの間、私は昔の記憶と照らし合わせながら、家を歩き回っていた。一年に一度、お盆に数日滞在しただけなのに、以外なほど記憶に残っていた。古ぼけたカメラのレンズを通したように、家は褪せていた。

 あてがわれた自室に戻ろうと廊下を歩いていると、うっすらと開いた戸から、椅子にばあちゃんが座っていたのが見えた。おいしそうなにおいがして、そして誰かと談笑している感じがして、まさかと思った。

 

「これ。おめ、カズサちゃんはいい嫁っこさなるど〜」

 

 ばあちゃんが目ざとく私を見つける。嬉しそうに声を上げる。孫が何をしても喜んでくれるおばあちゃんみたいだった。

 一瞬だけ足を止めた私は、仕方なしに台所に入った。

 

 カズサは制服の上からエプロンを着けていた。生活の証がたくさんついたエプロンだった。汚い印象は不思議と受けなかった。

 ばあちゃんは椅子に座り、カズサの一挙一動をにこにこしながら眺めていた。

 私は椅子にも座らず、カズサの動線に気を遣うようにして、名前のついていない板の上に立ち続けた。

 

 まごつく私をちらりと振り返ったカズサは、菜箸を動かす手を止めずに「じっと見られてるとやりづらいんだけど」と言った。

 

「ごめん……手際いいなって」

「そりゃ、うん。自炊してるし」

 

 奇妙な間のあるやり取りだった。カズサは話しながらフライパンを前後に揺すり、じゃがいもや人参に油を絡ませていた。思えば私たちは、二人きりで話すことは多くても、こうして第三者がいる場所で言葉をかわすことは珍しいような気がした。

 ばあちゃんはしわだらけの顔にさらにしわを作った。

 

「今のうちさ唾つげどげって」

「さすがに駄目だって」

「なしてや!」大きな声で不満を伝えてくるばあちゃんは今度はカズサに話を振った。「エプロン縫ってけるが? 似合うべさほれ」

 

「なぁ?」と訊かれ、答えに窮する。

 

「いや、俺に聞かれても」

「なんだってなや……! 似合うべさ(でしょうに)! いが(いい)? おめ、着てる服っこさ似合うって言われてな? 嫌がるもんなば()いね(いない)って!」

 

 迫力のある声で話すばあちゃんに私は言葉を返せない。カズサはフライパンを注視している。

「わげどぎ思い出すな!」となおもばあちゃんは笑った。

 私はそろそろと台所をあとにした。

 

 カズサは肉じゃがと、小松菜の和え物、味噌汁を作ったようだった。そこにパックご飯とスーパーで売ってる漬物を合わせた夕食になった。

 米俵がパックご飯となり、漬物は自家製じゃなくなった。懐かしさより虚しさが胸いっぱいに広がった。味の違いが、分からなかった。

 

 ばあちゃんは「うめ(うまい)」を繰り返した。でも食は細かった。こらえていた何かがあふれるように、ばあちゃんはよく喋った。

 久しぶりに人と話せて嬉しかったんだと思う。息子夫婦は帰らず、夫に先立たれ、ここに一人残されて。もともと一人でも平気というか、一人のときでも生き生きしていた人だったけれど、長い孤独は人を変えるのだと思い知った。

 私とカズサは目配せで分かりあった。カズサのほほえみは哀しげだった。

 

「ん……」

 

 味噌汁を口に含んで、私の箸がぴたりと止まった。

 すかさずカズサが尋ねてくる。

 

「どうしたの?」

「ん、あぁ、いや」

「おいしくない……?」

「そんなわけないよ。ワカメがちょっと引っかかって」

 

 ばあちゃんの味噌汁の味が思い出せない。確かにこの家で食べたはずなのに、ちっちゃいころの夢が知らぬ間に意識から抜け落ちるみたいにして、抜けてしまっていた。

 しかし、ばあちゃんの味噌汁が飲みたかったなんて言ってしまえばカズサは悲しむし、ばあちゃんは喜ばないと思った。

 カズサの味噌汁の味も分からなかった。思い返したときにきっと後悔するだろうと思ったけれど、どうしても分からなかった。

 

 私の機微が察されることはなかった。

 

 タンスに服をしまっていくみたいに、人が覚えられる量には限りがある。入り切らないものが失われていく。そして失われたのだと気がついたときには、もう遅い。

 

 生きることは、忘れていくことだ。

 思い出を増やすことなんかじゃない。

 

 思い出が増えたのだと無邪気に喜ぶすぐそばでタンスからはじき出された記憶を、私だけは覚えていたいと思った。記憶が欠片となって砕けても、忘れてしまった痛みを抱えていたいと思った。

 そういう寂しさを抱えながら、やっていくしかないのだと思った。

 

 カズサは私の箸が進んでいないことをかなり気にしているみたいだったから、むりやりにでも胃に押しこんだ。

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