夕食が終わってから、女性二人が仲睦まじく洗い物を始めたので、そして風呂もまだわいていないとのことだったので、私は仕事をしていた。そんなときにレイサから通話がかかってきた。
今日の夜に少し話したいとあらかじめ言われていた。
私はできるだけ明るい感じを装って通話に出た。
『杏山カズサとは上手にお話できましたか?』
レイサは開口一番にそう言った。
様子を見るに、どうやら湯上がりらしかった。
普段はツインテールになっているパステルカラーが下ろされ、ほのかに水気を帯びている。上気した頬は化粧を施しているみたいだった。きっちりした制服のかわりにラフな部屋着を着ており、少しサイズが大きいのか、白く瑞々しい右肩があらわになっている。
ベッドに寝転がって通話をしているらしい。可愛らしくまとまった部屋が内カメラから観察できた。カズサの部屋に飾られているような穏やかな色味の風景画も飾られている。
私服のレイサは淑やかで、大人びていて、ちょっぴり抜けているらしい。
「レイサ、ビデオ通話になってるけど」
『え? う、うわ! 駄目ですよ先生! み、見ないでください』
内カメラと外カメラが切り替わり、映像が回転したと思うと落下音が爆音でスピーカーから放たれる。
『すみません』
やがて落ち着きを取り戻したレイサが、もう何度目かも分からない謝罪を口にした。
『杏山カズサとするときはいつもだいたいビデオ通話かホログラムなので……』
「まぁまぁ、役得だと思うことにするよ」
『私からすれば恥ずかしいだけなんですが』
「素敵だったよ」と言う。
『うあ、あのですね! そういうことはあんまり言わないでください!』レイサは照れたような慌てたような言葉を返す。
私は息を吐くように笑った。レイサがため息をついた。
とりなすように、私は話題を変えた。
「さっき部屋が見えたときにトロフィーが飾ってあったけど、何かやってたの?」
『あぁ、見えたんですか』
『ピアノです』とレイサは声に疲労を滲ませながら答えた。
「賞を取れるほどだったんだね。知らなかった」
『中学に上がるまでは毎日のように通い詰めでしたからね。私はたまたま家の中でも練習することができて』
どこか言いづらそうにレイサは言った。家で練習ができることを羨ましがられた経験があるのかもしれない。
通話の声が小さくなる。
『それに、私。誰かと遊ぶってこともあまりありませんでしたし。時間だけはありました』
長年使っていたリュックサックを捨てるときみたいに、ありがとうの念がこもった優しい声だった。後悔は微塵もなかった。
この一年で、レイサは驚くほどに大人びた少女になっていた。
「レイサのキーボード、そういえば聞いたことなかったなぁ」
『あぁ、そうかもしれませんね』
数ヶ月前に『Re.シュガーラッシュ』としてトリニティ文化祭で演奏を披露したとき、レイサはギターを弾いていた。バンド練習に私もちょこちょこ顔を出したけれど、レイサがキーボードに触っていることはなかったことを思い出す。
『休憩時間などに何か演奏してほしいって頼まれたんですけど、アイリちゃんの役割を奪うのもなんだか忍びなくて』
「賞を取れるほどだしね」
『昔の話ですよ』
「今も若いじゃん」
さりげない優しさを身につけるまでに時間はかかってしまったけれど、レイサが今を心から大切にしているのが伝わってくる。
以前は名乗るときに声を張り上げ、悲しみを表現するときですら弱々しく張り詰めた声をしていたのに、今の声は聞いている人すら安堵させてしまうように優しい。
座卓に向かって座っていた私は壁際に移動した。ひんやりした壁に背を預けて後頭部もこてんと当てる。
箱型の囲いの中で二つの蛍光灯が光っていた。紐が左右にわずかに揺れている。
「さっきの口ぶりからすれば中学上がってから離れたっぽいけど、それは聞いてもいい話?」
『いいですよ。ありふれた理由ですし』
「ほう」
『もともと別の習い事をやりたいって思ってたんですよ。でも両親が、ピアノのほうがいいからって』
「あ~……」
ポケモンのぬいぐるみが欲しかったのに、デジモンのぬいぐるみを渡されることが、特に幼いころは、ままある。子どもの心には王国があって、国王は自分だから、自分の欲したものがほしいのに。「似ているから」という理由で侵略してきて、属国にして、虐げる。
自分の夢を託すのにちょうどいい作品は、いつだって自分の血を引いた存在だ。
「反動でやめたの?」
『えぇ。いつもやめたいって思ってました。でも時間を潰す手段がなくて、結局は練習を頑張ってたんですけど』
「じゃあ中学からはやりたいことをやったと」
『そのとおりです』
レイサはくすりと笑った。
『射撃の訓練、ですよ』
「……あぁ。それでカズサに会ったんだ」
『はい』とレイサは静かに肯定した。
様々な考えが頭を巡った。ぼうっと蛍光灯を見ていると、時間から切り離されたような心地がした。水槽の中の金魚をずーっと観察できてしまうのと似ていると思った。見慣れない生命や息遣いに触れるとき、私は心のどこかで安堵している。一番の敵を知っているからこそ、未知に対して、これは自分を最も虐げる存在ではないなと安堵から入ってしまう。そうして何度も切りつけられ、周囲は一番でないにしろ敵だらけになっていた。
オフィスと違ってここにはアナログの目覚まし時計があったので、か、か、と秒針の動く音がする。急かされるように言葉を吐いた。
「両親と子どもじゃ、いつだって両親のほうが上だもんね」
『かもしれません』
レイサは優しく言った。それから冗談めかして言葉を続ける。
『先生と生徒では、先生のほうが上ですよ? 大人と子どもですからね』
「いやぁどうだろう。現代では生徒のほうが上だと思うよ?」
生徒のほうが上であり、かつ大人は子どもを守る存在であるといいう危うい均衡を保たせている自覚が、私にはあった。
『じゃあ私が頼み事をしてくれたら先生は聞いてくれますか?』
「生徒の頼みだからね、もちろん。誠心誠意聞くよ」
少し芝居がかった調子で言う。
口元に手を当てて笑っているのが想像できる声でレイサは笑う。
『でも……そんなことしたら、私たちは同じままで、関係だけが少し変わってしまいますね』
四角が広げてくれる世界は、意外と優しい。
蛍光灯は変わらぬ光を放っていた。
尋ねてみたけれど、結局レイサは頼み事とやらを話さなかった。もしかしたら冗談なのかもしれなかった。
『それで、杏山カズサとのことは』と話題を変えられ、話をしつこく引き伸ばすのもなんだったので誘導に従った。
「忘れていた」とこぼすと、『今日はそのことで通話したんですけどね』と苦笑が返される。
レイサは聞き慣れない店名を口にし『閉まるって話の』と補足を入れた。
『先生に話していいのか悩んでましたよ。迷惑かけっぱなしだって。それで……有り体に言えば、どうなったのか気になりまして』
「心配?」
レイサは無言のまま雰囲気だけでほほえんだ。
カズサもレイサも、そういうところが
「カズサは反対しているみたい、ってことまでしか私も分かってないよ。昨日ちょっと様子を見に行ったんだけど、店主のおばあさんとカズサとでけっこう言い争いになってて。私も何がなんだか」
『キヨさんも杏山カズサも頑固ですからね』
「レイサが言う?」
『私は丸くなりましたので』
「そうかなぁ」
『そうですよ』
「そうかも」
『ですからそうですって』
二人揃ってひとしきりぷくぷくと笑った。
座卓の前に移動し、頬杖をついた。
「なんて言えばいいかなぁ。結局のところ、当人たちの間でなんとかするしかないんじゃないかなぁ」
呟くと、レイサも似たようなことを思っていたのだろう、同調が返された。自分にはどうすることもできないやるせなさと、どこか落胆を隠そうとしている感じもあった。
『先生なら、どうにかできると思ったんですが』レイサはそう言った。私の勘は当たっていた。
そんなふうに期待されても、できないことはできない。何が正解かも分からない道を、目隠しをされたままで歩いているのだから。
星に手を伸ばして輝きを翳らせてしまうように、逆効果になってしまう場合だってある。
一呼吸置いて話し始める。
「私とレイサとカズサが、仲よしギャルズ三人組だとしようよ」
『無理がありますね』
「ちっちゃいことは気にするなって言うよ」
『無理を小さいの範疇に含めるのはどうなんでしょうか……』
私はレイサに構わなかった。
「それでさ、カズサっちに好きな人ができたとしようよ」
『はい、好きっちですね』
「そうそう好きっち好きっち。で、さ。私たち二人はなんとかしてカズサっちが結ばれてほしいって思うだろう? そんな私たちに、何ができるかな」
ほとんどノータイムで、レイサがため息をつく。
『言いたいことは、分かりますよ』
「だろう?」
たとえばカズサのいいところを、その好きな人にそれとなく伝えるとして。でも、カズサの好きな人がカズサに興味を持つかどうかは、運次第なのだ。
もしも力業で解決できたとしても、好きな人との関係を続けていくのはカズサだ。私たちはどこまでいっても傍観者になってしまう。
「生徒から頼られる限りは最善を考え続けるけどね、でも、私だからなんでもできちゃうってのは、過剰な期待だよ」
『それでも応え続けるのが先生なんですよね』
「応えるって広すぎるから、なんとも」
私だってときには失敗する。生徒の期待に応えられないときもある。ヒナから望まれることとマコトから望まれることが違いすぎて、どうすれば二人の期待に応えられるのか混乱することだってある。それでも、やっていくしかない。
今までずっと、後悔しか残せない生き方をしてきた。これからも続けるのだと思う。
『結局私たちにできるのは、何かがあったときに、あなたは起き上がれるんだよって伝えることだけなんでしょうか』
「おそらくね。その人のことは、その人にしか分からない。痛みも苦しさも嬉しさも」
「難しいことに」と笑ってつけ加える。
「もどかしく思う周囲の気持ちもまた、その人のものじゃないから伝わりづらいんだけどね」
かたい蕾が花開くように、レイサはやわらかく笑った。
『先生にも言えることですよ、それ』
「どういうこと?」
『いえ、なんでも』
レイサは何も語らずにお休みを告げた。カズサの話は何も進展していなくとも、なんとかなりそうな気がした。
レイサとの通話を終えた私は、縁側で涼みながらタブレットをいじっていた。田舎らしいネット回線の遅さに辟易しつつも、メールのチェックを済ませ、返信が必要なものには内容を考えていく。
板の間を踏む足音が近づいてきて、となりで止まった。腰を下ろした拍子に桜が香った。カズサの香りだ、と思った。
「お風呂、いただきました」カズサの声はどこか暗かった。
「うん」優しく言って、ちらとカズサを見る。カズサは自分を抱きしめるように三角座りをしていた。
「お風呂、いつの間に? わいたら知らせるって言われてたと思うんだけど」
「一応呼びに行こうとしたんだけど……、あー……おばあちゃんから、せっかくだから一番に入ったら、って言われて」
「一番風呂かぁ」
ふふ、とカズサは笑った。自分の心を斬りつけているような笑みだった。カズサは縁側に面した庭を見ていた。
彼女なら断りそうな気もしたが、ばあちゃんの押しも強いので押し切られたんだろうなと思った。
田舎の夜は静かだ。虫の声はもちろんあるのだけど、その演奏会をうるさく感じることはない。
のびのびとした音が静寂に包まれていってフェードアウトしていく。
カズサが不意に言った。
「私、料理できるから」
「うん」
「先生においしいご飯、作ってあげられるから」
「うん」
少し考えて「今日のも十分においしかったよ」と言う。上滑りした言葉が開けた田舎に飲みこまれていった。
「今度作りに行くから」
「……シャーレまで?」
「そこはうんって言うの! いい?」
「あ、うん」
「あと場所はどこでもいい。一応アパートあるんでしょ」
「……うん」
むっと唇を突き出したカズサが私を見つめ、頷く。反動をつけて立ち上がり、歩き去る。と思ったら、足音が翻ってこちらに向かってきた。
「仕事、手伝うよ。急にこっち来たせいで予定、ぐちゃぐちゃになっちゃったと思うし」
「うん」睨まれたのでやめた。「ありがとう」
並んで仕事をしている最中に、「ばあちゃんは風呂?」と尋ねた。
肯定が返ってきた。
「私が風呂洗うのかぁ」
という呟きには沈黙が返ってきた。
ボタンを掛け違えたみたいに噛み合わない会話が続いた。慣れない土地で二人きりという特殊な状況がそうさせたのかもしれない。
清かな月光が降り注ぐ大地は静かだった。
練習を始めたばかりの二人三脚は、しかしいつまでたっても上達しなかった。
「先生」と不意に声がして、ひょいと私の正面に移動したカズサが首に腕が回してくる。
対面座位のようになって、身じろぎしただけで下腹部がこすれてしまいそうで、私は板に後ろ手をついて固まった。背中から汗が吹き出した。
私がカズサの感情に振り回されているように、彼女もまた、制御できない自分の感情に振り回されているようだった。
カズサはネグリジェのようなものを着ていた。レースのあしらわれた半袖の袖口が首に当たっている。
肩が薄水色で、下に行くにつれて白に近づくグラデーション。さぞ管理が大変だったろうなぁと見当違いのことを思う。私は今の今まで彼女の服装に気がつかなかった。
「似合ってるね」と言う。心のない、反射的に出てきた言葉だった。耳もとでカズサがほほえんだのが分かった。ふ、という音がしただけなのに、とても悲しく感じた。
「ここはキヴォトスじゃない。先生と生徒じゃない。誰の目にもつかないね」
カズサは私の両肩を押す。
私は地面に足をついたまま仰向けになった。動こうとしたらサンダルが土とこすれ、乾いた音がした。
カズサはいまだに私の上にいる。
私は動くことができなかった。こういう、子どもの暴走を受け止めるのが大人なのかなと思って、されるがままだった。
あるいは、カズサに拒絶する痛みを与える決心がつかなかったのかもしれない。
もしくは、私をここに連れてきてくれたカズサを傷つけたくなかったのかもしれないし、問題を抱えたカズサにさらなる仕打ちを加えることがためらわれたのかもしれない。
唇が動いた。
「自分の感情って、よく分かんないよね」
「よく分かんないから自分の気持ちなんだよ」
「どういうこと? 傍目八目?」
闇に溶けるような天井をぼーっと眺める。カズサが覆いかぶさってくる。淑やかな水音がした。
初めて、とカズサが言った。
「自分の感情にかんたんに名前をつけちゃったら、なんか、その名前をつけたからそうなんだって自分を自分で洗脳してるみたいだよ。だから、自分の感情には名前をつけないほうがいいのかも」
カズサも私も、この世に二つとない特別な無表情を浮かべている気がした。
自覚した感情から目を背けるために、カズサはそう言ったのかもしれない。深度は測らないほうがいい。そう思った。
「ばあちゃんの目につくかも」
「ふふ、そうだね」
カズサは覚えたての口づけをもう一度して、私の顔をじっと見つめたあとに、一枚の花びらが風で飛ばされるみたいについと目線をそらす。少ししてから、私にいま一度抱きつき、反動をつけて離れた。
不健全な感情を読み取れないことに、私は強く困惑した。カズサの恋慕と性欲が、行為と感情が結びつかない。カズサは私以上に困惑し、きっと苦しんでいた。
遠くで扉の開く音がした。ばあちゃんが上がったらしい。
「そうだ」立ち上がって私は言った。
「今度ご飯作ってくれるとき、今日の晩ご飯と同じもの作ってくれない?」
私を見上げたカズサが目を丸くする。
「なんで?」
「うん、じゃないんだ」
先ほどのやり取りをからかいながら、必死に言葉を探した。
「思い出の味」自分の心を削る。わずかな破片が音となる。カズサには少しの沈黙が羞恥によるためらいに映ったのかもしれない。
「不安だったんだ。よかった」カズサはくしゃっと笑った。
私は今日、初めて笑顔に突き刺された。なんとか表情を取り繕えていればいいな、と思った。
来たときよりもすいぶん多くなった荷物を抱え、私たちは一昨日と同じ駅に並んだ。
カズサはばあちゃんからもらったらしい、当時としては近代的だったであろう白のワンピースを着ていた。のどかな風景の中に浮く妖精は見た目も存在感も際立っていた。
駅員から買った切符を財布に詰めたカズサは、財布を古いトートバッグにしまった。スイーツ店の会員カードやスタンプカードがぎっしりと詰まった財布は、整頓上手のカズサも手を焼く厚さとなっていた。
仏壇にあがっていたパインやメロン、種々雑多な個包装のお菓子とあんごま餅――統一性のないお供え物が使い古されたビニール袋に詰まっていて、カズサはそれをホームの床に置こうとしなかったから、見ているだけで重たかった。
「キヴォトス」と私は呟いた。
「ん?」とカズサが私を見上げる。
「なんでもない」
「そっか」カズサは長いまつげを伏せた。
もう二度とこの土地に戻ることはない。両親と会うことだって、きっとない。確信めいた予感があった。
一方で、一人でやっていけるのか自信がなかった。それでもやっていくしかないと思った。私の人生はいつだって孤独だった。これからもその道が続いていくのだと思った。
並び立つカズサの腕が、私の腕にぶつかった。ビニールがかすかな音を立てる。
「電車、ほんと短いよね」
大きくなる電車を見ながらカズサが言う。
「そういう場所だからね」
「運行表もすかすかだし」
「そういう場所だからね。でも人の営みとか息遣いはあっただろう?」
「……いずれ終わるにしても、ね」
悲しさと優しさの中に皮肉めいたものがあった。カズサにしては珍しい語調だった。
「大人になったね」と言うと「なにそれ」と白い目を返される。
やがて私たちだけのために電車のドアが開いた。
電車にしかないような座席の特徴的な香りと、冷房の効いた車内。
安らかな寝息を立て、私に身を預けてきた少女を盗み見る。意思の強さは鳴りを潜めていた。雪白の肌が触れる場所から体温が伝わってくる。
「ん」縋るものを求めるように手が動いて、私の手をそっと握った。
わずかに力をこめて握り返す。カズサがほほえんだ。さらに身を寄せてくる。猫耳が私の頬をくすぐった。猫が顔をこすってくるような人懐っこい調子だった。
目的地に向かって回転する車輪の音が続いた。
駅弁は買わずに、新幹線の中で二人で塩おむすびを食べた。早く出る私たちのために、ばあちゃんがさらに早起きをして用意してくれたのだった。
「こういうことを覚えてれば、私の中にもきっとみんな生き続けるんだよね」
カズサが不意に言う。優しい顔で言う。食べかけのおむすびを見ながら言う。
いずれ忘れるよ、なんて言えるはずもなくて、私はカズサをまねてほほえんだ。ほほえみの裏にある本心が伝わることは稀だ。
「私は収穫っていうか、決心がついたんだけどさ」
普通電車よりも雑音の少ない車内なのに、カズサの声は消え入りそうだった。
「先生は、何かあった? 私、先生に邪魔なことしなかったかな」
カズサの言葉は、先生の役に立てたかな、よりもずっと悲痛に感じられた。
小さな口が大きなおむすびを口にする。
「大丈夫だよ。やることちゃんとやってこいって活を入れてもらった」
「うん」頷くカズサはまだ不安そうだった。
「せっかくのおにぎりの味が分かんなくなっちゃうよ。このさき食べられるか分かんないし……深呼吸してみよう」
私に合わせて、あらわになっている華奢な肩が上下した。
「落ち着いた?」
「分かんない」
「分かんないかぁ」
もう一口おむすびを食べて綻んだカズサを見て、経験をもとにした言葉が役に立ったことを実感した。嬉しかった。後悔を残すようなまねは、カズサにはあんまりしてほしくなかった。
翌日、当番だったレイサになんとなく料理できるか聞いたところ、「今もまだ教わっています。もともと家事全般が苦手で」と恥ずかしそうにしていた。
「若い人の大半はそうなんじゃないかな」と私は返した。
レイサから柔軟剤の優しい香りがするようになったのはいつからだろう、と思った。