日めくりカレンダーが薄くなるのと同じくらい早く、私の世界は回っていった。
砂浜に残した足跡が波にさらわれて損なわれるように、振り返ると何も残っていないように感じられる一本道に何度も後悔した。それでも私は足を止めなかった。目には見えない、血の通った足跡があることを信じて。
忘れていくことが生きることで、後悔することもまた生きることだと思うようになっている。自分の胸に残るものは痛みばかりの、あまりにも寂しい生き方だった。
ある日突然、契機が訪れた。
トリニティの自警団が海に行ったことに触発されたナツが「私たちもロマンを求めて」とシャーレに突撃してきたのだ。
アイリは申し訳なさそうな苦笑で、ヨシミは自分は関係ないとでも言いたげな仏頂面で、カズサの表情は――三人の後ろにいたせいで見えない。
どんな顔をしているんだろう、と思う。どんな表情もしていそうだった。明るい顔をしていたらいいなと思った。
私がカズサの表情を認めたとき、彼女はほほえみを浮かべていた。ファッション誌を並べて水着を吟味する放課後スイーツ部の三人を眺めながら、カズサは私のとなりで書類の整理を手伝ってくれていた。
優しさを描いた目尻を見つめていると、目が合った。
「先生今年……の夏、どこか行った? 先生の家に行ったあれは、ノーカンで」
不意にカズサが尋ねてくる。
最後は恥ずかしそうにもにょもにょと口を動かしていた。
「ううん。まだどこにも」
「出不精だね」
「大人は忙しいんだよ」
「そりゃ見てれば分かるけどさー」
ぷいっと体ごとそらしたカズサが視界の端へと、視界の外へと消えていく。
後ろから両肩を掴まれ、カズサの声が右耳に迫った。
「夏の思い出、一番乗り」
楽しそうだった。嬉しそうだった。カズサは私の右側にぐいと体を寄せ、無邪気ににっと笑ってみせる。春の香りが、私を包んだ。
日焼け止めを塗ってもらう、やっぱりやめた、というやり取りをした他は、私はだいたい一人でいた。
影の傾きが大きくなるに連れて人の数は減った。
午前を移動に費やし、午後から遊び通しだった放課後スイーツ部にも疲れが浮かんでいる。私がいつも浮かべているようなものではなく、運動をしたあとのどこかすっきりとした疲れの表情だった。
顔を動かすと、みんなが昼に飲んでいたオレンジジュースみたいな鮮やかな橙が海の向こうに見える。ちょうど半円になるくらい沈んでいたけれど、海がきれいなせいか、水面でその半分が反射されて丸を描いていた。揺らぐ半円のほうが私には親しみやすかった。作り物のほうが本物よりも身近に感じることがあると思う。
反照がきらめいて目を焼いた。
あてのない青に押し潰されてしまいそうだった心が、今度は夕日に焼かれた。私は視線を彼女らに移した。
やがて海から上がってきた四人は銘々に感想を口にする。海辺で燥いでいたように言葉で燥ぐのを私は静かに聞いていた。
「そろそろホテルに戻ろう。暗くなるよ」
私の一声に四人は頷いて歩を進めた。夜はビュッフェだよビュッフェ、なんてナツがうきうきしていた。
海からホテルに向かう道路沿いで、私は不意に足を止める。音を聞いた気がした。
「どうしたの? 先生」
私は四人の後ろを歩いていたのだけれど、一人分のかすかな足音がなくなったのをカズサは聞き逃さなかった。
黒の上着が翻る。韓紅の瞳に射抜かれる。私は黙っていた。
カズサは私が先ほどまで見ていたほうを見やった。音が聞こえたらしく「あぁ」とこぼした。
「まだやってたんだね」
「まだ?」
「うん。今日ライブだよって話、ここ来るときにしなかったっけ?」
「……さぁ、どうだろう。運転に集中してたかも」
「そっか。反応返ってこなかったし、となり見ても顔色一つ変わってないしで、だろうなーとは思ってたんだけど」
カズサが私のところまで戻ってきた。春に負けないくらい強く、磯の香りがした。歓声の合間に波の音が聞こえるからかもしれない。
「ていうか、日中もけっこうわーとかきゃーとか聞こえてたけど……先生ぼーっとしてたの?」
「聞いたような、聞いていないような……仕事のこと考えてたから」
「え~……せっかく遊びに来たのに。むりやり引っ張ったほうがよかったかなぁ」
駐車場の混み具合いとか、イベントの告知の看板とか、歓声とか。自分の聖域に抵触するような情報を、知らぬ間に遮断していたのかもしれない。カズサはライブについてそれ以上何も言ってこなかった。
「デート中に仕事のこと考えてて怒られたみたい」口をついて出た言葉に、カズサも私自身も驚いていた。
カズサは頬を薄赤くして目をそらした。「そう、かな」と言って、俯く。上着の裾が握られていた。
歓声に混じり、複数の足音が近づいてくる。
「ちょっと、何してんのよ二人とも!」出し抜けにヨシミが言った。「え……あんたたち、え? なに?」と私たちを交互に見て、あからさまに困惑していた。
「何も語らないことこそ真実なのだよ、ヨシミ。二人はスイーツよりも甘いロマンを求めて――」
「ま、まぁまぁナツちゃん! ね? ね?」
アイリによってしっかりめに口を塞がれたナツが、もがもが言いながら華奢な腕をぺしぺし叩く。
「で、どうしたのよあんたたち」再びヨシミが問いかけたけれど、不意に合点がいったのか小さく頷いた。
「ライブ? 行きたいの?」
「行く? せんせい」
ヨシミよりも静かな調子でカズサが重ねる。そっと肩に頭を預けてくるような調子だった。
「いや……みんなのために来たんだから」
私はもうすっかり体に染みついた色を抜けなかった。
しかし、歩き出そうとすると手首を掴まれて動けなくなった。ナツが自信満々に頷き、アイリがほほえみながら頷き、ヨシミがふんと鼻を鳴らす。
「行こ、せんせ」
私はカズサに手を引かれて道路を外れた。
かつて道から外れることを諦めたのに、外れた道に戻るかどうか、再び岐路に立たされているように感じられた。
地響きとよく似た歓声は断続的に聞こえた。
そこに、簡素な整備を施された土の道を踏む音が続く。四方八方を取り囲む闇は深く、暗く、どこまでいっても闇だった。私はその中をカズサに手を引かれて歩いた。確かなものは、やわらかくて力強い少女の手だけだった。
どれくらい、どのくらい歩いたのか分からないところで、私は足を止めた。
「やっぱりやめよう」
「どうして? せっかくここまで来たのに」
せっかくなら少し見ていこうよ、とカズサが私の手を引く。靴が引きずられる跡が土につく。
腰が引けて足が動かなかった。どちらが子どもなのか分からなかった。みっともないと思った。
かつて望んだ栄冠が、今となっては怖かった。
あそこにいるのは目立つようになった一般人だ。私と同じだった、一般人だ。
才能という残酷な刃が私の心を深く切りつけ、なにかにつけて才能のせいにしようとする醜悪な人間性を自覚し、それが返し刀となって私を切り裂く。熱に浮かされた病人のように、私は浅い呼吸を繰り返していた。
「大丈夫? せんせい」
「……え、あ、いや……だいじょうぶ、だよ」
「ほんとに?」
かろうじて答えられたというのに、カズサは真正面から私を見た。韓紅の瞳が誘惑するように近づいてくる。
「だいじょうぶ?」
声も表情も、杏山カズサを形作っているすべてが優しかった。まだ立ち直ることができると言われている気がして、情けなさと拒否反応とが入り乱れて、ぐちゃぐちゃになっている。
ひときわ大きな歓声が上がった。
私はそれを羨望の熱と侮蔑の氷とが同居した心で迎え撃つ。何かに一生懸命になることが、いつしかできなくなっていた。子どものころは信じて疑わなかった自分の力はまやかしなのだと思い知った。幻想を追いかけられるほど私の心は強くなかった。何をしても中途半端で、上にはどうしたって上がいて、だから私はなだらかな斜面を行ったり来たり、ひたすらにさまよい歩いている。
「あ……」演出で光が打ち上がったらしく、私とカズサの視線がそれに釘付けになる。
遠目から見た汗のきらめきによく似ていた。火のついた蝋燭から蝋が滴るような汗だ。命を燃やして輝いていると思った。
私は冷え固まっていた。カズサの手が離れてしまえば、私はこの場で、後悔と羨望と侮蔑のために動けなくなっていたと思う。
「落ち着くためにちょっとどこか寄ろう。一人だとあれだし、だからといってみんなと食べるって気分でもないだろうから、軽食屋とかがいいかな」
道路に出た私たちは、そのままホテル方面に歩いた。
情けなくて謝ると「ううん。先生にもそんな日があるんだなって思えてほっとした」とカズサは言った。まとわりついてくる闇ごと抱きしめる声だった。
車の通らない道路は暗かった。田舎特有の外灯のない道路が人生みたいに続いていた。そこかしこに生命が潜み、あらゆる方向から不安が迫ってくる。
カズサは私の手を引いて歩いた。私たちは一番最初に見つけた安っぽい居酒屋に入った。
鼻につくタバコのにおいと、かすれて読みづらくなった壁掛けの注文札に、ささくれがありそうな木の机と木の椅子。カズサは戸口で足を止めた。
赤ら顔の客が、関係を訝しむように私とカズサを眺めている。中には好色の笑みを浮かべているものもいた。私は引き返そうとカズサの手を引いたが、びくともしない。
「空いてるところに座っておくれ」厨房の奥で猫の大将が叫んだ。
手汗の滲んだ、しかし力強い華奢な手に、私は抗うことができなかった。
こういう場所に来た以上は頼まないと失礼になると思って、私は苦手なビールを注文した。
「飲むんだ」
店員の背中を目で追いながら、カズサが言う。
「ほとんど飲まないよ。飲めないし」
「じゃあなんで頼んだの」
「礼儀……かなぁ」
「せんせ、すっごい嫌そうな顔してる」
「おいしくないもの、あれ」
カズサはおかしそうに笑って「子どもみたい」と言った。
店員が料理やつまみを運んでくるたびに礼を言うカズサは、きっとスイーツ店でもウエイトレスにそういう対応をしているのだろうなと思わせた。慣れていたけれど、こなれている印象は受けない。
下戸である私は、ジョッキの半分ほどを飲んだところで意識が飛びかけていた。
「すいません水くださーい」混濁する意識の中で、カズサの声はよく響いた。モノトーンでまとまった中にある差し色が目立つのとよく似ていた。
「なんか珍しいかも」
丁寧に畳んだタオルを椅子に置いてから、カズサは私のとなりに腰掛けた。カズサは空色のビキニを着ていた。むき出しの白をささくれから守るためにタオルを敷いているようだった。
女子高生らしい健康的な筋肉と女性らしい肉感を兼ね備えた太腿を見て、そういえば水着を似合っていると言ったのかなと思った。
口をついた言葉にカズサが笑う。
「ちょっと、酔ってるよ、先生」
軽薄な言葉が跳ね返され、意外なほどずっしりと私の心に突き刺さった。酒の勢いは、虚しい。虚しさを黄金色がもたらす高揚感で埋めているだけで、隙間に泥を塗りこんでいるのと大差ないのかもしれないと思った。
背中をさするカズサの手は優しい。
「ほら、水。飲める?」
「それほど泥酔してないって」自分のじゃないみたいに耳の奥から声がした。
「どうだろ。先生……なんか、ひどい顔してるし。酔った人ってもっと顔が赤くて楽しそうなんだよ」
カズサは眉尻を下げて、下がった分だけ口の端を上げた。
カズサの優しい顔が寂しかった。多幸感の海に溺れ窒息しそうになっている私の苦しさか、それとも、酔うことのなんたるかを知るカズサの境遇か。緩んだ思考はまとまることなく空中に埋もれた。
私は酔っているのをいいことに、二つに一つも選ばなかった。
酔うことは悪いことばかりじゃない。見なかったふりをしても、言い訳が確実に用意できるから。情けなかった。みっともなかった。
意識が沈み、周囲の喧騒が遠くなり、そのたびにカズサの声で引き上げられる。注文した料理は順調に減っていった。
「あ」
あやふやな時間感覚が不意に途切れた。
振り返って入口を見たカズサが固まっていた。私もそちらに視線を向け、同じように固まった。
汗ばむ体、赤い頬、やりきったという表情。彼らのすべてに高揚感の残骸が貼りついていた。入口に立つ団体が何を生業としているのかは明らかだった。
「そろそろ出よっか」カズサが立ち上がる。
私は立ち上がろうとしてバランスを崩し、慌てた様子の薄い肩を借りた。春に混じって潮が香る。
入口で席を物色していた彼らはカズサの姿を認め、下半身に目をやった。成長途中ながらまろやかな肢体は、十分に魅力的だった。
「会計、いいですか」
前に出ようとした私を遮って、キャスパリーグは堂々と踏み出す。
ちらと一瞥を向けられ「ごめん、財布。借りていい?」と小声で言われる。凛々しい顔だった。戦うことを決めた獣は、タフで惹きつけられる表情をする。
「返さなくていいよ」
「冗談はホテルでお願い」
カズサが会計を済ませる間、私は人の邪魔にならない座席とも通路ともつかない場所に、服を着た空気のように立っていた。
キャスパリーグは歴戦の猛者であることを隠さない毅然とした態度で一行を怯ませた。
「行こう、せんせい」
律儀にレシートを受け取ったカズサが私を振り返る。微笑を浮かべて言う。手を引かれ、足早なカズサのあとに続いた。
「ありがとうございました」という声が私たちを追いかけた。
目が暗闇に慣れきっていないのに、カズサはぐんぐん進んだ。ホテルへ向かっていた。進むべき道を分かっている人の手は、いつだって心強い。私の手とはまるっきり違う。
私は誰かのそんな存在になれただろうか。演技でならきっと、と縋るように思った。
一年前はこんなに分かりやすい形でバンドを遠ざけることはなかった。それなのに。少しずつ範囲を狭められた聖域の密度が大きくなった分だけ、拒絶や遮断は一層の激しさを増していったようだった。
私を旅館の低い椅子に座らせたカズサは、そのあと何度か部屋を出入りした。水を手渡され、無言の圧力に促されていただく。
夏とはいえ夜風にさらされて旅館まで戻ってきたので、酔いは覚めていた。本音を言えばもう少し酔っていたかった。
「ん」「うん」と事後の男女みたいに交互に水を飲んだ。すぐに空になった。私たちの衣服は乱れていなかった――私たちは備え付けの和服に着替えていた――し、私たちの息は荒くなかったし、室内は明るかったけれど、怪しい快感が背を這った。
冷房の効き始めた室内にはいまだに熱気があった。
カズサが出入りを繰り返す間、私は椅子に座って、早退したときみたいな中途半端にちぎれた時間を漂っていた。
カズサの口ぶりからすれば、放課後スイーツ部の三人は眠っているらしかった。「だから、お風呂を貸してほしい」と頼まれた。
今は時間外かもしれないが、この旅館には大浴場がある。時計はまもなく零時を指すところだった。
しかし元はと言えば私が付き合わせたのだ。私は頷いた。
「先に入る?」
少し考えてカズサが話す。「あとでいいよ。先生、私が入ってる間に寝ちゃいそうだし」
「別にそれでもいいんだけどなぁ」
「だーめ。海に入ってなくても潮風浴びたんだから、ちゃんと落とさなきゃ。髪傷んじゃうよ?」
カズサに促されるまま脱衣所に向かう。夏に出かけるのはこれが最初で最後だろうと奮発した一人部屋のグレードは高く、それなりに広い浴室を堪能できた。
安アパートやシャーレのシャワーとは比較にならない水圧が私の疲れを押し流す。
すべてを終えて浴槽で寛いでいると、不意に、がらがらと音がした。私は反射的に音のしたほうを見た。
扉が開いている。胸元でタオルを押さえるカズサがいた。
私はあんぐりと口を開けてカズサの顔を凝視してしまった。
赤らんだ頬は、絶対に上気したせいではない。カズサはタオルを押さえていないほうの手で毛先を弄んでいた。
「え……え?」
声を絞り出したが、目が合ったカズサから「せんせいはこういうの……ぃや?」と返され、閉口する。
カズサはその間に扉を閉めて密室を作り出した。甘い香りが立ちこめた。荷物置き場にハンドタオルやら洗面用具やらを置き始めるカズサの後ろ姿は無防備で、その雪白が飛びこんできた瞬間、私は俯いていた。
私は早口で言った。
「嫌とかじゃなくて」
「やじゃない?」
何をしても敵わない。
私は俯いたまま、カズサの体を打つ水圧の音を耳にした。
跳ねたシャワーのお湯が私の髪に飛ぶ。
湿気を含んだ甘い香りが、吸引した薬物みたいに思考を鈍らせる。ボディソープやシャンプーは水に触れただけで魔法がかかる。
カズサのなんだかんだが終わるころには、私は疲れ果てていた。
「その……お目汚し、失礼、します」
声が降ってくる。私は揺れる水面を見続けていた。
視界の端で素足をとらえた。カズサはつるりとした爪先から、つぷりと静かに入ってきた。体の前でタオルを押さえている。カズサは浴槽に体を半分ほど浸からせたところでくるりと反転し、私に背を預けた。波打ったお湯が私の体を打った。
カズサはタオルの水気を切って、頭の上に乗せた。
「なんだか悪いことしてるみたい」カズサは私の肩甲骨のあたりに頭を当てている。天井を見ていた。「もうちょっと悪いことしてもいいかな」
カズサはそう言って私の手を取る。行き場を失って浴槽の縁に乗るか乗らないかの空中で停止していた手だった。
カズサはそれを体の前まで誘導して、Vの字を作るようにして組ませた。ふっくらとした感触に、私はどうしようもなく動揺した。服の膨らみを見るたびに、私はおそらく今日の感触を思い出してしまう。
「異性との距離がおかしくなってしまうよ」
カズサが背筋を伸ばして身を震わせた。猫耳の毛が逆立っている。
「せんせいの声、近かった……」とカズサは呟いた。首だけで振り返り私を見る。目に宿る光が薄れ、どこか恍惚とした表情になっている。
カズサの微笑は怪しかった。
「私、誰に対してもこんなことするわけじゃないからね」
「そんな……、び……みたいな」蚊の鳴くような声で三文字を発した彼女は、自分がその言葉を言ったのだという事実に萎縮しているようだった。女子同士の話はかなり生々しいと思っていたけれど、放課後スイーツ部の彼女たちはそんなところがないのだろう。
「ちゃんと、誘惑したい人にしてるの」
私の両手を包むように握って、膨らみの間に当てる。と、と、と、と火が揺れていた。
私は、カズサの言葉に嬉しさを覚える程度に幼く、現実を見ることができる程度に老いていた。その不安定さが若さなのだと思う。現実を見るだけで、受け止める能力がないから、苦しい。
「今日は一緒にいようよ」カズサの声は優しい。「今日くらいしか、きっと先生は私をそばにいさせてくれないから」
哀愁が湯気に混ざり、換気扇に吸いこまれ、通気口をくぐって外に出ていく。外はすでに暗闇だった。
湯気の中でもはっきりと輪郭を保つ少女のむき出しの肌が、寒々しかった。
「少し散歩行かない?」
湯上がりのケアを済ませたカズサが私を見た。
あのあと私はカズサが脱衣所を出ていくまで湯に浸かっていたので、頭が沸騰した。それを広縁で冷ましていたところだった。
小さな座卓を挟んで座椅子に座ったカズサの浴衣が乱れている。貸し出し品なのに様になっていた。
「お風呂入ったのに?」
「んー……もう一回入るのはだめ?」
「こらこら。大人をからかうもんじゃない」
「でも嫌って言わなかったよね」
「言ったらカズサが悲しむでしょ」
儚く笑った横顔が、鮮烈に焼きついた。
刃のような月が冴え冴えと降り注ぐ夜だった。カズサは何かに貫かれていた。
あぁそうか、私の言葉は、嫌だって思ってても言わないよって意味にも取れるのか、と遅れて気がつく。でもそれを説明するには時差がありすぎる。
「ベクトルが違うんだよ」と、タイミングを逃したなりに言い訳をした。
「出た、ベクトル」カズサが反応する。
「でた?」
「うん。物理とか数学で」
「あ〜……」
「もうついていけなくってほんっとに大変。なんなのあれ」
「ベクトルだよ」
「知ってるって」
反動をつけて立ち上がったカズサが板を踏む。私が浴槽でそうしたように、カズサは私に抱きついてVの字を作った。
違うのは、しなだれかかるかどうかだった。背中に当たる膨らみに私の意識は向いてしまった。
「夏休みにみっちり教えてよ」
「はいはい」と一定のリズムでカズサの手を叩いた。
「ねぇ、せんせ」無言ののちに、カズサが出し抜けに声を出した。淑やかな声は虫のさざめきに飲みこまれ、深い闇に溶けていく。
「涼しい?」
「どうして?」
「ん〜……」考えるような素振りを見せ、言う。「真夏の夜は人が冷たい、でしょ?」
私は一瞬、言葉を失った。どうにか「物理的な意味で取るかぁ」と突っこみを入れた。白々しい声だった。
よく手入れされた手の甲を撫でる。すべすべで、もっちりしていて、でもハリがある。マシンガンが相棒な事実とも、毎日家事をしている事実とも、さっぱり結びつかない。
「一年前の言葉。よく覚えてるね」
「先生だって、それ。何年も前の言葉でしょ?」
私は言葉に詰まる。未練のせいだよ、なんて言えるはずはなくて。たははと笑ってごまかした。カズサにはきっと一連の感情が読み取られている。
尋ねられることが怖くて、私は作り笑いを貼りつけたまま静止した。
「訊かないから」
「答えられないよ」
観念するように笑った。
答えることが嫌なのか、理由が分からないから答えられないのか。カズサはそれすらも夜に預けた。
「先生のにおい」カズサがいたずらっ子みたいな声を出す。私の首筋に頬を押しつけてくる。
触れ合った場所から熱が伝わってくる。この熱を知らないから、人が冷たいと歌ったのだと思った。
私たちのバンドは全員、形は違えど人との関わりが少なかった。私は人生への倦怠から、それ以外は、音楽に本気だったから。売れることに本気なんじゃなくて、音を楽しむことに本気の連中だった。
いきなり離れたカズサが部屋に引っこんだ。物音がしたと思うと戻ってきて「弾き語り」と笑った。
「先生のまねして始めたんだ。演奏しながら歌うなんていつも通りかなーって思うんだけど、ぜんっぜん違うんだね」
「そりゃ音の数も厚みも間奏も違うからね」
列挙した私を見て、カズサはからからと笑った。座卓を寄せてとなりに座る。
油のような質感をたたえた海が、暗闇の先に広がっている。深海が浮かび上がってきたと思うほど、その闇は重かった。
無粋な光に照らされない田舎は不気味だけれど、不思議と安心を私にもたらした。攻撃から逃れ、カズサと一緒にいることで落ち着いたのだと思う。
カズサがピックで弦を弾いた。アコースティックベースだ。
「買ったの?」と尋ねた。
「そう。わる〜い男の人の影響を受けちゃったから」カズサはにんまり笑った。「疲れてるなら寝ていいよ。布団までなら運べるし」
「女の子に運ばれるのはちょっとなぁ」
カズサは口もとを隠してくすくす笑った。
涼しげな目もとが私を流し見た。
「疲れてるでしょ、せんせ」
カズサの言葉には含みがあった。
私が何かを言う前に、ゆったりとした演奏が聞こえ始めた。果てしない青に押し潰され、浮かぶ橙に憂鬱を覚え、夜にすら溶けこめない人物への歌は、優しかった。
翌日、布団から起き上がった私は春の残り香を感じ取った。
座卓には書き置きがあった。
『おはようございます。邪魔しちゃったかもしれない私が言うのも変だけど、よく眠れた?
先生が安心して眠れていますように。
あと、お風呂のことだけは忘れといて。いい?
それじゃ、帰りも運転よろしくお願いします。』
朝日が部屋に差しこんでいた。伸びた私の影が、出口の扉にかかっていた。