音色が繋ぐ、過去と未来   作:ぞんぞりもす

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みんなと過去 一

 手入れを怠っていて錆びてしまった弦が、ある日ぷつんと切れた。張り替えなきゃなぁ、とうわ言のようにもれた(・・・)言葉は無気力だった。

 

 ときどき構えて音を出す程度だったけれど、一応ギターには触れていた。昔のように時間を忘れて演奏することは叶わない。大人になることは物事に熱中する気力を失うことなのかもしれない。そんな理由の裏に、私は何か大事なものを隠したような気がするけれど、考える気力もわかなかった。

 

 弦が切れたのはそんな日のことだった。

 よく晴れていた。刺すような日差しの下を、私は歩いた。背負ったギターケースの重みが、そのまま私の人生の重みだと思った。軽いのか重いのか分からない。熱波にさらされた体が条件反射で汗を出していた。

 

 カズサに会った楽器屋で、私の姿を捉えた店主が笑った。

 

「暑い中ご苦労なことだな」

 

 ギターのためですから、なんて冗談を飛ばしたかったけれど、ギターケースを開けたら店主はきっと顔を歪めるだろうと思って言えなかった。

 拭いても吹き出す汗に翻弄された私は、棺桶を思わせる箱を開けた店主の表情を見ることはなかった。でも、大切に扱っているならこんなことにはならないなぁ、と双方の見解が一致したのはすぐに分かった。

 

「弦の張り替えは自分でやってたんじゃないのか」

 

 感情を押し殺した声で店主が問う。

 

「自分でやってましたよ。今までは」

「なら、自分でやれ。年代物だろ、これ。ここまで長い間使ってきたんだ。今さら人の手に預けるなんて正気の沙汰じゃないぞ」

 

 店主が私を睨む。そして押しつけるようにして替えを渡し、会計もさせずに追い出した。売上よりも職人としての怒りを優先させたこの人は信頼できるな、と思った。

 

 太陽は相変わらず照っていて、午後の熱風がさらに私を襲った。

 自転車が悲鳴を上げて私を追い越していく。甲高い叫び声を上げる小学生とすれ違う。

 こんなときは一人になりたい。都会は、孤独な人間にいやおうなしに音を叩きつけてくる。聞きたくなくても聞こえてしまう人の触れ合いを、暴力と言わずになんと言うのか、私には分からなかった。それは音楽とよく似ていた。

 

 私はへらへらと笑うことすらままならずに、平凡な無表情を浮かべながら、どこにもたどり着けないような速度で歩き、荷物をほんの少しだけ増やしてシャーレに戻った。

 誰とも分かち合うことのできない汗が、感情のかわりに吹き出していた。

 

 

 その日の晩にカズサはやってきた。両手にぶら下がったビニール袋を見て首を傾げる私に、カズサは呆れたように「先生スマホ見てないでしょ」と言った。

 カズサは猫耳の形にフィットするフード付きTシャツとミニスカートを合わせていた。

 

 一度キッチンに荷物を置いたカズサが戻ってくる。背負っていたリュックから、丁寧に畳まれたパッチワークのエプロンを取り出した。新品のわりになんとなく柄が古いなと思って、もしかしたら縫ってもらったのかもしれないと気づいた。

 手慣れた様子で背中の紐を結ぶカズサは、私に目もくれない。

 

「じゃあ、その、キッチン……お借りし、ます」

「調味料、あるか分かんないよ」

「それは知ってるよ。ケーキ冷蔵庫に持っていくときとか、ときどき見てたから。だから調味料も合わせて買ってきたんだ」

 

 私の懸念にカズサは笑って返す。そわそわした様子で猫耳が動いていた。

 買ってきたものすべてを一回の料理で使い切れるとは思わない。だから、もしかしたら週に何度か通うつもりなのかもしれないと思った。

 

「もうとっくに胃袋は掴まれてるよ」

 

 カズサは目を丸くした。

 

「ほら、差し入れの甘いもので散々餌付けされてたから」何食わぬ顔でつけ加える。

 カズサは「なぁに、それ」と半目で私を見てから、私の意図に気づいたらしくおかしそうに笑った。

 

「じゃあ、これからも抱きしめとかないとね」とカズサははにかんでキッチンに消えた。

 

 カズサはいつかの献立を作ってくれた。

 心臓は痛かったのに、料理はおいしく感じられた。じんわりした熱と痛みを伴ったおいしさが、嬉しかった。

 心のタンスに、きっとその味はしまわれた。

 

 片付けをしたカズサがオフィスに戻ってきて、テーブルにマグカップを二つ置く。ソファに腰かけながら「先生ってブラックだったよね」と私を見上げる。

 

「そうだけど……コーヒー? 飲めたっけ?」

「まぁ、たまにはね? いいじゃん」

 

 今日はそんな気分なんだ、とカズサは続けた。

 食後の休憩がてらカズサの対面に腰かける。

 カズサは恐る恐るコーヒーを口に含み、顔をしかめたあと、ことりとカップを戻した。

 

「弦の交換をしてやってくれって、ノボルさんが」

「あぁ」

 

 ゆったりした動作でコーヒーを飲む。自分が特別な反応をしないように気をつけたけれど、全神経を集中させて隠し事をしている感じが、逆に伝わってしまったような気がした。

 

「もう、どうしちゃったの、先生。前まではちゃんとやってたのに」

 

 カズサはおどけて笑った。

 

「そうだねぇ」

「言っとくけど私、ギターの張り替えはやったことないからね? 変になってもしらないよ?」

 

 ふっと私は息を吐いて笑う。

 ラジオの周波数を合わせるみたいに、じじじ、じじじ、とノイズのまじる世界で、懸命に私の心をキャッチしようとしている感じが痛々しかった。そんなことをしても何にもならないのに、と思った。

 

「先生の、大切なものなんでしょ?」

 

 カズサの声が震えた。私はほほえみを貼りつけたまま何も言わなかった。言えなかった。

 一瞬横切った表情が、私の警戒心の隙間を猫みたいにするりと抜けてきた。

 

 私は氷山にでもなったかのように動けなくなっていた。冷え切った室内に同調して体温が下がっている。鼓動だけが忙しなかった。

 さっと立ち上がったカズサが私に馬乗りになる。

 

「抱え続けるのが苦しいのにどうして抱え続けるかな……。ほら、いいから、はなせ(・・・)

 

 乱暴な言葉の中に慈しみがあった。

 聞き分けのない弟にそうするように、無理して背筋を伸ばして、カズサは私の頭を抱きしめた。かたい感触があって、それに包まれる柔らかい二つが形を変えて、奥に熱がある。

 

 口を開いたら嗚咽がこぼれてしまう。そう思うと、私の口は開かなかった。強すぎる水圧のせいでドアが開かなくなる現象によく似ていた。それは私の涙なのかもしれなかった。

 

「私じゃ、先生の力になれないかな」

「そういうわけじゃ、ないんだけど」

 

 二人して声を震わせる。

 どうして私のかわりに泣くかなぁ、と呆れてしまったけれど。もしかしたらカズサは、私が目をそらし続けた本心を感じ取って泣いてくれたのかもしれなかった。

 

「かんたんに言えば……」

「かんたんに言わないで」カズサが突っぱねる。「先生の人生なんでしょ?」カズサの声は震えていたが、目つきは真剣だった。

 私は目を伏せた。

 重なった体から体温が移る。冷え切った私に血が通う。何度も吐いた命の証に熱が宿る。

 

「どこから話せばいいのか分かんないよ」

「どこからでもいいよ。先生が満足するまで聞いてあげるから」

 

 

 

 長い沈黙のあと、私たちは場所を移した。私室には弦の張り替えをするための道具が揃っていたからだった。

 面白みのない内装を、カズサはしげしげと眺めた。気になる子の家に来て、壁の模様すら覚えようと意気込む子どもみたいだった。

 

「ベッド、座っていいよ」

 

 準備をしながらカズサに促す。

 カズサはおっかなびっくりにそっと腰を沈めた。膝を揺すり「落ち着かない」と、態度でも言葉でも示した。

 

 私はテーブルの上に道具とギターを置き、ラグに胡座をかいた。

「あぐら」カズサが意外そうに声を上げる。

 

「……やっぱりそっち行ってもいい?」

「いいけど、怪我しないようにね」

「分かってるよ。勝手は分かってるつもりだしね」

 

 桜の香りがとなりに来た。

 どこから話そうかなぁ、と私は考える。相手がどう受け取ろうが相手の勝手だからと好き勝手に言葉を投げるよりも、穏やかな波に揺られるほうが、経験の差からか、難しい。

 

 逡巡が手つきにあらわれた。カズサがほほえんだ。恥ずかしくなって、少し弾みをつけて手を動かした。口が勝手に開いた。

 

「最後が一番盛り上がったんだ。それからなんだか、馬鹿らしくなっちゃって」

 

 私の葛藤は凡庸だった。

 どこから話そうと思って、もういいやと思い直す。腐乱死体が時間の経過で白骨化しているのを投げやりに祈った。神様に呆れられてしまうような態度だったけれど、私のそばにいたのはカズサだった。

 

 

 私が抜ける前、私たちのバンドは、実力者揃いということでそこそこ周知されてきていた。ただ、コネクション構築や知名度を上げるための活動をほとんどしていなかったせいで、実力と知名度に逆の意味で差がある、なんて揶揄されていた。

 だからバンド一本でやっていくにはかなりの覚悟が必要だった。スポンサーだとかそういったことにも私たちは無知だった。

 すでに私は大学の三回生だった。同じころ、放任主義を謳っていた両親からは「自分たちと同じように普通の企業に行くんだよね?」という圧力がかけられ始めた。

 

 心に嘘を塗り重ねて、泥が乾くように嘘が水分を失い、ぺきぺきと剥がれていき、むき出しとなった心に嘘を重ね、また剥がれてむき出しとなり、外気にさらされた核が痛くって、どうしようもなくなって、結局どちらからも距離を置いた。みじめで。滑稽で。自分で選んだことなのに、それすらまっとうできない生き方をしていた。

 ここに選ばれた――なんて言葉、不適切だ。漂流したと言ったほうがいい。

 

「それで、最初に戻るんだけど。解散っていうか、私の脱退だね。なんかその日、一番盛り上がって。当たり前なのかもしれないんだけど、私にはそれがすごく馬鹿らしく思えたんだよ。

 脱退が決まって惜しむって、って。毎日結成して毎日解散したほうが盛り上がるのかな、って。そんなことはないんだけどね。

 でもそう思って以来、バンドでも、芸術でも、文章でも、漫才でも。自分が何かをしようとすると必ず囁かれる言葉があるんだよ。どうせ散り際がもっとも盛り上がるから、どうせいま頑張らなくていいんだよって」

「いっつもいっつもそんなに人が集まるって思うのなんて思い上がりだよ。普段は都合がつかなくても応援してくれる人だってきっといたのに。先生が抜ける前にむりやり都合をつけて来てくれた人もきっといるのに。思い上がってる。どれだけの人がその葛藤に耐えながら日々を過ごしてると思ってるの?」

 

 静かながら、カズサの言葉には怒気が滲んでいた。当たり前の話だと思う。

 でもカズサがそれを大っぴらにしなかったのは、私の言葉に含まれている過去への残滓を捉えたからだ。

 

 現実を見ないようにするため、半ば激情に駆り立てられるようにして弦を弾いていた私は、その弦にすら傷つけられてしまうことに耐えられなかった。今もまだまだ未熟者だけれど、当時の私はさらに未熟者だった。

 脱退した。就職した。流れた。

 

「私はもう、自分のためにギターを持てない」

 

 そんなこと聞きたくない。カズサはそう伝えるように三角座りの足を抱きしめた。

 私は大人になるために、自分のために頑張ることを諦めた。割れた茶碗を接着剤でくっつけても絶対に元に戻らない。

 子どものためになら頑張れるけれど、それははたして、趣味と呼べるものだろうか。自分の意志で頑張っているものだろうか。

 

 私の動く音だけがあった。いつだったか覚えていないけれど、そういえばカズサに弦の交換を見せたことがあったと思い出した。あのときのカズサは興味津々といった様子で私の手つきの一つひとつを目で追っていた。目といっしょに顔も動いていて、それを指摘すると怒った。

 今、カズサは私を視界に入れたくないようだった。

 

「私」ととなりから声がした。

 

「初めは音が出るだけでも嬉しくて、次から壁にぶつかって悔しくて、乗り越えて嬉しくって、その先に伝わったっていう嬉しさがあった。私の音楽の周りにはいっつも先生がいたんだよ」

 

 カズサの声が暗くなった。「なのに気付けなくてごめん」

 そんなことないよと言いたいけれど、私の言葉はきっと意味を持たない。

 

「私も最初はそうだったよ。みんなそう。すっげぇ、こんなにいろんな音出るんだ! このコードやば! むっず! でも楽しい! って」

 

 大きな声が部屋中に響いた。空っぽな心に反響した。

 でも、人目に立つことを決意すれば、他者の評価と価値観にさらされ続ける。聖域が不要なものであふれかえる。自分にとっての楽しいや嬉しいが、世間と同じではないと気づく。あとは坂を転がるようなものだ。

 楽しさを失って。辞め時を失って。惰性が音を鈍らせる。

 先に生きたものの言葉を聞いて、カズサは身を小さくした。

 

「バンドの解散って、バンドの死に方だと思ってた。死に方って生き方だから、だから、先生が抜けるときに盛り上がったって聞いて、私さいしょ、すごく嬉しくなったんだ。先生の気も知らずに」

 

 でも、とカズサの声が沈黙に押し潰された。よく聞き取れなかったけれど「違ったんだね」と言ったのだと思った。

 私は聖域に触れられないように、与える情報を制限し、隠し続けた。カズサは砂から金を探し出すように努めて、拾い上げて、予想した。カズサを傷つけたのは私だ。私がもっとはっきり言葉にしていれば、カズサが予想に頼ることはなかった。私を気にかけて、仇で返されることはなかったのだ。

 

「バンドを人生で例えるなら。『最後が盛り上がる人生は太くて短くて、最後には死が待っている』んだよ」

 

 カズサは力なく俯いた。短い髪がうなじにかかっている。白い肌と、艶のある黒髪と、ほんの少し覗く桜色が美しかった。

 いつか老猫が使った言葉だけれど、カズサは覚えていないようだった。そんなふうに、自分に影響を与えた言葉が他者にとってはそうではないという事実が私を打ちのめす。

 

 平凡な感性をどうにかして削り出して、偽りの感動みたいなものを呼び起こすために苦しんで。そうして時間をかけて積み上げたものが思い込みに過ぎないこともある。表現する生き方は苦しい。

 顔を上げたカズサを横目で見て、私はほほえんだ。カズサが口を開いた。

 

「先生っていっつも、避難用のシェルターにいるみたいに周りを怖がってて息苦しそうでさ。何重にも扉とかフィルターを通して人を拒絶して、届く言葉を厳選してって。そんなふうに思ってた。ほんの少しでもそこに入れてもらえたから、嬉しかった」

 

 カズサの口調は淡々としていた。あふれてしまいそうな感情を無理に押さえつけている感じがした。余計に切なかった。

 

「世の中の大多数にとってはどうでもいいことを自分にとっての特別だって叫ぶことが、好きってことだと思ってた。私、先生の音、死んでも好きだよ」

 

 彼女の言葉に決意が揺らいでしまう程度に、後悔は深く、魂はすり切れていなかった。カズサにそんな顔させたいわけじゃないのになぁ、という心の声が白々しい。

 私はきっと、再び音に一生懸命になることを怖がっている。だから馬鹿にしようとしている。他人のために音楽を捧げて、それすらも折れてしまったら、あとはもう、二度と立ち上がれない。

 どうして分からないんだろう。どうして分かり合えないんだろう。

 

 アパートに帰るカズサの背は小さく、都会の孤独がカズサを飲みこんだ。

 

 

 レイサをシャーレに呼んだのは翌日の夜だった。

『日中からでも行けますが、夜でいいのですか?』

『あれ、学校は?』

『もうすでに夏休みですから……』

 そんなやり取りをしたけれど、結局夜に来てもらうことになった。夏休みというのにレイサは制服を着ていて、なんだかとっても、らしかった。

 

 オフィスで向かい合って座っていたはずなのに、レイサは私の後ろに回りこんで私の頭をそっと抱きしめた。もしかしたら、私はよほどひどい顔をしていたのかもしれなかった。

 

「最近、誰かから抱きしめられてばっかりな気がする」

「む、杏山カズサですか」レイサはふてくされるように言った。

 私は「うん」と口を開かずに喉で音を出した。

「そうですか」とレイサは優しく言った。「杏山カズサ、ひどく落ちこんでましたよ。何かあったんでしょうけど、尋ねても教えてくれませんでした」

 

 あぁ、そうか。そのタイミングでちょうど私からも連絡があったから、レイサは二人の間に何かがあったのだと感づいたのか、と思った。

 

「音楽のことで、ね」

「方向性の違いですか」

「そうじゃないけどそう」

 

 二人でくすりと笑う。空気が軽くなる。通話で聞くことの多くなったレイサの声は、思っているよりもずっとなめらかだった。

 

「無理に聞き出したりはしませんよ。話したくなったら、どうぞ宇沢レイサにお聞かせください」

「気にならないの?」

「気になりますよ、それは」

 

 でも、とレイサは続けた。レイサが私を強く抱きしめた。確かなぬくもりと優しい柔軟剤の香りが私を安心させた。

 

「隠し事をしたままでも、先生は先生でしょう?」

 

 三半規管を撫でるような穏やかな声だった。いつかのように張り詰めた調子ではなかったし、頼りなさも感じない。レイサは気づけば遠いところにまで行ってしまったのかもしれないと思った。でも振り返ってこちらを見るレイサの輪郭ははっきりとしている。歩いた距離の分だけ、人はきっと成長する。

 立ち止まったままの私は、日々を浪費している。

 

 カズサに話してレイサに話さないのは、違うと思った。話すか話さないか相手が迷っているとき、レイサは相手の気持ちを尊重してくれる。優しいから。私の甘えはレイサの心を切り裂く刃になる。

 レイサは攻撃すらも抱きとめてくれるだろう。でも、私はそれを選びたくなかった。

 

「音楽に対しての葛藤なんだよ。平たく言えば」私の視界は闇に覆われていた。その闇はあたたかかった。後頭部から伝わる拍動は落ち着いている。「ありふれたことだろう?」自嘲する私にレイサは何も言わない。

 とん、とん、とレイサは私を叩いた。

 

「昔話をしましょうか」レイサの声は穏やかだった。

 

 レイサは、いろんな正義を考えたんです、と言った。

 

「おかげで気づきました。正義って、たくさんあっていいんだなって。というかむしろ、一つの正義しか認めないほうが争いの種じゃないですか。たくさんあっていいんですよ」

 

 好きも。

 

 流れるようにつけ加えられた言葉が脳を殴った。あまりの不意打ちに防御する余裕がなかった。

 やめてくれ、と思った。誰にも踏みこまれたくない心の奥に踏みこんできたパステルカラーの少女は、何も荒らさずに、しゃがんで、草原に咲いた花を慈しむようにじっとしていた。

 

「好きの全部を好きでいる必要はありません。どこかに隠した嫌いも好きの一部です」

「暴論だよ。裏返しで、一緒に存在することはできない」

「十円玉には平等院鳳凰堂が描かれていますね? 裏には数字と常盤木が描かれています。裏返しでも共存しています」

「だから暴論――」

 

 思わず声を荒げてしまいそうになったけれど、レイサにぎゅうと抱きしめられて黙らされた。「先生」と呼ばれただけなのに体から力が抜けた。

「好きって絵の具に似ているんですよ」竜胆は優しく咲いた。

 

「先生の音楽への好きは、パレットにたくさんの絵の具を乗せて混ぜて、もう後戻りができない色になってしまっている感じです」

 

 灰色かな、と思った。もう後戻りができない色という響きには、終わりだという絶望と、引けないから頑張っていくしかないんだという背水の陣みたいな希望が混じっている。矛盾した言葉だった。そこら辺に落ちている埃と同じ色――。

 

「悪いことを考えていますね?」レイサがいたずらっぽく笑う。「二人きりのときは、というか先生の役割がないときの先生はマイナス思考です。最近やっと分かりましたよ」

 

 そんなことないよと否定する余裕が私にはなかった。

 

「そんな好きがあってもいいじゃないですか。純粋な楽しみから始まって、悩んで、後悔して、諦めて、それでも好きで。好きの色が一色だけなんて誰が決めたんです? そんなの寂しいですよ。パレットにいろんな色を広げて、端の端までぐっちゃぐちゃになって引き返せなくなったら思い切り笑いましょう。大丈夫。どんな色でも信じれば輝きます。宇沢レイサが言うんだから間違いありません」

 

 ふありと優しく、柔軟剤が香る。淡い色の少女は力強い口調で言い切った。迷子の子どもに、お姉ちゃんについてくれば大丈夫って言うみたいに。きっとその先にはお日さまが待っていると思った。

 笑いながら泣くような言葉は、レイサがたどり着いた世界にたった一つの泉だった。

 

「強いね、レイサは」

 

 レイサが首を振ったのが分かった。「私を迎えに来てくれた朝ですら、私を一人に感じさせることがあるんです。そんなとき、私はとある人が教えてくれた歌を口ずさみます。そうするとまず一歩踏み出そうって思うんです」

 

 孤独の痛みを知っているのに、レイサは孤独になっても現実を乗り越えられる。

「もしも先生が朝に弱いなら起こしに行ってあげましょうか。宇沢レイサの声は大きいですよ」レイサは嬉しそうに笑った。

 

 どうして、どうしてそんなふうに信じられるんだろうと思った。

 甘えていることが自覚できない甘えを攻撃と言うことに、私は思い至った。

 

 聖域はもしかしたら、王国なのかもしれない。でも、大人がそんな神聖なものを持っていていいのか、私には確証が持てなかった。

 私は迷い続けた。抱え続けても捨てても、きっと後悔する。じゃあ、忘れる日まで悩み続ければいいのだろうか。結論は出ない。結論は出ないけれど、そうして悩んでいるうちに、もしかしたら忘れていくのかもしれないと思った。

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