ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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プロローグ
都落ち(2011/4)


 ある春の日の夜明け前、地上は白い闇に覆われていた。

 

 一寸先も見えない深い霧だ。これはもののたとえではない。この霧の中にあっては、人間は顔に触れる自分の指や体を支える自分の足も見えはしない。視覚がまるで役に立たない。音や匂いさえも覆い隠しかねない、それほどに深い霧だ。

 

 ただ地上にある道を走る車のヘッドライトだけが、霧を少し照らしている。それは人の体の幅ほどのごく僅かな空間に、光の粒から成る柱を作り出している。品のある駆動音と共に、柱はただ前へと進んでいる。

 

 もしその光が天から下されていたならば、人は感銘を受けるかもしれない。神の寵愛を受けた古代の族長が幻視した、天上から降ろされた梯子か何かを連想して。しかし光は天ではなく車から発せられている。人間の文明の力を端的に表しているものから。そこに乗っている者は人間とは少々、いや大いに異なる存在であるのだが、光を発しているのは人間の乗り物だった。

 

「ようこそ、ベルベットルームへ」

 

「誰だ……?」

 

 霧の中を走る車の中で、二人の男が向かい合っていた。そのうちの一人は老人で、車内の椅子に悠然と座っていた。もう長い間、日数や年数を数えなくなって久しいだけの時間を車の中だけで過ごしていて、それでも一向に飽きることがない。樹木は何千年経過しようと根を下ろした大地から離れないように。それだけの深さで車内の雰囲気に馴染んでいた。

 

 金属を鳴らしたような甲高い声、顔から飛び出さんばかりの巨大な目。そして童話に登場する人間になった人形さながらの長い鼻を持つという、怪異な容貌だ。子供のような小さな体が、自分はこの場の主人であると主張していた。

 

「私の名はイゴール」

 

 名乗った老人の向かいに座る男は周囲を見回した。そこは男にとって全く見覚えのない場所だった。知ってはいても現物を見るのは初めての、これまでの人生からは縁遠い場所。いかにも高級そうなリムジンだった。

 

 内装は深い青だ。老人が座るソファーを始め、その前に置かれた小さなラウンドテーブルとクロス、天井やカーテンに至るまで全て青色で統一されている。ちなみにソファーは男から見て右側にも一脚置かれ、また老人の右隣りはもう一人くらい座れそうなスペースがあるものの、他に人はいなかった。

 

「ここは……」

 

「ここは夢と現実、精神と物質の狭間にある場所。本来は、何らかの形で『契約』を果たされた方のみが訪れる部屋」

 

 はっきりした意志を持ったものではなく、思わずといった態で発せられた男の問いに老人は返答した。ただしその内容は、男が理解できるものでは到底なかったが。

 

「貴方は……ふむ、近くにそうした未来は見えませんな。しかし全くあり得ないとも言いきれない……。ふふ、やはりなかなかに変わった方だ」

 

「何それ?」

 

 老人の言葉の一部に、男は引っ掛かりを覚えた。変わり者と呼ばれたことにではない。その前に置かれた『やはり』だ。老人は自分を知っていて、この青一色の奇矯な車に呼び出した。そう感じたのだ。もっとも男にすれば、こんな鼻の長い人物に知り合いはいなかったが。

 

 このように男は奇妙に落ち着いていた。気がついたらリムジンに乗せられていて、眼前には正体不明の怪人がいて、理解できない言葉を並べ立てられる状況にありながら冷静さを保っていた。相手の言葉の細かな一部分に対して、引っ掛かりを覚えるくらいには。

 

「占いは信用されますかな?」

 

 しかし老人は場所に関する最初の問いの時と違って、男の疑問には答えなかった。その代わりに、男との間に置かれたラウンドテーブルに手をかざした。するとそこにカードの束が現れた。『現れた』のだ。引き出しも小箱も置かれていない、クロスが敷かれているだけのテーブルと老人の手の間に、忽然と。これは手品か、それとも夢か。

 

「いいや」

 

 しかし男はカードの出現に驚きはしなかった。ただ占いと呼ばれるものに対する、自分の考えを端的に述べた。

 

 男は占いを信じない──

 

「左様ですか……。ふふ、それも結構」

 

 男の返答に気を悪くするでもなく、老人はテーブルの上から手をどかした。それと共にカードの束も姿を消した。手の動きに合わせてカードが現れたり消えたりする。もしこれが手品であれば一流の技だ。手先の器用さにおいては男もそれなりに自信があるのだが、この老人ほど鮮やかにはできそうもなかった。

 

「運命とは決まっているようでいて、決まっていないもの。ほんの些細な出来事で大きく道を外れてしまうことも、往々にしてあるもの。私がここで貴方の未来を占ったとしても、その通りになるとは限りません。まして貴方がたの世界は、本来あるべき道から外れてしまうことがもう目に見えているのですからなあ……」

 

「何の話だよ」

 

 それまで冷静だった声に、少しだけ苛立ちの色が混じった。男は普段、ものに動じない方である。と言うより、内心に波立ちが起きてもそれを表に出さないでいられる。そしてそれとは逆に内側が風一つない凪であっても、外側では大騒ぎする道化になることもできる。それは男が人生の中で身に付けてきた、一種の処世術だった。

 

「貴方は元より少々変わった運命をお持ちです。しかし貴方自身に由来しない過去のある出来事によって、更なる奇しき運命が待ち受けているかもしれないのです。貴方のみならず、周囲の方々をも巻き込んで、本来あるべき道から外れてしまうかもしれない。故に私が占いをしても、意味がないかもしれない……。私が申し上げたいのは、そういうことです」

 

「あっそ……」

 

 しかしこの時ばかりは波立つ内心が表に出てきた。自分から話を振っておきながら、自分で話を終わりにしてしまう、眼前の老人の自己完結。もしくは『運命』だの『本来あるべき道』だの、観念的な言葉を並べる韜晦趣味。とにかくそうした回りくどい、相手に話を理解させようとの意志が見えない老人のものの言い方が、妙に気に障ったのだ。その苛立ちが声に出てしまった。仮面使いの名人である男にしては、珍しくも。

 

「一つ、ご忠告申し上げましょう。今年、貴方の人生は節目にあります。貴方が選ぶ道によっては、貴方の未来は閉ざされてしまうやもしれません」

 

「どうでもいいよ」

 

 せっかくの忠告なのだが、もう男は苛立ちを隠そうともしなかった。見覚えのない車にいつの間にか乗せられて、怪人の訳の分からない話を聞かされ続けるという、意味不明な事態に放り込まれた男が希望することは、もはや一つしか存在しなかった。早くここから抜け出て、目と耳の及ぶ範囲から老人を追い出したい。それだけだった。

 

「ふふ……どうやらお疲れのようで。この辺りで、お暇させていただくとしましょうか」

 

 そんな男の希望を察したようで、老人は別れの挨拶を口にした。それを受けて、男は視線を天井へと持ち上げ、ゆっくりと瞼を下ろした。なぜそうしたのか、人に聞かれても答えられなかっただろうが、とにかく目を閉じた。ただそれだけの動作でもって、この車から降りられるはずだと、言われなくても理解しているように。

 

「……」

 

 しかしまるで嫌味のように、男は目を閉じたまましばらく待たされた。闇は青から黒に変わっただけで、闇であることは変わりなかった。そうした不自然な沈黙が、呼吸を三度するほど続いた後になって──

 

「おっと、お名前をお聞かせ願えますかな」

 

 老人は最後の言葉を放ってきた。普通なら最初に聞くべきことを、最後に持ってきた。

 

「足立透だよ」

 

 男は即答した。名を問われ、それに答える。それは呼吸を一つする間に終わる、些細なやり取りだ。そんな当然なまでの自然さでもって、男は名乗ることができた。

 

 そして朝が来た──

 

 

「……変な夢だったな」

 

 そう言いながらも、何の夢を見たのか足立は思い出せなかった。ただ夢の中で、早く目覚めたいと願っていたことと、自分の名前を名乗ったことだけを覚えていた。

 

 ワンルームのアパートの一室で、足立はベッドから床に足を下ろした。引っ越してきて間もないのだが、部屋は既に散らかっている。足の踏み場は、現に今下ろしているそこにしかないようで、そして足立自身もそれをよく分かっている。そんな広くはない部屋に視線を巡らせると、タンスの上に置かれた四角い小さなテレビと、その脇に置かれた目覚まし時計が目に入った。針はコールをセットしていた時刻の、一時間前を指している。

 

「目が覚めなければ良かったのに……」

 

 早く目覚めたいと願っていたのだが、目覚めた先は嫌な世界だった。その世界の名は『現実』だ。

 

 

 

 

「疲れた……」

 

 奇妙な夢を見たその日の夕方、足立は道路脇の電柱に背を預けながら、ため息をこぼした。この日は今いるこの町に赴任してきて、最初の出勤日だったのだ。そして初仕事を終えたところで、休憩の為に立ち止まったのだ。そして足元に目を落としてズボンを見ると、もう一つため息がこぼれた。

 

「あーあ……泥だらけだよ」

 

 迷い猫を探して、あちこち歩き回った結果だ。あぜ道に入った際、ぬかるみに足を突っ込んでしまい、泥をかぶった。つい数日前までは、どこを歩いてもコンクリートとアスファルトばかりだった都会に住んでいた足立にとって、泥で覆われた道などというものは全く頭になかったのだ。

 

「クリーニング代、経費で落ちたりしないんだろうな……」

 

 新しい職場に来て一日目だが、景気が良くない雰囲気はすぐに察せられた。予想される節減体質にぼやきながら、足立はスーツの内ポケットに手を入れて煙草の箱を取り出した。普段はあまり吸わない方で、丸一日吸わずにいても特に衝動は湧いてこない。しかし今は吸いたい気分になった。

 

 足立は警察官として、県警の本部に数年間勤めてきた。しかしつい先月に仕事で失敗をやらかして、今月から片田舎の稲羽署に左遷させられたのだ。それだけでも面倒なのに、今朝は夢見が悪かった。そして新天地での初仕事は猫探しと来た。一服でもして少しは精神の均衡を取り戻さなければ、今晩も変な夢を見てしまいそうに感じていた。

 

「ふー……」

 

 紫煙を吐き出しながら足立は夕暮れの空を見た。と言っても、顎を高く持ち上げたりはしない。ほんの僅かに視線を上へ持っていくだけで、細い筋雲が流線的な模様を描く茜色のキャンバスが目に入る。田舎町は概して平屋の建物が多く、空が広い。だが広いながらも控え目な空だった。

 

 掃かれたように人気の少ない通りとシャッターで目隠しされた店舗が、それを際立たせている。今、視界に侵入する余計な煩わしさは何もない。手元から立ち上る煙は、足立自身の脈動を反映して僅かに揺らめきながら、風のない空気を昇って慎ましい茜へと向かっている。

 

 綺麗だ──

 

 率直に、そう思った。風景を見て心が動くなど、久しくなかったことだ。最後がいつだったかは、記憶から咄嗟に出てこない。そんな稀とさえ言ってよい心の動きを、足立は穏やかな驚きと共に感じていた。田舎暮らしも存外悪くない。春の夕暮れで煙草をゆったり味わっていると、そんな気がしてきた。

 

 求めるものがあって、戦って、敗れた。しかし世の中は何のことはないもので、いかなる場所であっても何かを求める人生は存在し得る。県警で手柄を立てて警察庁へ出向し、そこでキャリアに更に磨きをかけるなりしてエリートコースを順調に歩むことと、田舎の所轄で平凡な仕事を平和にこなすことの間に、どれほどの差があるのか──

 

 もしもあと少しだけ、この感慨に浸っていたならば。せめて煙草を吸い終わるまでだけでも、風景に感じ入っていたならば。都落ちした先での新たな生活を、前向きにとらえる。そんな考えが足立の身に付いたかもしれない。しかし運命は、夢に現れた老人が言うところの『元より少々変わった運命』は、彼に平穏を許してくれなかった。

 

「見ない顔だね、お兄さん」

 

 綺麗な空から視線を外して振り返ると、つばの広い帽子をかぶった若い男がいた。更に視線を動かしてみれば、ガソリンスタンドの店舗がすぐそこにあった。歩き回った疲れと仕事に対する嫌気、それに土地勘がまるでないことが手伝って、足立は自分がどこに立っているのか今まで気付いていなかった。ここは稲羽市中央通り商店街の南の端、スタンドの脇にある電柱の陰だった。

 

「ああ……ここ、禁煙?」

 

「いえいえ! 構いませんよ。暇ですしね」

 

 作業着を着たスタンドの店員と思しき男は近づいて来て、そのまま勝手に喋り始めた。勤め先はどこなのかとか、出張なのか転勤なのか、いつ引っ越してきたのかとか。足立は今月に来たばかりとだけ言って、後はほとんど口をきかなくなった。普段であれば、にこやかな仮面で応じつつ、あしらうことなど造作もないのに。なぜか急に感じ始めた煙草の苦味が、口と顔を思い通りに動かすのを邪魔していた。

 

「ふう……」

 

 足立は最後に一つ息を吸い込んで、吐き出した。そして身を屈めて革靴の裏で火を消した。そこでまた足についた泥が目に入った。その傍らでは、電柱の根元でひび割れたアスファルトからはみ出た雑草が、剃り残した髭のように顔を覗かせている。

 

「それじゃ、今後ともご贔屓に」

 

 足立が顔を上げると、目の前に右手が差し出されていた。と言っても、掌は上に向けられていないので、吸殻を受け取ろうとしているのではない。指先を閉じた状態で開いた利き手を、縦にして相手に差し出す。これは握手を求める所作だ。ガソリンスタンドの売り込みとしては、おかしなやり方だと足立は感じた。しかも売り込む相手を間違えている。

 

「僕、車は持ってないんだけど」

 

 これは本当だ。足立は運転免許は持っているものの、車はない。買うつもりも、今のところはない。

 

「あ、それは失礼しました。じゃ、お近づきの印ってことで」

 

 店員の手は縦のまま、相変わらず差し出されている。足立はとてつもない面倒さを感じながら、吸殻を上着のポケットにしまった。そして指先を軽く拭って、店員の手を握った。それは意外にも柔らかかった。

 

 足立は一瞬、ほんの一瞬だけ、この店員は実は女なのかと思った。日常的に揮発物を扱っていれば手は荒れそうなものであるのに、場違いなほどに滑らかな手だったから。しかし予想は裏切られた。驚きながら視線を少し上げると、そこにあったのは男の顔だった。これまで帽子のつばに隠れて見えにくかったが、その目は鋭かった。

 

 日本の探偵に捜査権はない。だから煙草の吸殻を見て、人の職業から出身地まで言い当ててしまう、小説の名探偵のような芸当ができたところで大した意味はない。それにも関わらず、聞かれてもいない人の些末な特徴を、見ただけで読み取って分析する無駄な鋭さ。或いは独り身の男がいれば、頼まれてもいない見合いの写真をどこからか持ってくる余計なお節介。ガソリンスタンドの店員はそんな目をしていた。

 

「おっと、仕事しないと」

 

 僅かな時間だけ顔を見せた店員は、足立から手を離して小走りで戻って行った。見れば古い車が一台、スタンドの中に停まっている。

 

「……」

 

 足立は数秒だけ沈黙した後、商店街の終わりである交差点へ向けて、ゆっくりと歩き始めた。その場から離れる為に。最後にもう一度スタンドを見やると、長年の埃が染み付いて鈍色に曇るフロントガラスを拭く店員と、その奥にある建屋の中に一台の大きなテレビが置いてあるのが目に入った。

 

(世の中クソだな)

 

 足立は呟いた。ただし声には出さず、内心だけで。夕暮れの景色を美しいと感じたのは、束の間だった。この町に特有のものなのか、それとも田舎全般がそうなのか、人と人の距離感が都会とはまるで違う。出世コースから完全に外れたわけだが、静かな田舎で隠棲する、そんなふうに現状を前向きにとらえる考えは忘れてしまうことにした。

 

 今日の出来事は全て忘れよう。昨日の出来事も忘れよう。将来のことなど、何も考えるまい。なぜならここは、少しも静かではないから。大勢の人間が行き交う喧騒は好きではないが、少数の人間が過度に馴れ合うのも、足立は好きではなかった。

 

「ええ、まさにこの世はクソですよ」

 

 足立が去り、その後に来た客の車も走り出してから、店員は独り言のように呟いた。そして帽子のつばを上げて、遠くを眺めながら言葉を繋いだ。

 

「最近は特にね」

 

 店員の視線の先にあるものは、空の広いこの土地では珍しい大きな建物だった。それは半年ほど前に進出してきた、人間社会の象徴とも言うべきものだ。

 

 

 その晩、足立は奇妙な体験をした。アパートの自室で床に散らばったものにつまずいて、咄嗟に身を支えようとテレビ画面に手を伸ばしたら、手が『もぐった』のだ。おかげで肩をテレビの縁にぶつけて、更には腕を引き抜く反動で転んでしまい、酷く痛い思いをした。

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