4月30日の未明、足立は初めてペルソナを召喚した。召喚に伴う吐き気を別にすれば、初めてのその時を含めて足立はシャドウを相手に苦戦したことはない。町をうろつく有象無象は鎧袖一触。菜々子を助ける為に戦った時も同様だ。ついてくる高校生たちには何もさせないくらいの勢いで、巨大な怪物に変じた生田目さえ一方的に叩きのめした。昨日は特別捜査隊も一蹴した。向かうところ敵なし。それは足立が操る『道化師』のペルソナが、それだけ強いことの証明と言える。
ではなぜ足立は理不尽なまでに強いのだろうか。それはワイルドになる素養があるにも関わらず、なっていないからか。つまり複数のアルカナに分配されるべき力を、一つのアルカナが独占しているからか。もしくは悠が築いている数々の絆の中で、『道化師』は格が違うからか。即ち同じカードの表と裏、もしくは神仏習合。いわば『同一人物』のような繋がり──
しかし圧倒的な実力者であるというのは諸刃の剣である。敗北を知らず苦戦とも縁遠い。そんな人間が最後の勝利者になることは、むしろ稀だ。百回戦って百回勝ってきた天才が、百一回目で敗れて全てを失う。よくあることである。強硬と強靭は別物だ。ガラスは一度割れると、二度と元には戻らない。
そしてそんな世の道理を頭で理解していて、敗北や死に備えてあらかじめ心の中で先回りをしているような場合は、特に危ない。
シャドウワーカーの本部と支部で各々最強を誇る二人が対峙した。得物はどちらも拳銃だ。奇しくも同じリボルバーで、装填可能な弾数も同じ五発である。二人は武器の種類においては対等だ。しかし不公平に塗れるのが実戦の原則である。残弾数においては両者は公平ではない。足立は昨日二発撃っており、補充はしていない。
「三つ数えて抜け、とかやってみる?」
拳銃の勝負においては古典的なやり方を、足立は言い出した。
「いいですよ」
互いの距離は三メートル程度だ。どちらも射撃には自信があるので、外す距離ではない。相手より一瞬でも早く撃った方が勝つ。そしてその一瞬のうちに勝負は決着する。極めて手っ取り早く、しかも完全なる決闘法である。もしマヨナカテレビの録画放送が普通の電波に乗っていれば、このシーンの視聴率は過去最高記録を更新することは疑いない。
「そんじゃ、三」
カウントダウンを始めると同時に、足立は膝を軽く曲げて腰を落とした。肩から力を抜いて両手を垂らす。足立は元より猫背気味だが、より深く曲げる。瞬きする間に懐から拳銃を抜ける体勢である。対する有里は背筋を伸ばしているが、肩や膝に余計な力は入れていない。やはり瞬きする間に抜ける体勢でいる。
「二」
常人では区別がつかない同時と言っていい刹那の中で、どちらがより早いかを競うのだ。僅かなミスが死に直結する、まさに実戦の緊張感が満ちてくる。二人の間を隔てる空間そのものが、ガンマンたちの集中力によって歪み始める。漂う赤い霧さえもが、逃げるように二人の間から流れ去ろうとする。
勝負の開始と決着まで、あと一秒。しかし──
「ゼロ」
──
有里はカウントを一つ飛ばした。反則の銃声が響いて、逃げ切れなかった霧が煽りを食らって揺らされる。ただし有里は顔こそ正面を向いているものの、銃口は左手側を向いている。
「せっこいねえ……君。三、二、ゼロってベタベタ過ぎない?」
足立は有里から見て左にいた。右手に実銃を持ち、銃口を上に向ける形で顔の前で構えている。撃ち放たれた大型のマグナム弾を、普通の警察も使う古式ゆかしい拳銃のグリップで受け止めたのだ。
「貴方こそ、勝負の途中で動いては駄目でしょう」
有里の正面に立っていた足立は、霧に映った幻である。本体は数を数えている間に側面に移動していたのだ。有里はオルフェウスの探知でもってそれを見抜き、先制攻撃を仕掛けたのである。
有里の情報系能力は、本職である尚紀やりせには及ばないおまけのような力だ。しかし目に見えている姿が本物かどうかくらいは分かる。ついでに言うと、先月マーガレットにやらされた『肩慣らし』で、探知を戦闘に応用する経験もした。足立の目くらまし戦法は尚紀には通用しなかったが、有里にも通じない。
「はは、まあねえ? 映画みたいなノリって、僕は苦手でさ!」
「僕も柄じゃありません」
「じゃ、普通にやろっか。マガツ」
小細工は無用である。足立は一声呼んで魔人のペルソナを召喚し、足元から炎を立ち上げた。全能力を強化する補助魔法である。マーガレットの『肩慣らし』が証明しているように、今の悠がこれをやっても有里には及ばない。しかし足立がやれば基礎能力は有里を上回る領域に達する。しかし──
「解除します」
できることが多彩な有里は、補助の効果を解除する魔法も使える。しかし最強のペルソナであるオルフェウスは使えないし、それに次ぐ戦力を持つメサイアもできない。そうすると──
「行け!」
ペルソナを切り替えた瞬間を狙って、足立から仕掛けた。矛を構えたマガツイザナギを突撃させる。電光と評すべき速度で、人を殺せる凶器を有里の喉を目がけて突き出す。
「おっと!」
対する有里は拳銃の銃身で矛を防いだ。このまま足立の二の手三の手を受け続けていると、有里の喉か首はただでは済まない。しかし歴戦の有里はやられっ放しにはしておかない。初撃を防いだ直後に瞬きを一つしてペルソナを再び変更し、オルフェウスの竪琴をマガツイザナギに向けて振るう。
ペルソナ同士が衝突して、金属とは異なる独特の音楽が霧を揺らす。比較神話学でよく引き合いに出される二つの存在が、生まれた地域を越えて出会った。その様子を見て、足立は考える。
(もう補助はできないな)
足立は初手で補助魔法を使うことはできたが、やってもすぐに解除される。解除の瞬間を狙って攻撃しても、有里を一気に倒しきるには手数が足りない。逆に足立が補助を使おうとする瞬間を、有里が狙ってくることもあり得る。周囲に壁や囮になる仲間がいる集団戦と違って、一対一の勝負では補助や回復魔法は隙になりやすい。ならば──
「ふっ!」
足立自身が動いた。ペルソナは出したままで、本体が後を追うように正面から突撃する。しかし──
「むっ……!」
身構えた有里の視界から足立が消えた。目くらましではない。足立はタックルのような低い姿勢を取り、更に方向転換して右側に回り込んだ。有里は一瞬遅れて肉眼で見た。ペルソナを正面に置いて、足立自身は銃で顔や胸を狙ってくる気か。そう思ったところで──
──
銃声が響いた。有里は裏をかかれた。足立は低い姿勢から更に低い位置、有里の足へ向けて実銃を撃ち放った。フェイントの突進から更にフェイントをかけて、急所以外を狙った攻撃は綺麗に決まった。弾丸は有里の左足に命中した。
「食らえ!」
次の瞬間、有里の正面にいるままのマガツイザナギは右手の矛を振り上げた。大きな動きだが、これもフェイントだ。籠手をはめた左手に魔力が凝集し、電光が疾走した。矛や身のこなしの比喩ではなく、本当の稲妻だ。
──
虚無の天地を覆う霧よりも更に赤い、深紅の雷電が迸った。今のマガツイザナギは矛で追撃すると見せかけて、左手を下から突き出したのだ。ただし拳の打撃ではない。春からシャドウを何度も滅ぼし、昨日は陽介を一発で打ちのめした電撃の魔法である。それを至近距離から撃ち放ったのだ。牽制を挟んだ見事な連続技である。並のペルソナ使いなら、もう立っていられなくなる。
だが有里は倒れない。
「オルフェウス」
雷光の残像が消えないうちに、竪琴が乱暴に奏でられた。音楽とはとても呼べない不協和音と共に、炎が足立に向けて飛んできた。
「うぐっ……!」
足立は咄嗟に両腕を胸の前で構え、襲い来る爆炎を防いだ。マガツイザナギに弱点はないが、火には耐性もない。素の耐久力に気合を上乗せして堪える。それでも半歩後ずさりしてしまう破壊力だ。視線を上げてみれば、有里と目が合った。青いフレームの眼鏡をかけた顔は平然としたものだ。
「君、痛くないの?」
「痛いですよ。でもそれだけです」
有里は左足の踵を支点に爪先を立てて、また下ろした。足首の動きで地面をトンと叩く。履いているスラックスには脛の辺りに穴が空いているが、それだけだ。先ほどの奇襲で銃弾を受けたはずだが、足は動いている。電撃もまともに浴びたはずだが、大して効いていない。
「何それ? 銃で撃たれて痛いだけなの?」
「そういうペルソナなんです」
この頑丈さはオルフェウスの恩恵だ。古代ギリシャの密儀宗教の創始者に由来するこのペルソナは、元々は死神のアルカナに属するものだったのが、宿敵との戦いの過程で変容した。元のペルソナも極めて強大なものだったが、変容後は更に強化された。特に防御面だ。物理的な攻撃から火炎、氷結、電撃、疾風の四属性、そして光と闇にまで至る全ての攻撃に耐性があるのだ。完全に無効化はできないが、三度や五度被弾したくらいでは致命傷はまず負わない。
「ワイルドってずっるいねえ……」
足立は顔を顰めた。普通のペルソナ使いから見れば、マガツイザナギも卑怯なくらいに強い。だがオルフェウスはより卑怯だ。単に強いだけでなく、フルメタルアーマーとでも呼ぶべき堅牢性を誇っている。
「貴方もなれるはずだと思うのですが」
「遠慮するよ」
卑怯だろうが何だろうが、実戦で文句を言っても仕方がない。有里が現にそこにいる以上、足立は戦わねばならない。土壇場で相手と同じ力に目覚めるような都合の良さも期待できない。今ここにある現実の中で、取り得る手段を考えねばならない。
(万能魔法しかないよなあ……)
マガツイザナギは攻撃の幅が広いが、有里がオルフェウスを使う以上、有効な手段は一つだけだ。だが当然ながら、相手もそれを分かっているはずである。いきなり撃っても当たらないか、同じ魔法で相殺されるのが落ちだ。どこかで隙を見つけて撃つ。それしかない。ではどこに隙を見つけられるか?
──
考えている間に、今度は有里から攻めてきた。足立の胸を目がけて銃を撃ち放ってきた。対する足立は再び銃を縦に構え、グリップで受け止める。とてつもなく器用な受け方だが、距離を置いた状態で撃ってこられたなら、これくらいはできる。
「行きます」
銃撃に続いて有里自身が駆けてきた。オルフェウスが呼び出されて竪琴を振りかざし、上から叩きつけてくる。乱暴すぎる扱われ方をする楽器の打撃を、足立は一歩下がってかわしつつマガツイザナギを召喚する。ただしすぐに攻撃はしない。禍津神は使用者の頭上で動きを止めていて、外套を翼のように広げて敵を見下ろしている。あからさまに攻撃のタイミングを伺う素振りである。
「……」
対する吟遊詩人は動きを止めず、下ろされた得物を斜めに振り上げる。同時に竪琴の弦が光を発した。炎の魔法ではない。生み出されているのは刃物だ。先月の戦いで生田目を制圧した、斬撃の網である。マガツイザナギは矛から生んだ光の刃を、オルフェウスは弦から生み出す。自分も使える力であるだけに、足立は有里が仕掛けてきた技が読めた。つまり勝負どころが来た。
「マガツ!」
ここで血に塗れたペルソナが動いた。待たされていた間に溜め込んだ紫色の光を解き放った。ただし眼前の敵本人ではなく、刃を広げようとする竪琴に向けて撃った。
空間ごと切り刻んでしまう斬撃の網は、展開してしまえば最後、回避はほとんど不可能だ。しかも必殺と呼べるだけの破壊力がある。しかし発動する前に止めることは可能だ。たとえ最強のペルソナの秘技であろうとも、足立ならばできる。まして万能の魔法をもってすれば。
「くっ……!」
連続攻撃の途中で割り込まれた有里は、思わず呻き声を漏らした。足立が万能魔法を放ってくるであろうことは予想していた。それしか通じる術がないのだから当然だ。だが最大の攻撃手段を半ば防御の為に使ってくるとは予想外だった。集中が乱れてオルフェウスは姿を消してしまった。
(ここだ)
ペルソナ同士を衝突させたところで、足立自身が動いた。右手の銃を構えて狙いをつける。照準と照星、そして的が一直線に並ぶポイントを瞬時に見出した。的は有里の頭だ。銃口との間には一メートルもない。素人でも外さない至近距離だ。
オルフェウスの耐性によって、有里の体は銃弾も通さなくなっている。だが急所に当たれば話は別である。青いフレームの眼鏡のブリッジの下にある眉間でもいいし、もしくはレンズの向こうにある目でもいい。ヘッドショットを正確に決められれば、当代最強のペルソナ使いといえども倒せるはずだ。言い方を変えれば──
(……
急所を撃ち抜けば殺せる。自分は人を殺せる。照準の間から有里の顔を見ながら、足立はそう自分に言い聞かせた。
足立にとって有里は憎い相手ではない。殺したいと思ったことなどない。と言うより、憎い相手など足立にはいない。だが憎くないことは殺さない理由にはならない。春に殺した二人の女も、別に憎くて殺したわけではないのだから。有里には身重の妻がいることも関係ない。会ったこともない女が泣こうと知ったことではない。足立透のせいで親しい人を失って、泣いた人間ならば既にいる。例えば生田目だ。
生田目が良くて有里の妻が駄目な理由など、この世のどこにあると言うのだろうか? しかも有里は仕事でここに来ているのだ。ならば死ぬのも仕事である。
(こいつが死ぬのは、ただの殉職だ)
勝負を賭けて、足立は引き金を絞った。当たれば人が死ぬ凶弾を、当てるつもりで放った。
──
直後、硬いもの同士が衝突する音がした。着弾である。ただし弾丸が肉体にめり込む音ではなかった。
(しまった……やっちまった!)
有里の顔の前に拳銃が立てられていた。世界最強と謳われる、猛獣でも殺せる大型拳銃だ。そのグリップで飛来する銃弾を受け止めたのだ。足立がやったように、有里も銃撃を止めてみせた。
射撃は確かに頭を襲った。もし有里が止めなければ、眼鏡が砕けると共に眉間を撃ち抜かれていたはずである。だが撃つまでの間に僅かな逡巡があった。狙いをつけてから引き金を絞るまで、時間にすれば一秒の数分の一かそれ以下の、刹那の瞬間だけ間があった。ただの殉職に過ぎないだの何だのと自分に言い聞かせている間に、有里が防御する隙を与えてしまった。
「オルフェウス」
攻守が交代した。戦場に再びペルソナが召喚され、人形の手で竪琴を激しく奏でて紫色の光を生み出す。
「ぐはっ……!」
失敗を悟って思わず無防備になってしまったその瞬間に、足立は万能魔法を浴びせられた。隙を突くつもりが、逆に突かれてしまった。どんな敵でも滅ぼせる力に焼かれ、吹き飛ばされ、足立は虚無の大地を転がった。
(く……駄目か。こいつには勝てそうもないや)
十メートルほど距離を置いた所で、足立は膝立ちになった。有里の万能魔法は恐るべき破壊力だが、さすがに一発でやられはしない。しかし均衡は崩れた。と言うより、精神的に不利な状態に置かれてしまった。勝ちを諦める気持ちが湧いてきた。人は一度こうなってしまうと、戦いの最中に自分を立て直すのは難しい。まして苦戦を経験したことのない『天才』は。
(どうする……こいつに殺されてやるか?)
今日は元より生き延びるつもりはなかった。だが殺される相手として、有里は本意ではない。悠や陽介よりはまだいいが、最善ではない。昨晩やろうとしたように、自殺した方がまだ良いのではないか。そんなことを思うと──
(そうだ! 確か初めの頃……)
春に聞いた話が唐突に蘇った。シャドウワーカーが召喚器を使うのは、ペルソナ召喚の基本は死を覚悟することだからだと聞いた。だが召喚器は形こそ銃だが、実際には誰も死なない。だから堂島はゴールデンウィークに訓練を始めてから、しばらく召喚に成功しなかった。その際、最も確実な召喚方法を聞いた。そして今、自分はそれができる状態にある。
膝を起こして立ち上がり、右手の銃に左手を添えてシリンダーを振り出した。この銃は五連発式で昨日二発撃ち、今日も二発撃った。残りは一発だ。シリンダーに指をかけて回転させ、また戻す。どれくらい回ったのかは見ていない。見ないまま銃口を自分自身に向けた。
特殊部隊に参加して以来、足立は自分自身を何度も撃ってきた。だがやるのはいつも左手の召喚器で、右手の実銃でやるのはもちろんこれが初めてだ。生きるか死ぬか。確率は五分の一である。
(惜しい命じゃない……)
別に惜しい命ではない。五分の一が当たって、頭が吹き飛んでも構わない。五分の四が来れば、それはそれでいい。死を覚悟することがペルソナ召喚なら、実銃でやるロシアンルーレットこそが究極の召喚であるはずだ。頭の中心に集まる血の量が、そして言葉の裏側で湧き上がる心の何かが、それを証明している。こうやって召喚したマガツイザナギは、きっとオルフェウスも超えられる。最強のペルソナ使いはそれで倒せる。
(伸るか反るか……どっちだろうが、どうでもいい!)
どちらに転んでも損はない。足立は指の運動を始めた。しかし──
「させません」
──
足立は有里を撃つ際にタイミングを逸する失敗をした。そして今また失敗した。ガラスが割れる音ではない、実銃の銃声が響いた。出所は十メートル向こうだ。
「うがっ……!」
次の瞬間、足立の耳元で金属が衝突した。鼓膜が破れんばかりの不快で強烈な音が耳を襲い、同時に凄まじい衝撃が右手を襲った。有里が足立の銃を狙って撃ったのだ。
究極の召喚方法を足立に教えたのは、他ならぬ有里である。と言うのも、有里は昨年1月にロシアンルーレットをやったことがあるのだ。だから足立が何をしようとしているのかは、シリンダーを振り出したところで読めた。そして回転させて戻して自分のこめかみに当てるなどという一連の動作は、大きすぎる隙でしかない。先手を打って妨害する隙はいくらでもある。
「くっそ……!」
だが足立も粘る。弾丸をまともに受けながらも、まだ銃を離していない。自分を殺せる凶器は手放さない。右手は痺れて感覚がほとんどなくなっているが、意地で持ち上げて、何とか銃口をこめかみに当て直す。指を無理やり動かして、再び自分を撃とうとするが──
「遅いです」
またしても先手を取られた。足立が無理なことをしようとしている間に、有里は距離を詰めていた。地面を蹴って肉薄し、左手を伸ばして足立の銃のシリンダーを掴む。撃鉄を起こしていないリボルバーは、こうすると引き金を引けなくなる。
愚者と道化師の目が合った。悪党同士として互いに親近感を抱いていた二人は、今までで最も近い距離の中で出会った。拳はもちろん、膝蹴りや頭突きも届く間合いだ。鈍い音が赤い霧に小さく響いた。
「あがっ……」
銃声ではなく、人間の体が打たれた音である。有里が銃を振り上げて、グリップで足立の首筋を打ち据えたのだ。拳銃は撃つのがもちろん本来の使い方だが、殴ることにも使える。殺す為に作られた道具であっても、使い方次第で殺さずに制圧することも可能である。
次の瞬間、有里は足払いを仕掛けた。足立の銃は左手で掴んだまま、体を回転させつつ相手の体勢を崩す。相手の腕を捻りながら背後を取った。足立は地面に膝をつかされ、銃を持った右手は関節を極められて背中に回された。有里は足立の後ろに立ち、後頭部に銃を突きつける。
「ここまでです」
「あたた……! あー、ギブギブ!」
殺人事件の犯人は特殊部隊の副隊長によって取り押さえられた。足立にも余力は残されているが、この体勢ではどうしようもない。勝負ありだ。最強を競う二人のペルソナ使いの戦いは、最後は体術で決着した。
「はあ……君、ちょっと強すぎない? 反則でしょ……」
「年季です」
反則なのはオルフェウスの耐性くらいで、二人のペルソナ能力そのものにはそれほど大きな差はない。正確に言えば有里が若干勝るが、運や作戦で覆る程度の僅かな差に過ぎない。だが二人の間には実戦経験の量と質という、一朝一夕では埋まらない差がある。足立は自分と同等以上の実力を持つ相手と戦った経験がない。片や有里は、二年前は自分以上の敵とばかり戦っていたのだ。
厳しい戦いをしたことがない分、足立は隙を見せてしまった。要は年季の違いである。
「さて、あっちは……」
銃を突きつけたまま、有里は遠くを見やった。そこでは堂島たち四人が目玉の怪物と戦っている。
「私に刃向かうことは、人の世の望みに逆らうこと……! なぜそれが分からん!」
かつて神聖時間に降臨した神と違って、神聖空間に住まうこの存在は口をきく。あたかも固有の自我を持ち、自らの意思に従うように行動するのだ。しかし言葉を持っているからと言って、戦いでは意味がない。ペルソナ使いたちは基本的にシャドウと話はしない。悠たち特捜隊はそうだったが、シャドウワーカーもそうなのである。アメノサギリはシャドウとは一線を画す存在だが、そんなことは特殊部隊員たちにとっては関係ない。討伐するのみである。
虹色の目からレーザーよろしく熱線が放たれてくる。四人のペルソナ使いの先頭に立ち、鬼のような仏のペルソナで防いでいるのは堂島だ。
「真田さん!」
特殊部隊の本部と支部から成る混成チームの指揮は、堂島が取っている。リーダーとして他の者たちに指示しつつ、自らは主に防御を担う。攻撃における主力は真田だ。
「承知!」
真田はアメノサギリに肉薄した。文字通り手が届く距離まで接近し、一旦身を屈める。そして折り曲げた膝を伸ばし、腰を回転させ、ペルソナに由来する力を左の拳に溜める。そして天へと向けて一気に解放するのだ。カエサルを表に出していないにも関わらず、拳は光を発している。
「はああ!」
渾身のアッパーカットだ。下半身から上体に至るまで、全身の力を余さず使った見事な技である。もちろん本来は人間の顎を打つべき技だが、球体の怪物にも効いている。直径が五メートルはある巨大な目玉は拳に打ち上げられて、僅かだが地面から浮いた。練達のペルソナ使いである真田の力は、ただのシャドウではない怪物相手にも十分通じている。
「小西、撃て!」
「はい! 姉ちゃん!」
戦列の後ろからは、尚紀が召喚器でガラスを割って竜巻を放つ。疾風はアメノサギリの弱点ではないが、放たれる魔法もそよ風ではない。スセリビメが放つ逆巻く風の渦は、真空の刃を生みだして怪物の巨体を何度も切り付ける。的が大きい分だけ無駄撃ちもしない。
「小賢しい者たち……死の封印なき今世、世界を焼き殺す炎はより強く、激しく盛るのだ! 貴様らとても、滅びに抗する術はなかろうに……」
アメノサギリは喋る。しかし戦場に立つ四人は敵の口上に耳を貸さない。聞き咎めたのは、足立を取り押さえている為に戦いから離れている有里だ。見ているだけなので、戦いそのもの以外にも気が回る。
(死の封印……? 滅び?)
思い当たる節のある言葉である。封印、そして滅びと言えば──
「卑劣であるばかりか、愚かなる者たち……霧に惑い、眠るがいい!」
しかしアメノサギリの方は有里まで気が回っていない。霧の世界全てでも見通せそうな虹色の目は、刃向かう四人しか映していない。シャドウは全般的に知性が乏しく、人間のような応用ができないのが大半だ。そしてこの存在は、ある意味でシャドウよりも融通がきかない。
目玉の体からいくつも飛び出ている管から、白い闇が噴き出してきた。あらゆる認識を奪い、甘い眠りへと誘う混迷の霧だ。目玉自身と堂島たちの周囲のみが、虚無の赤から白へと急激に塗り潰されていく。今から半年近く前にこことは別の場所で、神典の序文が朗読されると共に発動した極めて特殊な術である。
「またか……桐条さん、今のうちに回復を!」
しかし指揮官である堂島は慌てもしない。実はアメノサギリがこの術を使うのは初めてではない。有里が足立と戦っていた間から、何度かやっている。最初こそ驚かされたが、既に種は見えている。
「はい!」
部下に指示された美鶴ももちろん動じない。白い闇に包まれると攻撃が当たらなくなる。拳や警棒の打撃はおろか、ペルソナの魔法さえ明後日の方向へ飛んでしまう。つまりあらゆる攻撃が無効化されるに等しい。しかし攻撃ができないのであれば、他のことをすればいい。具体的に言うと傷の手当てだ。
「おう、助かる」
「済みませんな」
女帝のペルソナが召喚され、まず真田の傷を癒やした。次は堂島だ。美鶴は回復魔法も使えるものの得意と言うほどではなく、一度に一人しか手当てできない。だがそれで十分追いついている。霧が展開されている間は、そちらに専念すればよいからだ。実戦は攻撃だけで形作られるものではない。こういう時間帯があることは、むしろやるべきことが明確になって戦術を構築しやすいくらいである。そして──
「滅せよ!」
霧の向こうから大音声が響き渡ると同時に、炎をまとった岩々が降り注いできた。一見しただけでは数えきれないほど、頭上からいくつも襲ってくる。天地の形を変える隕石と呼ぶべきか、インド神話の火の神の加護による、世界の終末に喩えられる神々の矢か。群れを成した流星に掻き消されるようにして、混迷の霧が晴れた。その直後──
「コンゴウリキシ! 跳ね返せ!」
古い神々が仏の教えに組み込まれ、護法善神として習合された鬼神のペルソナが召喚された。仏は三鈷杵を天へ掲げ、それと同時に四人の前に光の壁が張られた。次の瞬間、流れ星もしくは神の矢は、その全てが向きを変えた。
「おおお……!」
隕石の群れを浴びたアメノサギリは、球体の体を大きく震わせた。堂島が使ったのは物理攻撃をそのまま跳ね返す魔法である。シャドウワーカーでは元々ワイルドのみが操れる非常に高度な魔法であるが、堂島は昨晩ペルソナが変容すると共に、これを修得したのだ。基本的に力任せで不器用な堂島の切り札である。ただし効果は一瞬しか続かないので使いどころが難しいのだが、ここでは綺麗に決まった。
特捜隊がりせの影と戦った時もそうだったが、混迷の霧は使った側が攻撃すると解除される。逆に言うと、霧の次は大きな攻撃が来る可能性が高い。そして霧が出ている間は、堂島はやることがない。反射を仕掛けるタイミングを計るには、霧の闇はむしろ都合が良いのだ。
アメノサギリは行動パターンを堂島に見切られたのだ。と言うより、同じことばかり繰り返しているうちに墓穴を掘った。
「効いてます! もうあと一歩です!」
「よし……真田さん! とどめを!」
「任せてもらいましょう!」
指揮官の命令に応えて、真田は姿勢を低くして駆け出した。ただし真っ直ぐ突撃はしない。助走をつけて地面を蹴り、上へと跳躍した。明らかにボクシングの技ではない。それどころか人間に可能な技ではなかった。人間に向けていい技でもない。
「カエサル!」
皇帝のペルソナが手に持った地球儀を掲げると、ペルソナばかりか真田自身まで人間の脚力では不可能な跳躍を見せた。その高さはアメノサギリの体高を超えている。敵を見下ろす位置まで達したところで、真田は空中で身を翻した。顕現を続けるペルソナに押されて、左の拳を突き出して地上へ向けて突撃する。真田自身が隕石と化す、必殺の一撃だ。
「食らえ!」
ペルソナは表に出て敵を叩き伏せられるし、使用者自身の身体能力に恩恵も与える。だがそれだけではない。その二つを同時に実践し、組み合わせることで、ペルソナとペルソナ使い自身の肉体が連携した技を繰り出せる。召喚器で片手が塞がっていると難しいが、武者修行の成果として現実でも召喚器を必要なくした真田は、こうした体術を身に付けていた。
──
大地を割る皇帝の拳は、月のアルカナを持つ存在を打ち砕いた。勝負あった。
「ふん……こんなもんか。望月に比べれば大したことはない」
地上に戻ってきた真田はマントを翻した。目玉の怪物はまだ消滅していない。だが体は傾いて下半分が地面に沈んでいる。瞼は痙攣しながら半ば閉ざされ、虹色の瞳は力なく泳いでいる。
早紀によれば、霧を生み出しているという事案の元凶は敗れた。僅か四人のペルソナ使いに、しかもこの日に急遽組まれた即席チームによって、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
「見事だ……腕を上げたな、明彦」
もしアメノサギリが『生身』ではなく、顕現する為の『依代』があれば、また話は別だったかもしれない。だが今となっては、そんな仮定に意味はない。たとえ神やその眷属であろうと、現実は現実だ。
「愚かな……信心なき者が私を倒したとて、何の
調伏される為にいる者、乗り越えられる試練としている者。そういう存在は確かにいる。なぜかと言えば、倒されるべき者を倒した者に栄光を与える為だ。だがそれも、試練を用意した上位者の保証があってのことだ。無関係な部外者が試練の舞台に割り込んで見せ場を横取りしても、何の勲功にもならない。
「新たな可能性の芽は摘まれた……。もはや実は結ばぬ……」
己の使命を果たせず、やるべきことをやり遂げられないまま終わってしまうこと。アイデンティティを失ってしまうこと。それはよくある話だ。夢見た理想に到達できず、志半ばで倒れてしまうことがあり得るのは、人間も人外も同じである。敗れる時は敗れる。
一方で足立と有里は、つまりは依代や人柱になる『はず』だった二人はと言うと──
「駄目じゃん……あんなんで世界を滅ぼすとか言っても、説得力ねえよ……」
足立は右手を捻り上げられながら項垂れた。呆れたと言わんばかりである。
「世界を?」
「ああ……あいつ、そんなこと言ってたんだよ。もうじき世界が滅びるとか何とか、んな与太話をさ……」
滅び──
「そんな簡単に世界が滅びるなら、とうの昔に滅びてますよ」
「だよねえ……」
足立は乾いた声で笑った。つまらなさそうに。もしくは当然の結果だと、眼前の現実に納得するように。