殺されたのだから、殺してもいい。よく言われることだ。そして良識のある人間ならば、『それは違う』と誰でも言う。しかし倫理的な問題は、思想の受け売りでは本当のところは分からない。例えば『神は死んだ』という有名な言葉がある。しかし言葉の上辺を知っていたところで、真の意味は明らかにならない。答えを人から聞いただけで自ら考えたことのない人間は、結局は何も知らないのと同じである。今は亡き倫理の教師は生徒にそう教えていた。
しかし現実は、人が考えて自ら答えを得るのを待ってくれるとは限らない。殺人などの重大な事件が起きて、自ら当事者になってしまった時、何も考えていなかった人はどうするか。どう行動するか?
そしてよく考えたからと言って、導き出された答えが正しいとは限らない。更に言うと、答えの通りに行動できるとも限らない。例えば今から二年前、ある満月の夜に一人の少年が母親の仇を取ろうとした。その更に二年前から考え、願い、全力を傾けてきた復讐を遂げようとしたのだ。しかし少年はできなかった。思いもよらない結果に終わったのだ。その理由は──
禍津神が降り立つ空間での戦いは終わった。殺人事件の犯人は取り押さえられ、突如乱入してきた聖なる存在も打ち倒された。しかし戦いとは、何も剥き出しの暴力をぶつけ合うだけではない。言葉や思想の戦いはまだ終わっていない。
「……」
アメノサギリを倒した堂島たち四人は、不毛な大地を歩んで足立の前まで戻ってきた。先頭に立っているのは尚紀だ。召喚器は歩きながら懐に収め、確保された犯人に声をかけた。
「足立さん」
足立は有里に膝をつかされ、背後から右手を捻り上げられている。余力はまだ残っているが、抵抗はしていない。銃を突きつけられている為もあるが、それだけではない。
「有里君……手、放してくれない?」
背中で固定された足立の右手には、未だ実銃が握られている。殺人犯は凶器を手放していない。そして弾丸は一発だけ残っているはずである。普通の警察による確保であれば、この状態で犯人の拘束を解くなどあり得ない。
「……いいでしょう」
だが有里は手を放した。ただし足立に突きつけた銃は外さない。おかしな動きをすれば、即座に撃てる体勢は崩さない。こうなった以上、足立は何もしないだろうと思っているが、油断はしない。
「ふー……」
足立は長い息を一つ吐き出して、関節を固められていた右腕を軽く回した。それからリボルバー式拳銃の機構を開き、シリンダーを振り出して自分の得物の状態を確認した。
「ありゃ……弾が出るところだったわ」
確認した途端、呆れ顔になった。つい先ほど、この銃でロシアンルーレットをやろうとしたところだったのだ。寸前で有里に妨害された為にできずじまいだったが、もしやっていたら自分の頭が吹き飛んでいたはずである。
「運がありませんでしたね」
足立は強い。膂力、魔力、耐久力、敏捷性の全てにおいて、当代最強のペルソナ使いである有里と同等に近い実力がある。しかしそうした目に見える能力以外の部分では、足立は有里に及ばないのかもしれない。つまり運だ。五分の一の死の確率が『運悪く』来ていた。昨年に五分の四の死をくぐり抜けた有里とは対照的だ。
「やれやれだ……。ま、君を敵に回したのが運の尽きって奴かな?」
言いながら、足立の呆れ顔はますます深まった。そうしながらも手は動かす。慣れた手付きで拳銃の機構を元に戻した。シリンダーの位置は変えていない。撃鉄を起こして引き金を引けば、弾が出る状態にある。日本では警察官しか持てない兵器を、足立は膝立ちの姿勢のまま無造作な下手投げで放り投げた。
「はい」
武装解除するにしては何とも気安げな軽い声と共に、足立は銃を放った。数えきれないシャドウを狩った武器が、血の色の霧の中をゆっくりと飛ぶ。緩やかな放物線の先にいるのは尚紀だ。女子供でも人を殺せる兵器は、小柄な少年の小さな手の中に収まった。まるで銃そのものが意思を持って、新たな持ち主を選んだように、すんなりと。誰にも邪魔されずに。
「やりなよ……。お姉さんの仇を取るといい」
強者は愛用の武器を、最も若い少年に受け継がせた。人選の理由は──
「君にはその権利がある」
足立の考えでは、尚紀は自分に復讐する『権利』がある。陽介にはない。悠にもない。では尚紀自身はどう考えているのか?
「……」
凶器を手にした尚紀は沈黙した。かつて母親の仇を取ろうとした少年と違って、尚紀は憎悪に我が身を浸してはいない。ただしそれは足立を恨んでいないという意味ではない。まだ考えていないのだ。
姉への思いを言葉にしたのは昨日で、真犯人を知ったのも昨日でしかない。半年に渡って命の恩人に向けていた全幅の信頼を塗り潰せるだけの、十分考える時間を与えられていなかった。こういう時、人は人から言われた通りの行動をしてしまいがちだ。流されてしまうのだ。
「……」
自分を殺せと言う男が目の前にいる。その男は姉を殺した。自分の手元には人を殺せる凶器がある。流されてしまう要素は揃っている。完璧に揃っている。
「……」
尚紀は片手で銃を構えた。召喚器ではない実銃を持ったのは初めてだ。射撃の訓練など、もちろんしたことがない。だが標的との距離は近い。引き金を引けば、引きさえすれば、相手を殺せる。高校一年生の少年は目を見開き、息を止める。頭は熱くなり、肩に力が入る。眼前に開かれた崖へと身を躍らせる──
しかしはっきりした意思があろうがなかろうが、人はその通りに行動できるとは限らない。人なら周囲にもいるのだから。
「小西! やめろ!」
堂島だ。横合いから右手を伸ばして、リボルバーのシリンダーを掴んだ。撃鉄は起こされていないので、こうすると引き金を引けなくなる。明確な意思を手に込めて、復讐殺人をしようとする少年を制止した。
「姉ちゃんは……足立さんに殺されたんです」
「そうだ。だが人を殺す権利なんか、誰にもないんだ。たとえ殺人事件の遺族でもな」
現代日本では仇討ちは許されていない。そうでなければ復讐の連鎖が止まらなくなる。だから古くは宗教上の戒律においても復讐は禁じられていたし、近代以降は国家が復讐の権利を独占している。市民が犯人を罰することは、それ自体が犯罪である。事件と無関係な第三者は言うに及ばず、被害者遺族や被害者本人さえも。許されているのは、せいぜい罵声を浴びせるくらいだ。だが──
「堂島さん、ひき逃げ事件の遺族でも……ですか?」
足立は矛先を転じた。堂島は妻をひき逃げで亡くしており、犯人はまだ捕まっていない。手掛かりさえろくにない。尚紀が特殊部隊に加入した直後の6月に、足立はそのことを堂島自身の口から聞いている。堂島からペルソナを引き出した大本の原因であろう触れてはならない傷に、足立は触れた。
お前は復讐を諦めることができるのか。妻を殺した犯人を前にしても、お前は同じことを言えるのか。お前は復讐の為に生きてきたのではないのか。可愛い娘も手のかかる甥も、何もかもをそっちのけで、ただ憎悪に身を焦がしていたのではないのか──
法的な問題とは次元の異なる領域において、足立は堂島を挑発する。悠と陽介が互いの復讐の意志を互いに増幅させたように、足立も相棒を唆す。
「……そうだ。俺にもない」
しかし堂島は言い切った。多少の間を置きつつも、禁句を受け流した。まだ見ぬひき逃げ犯への憎悪は、確かにある。自分の手で必ず犯人を捕まえると決意もしている。それは復讐の意志だと言われれば否定しがたい。犯人を捕まえれば、殺してやりたいときっと思うはずだ。だが殺したいと思うことと、本当に殺すことは別である。大人の堂島にはその区別がつく。
だから堂島はいつか妻の仇を捕まえたとしても、決して殺しはしない。菜々子が一度死んだ時、生田目を殺さなかったように。葛藤はあっても情に流されはしない。法を守る警察官としての意識は、堂島の骨まで浸透しているのだ。相棒に唆されたくらいでは揺るがない。
年長の刑事は若い相棒から目を離し、より若い部下を諭す。部下の凶器は掴んだままだ。
「よく考えろ。足立を殺して、それでどうなる。お前の気が晴れるとでも言うのか?」
「……分かりません」
「分からないなら教えてやる。やれば必ず後悔する」
堂島は再び言い切った。たとえ法的な問題を脇に置いたとしても、尚紀に足立を殺させるわけにはいかない。復讐を遂げた少年がその後にどうなるか、目に浮かぶようだから。
やれば最後、少年は生きる意志を失ってしまう。遠くない将来に自殺するか、良くても無気力症になる。足立の心臓を貫いた銃弾の影は、尚紀の人生を打ち砕く。なぜなら──
「お前、足立を信じていたんだろう?」
「……」
尚紀は唇を噛んだ。この指摘は図星である。尚紀は足立を誰よりも信頼していた。本人の自白を聞いても信じられないくらいに。たとえ今からでも、『嘘だよ』と言われれば信じてしまうくらいに。憎いだけの相手でも殺せば背負ってしまうものがあるのに、何度も守られ、親身にされた相手ならばなおさらだ。
「昨日の今日なんだ。混乱するのが当たり前だ」
一年も経っていないのに父親面など無理がある。堂島は昨日、眠る悠にそう言った。尚紀と接した時間も似たようなものである。その上で、年長者は他人の少年を諭す。
「だがな、ここから先に行ったらいかん……人にはそういう一線があるんだ」
この世には何人殺しても、何とも思わない人間もいる。だが尚紀はそういう柄ではない。生意気で斜に構えてはいるが、それだけだ。あらゆる重荷を容易く脱ぎ捨てて何も背負わずにいられる、そんな自由な怪物にはなれない。一線を越えて崖から落ちれば、そのまま死ぬだけだ。
「お前は越えるな」
堂島はシリンダーを握る手に更なる力を込めた。実銃の引き金は微動もできない状態であり続けている。堂島はそのまま手を前に動かし始めた。静かに、穏やかに、ゆっくりと凶器を少年から遠ざける。
「……」
尚紀は赤と黒が覆う異界の天を仰いで、目を閉じた。初めて握った実銃は自分の手から少しずつ離れていく。復讐の道具が奪われようとしている。その最後の瞬間を見まいとするように、尚紀は目を閉じた。
「……はい」
そして手を開いた。足立の希望に流されそうになりはしたが、最後までは流されなかった。かくして殺人事件の当事者は、殺人の権利を手放した。
だが当事者ならば、ここにはもう『一人』いる。
「うっ! ね、姉ちゃん……!?」
尚紀は銃を手放した途端、頭痛に襲われた。影を利用する召喚器は懐に収められている。突如として暴走を始めたペルソナを、咄嗟に抑える術はない。両手で頭を抱えても甲斐はない。脳の奥の方で血が凝り、骨ごと痛む。頭の中で割れたガラスの破片が、体の内側を傷つけた。
「私は許さないわよ!」
甲高い叫び声と共に、打ち覆いで顔を隠したペルソナが現れた。尚紀が被害者遺族なら、早紀は被害者『本人』である。足立を殺す権利ならば尚紀以上にある。そもそもそんな権利はこの世にないのだとしても、早紀はこの世の者ですらないのだ。人間を縛るいかなる法にも従う義務のない存在は、『自分』の仇に飛びかかった。右手を振りかぶり、切り裂こうとする。
「……」
対する足立は膝をついたまま動かない。背後では有里が銃を突きつけているが、たとえそれがなくても逃げるつもりはない。むしろ頭を軽く下げて、襲い来る相手に向けて差し出した。殺しの業が巡り巡った果てに、殺した相手その人という形でもって報いがやって来たのだ。従容として死を受け入れようと、断頭台に首を乗せる。しかし──
「おっと!」
真田が最初に反応した。マントを翻して早紀の前に立ちはだかり、振り下ろされたペルソナの手首を掴む。スセリビメは情報系ペルソナとしては驚くほどの戦闘能力を持っているが、それでも本職の戦闘型には及ばない。百戦錬磨の真田にとっては、早紀を止めるのに苦労はしない。
「どいて! あんたは関係ない!」
確かに関係ない。有里は足立と戦いを始める際に、ただ仕事としてここに来たと言ったが、事件に無関係という点では真田は有里以上だ。稲羽に来たのは今日が初めてで、尚紀や堂島とも初対面だ。特殊部隊での地位も幹部ではまだない為、組織上の責任というものもない。
「悪いが、そうはいかん」
しかし真田には真田の思いがある。
「俺はあんたの弟とよく似た男を知っている。母親を奪われ……復讐を誓った男だ」
復讐劇ならば、真田も二年前に自分の目で見ているのだ。もっともそちらは発端が『事故』であって、小西家の姉弟と足立のケースとは事情が異なる。それを承知の上で、真田は早紀を止める。
「だがそいつは全ての恩讐を乗り越えた。今がその分かれ道なんだ。あんたの弟が本物の男になる為のな」
「……」
「あんたにすれば、恨んで当然だろう。だが見過ごすわけにはいかん」
薄布で隠された早紀の顔は外からは見えないが、焼け付くような視線を眼前の男に送っているはずである。だがたとえ早紀が顔を見せていたとしても、真田は揺るがないだろう。母親を奪われた男と奪った男、天田と荒垣は、今となっては深い絆で結ばれている事実が、真田の背骨に芯を通している。
二年前の10月、天田が荒垣を殺さなかったのは、復讐する者がされる者を許したからではない。当事者の二人以外の様々な外的要因が絡まり合って、結果的にそうなったのだ。人は何かをやろうと決意しても、その通りの結果が得られるとは限らない。行動する主体と客体以外のものが、この世には無数にあるからだ。外野の妨害によって目的を遂げられないことはある。普通にある。
そして今日この場にも外野は大勢いる。尚紀は堂島を、早紀は真田を押しのけて、復讐を遂げることはできないのだ。言葉でも力ずくでも、部外者たちは当事者たちを止められる。
「参ったな……誰も殺してくれないのか」
当事者の一人である足立は深いため息を吐いた。自殺はできず、有里にも殺されなかった。尚紀と早紀も止められた。ただでさえ戦いと絆によって鍛えられ、死のうと思っても難儀する体になってしまっているのに、これではどう転んでも死ねない。
「足立、どうしてそんなに死にたがる」
そこへ凶器を押収した刑事が犯人の追及を始めた。
「……」
「お前、後悔しているんじゃないのか? 罪を償いたいんじゃないのか?」
足立は戦う前に犯行動機を聞かれたが、答えは与えなかった。崖から落ちた4月14日、早紀に言い寄る振りをしたのは、いつか犯行が明るみに出た時、相棒の仕事をやりやすくしてやろうとの意図もあった。だが現にその時が来た今日は、情欲を感じたとかの『物語』を語りはしなかった。
「……」
そして死の淵に飛び込もうと望む理由も答えない。ただ黙って視線を落とし、相棒から目を背ける。7月に同じことを聞かれた時の久保のように、吠えて虚勢を張ることもしない。
「後悔しているから、小西に殺されたいんじゃないのか。だから悠を撃った! あいつに捕まったんじゃ、償いにならないから!」
「……」
足立は何も答えなかった。言挙げはしない。それどころか『違います』とも『あんたに何が分かる』とさえ言わない。
「そうはいかん。お前の為に小西を犠牲にはできん。お前は自分で償うんだ」
もし足立が答えればどうなったか? たった一言でもいいので、『はい』と言えば。たとえ口を動かさなくても、黙ったまま首肯だけでもすれば、足立は一つの転機を得ただろう。社会に生きる人としての転機ではなく、もっと根源的なものを得た。即ち堂島と『契約』することになった。二年前に有里が『息子』と、今年に悠がクマとしたように。それはきっと足立にベルベットルームに招かれる資格を与えたはずだった。
「……」
しかし足立は飽くまで答えなかった。尚紀か早紀に言われれば、さすがにしたかもしれない。しかし堂島とは『契約』しない。取り調べで黙秘する犯人のように、ただ沈黙を貫いた。
「立て。戻るぞ」
そして堂島も、相棒から無理やりにでも言葉を引き出そうとはしなかった。ただ人として、警察官として、この世のルールを説くに留まった。
そして事件の当事者たちは──
「はあ……やっぱりウザいね。色々とさ……」
早紀は依然として真田に手を掴まれている。だがため息と共に力を抜くと、上半身裸の部外者も万力のような手を放した。
「何かもう、どうでも良くなってきちゃった」
言いながら、早紀は顔を覆う薄布に手をかけた。そしてペルソナとしての自分の使用者である、少年の側を振り向いた。
「姉ちゃん……」
やはりと言うか、打ち覆いの下にあった顔は生前の早紀と同じだった。両親を始め、学校の生徒や近所の住人など多くの人から、弟とよく似ていると評された顔だ。細い目には呆れの色が浮かんでいる。『自分』の仇を取るつもりでいたはずだが、それを果たせなかった無念は伺えない。
「じゃあね、尚紀。お父さんとお母さんをよろしくね」
早紀は宙に浮いた。ペルソナは仮面で顔を隠すのが普通だ。スセリビメはシャドウとペルソナが融合して生まれた存在で、しかも固有の自我まで持つ特異なペルソナだった。そして今、顔をさらしたことによってより変質しようとしているようだった。使用者の意図を超えて暴走するのみならず、使用者に別れの言葉を告げる。
「姉ちゃん! どこ行くの!?」
「可愛い彼女でも作ってさ……元気にやりなさいよ」
地面に立って見上げる弟に向けて、浮かぶ姉は優しく微笑んだ。稲羽に来たばかりの頃の陽介を救い、心を奪ったその微笑みを、血を分けた弟に向ける。その笑顔が光を放った。白く眩しく、美しい光だ。霧の晴れたテレビの中で、『自分自身』を殺して食べたシャドウ。闇から生じた存在は、弟に受け入れられて変わった。
そして今、使命を終えた存在は光と化して、光の中に消えた。
「……!」
尚紀は制服の上着に手を差し込んで、召喚器を取り出した。すぐさま銃口を自分の額に当てて、引き金を引く。実銃で人を殺すのとは違って、誰にも邪魔はされなかった。
「姉ちゃん……」
しかし姉は出てこなかった。割れたガラスの向こうから現れたのは、燕尾服を着た二本足で立つ兎だった。ヤガミヒメと融合する前の、尚紀の生来のペルソナであるイナバノシロウサギだ。それはつまり──
「姉ちゃん……いなくなっちゃったみたいです。俺の中から……」
早紀は消えた。4月15日に遺体が上がってから八ヶ月近く。体はとうに失われている。そしてたった今、魂は光となって消えた。言い方を変えると、死んだのだ。完全に。
「成仏したんだな」
更に言い方を変えたのは有里だ。犯人に突きつけていた銃を懐に収め、被害者が消えた異界の空を見上げた。
「……」
『訃報』に尚紀は言葉を失った。早紀はいなくなったのだと、今こそ尚紀は真に理解した。親しい人を失った人に、初めてなった。心を打ち砕かれ、何も見えなくなり、何も聞こえなくなる。体までもが冷たくなり、あらゆる感覚が抜け落ちる。
「小西……」
そんな少年の肩に、堂島はそっと手を置いた。刑事として、特殊部隊の上司として、事件によって親しい人を失ったことのある者としての共感を込めて。
「お前の姉さんは……浮かばれたんだ」
尚紀は殺人事件の犯人を突き止め、復讐はせず、それでいて姉の無念を晴らしたのだ。
「お前のおかげでな」
刑事は被害者遺族を励ますように称えた。万感の思いが込められた真実の言葉が、遺族の涙腺を壊した。
「う……うう……!」
姉の死について何も分からなかった春、獣害事件として風化させた夏、殺人だと知った秋。三つの季節の間、尚紀は一度も泣かなかった。どうしても出てこなかった涙が、今になって零れた。制服の袖でいくら目を擦っても止まらない。心の底に溜め込まれ続けた悲しみが、一度に溢れ出た。
犯人がひたすら沈黙を続けて『契約』を拒否し、姉が弟に別れを告げたその頃。『契約』を未だ果たしていない少年と、姉を好きだった少年は病院に身を置いていた。
(悠……)
近頃来る機会の多い稲羽市立病院の一室。陽介は窓際で腕を組んで立っていた。室内なので眼鏡は外している。部屋の中央に置かれたベッドに、沈黙しながら身を横たえているのは悠だ。目は閉じられて、顔には酸素マスクがかけられている。昨晩に緊急入院して以来、ずっと目を覚ましていない。心電図モニターの発する規則的なリズムが、病室の静けさを演出していた。
悠の見舞いに来ているのは陽介一人ではない。ベッドを囲むようにして、りせ、直斗、雪子、千枝が立っている。心配そうにリーダーを見つめる女性陣の一歩後ろには完二がいる。初期メンバーの一人であるクマを除いて、特別捜査隊が勢揃いだ。
「鳴上君……」
そしてもう一人、結実がいる。枕元の床に置かれた丸椅子に腰かけ、意識不明の彼氏に小さく呼びかける。ちなみに菜々子はいない。医師によれば心肺停止から生還後の経過は順調で、年内にも退院できそうなくらいに調子がいいそうだが、まだ自分の病室からは出られないでいる。
(小西先輩……)
陽介は相棒から視線を逸らし、ここ数日の出来事を思い返した。試験を終えた先週末から今日まで、事件はとにかく動きっぱなしだった。状況と認識は二転三転し、全容は未だに理解が追いつかないくらいである。ただ一つ分かっているのは──
(俺……結局、先輩の為に何もできなかったのか)
とうとう犯人の正体が明らかになった。それはいい。だが真実を突き止めた功績は陽介のものではない。悠でもない。そして今、犯人との最後の戦いが行われているはずだが、陽介はそれに参加はおろか見届けることさえできていない。早紀の復讐は必ず遂げると、ずっと前から固く決意していたのに果たせないでいる。早紀の為に何もしてやれず、全幅の信頼を寄せてきた親友にさえ、何もしてやれていない──
そんな鬱屈とした思いを抱えている少年に、一筋の光が差した。比喩ではなく、文字通りの意味で。
「ん……!?」
陽介の顔を照らしたのは、病室の窓から差し込んできた光である。二十日近くに渡って目にしていなかった日の光だ。雲が風に払われて、太陽が顔を出した。天空で生じる自然な光は、酷く不自然な地上の現象によって遮られることなく、真っ直ぐ降りてきた。それが眼鏡をしていない肉眼で見えた。
「ん? どしたの花村……」
「電話してくる!」
声をかけてきた千枝への返事もそこそこに、陽介は病室を飛び出した。
廊下を急いで走り抜けた陽介は、病院の建物から外に出た。そしてはっきりした。11月21日以来、押し付けるように地上に居座り続けていた霧が、跡形もなくなっていたのだ。
陽介はポケットから携帯電話を取り出し、知り合いにかけた。呼び出し音が数度鳴ったところで相手が出た。陽介は自分の名も名乗らず急いで喋る。
「霧が晴れたぞ! これってもしかして……」
『ああ、俺らもそう思って、ちょうど家電売り場に来たところだ』
電話の相手は一条だ。今日の放課後の早い時間、高校生の事件関係者は全員フードコートに集まった。陽介たちは悠を見舞う為に離れたが、一条と長瀬、あいはその場に残った。足立との戦いに向かった大人たちと尚紀を迎える為に。
「で?」
『足立さんは捕まったよ。小西も堂島さんも、本部の人たちも全員無事だ』
「そっか……」
一条の話は思っていた通りだった。もちろん足立の逮捕と外の霧がどう関係するのか、本当のところは分からない。想像もつかない。だが事件が終わったから霧も終わった。そうに違いないと勘が働いたのだ。事件の真相を明らかにすることにはまるで役に立たなかった勘が、今になって正しいことを告げたわけだ。
『これって、終わったってことだよな』
「そうだな……。あとは悠だけだ」
『ああ……そうだな』
それだけ話して、陽介は通話を切った。表情は浮かない。稲羽市連続殺人事件は終わった。だが陽介は少しも嬉しくなかった。久保が自首した7月と生田目が逮捕された11月も嬉しくなかったが、今はより良くないくらいだった。
眩しい青空が目に痛い。陽介の復讐の意志と権利は、完全に行き場を失ったのだ。