八十稲羽を覆い続けた霧は、足立が確保された日に晴れた。その翌日、12月9日は朝から晴れた。寒くはあるものの視界は良好な冬の早い時間、堂島宅の呼び鈴が鳴った。
今は広い家に一人だけの住人である家主の堂島は、ちょうど着替えを済ませたところだった。珍しいことにスーツの上着を着ている。冬だから当然なのだが、もう一つ普段と違う点があった。いつも緩められているネクタイが、きちんと締められていた。
玄関に向かって引き戸を開けると、見知った顔がいた。
「おはようございます」
身なりを整えた刑事に、朝の挨拶を届けてきたのは有里だ。美鶴と真田はいない。見てみれば、道路の向かいの路肩に一台のワゴンが駐車していた。
昨日の夕方の時間、シャドウワーカーはテレビから出た後、足立を連行した。ただし連れていった先は稲羽署ではなく、本部のある港区だ。何しろ犯人はペルソナ使い、しかも最強の一角を占める実力者である。その上、現実でも力を行使できる。普通の警察による拘留くらい、やろうと思えば簡単に破れるはずである。だから然るべき場所へ送られたわけだ。ちなみに生田目と違って足立は体調には特別問題がなかったので、入院することもなくそのまま送られた。
足立の処遇についての結論は、シャドウワーカーの間でもまだ出ていない。これから本部は世界の裏側に属する者たちとの、様々な交渉や協議をしなければならない。その為、隊長の美鶴は足立の護送を兼ねて、昨日のうちに地元へ帰った。真田もそれに付き添った。ただし有里は帰らずに残っている。
「……おはようございます」
堂島は少々の間を置いてから返答した。有里は三週間近くに渡って稲羽に常駐しているが、それももう終わりのはずである。犯人が捕まり現実の霧も晴れた以上、この土地にいる意味はない。一見すると、地元への帰りがけに挨拶に来たようにも見える。しかしわざわざ早朝に自宅を訪ねてきたことに、堂島は違和感を覚えた。
「少し上がらせてもらっても、よろしいですか?」
「どうぞ」
家主は突然の来訪客を迎え入れた。家を出るところだったのだが、敢えて応じた。二人はキッチンのダイニングテーブルに向かい合って腰を下ろす。堂島は悠と二人で話す時は、多くの場合はここに座っていた。有里は堂島宅をこれまでに二度訪れているが、椅子に座るのは初めてである。
「思い詰めた顔で、どうされたのです?」
互いに相手の目を真っ直ぐ見ながら、有里は話を切り出した。その表情は穏やかなものだった。対照的に堂島は硬い。
「今日、署に辞表を出します」
いつもスーツを着崩している堂島が、普段と違う装いをしているのはこの為だ。上着の胸ポケットには封をした辞表が入っている。辞意の理由は『一身上の都合』とだけ書いてある。
「なぜです?」
「足立の最も近くにいたのは私です。それなのに私は何も気付かず、甥が撃たれて入院する事態にまでなりました」
殺人が二件と傷害が一件。言うまでもなく重罪だが、超能力が関係している事件である。世間に何を伝え、何を伝えずにおくかは慎重に判断せねばならない。だから足立が連続殺人事件の犯人であることそれ自体も、普通の警察にはまだ伝えられていない。伝えるかどうかさえ、現時点では決まっていない。場合によっては超法規的に抹殺される可能性もある。表向きは事故か病気として処理して。
だから世間的な意味では、堂島が自身の進退において責任を取る必要はない。しかしそういう問題ではないのだ。世間の誰が知らなくても、本人が知っているのだから。
「もはや私に警察官の資格はありません」
親族から犯罪者が出れば、警察官は辞職するのが通例だ。もちろん足立は堂島の息子や弟ではないが、身内ではある。しかも表と裏の両方の仕事において、最も近くにいた相棒である。堂島にすれば、人生における決断を下さねばならないと感じるところだ。
しかし有里も怯まない。
「責任を取ろうとする、そのお気持ちは立派だと思います。しかしこの町は貴方を必要としているのではありませんか」
実直な昔気質の刑事が、相棒の起こした事件によって辞職を考えるであろうことは、人情の機微に鋭敏な有里には予想できたことだった。だから堂島を引き留める為に、足立の護送を美鶴と真田に任せて、今日まで稲羽に残っていたのだ。
「買いかぶりですよ。私はそんな大層な人間ではありません」
このやり取りは二人とも二度目である。堂島にとって初めは黒沢からで、有里にとっては足立が初めてだった。二度目であるので、有里はより深く踏み込む。
「そうでしょうか? ひき逃げ犯を捕まえるのは、貴方にしかできないことだと思いますが」
そして堂島も踏み込む。
「……有里さん、どうして私に気を遣うのです。事件は解決したのです。私やこの町に、もう用はないのでは?」
これは本音だ。堂島の見る限り、有里は必要性に従って行動するタイプだ。この最強のペルソナ使いにとってシャドウ対策は飽くまで仕事であり、情実を介すことはない。有里が稲羽に来たのは町にシャドウが出ていたからで、その対処の為に地元民を集めて特殊部隊の支部を組織した。それが全てで、全ては昨日終わった。殺人事件と獣害事件はどちらも終わったのだ。だからもう自分に用はないはず──
「そんなことはありませんよ」
有里は笑みを見せた。ただし爽やかなものではない。胡散臭さを醸し出した、含みのある笑みである。もちろんわざとそうしている。
「シャドウワーカーは人手が十分ではないのです。非常任も含めればペルソナ使いはそれなりの数がいますが、多くが学生の身なので仕事ばかりはしていられないのです。その点、本職の刑事でもある貴方は得難い人材なんです」
これは本当の話である。かく言う有里自身も本業は大学生だ。もう随分長いこと講義をサボってしまっているので、何らかの裏技を用いなければ進級できなくなるかもしれない。そんな有様なので、刑事にしてペルソナ使いである堂島は失うには惜しい人材なのだ。
「たとえ稲羽署が辞表を受理しても、我々はできません」
「私の意思は関係ないのですか」
堂島の声に少しばかりの苛立ちが滲んだ。有里の主張は、『お前の気持ちなんか知ったことじゃない。とにかく逃がさん』と言っているようなものだ。
「申し訳ありません。うちは前身の頃から、スカウトには熱心なところがありまして」
この言い方には語弊がある。前身である特別課外活動部の時代は確かに熱心だったが、シャドウワーカーは組織として勧誘に力を入れているわけではない。熱心なのは、と言うより他人を巻き込んで利用することに躊躇いがないのは、有里個人である。
「それに貴方が警察を辞められるのも本意ではありません。ですから、できれば今の立場でいていただきたいのです」
ここで有里は胡散臭い笑いを引っ込めた。足立もそうだが、有里も表情の使い分けは巧みである。人にものを頼むのに適した、真摯な顔を表に出した。
「もう少しだけご協力いただけませんか。せめて謎が全て解き明かされるまでは」
「謎?」
「足立さんはいつどこで、テレビに入る能力を得たのでしょうか?」
「!……確かにそれは、以前から疑問でしたが……」
有里の指摘に、堂島は思わず息を飲んだ。懐に辞表を忍ばせていながら、未解決の問題が残っていることを認めてしまった。不覚にも、親子ほども年の離れた若者に一本取られた。
堂島が初めて足立に疑いを抱いたのは三日前だ。その時は覚醒時期の問題から、悪魔の証明に話を持っていかれた。煙に巻かれてしまったわけだが、今となっては改めて追及する必要がある。影時間が常態化していた頃に適性を得ていたなど、推測できる要因はあるが、それは飽くまで仮説であって証拠のある話ではない。
なお、同様の疑問は悠と生田目にもある。各々の事の始まりである三人は、どうやって力を得たのか? 犯人が捕まった今もなお、大きな謎として残っているのだ。これを明らかにしないわけにはいかない。
「それを聞き出せるのは、貴方しかいません」
大学生が突き出してきた寸鉄に刺されて、刑事は顔を顰めた。詰んだとはこういう状態のことを言うのだと、実感しているところである。こう言われてしまっては、シャドウワーカーを抜けるわけにはいかない。利用されていると分かっていても、そうせざるを得ない。
「貴方には敵いませんな。その年で人を動かす術を心得ている……末恐ろしい」
「それこそ買いかぶりですよ。僕の考えることなんて穴だらけです。だからプロの手助けが必要なんです」
人は間違えるものだ。安楽椅子探偵など現実には存在しない。実際、有里は二年前から見落としや勘違いは何度もしでかしている。今年もいくつ間違えたか、数えたくもないくらいだ。それだけに堂島は逃がしたくないのだ。
「……分かりました。しかし一つ聞かせてもらいたい」
「何ですか?」
「私に警察を辞めるなと仰るのはなぜです。貴方にすれば、辞めた方が都合が良いのではありませんか?」
堂島は今年の春から警察と特殊部隊の二重生活を送っていた。有里は飽くまで片方だけの上司で、もう片方はどうでもいいはずである。むしろ懸案の足立は港区に送られた以上、堂島も稲羽署勤めを辞めてもらい、それこそポートアイランドに来させた方が効率的なくらいだ。表向きの再就職先が必要なら、桐条グループにいくらでも用意できるはずである。それなのに警察を辞めるなと言う、有里の意図が分からなかった。
すると有里は笑った。先ほどの腹黒さを演出した笑いではない。
「貴方に引っ越していただくわけにはいかないでしょう」
「は……」
「お嬢さんと甥御さんがいるこの町を、離れることはできないでしょう」
(この人……)
彼もまた人なり、という言葉がある。堂島にすれば、有里は腹の内が読めない。過去の戦いも詳細は知らされていない。得体の知れない人物と言ってもよい。だが頼りになることは確かだし、他人への気遣いもできる。一言で言えば、バランス感覚があるのだ。上司に家族を気遣われたことが、張りつめた心に救われた気持ちをもたらした。
「有里さん、実はずっと黙っていたことがあります」
春以来、初めてかもしれない珍しい気持ちが、堂島に一つの真実を告白させた。
「何ですか?」
「10月の霧の日……私たちはこの家の周りで戦ったのです」
10月6日の未明、稲羽支部の四度目の戦いの時の話だ。あの日は有里は稲羽に来ず、初めて支部隊員のみで戦った。
「狙われたのは……娘です」
堂島は戦いを終えた後で悠の証言からそれを知ったが、本部には報告しなかった。翌月にテレビの世界の存在を知って、甥がペルソナ使いであると報告した時も、娘がシャドウに狙われた件は伏せたままにしていた。三日前に足立にも指摘されたが、有里に知られたくなかったのだ。
「そうだったのですか……」
「黙っていて、申し訳ない」
「いいえ……僕こそ済みません」
有里が他人を巻き込んで利用するのは、自分の生活を、つまりは自分の家族を優先しているからだ。初めて会ったゴールデンウィークの頃からそうだった。だがそれは別に悪いことではない。人間の普遍的な願望である。堂島もまた、世界の裏側に娘を巻き込みたくない思いで、10月の出来事を本部に伏せていた。
そしてこの日、二人は互いを許した。
有里はワイルドではあるものの、自分が主のコミュニティはもう築いていない。だから堂島との間にコミュニティはない。しかし普通の人間同士として、普通の信頼関係を築くのは可能である。春に出会ったこの二人は、冬に至って初めてそういう関係を築き始めたのである。
これからしばらく後、堂島は内偵を頼んできた公安に対して最終的な報告を挙げた。要約すると、『本部隊員に過去の犯罪事実は確認できない。また将来起こり得るシャドウ事案の為、彼らの力は欠かせない』というものだった。
滅びた八十稲羽の情景のような空間でアメノサギリが倒されてから、現実の天候は自然なものに戻った。自然だから晴れの日ばかりが続きもしない。晴れた9日の翌10日の昼間は曇りになった。自然な曇りである。天の雲が地上まで降りてきたのかと思わせる、不自然な白い闇は現実にはない。人の目ばかりか頭まで眩ませる謎の霧は、テレビの中に留め置かれて外に出てこなくなった。そして夜遅くから雨になると予報されていた。
しかし霧は『漏れる』ことがなくなったからと言って、元の供給源は枯渇していない。未だ残っているテレビの中の霧では、一人の少年が鍛錬を積んでいた。
「死ね……死ね死ね死ね!」
皆月である。愛用の二本の刀を振るい、床を蹴り、一体のシャドウと相対していた。死者を暗示するように足のない、二丁拳銃のシャドウだ。場所はテレビの中で最も美しい場所、菜々子が囚われた天上楽土である。死者が赴く空間で、死を象徴とする存在と生命の源泉である光を象徴とする少年が戦っていた。
生命が右の刀を突き出せば、死は左の銃で受ける。左の刀を払えば、右の銃で受ける。金属が衝突する戦場の音楽が、弦と撥がどちらも見えない速度で奏でられていた。アンサンブルの一方だけが持つ足は、咲き誇る花々を無残に散らしてすり潰している。
「ひゅう……」
瞬きする間に十手は繰り出された刺突と斬撃を、刈り取る者は凌ぎきった。皆月が細い息を吐いた、つまりは休んだ間を捉えて、間合いを置こうと後退する。
「遅え!」
瞬間、皆月の姿が消えた。その直後、刈り取る者がまとう黒い上着の両肩の辺りが裂けた。そして次の瞬間、皆月は刈り取る者の背後に降り立った。少年が着地した場所にあった不運な花は、爪先で踏み折られる。
「どこ見てんだ?」
休んだように見せたのはフェイントである。霧が町を覆った夜にも皆月は刈り取る者と戦ったが、その時も死神のシャドウは距離を取ろうとしていた。刀が届く範囲が皆月の間合いだからだ。よって皆月が一瞬でも動きを止めれば、死神は後退する。それを読んだ上で、皆月は跳躍しつつ左右の刀で敵の肩を切りつけたのだ。
「行けよ。遠慮すんな」
花の香りに死の腐臭が混じる中、皆月は右の刀を前に向け、切先を軽く揺らした。犬でも追い払うような仕草である。敵の裏を取ったと思ったら、今度は相手の自由にさせようとしている。完全に相手を舐めた態度である。
「……」
人間ならば怒りを感じるところだが、シャドウは言葉を持たない。無言で間合いを外した。宙に浮いているので、足元の花は散らない。そして両手に持った銃を、上体に巻きつけた鎖に引っかけた。
「そうだ! それだ!」
刈り取る者が主力とする攻撃手段はライフルめいた銃身を持つ二丁拳銃と、あらゆる属性の魔法だ。だが中間距離で振ってくる鎖も脅威である。先月に戦った時は、皆月はこの鎖によって大いに苦しめられたのだ。それを今日はやらせようとする。
波打つ二本の鎖が二刀流の少年を襲い始めた。蛇のように地面を這い、軟体の虫のように蠕動し、そして跳びはねる。死を象徴するシャドウの武器でありながら、鎖は生き物のように自由自在に動く。まず左の鎖が皆月の右足に絡みつこうとするが──
「へっ!」
敵に向けて、皆月は驚くべき速さで駆けた。鎖は体のどこにも触れはしない。次いで首を狙って横から薙ぎ払う右の鎖を、膝を折ってかわす。置き去りにされた左の鎖がまさに生き物の蛇よろしく振り返って、皆月の背中を打とうと襲ってくるが──
「僕に死角はねえ!」
皆月は右の刀を逆手に持ち替え、下から自分の背中に回した。それで鎖の打撃を防いだ。しかし相手もただ者ではない。鎖の動きは止まらず、刀を絡め取ろうとまとわりつく。
「はっ!」
瞬間、皆月は体を翻した。背中に回した刀を返すと同時に、右足を軸に全身を回転させた。華麗とも言える体の捌きによって、刀を絡め取ろうとした鎖を逆に絡め取る。そして回る勢いをそのままに、鎖が巻き付いた刀を敵に叩きつけた。
「!……」
刈り取る者は呻いた。皆月は刀の重さ、振る右腕の力、回転の遠心力、そして敵の鎖の重さをも利用してみせた。技術と膂力が一体になった、人間にはとても真似できない技だ。そして左の刀を振りかぶる。
「じゃあな」
便利で器用な死神の鎖を、皆月は右手一本で翻弄し、封じ、更には反撃の手掛かりにしてみせた。そして自由な左手が殺戮の始まりを告げた。生命が死を殺すという、逆転した殺戮である。
ペルソナを持たない皆月はテレビに入れないが、持っているミナヅキは入れる。だがこれまでは特別捜査隊やシャドウワーカーに見つかる危険があるので、ミナヅキはテレビに入らなかった。しかし現在、特捜隊はリーダーの入院により休止状態になり、シャドウワーカーは本部が全員帰郷し稲羽支部も活動目的を終えた。彼らはいずれもテレビに入る用はもはやない。それでいて、テレビのスタジオには出口の三段積みテレビが常設されている。
つまりペルソナ使いと鉢合わせる危険は限りなく少なくなり、退路も確保されている。よってミナヅキは、皆月がテレビへ出入りするのを止める理由もなくなったのだ。それで今日は刈り取る者に挑んだというわけである。いや、遊んだと言った方が正しいか。
「くくく……もうてめえ何かにゃ、血の一滴だってやらねえよ」
テレビの外の霧は晴れたが、中の霧は今もあり続ける。シャドウもいる。よって戦いはできる。皆月は一人密かに陰徳、もとい業、言い方を変えると鍛錬を積み続けている。積み上げた高さは死神のシャドウを超えた。シャドウとしては最強クラスの怪物を、無傷で殲滅してみせたのだ。そんな芸当ができる者が、果たしてこの世に何人いるだろうか?
『翔』
皆月は元より最強の一角を占めていたが、今や頂点に手が届く位置まで来た。そんな強硬極まる少年の心の中から、呼びかけてくる声があった。
「何だよ」
『有里を殺したいだけなら、すぐにでもできるかもしれないぞ』
「あ?」
『君は強くなった。今なら……』
有里には敵わない。ミナヅキはかつて皆月にそう言った。それは戦うことしか知らない少年の誇りを強く刺激した。アイデンティティの危機に陥ったと言ってもよい。だが今なら──
「るせえよ! 僕が殺してえのは、父さんの仇だけじゃねえ! 他のクソもまとめて殺す!」
『父』の仇以外の者──
「僕の計画は万全なんだ! 今さら余計な口出しすんじゃねえ!」
ミナヅキは最後まで言わせてもらえもしない。取り付く島もないというものである。
『……外ではそろそろ日付が変わるぞ』
しかしだからと言って、ミナヅキは黙らない。月は太陽に傅くことをやめない。
「あ? そう言や今夜は雨だったな。一応見とくか……」
皆月は無人のスタジオを経由して、ジュネスの家電売り場に出てきた。時刻は深夜だ。営業時間はとうに過ぎているので、人はいない。この時期になっても他人に存在を知られていない太陽の少年は、電源の入っていないテレビを『一人』で見る。つい先ほど出てきたばかりの、異世界への仄暗い鏡には創面が映っている。
「今日が最終回になんのか?」
死神も切り裂く刀は鞘に納めて、腰に巻いた上着に二本とも差してある。手の空いた皆月はスマートフォンを取り出して話しかけた。傍から見ると音声認識機能のあるアプリケーションを操作するような仕草だが、文明の利器に電源は入っていない。
『レギュラー放送は今日でおしまいクマね。次回は特別編クマ!』
だが返答は来た。小さな液晶画面に着ぐるみが映し出された。クマ総統だ。
稲羽の天候が自然に戻った理由を、皆月は既に知っている。シャドウワーカーと同様、もしくはそれ以上に深い理由を知っている。だが一応、現場の絵を見ておくことにしたのである。
「おっと……始まったか」
特捜隊が初めて見つけ、後にシャドウワーカーも使うようになった異世界の拠点への直通ルートであるテレビに、11日に日付が変わった瞬間に映像が映し出された。マヨナカテレビの録画放送である。皆月は初回である陽介の影戦から今夜に至るまで、毎回欠かさず見ることになったわけだ。
『そうなるように仕組まれているのさ……。誰かさんの差し金でね』
『だ、誰かって、誰……』
「……」
だが深夜の特撮ヒーロー番組の最終回は、皆勤賞の『視聴者』の琴線に触れるものではなかった。悠が撃たれたシーンに始まり、足立が取り押さえられ、アメノサギリが粉砕されるまで。皆月は戦闘と会話のいずれも、全ての場面を冷然と見下ろした。
『駄目じゃん……あんなんで世界を滅ぼすとか言っても、説得力ねえよ……』
「ふん、当たり前だろ。世界を滅ぼすのは僕だ。父さんにもできなかったのに、お前にできてたまるか」
放送が終わってから、皆月はシリーズ番組の結末について総括した。当然の帰結であると、ごく冷静に評した。笑いはしないし怒りもしない。口癖のようなダジャレも出てこない。感情の起伏が病的に激しい少年にしては、珍しいことだった。
「なあ、あんたもそう思うだろ?」
ただの黒い板に戻ったテレビに向けて、柄にもなく落ち着いた声で呼びかけると、再び映像がそこに映った。茶色のスーツを着た四十代くらいの紳士だ。顔をやや上に持ち上げており、眼鏡の奥にある目はぼやけて見えない。
『人は世界を満たし尽くし、真っ平らな虚無の王国にしてしまった! もはや滅びによってしか救われない! 予言書に曰く、滅びは皇子の手により導かれる。皇子は全てに救いを与えた後、皇となって君臨する!』
皇子──
「皇子だなんて、いい年した大人のくせにイテえな。けどまあ……筋金入りだな、あんた? ファイルのパスワードに『滅びの皇子』だなんて設定するくらいだしよ!」
皆月は創面に笑みを浮かべた。足立の戦いは冷めた目で見ていたが、『父』の演説には違う反応を示した。笑い方は複合的なものだ。面白い冗談を聞いて純粋に楽しむように、嘲笑するように、同志を見つけて嬉しく思うように。
「僕がなってやるよ……往時の皇子、息子への代替わりにオウジますってな! ははは!」
ただし皆月が皇子を継ぐのは、今すぐではない。もう少し先の話だ。
『うーん、アダッチーってばセンセイには勝ったけど、ミナッチには負けちゃったクマかあ……。外の霧が残ってれば、今日くらいにドサマギで世界の焼畑やっちゃうのもアリだったけど! ヅッキー、残念だったクマね!』
マヨナカテレビをスマホ越しに一緒に視聴していた総統は、皆月を慰めた。少しも残念と思っていない口振りで。
「どうせ春にはやんだろ? 構いやしねえ」
しかし皆月に気にした素振りはない。計画の遅れと総統の口調のいずれにも癇癪を起こさない。確固たる目的を持っていて、達成する為の手段も手にしている者は、些末な問題に構わない。今年の春や夏頃の皆月であれば、考えられない反応である。
「そん頃にゃシスコンも復活してんだろ。ちょうどいいくらいだぜ」
皆月が言っているのは、今日の放送で主役級の扱いだった、姉を自分のペルソナにした少年のことではない。今は入院中の少年だ。
十二のアルカナから外れた皆月は、他人に対して基本的に興味がない。いつどこで死のうが関係ない。足立には先月のマヨナカテレビの録画放送から少しは注目していたが、特別なものではない。機会があれば戦いたかったが、どうしてもと言う程ではない。
太陽の少年が執心するのは、『恨み』のある相手だ。『父』の仇と見定めている男と、シスコンの少年である。標的はその二人だ。よって悠が意識不明で入院している間は、計画を実行するのは本意ではない。
だが心の中に住まう月の存在は、また違う。
(この男……使えるかもしれん)
皆月が見たものは、ミナヅキにも見える。太陽と月は同じ肉体を共有している。しかし心は体ほど近くなく、頭は全く共有していない。同床異夢そのもののように、二人は同じ映像を見ながら別の事柄に思考を巡らせる。『声』に出さずに内心だけで考えたことは、互いに伝わらないのだ。現実の人間関係と同じように。
『カグツチ』
ミナヅキは皆月が持つスマホに向けて『声』を出した。表に出てこないままでも、クマ総統には聞こえる。
『……』
だが返事はなかった。画面には着ぐるみが映し出されているが、葉巻を咥えた口をへの字に結んでそっぽを向いている。
『総統』
ミナヅキは言い直した。神にとっては仮の姿で現れ、仮の名前で自分を呼ばせるのは、ごく普通のことだ。真の名で呼ぶのは非礼であるばかりか、冒涜でさえある。宗派によっては死に値する罪だ。
『ソンケーを込めて、総統閣下と呼びんしゃーい!』
そして神が自分に敬意を払うことを、人間に要求するのも珍しくない。現実の人間関係と同じで、人間と人外、そして人外同士の関係も対等ばかりではない。
『計画に足立を引き込むのはどうだ。手駒に使えるだろう』
だがもちろんミナヅキは総統に敬称をつけないし、敬語も使わない。ミナヅキは誰の信者でもないのだ。夜の女王である月は、小さな彩りに過ぎない星々に傅くことなどない。たとえ実体においては、星は月より遥かに巨大な存在であろうとも。
『アダッチーを? 脱獄させいっちゅークマか?』
『貴様なら容易かろう』
『やりたきゃ自分でやりんしゃい! 便利スキル教えちゃるから! クマをアゴで使おうなんざ、一億年早いクマ!』
稲羽市連続殺人事件は終わった。7月と11月に二度肩透かしがあったが、今度こそ本当に終わったのである。悠は足立に敗れ、足立は有里に敗れるという形で。しかしまだ謎は残っている。そして災いもまだ終わっていない。悠も足立も、有里も。愚者かそれに連なる宿命を背負った者たちの戦いは、まだ終わらないのだ。
皆月とミナヅキ、そしてクマ総統がいる限り、彼らに平穏はない。
『お姉さんの復讐? 正義感? それとも……ただの遊び?』
『……』
『僕的には、三番目じゃないかと思ってるんだけど……。ほら、君ってそういう奴じゃない? ねえ、違う?』
マヨナカテレビは地域限定のローカル番組である。遠く離れた土地、例えば港区では見られない。そして放送される地域にいれば、誰でも見られるというものでもない。特に三種類ある番組のうち、一部は見られる人が極めて限定的である。いわば会員制の有料放送のようなものだ。
『はあ……やっぱりウザいね。色々とさ……』
閉店したジュネスの家電売り場で、皆月たちが特撮ヒーロー番組を見ている頃。特捜隊のサブリーダーは自宅で同じ番組を見ていた。皆勤賞の彼らとは対照的に、陽介は初めて見たのが最終回となった。『有料放送』への申し込み方法は、そういう番組の存在を知ったことだった。
「先輩……」
そして視聴料として陽介が支払った代金は、言葉に尽くしがたい悔しさだった。組んだ腕に知らず爪を立て、奥歯が削れるくらいに食いしばる。そうしていなければ、舌を噛み切ってしまいそうだった。
『何かもう、どうでも良くなってきちゃった』
経帷子を着た早紀が、顔を覆う薄布を取り払うシーンが画面に映し出された。好きだった人の顔が、目が金色に光ってもいない昔のままのその顔が、陽介を余計に抉る。
『じゃあね、尚紀。お父さんとお母さんをよろしくね』
『姉ちゃん! どこ行くの!?』
マヨナカテレビは人によって見えるものが変わる。番組そのものを見られる人と見られない人がいるだけでなく、同じ番組でも見る内容に個人差はある。皆月と違って、陽介は悠が撃たれて自分が叩きのめされるシーンは見られなかった。見えたのは早紀と尚紀の戦いだ。まさに『見たいものを見る』ように。
それでいて見えたのは辛いものばかりだった。戦いは足立と尚紀の対峙で始まり、突如乱入してきた目玉の怪物との戦いへと移った。やがて怪物は滅ぼされた。尚紀と早紀は足立を殺そうとしたが、いずれも止められた。それらの一連を、陽介は非常に鮮明な映像で見た。
『可愛い彼女でも作ってさ……元気にやりなさいよ』
そしてこのセリフを最後に、早紀は光となって消えた。黒い煙になって闇の一部になるシャドウと違ってただ美しく、近寄りがたいほど綺麗に、呆気なく消えてしまった。
(先輩……俺のことなんか一言も言わねえんだ……)
早紀が最後に語りかけたのは、弟の尚紀だった。他人の陽介は名前さえ呼ばれなかった。
『成仏したんだな』
まさに成仏した死者そのものだった。身内にだけ別れを告げて、たったそれだけで、一切の未練なくこの世を去った。テレビの中にいる者にとって、テレビの中だけが現実だ。画面の中にいない者は、そもそも存在もしない。最後の戦いに参加できなかった陽介は、『好きだった』人にとっていないも同然なのだ。
『お前の姉さんは……浮かばれたんだ。お前のおかげでな』
陽介を締め出した有里と堂島のセリフで、マヨナカテレビの録画放送は終わった。テレビの外の現実にいる陽介は、たった一人で深く項垂れた。
「先輩の仇は……尚紀が取っちまったのか」
せめてここにクマがいれば、まだ良かったかもしれない。しかし四ヶ月近く同居していた少年は、一週間前に失踪したきり依然として見つからないままだ。相棒で親友の少年も意識不明の状態が続いている。医師によれば命に別状はないらしいが、いつ目覚めるのかは分からない。
「これで……終わりか……」
陽介は孤独である。マヨナカテレビを一緒に見る者さえいない。早紀と出会って以降、そして悠と出会って以降は感じることのなかった、体から血が失われるように寒い孤独感と疎外感が、異邦人の少年を約一年ぶりに襲っていた。
繰り返すが、稲羽市連続殺人事件は終わった。だが皆月たちがいる限り、愚者たちの戦いは終わらない。そして陽介の戦いもまだ終わっていないのだ。孤独なのは皆月だけではない。
マヨナカテレビの最終回が放送されたこの夜は満月だった。愚者たちと縁の深い、霧の向こうにいる『誰かさん』。生田目に落とされた悠がその朧な姿を目にしてから、月は五度巡った。今晩は雨に遮られて月は地上からは見えない。だが見えなくても、月は確かに真円を描いている。人の思いに関わらず、時は近づいてくる。