ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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月夜の異邦人(2011/12/24)

 足立が逮捕されてから二週間以上が過ぎた。激動で始まった12月は中旬以降は至って静かなもので、カレンダーだけが何事もなく進んでいった。晴れない霧に怯えた町の人々も、先月以前の普段の生活に戻っている。喉元過ぎれば熱さを忘れるという、有名な言葉の通りに。

 

 10日に満ちた月は下弦を経て、新月へと向かっている。月の満ち欠けを妨げるものはない。一日の間に存在した聖なる時間が失われて、一年と約十一ヶ月。時の流れを止めるものは、もはや存在しない。ただ時から置いていかれてしまった者はいる。

 

 

「お兄ちゃん……きょうもねてるんだ」

 

 稲羽市立病院の一室で、菜々子は入院患者を見舞った。小さな両手で小さなぬいぐるみを胸に抱えている。小さな部屋の一つだけのベッドに寝かされているのは、兄の悠である。菜々子が着ているものとは色違いの入院服を着て、腕には点滴の針が差し込まれている。

 

「よっぽど疲れたんだな……」

 

 二人の『父』である堂島も一緒だ。

 

(悠……)

 

 今月7日に足立に撃たれた悠は、意識不明の状態で緊急入院して今もそのままだ。その間に事件は解決した。殺人事件と獣害事件の両方とも。ただしそもそも世間に知られていない後者は無論、春から町を賑わせた前者の方も世間に真相は伝えられていない。誘拐事件と併せて、どこまで世間に明らかにするべきか。そして二人の犯人をどうするべきか。シャドウワーカー本部は警察庁と協議を続けている。

 

 堂島はそれに関して意見を求められることもあるが、基本的には本部に任せている。今気にすべき問題は、眠り続ける『息子』である。もちろん本当は甥だが、口にしない心の中ではそのように思っている。

 

(お前はどうして、こんな目に遭ったんだろうな……。影時間のせいなのか?)

 

 悠がこうなった直接的な原因は、もちろん足立である。だが元の原因を突き詰めれば、どうして悠はテレビに入れるようになったのか、どうしてペルソナに目覚めたのか。事の発端であるそこへ行き着く。考えられるのは影時間が世界の時間そのものを分断していた頃、本人も知らぬ間に世界の裏側に足を踏み入れていたことだ。

 

 しかし物事の因果関係は無限に遡れる。仮に悠が力を得た理由が、言い方を変えると事件に巻き込まれた最初の契機がシャドウワーカーの前身の時代にあるのだとしても、更なる原因というものはあるはずだ。例えば──

 

(姉貴、義兄さん……)

 

 もう随分長いこと会っていない姉とその夫だ。悠が入院したことは伝えているが、原因についてはもちろん話していない。意識不明の状態が何日も続いていることも。だがたとえ伝えたところで──

 

「……」

 

 堂島は省みる。桐条グループの研究によれば人がペルソナに目覚める要因の一つとして、家庭環境の問題が挙げられる。明確に証明されているわけではないが、堂島にすれば思い当たる節がありすぎる。何しろ自分自身がその一例だ。稲羽支部の部下たちも尚紀を始めとして、家族との間に何らかの問題を抱えている者が多い。

 

(お前もそうだったのか?)

 

 甥を見つめる堂島の顔に、ある苦渋が浮かんだ。鳴上家の家庭環境がどのようなものなのか、堂島は詳しいことを知らない。4月に悠と会ったのは生まれてすぐの頃以来だったように、姉夫婦とは久しく疎遠だった。悠の口からも、都会を転々としていた頃の生活についてはほとんど聞いていない。今となっては、それが悔やまれる。

 

(足立もか?)

 

 足立の家庭環境については、悠のそれ以上に知らない。シャドウワーカーに加入した際、桐条グループによる身元調査の結果くらいは上司として見ているが、それだけだ。本人の口から聞いた話はほとんどない。互いの背中を預け、共に命を張ってきた間柄であるのに。足立は自分について語らなかった為もあるが、堂島も聞かなかった。大人の相棒よりも高校生の部下たちの方が、色々と気掛かりだったから。

 

 堂島は菜々子と向き合えていないことは自覚している。だがそっとしておいてしまったのは娘だけではなかった。悠や足立にも気を配ってこなかった。現在の状況が生み出された原因は、駄目な父親そのものである自分にこそある。喉や胸が締め付けられるような、そんな思いを否定できない。

 

 そうして堂島が一人で内省に浸っていると、菜々子が兄に話しかけた。

 

「お兄ちゃん、しってる? 今日はクリスマスなんだよ?」

 

 正しくは降誕祭は明日で、今日は前夜祭だ。だが小学一年生の女児にとっては、二つの祭日を区別する意味はあまりない。

 

「たいせつな人と、いっしょにいる日なんだって……」

 

 菜々子は三週間前に一度死の淵に落ちて、そして戻ってきた。生き返った原因は未だ不明だが、その後の経過は良好だ。一週間ほどするとベッドから起き上がれるようになり、次の週には病室を出ることもできるようになった。そして今となっては、体調はすっかり元に戻っている。おかげで菜々子は明日退院する予定でいる。だがまるでその代償のように、悠は病状が一向に改善しない。ひたすら眠り続けている。

 

 妹は明日、家に戻る。今晩は兄と一緒に過ごす最後の夜である。

 

「菜々子はね……」

 

 少女は言葉を途中で切った。自分の病室から持ってきたぬいぐるみを強く抱きしめる。これは先月の今頃、人から貰ったものである。『たいせつな人』から。しかしその人はここにいない。

 

 菜々子はベッドに歩み寄り、小さなクマのぬいぐるみを差し出した。赤と青のコントラストが鮮やかな、本物そっくりに作られた力作である。野獣を象ったこれを、野の花や小鳥に準えられた少女は、ずっと自分の傍に置いていた。姿を消してしまった本物のクマの代わりにするように。

 

「クマさん、お兄ちゃんをたすけてあげて……」

 

 だが今日、初めて菜々子は『形見』を手放した。新たな置き場所は悠の枕元だ。ぬいぐるみのつぶらな目が、兄の寝顔を見つめる形になる。本来の着ぐるみのように何も喋らず、ただ見つめる。

 

「菜々子をたすけてくれたみたいに……」

 

 菜々子は事件や死からは逃れられた。しかし憂いは尽きない。父は戻って来てくれたが、兄は目を覚まさない。そして『助けてくれた人』は、ずっと姿を消している。ぬいぐるみを貰った時、その返礼として元気になって一緒に遊ぶことを求められた。ようやくお返しができるようになったのに、返す相手がいなくなってしまったわけだ。それは幼い少女を苦しめている。

 

「……大丈夫だ」

 

 娘の悲しみに、父は静かに答えた。無骨な手を小さな肩にそっと置き、家族の苦悩を分かち合う。

 

「お邪魔します」

 

 そこで病室の引き戸がノックされ、外から開けられた。一人の若い女が家族の部屋に割り込んできた。高校の制服姿で、腰にポーチを巻いている。

 

「結実お姉ちゃん……」

 

 この病室には毎日のように見舞い客が訪れている。患者の家族の他、高校の友人たちが頻繁に来る。しかも一人ではなく何人かで連れだってやって来る。小さな病室に大勢の人間が集まりすぎて、医師や看護師に注意されたのは一度や二度ではない。だがさすがに今日という日は、家族以外で見舞いに来たのは一人だけだった。

 

「いさせてもらって、いいですか?」

 

「ああ、構わん」

 

 部下の申し出に、支部長は許可を与えた。降誕の前夜祭である今日は世間ではどう定められているか、四十をとうに過ぎた堂島にも分かっている。

 

「菜々子、もう遅い。部屋に戻ろう」

 

「ん……」

 

 父は娘を促して、娘はそれに従って扉へ向かった。ぬいぐるみは兄の枕元に置いてあるままだ。大切な人と過ごす夜を、妹は兄の彼女に譲った。

 

 

 悠は先月、あいと別れた。太陽のコミュニティは今やたった一つの『特別な関係』である。イヴの夜に見舞いに来る女は、結実しかいない。

 

「私、クリスマスを男の子と過ごすの初めてだよ」

 

 結実はベッドの隣に置かれた丸椅子に腰かけている。小さな部屋に彼氏と彼女が二人だけでいる。よくあるシチュエーションだ。片田舎の八十稲羽でも、同じ状況にある男女は大勢いるはずだ。ただし──

 

「でも……こんな形になるなんて、思いもしなかったな」

 

 男は眠っていて女だけが起きている状況に置かれた者は、そうはいないだろう。せっかくの記念日なのに楽しむ気持ちは湧いてこない。得意の演技で笑顔を作ろうとしても、上手くいかない。

 

「クリスマス、嫌いだったんだ。サンタさん、ある時から来なくなっちゃったからさ……」

 

 降誕の前夜祭に子供にプレゼントをくれる髭の老人。起源はキリスト教の聖人だが、多くの家庭における実体は父親である。ある年から結実のもとに来なくなった理由は言うまでもない。サンタクロースの正体を知ってしまったことと、父がいなくなったこと。残酷な真実を二重に明らかにした、今日という日が結実は嫌いだった。そして今年も好きになれそうにない。

 

「もっと嫌いになっちゃいそうだよ……」

 

 結実はウェストポーチを開いて、隠し持っているものを取り出した。自動式拳銃の形をしたものだ。両手で捧げ持って銃口を顎に当てる。祈るように手を合わせて、両の人差し指を引き金の上で重ねる。もしこれが実銃であれば、結実は死ぬ。

 

「……ペルソナ」

 

 引き金を引いても、カチッと撃鉄の倒れる音がしただけだった。二人きりの病室にもう一つの存在は降りてこない。特殊部隊の仲間たちを治療したペルソナを、結実は先月に失ってしまっている。召喚器を撃ってもガラスは割れない。

 

「ごめんね……? 私に力が残っていれば……」

 

 もし結実にキサガイヒメが残っていたとしても、悠の目を開かせることはできない。振袖を着たあのペルソナにできるなら、他のペルソナ使いでもできるはずである。例えば雪子や有里だ。外傷を癒やす力の持ち主は、稲羽市と港区を探せば何人か見つかる。しかしその誰も悠を昏睡から目覚めさせる力は持たない。

 

 敢えて言うなら、生田目を助けた留袖を着たペルソナならば可能だった。救世主の御業である死者の蘇生さえできたのだ。現実を拒否して眠る少年を夢の国から強引に引きずり出すくらい、いとも容易い仕事だったはずだ。しかしサシクニワカヒメと呼ばれた存在は、もう結実の中にはいない。

 

 もしいれば、結実は真の意味での悠の『特別』にもなれたかもしれないのに──

 

 

 長い時間を見舞いに費やした結実は、面会時間が終わる間際に病室を出た。時刻は大分遅くなっており、照明の数が減った廊下は薄暗い。窓の外は闇が深い。暗がりに身を置いた結実は、ウェストポーチに隠した召喚器を思わず確認してしまった。もちろん持っていたところで役に立たず、そもそも闇の色が黒い今晩はシャドウが出ないことは分かっているのだが。

 

「……」

 

 結実は引き戸を閉めて、彼氏が眠る病室の前から離れた。人気のない病院の廊下に靴の音が小さく響く。音が消えたような世界は、父が死んだ夜を思い出させた。足を速めて廊下の角に至る。ここを越えれば家路につくことになる。母が待つ家に何事もなく帰りつけるだろう。だが最後にもう一度、後ろを振り返ると──

 

「え……?」

 

 遠くに人影がいた。帽子をかぶった一人の影が、悠の病室に入っていく姿を目撃した。

 

 

「君、まだ寝てるんだね……」

 

 青い帽子をかぶりカバンを肩にかけた少女が、ベッドの上の悠を見下ろしていた。部屋の灯りは消えていて、医療機器のか細い光が星のように闇に浮かんでいる。少女の緑の瞳も暗闇で小さく光っている。

 

「もう二度と会わないつもりだったのに……呼ばれちゃったじゃない」

 

 マリーである。先月に『契約』を破棄して以来、会うのは約一ヶ月ぶりだった。これまでは悠がベルベットルームに通っていたが、今日はマリーの方から訪ねてきた。男から通うのが『本来』のあり方であるのに女に通わせ、しかも迎えの挨拶一つもない。正しい手順をまるで踏まない悠を、マリーは責める。

 

「君がダメダメだからだよ。君、やんなきゃいけないこと一杯あったのにさ? そういうの、使命って言うんでしょ?」

 

 使命。上位者から課せられた任務。成し遂げなければならないこと──

 

「みーんなしくじって、お手柄全部、他の人に持ってかれちゃってさ? しかも自分は寝てんだもん。甲斐性……って言うの? そういうの、君ってなさすぎ」

 

 マリーは元から歯に衣着せないタイプだが、今日は取り分け遠慮がない。しかも正しい。たとえ悠が起きていたとしても、言い返すことはできないだろう。生田目は足立が倒し、足立はシャドウワーカーが倒したのだから。悠が手にすべき栄光は、霧と共に地上から去って虚しくなった。

 

「君を助けるの、これが最後だからね?」

 

 春からマリーは悠を何度も助けてきた。戦いや絆を育むのに役立つものを見繕って、持っておくよう勧めた。手ずから書いた呪符を渡した。詩を乗せて歌う音楽を紡ぐ霊感を与えたこともあった。そしてマリー自身も絆の一つを担い、悠に力を与えてきたのだ。だがそれもこれも、今日で終わりである。

 

「私には私の、やらなきゃいけないことがあるの……」

 

 少女は金のバッジがあしらわれた青い帽子に手をかけた。名前と共に小姑から貰ったものだ。それを外して黒い髪を露わにし、床に落とした。

 

「だから、今日でお終いだからね?」

 

 次いでショルダーバッグを肩から外した。それも床に落とす。中身の少ないカバンは、落ちても小さな音しか発さない。眠り続ける少年を起こすにはとても足りない。

 

「この漂える国を、修めつくり固め成せ……」

 

 マリーは魔術の実践を始めた。呪文は歴史書からの引用である。三週間前、今は悠の枕元に立っている人形の作り主は、愛しい少女の為に光と化した。マリーが行うのは、それと少し似た術だ。

 

天沼矛(あめのぬぼこ)を賜ひて、(こと)()せ賜ふなり……」

 

 詠唱を続けながら、少女は自分の服に手をかけた。反体制を表すパンクファッションはもう必要なくなる。黒のネクタイを外し、次いでチェックのアームカバーを外した。床に置かれた帽子とカバンの上に、それらを放り投げる。そしてノースリーブのシャツに手をかけた。

 

 

()が身は、成り成りて成り合はざる処、一処(ひとところ)あり……」

 

 最後に金色の錠前らしきチャームをつけた、赤のチョーカーを首から外した。自分を縛り拘束するものを表す首の鎖を、少女は自ら外した。床に脱ぎ捨てられた服の山は、うず高く盛り上がっており、頂に添える最後の飾りのようにチョーカーは落ちた。マリーはその山を右から回った。

 

「あなにやし、えをとこを……」

 

 少年が眠る隠れ戸へと、少女は至った。男から声をかけるのが正しいやり方なのだが、そうしなかった。良くないやり方であると分かっているのだが、仕方がなかった。男は口をきける状態でないので、したくてもできない。

 

 

 悠は霧の中をさまよっていた。現実から霧は去っても、テレビの中では去っていない。そしてテレビの中とは、足立の言葉を借りれば『心の世界』である。心に霧がある者は、いつでもどこからでも霧に落ちる。そして悠の心は霧で満たされていた。白が揺らめいた隙間から見える足元には、不思議な模様が描かれている。赤と黒の正方形を重ねた幾何学的な装飾だ。テレビの中にある他の迷宮と異なって、表しているものを判断しづらい。落とされた『被害者』の生活や心理とどう関係しているのか、分析が難しい。

 

「誰かの……差し金……」

 

 血の赤と闇の黒を歩みながら、悠はうわ言を呟いた。自分がどこにいるのか、何をしているのかの自覚はない。夢遊病患者のように異世界を徘徊しながら、悠は足立に言われた言葉を繰り返していた。銃で撃たれて穴が空いた腹に、手を当てている。

 

「誰が……俺を……」

 

 悠が人気者なのは誰かさんの差し金で、そうなるように仕組まれているから。足立はそう言った。ではそれは誰なのか? 実は悠には、何となくだが思い当たる節があった。陽介の影と戦って以来、悠は自分が『守られている』という印象を持っていた。そんなものは根拠のない、ただの思い込みだと言われれば反論し難いが、とにかくそう感じていた。確信に近いものがあった。しかし守ってくれているのはどこの誰で、何という名前なのか。それは分からない。

 

 しかし足立にああ言われてしまった以上、明らかにしないわけにはいかない。漠然とした疑いに目をつぶることはできるが、体を貫いた銃弾からは目を背けられない。心臓を撃ち抜かれる痛みを無視できる人間など、この世にいない。

 

 誰が自分を守ってくれているのか。助けてくれるのか。愛してくれるのか?

 

「陽介……?」

 

 真っ先に思い浮かぶのは特別捜査隊の仲間たちだ。特に自分を最も信頼してくれていて、自分も信頼している相棒だ。苦楽を共にしてきた仲間たちの中でも、絆の強さは頭一つ抜けている。何しろ『共犯』でもある。だが──

 

(コミュ……)

 

 コミュニティと呼ばれる魔術的な絆。ワイルドはそれで強くなる。担い手も強くなる。実際、悠と陽介は魔術師のコミュニティによって力を得た。そしてマーガレットによれば、絆は単にペルソナを強くする為だけのものではない。ひいては悠を真実の光で照らす、輝かしい道標になるらしい。しかし本当にそうなのか、今となっては信じるのが難しくなってしまった。あの日、足立との絆を信じて霧の中に灯された道標を辿って、その結果撃たれてしまったのだから。

 

 悠はコミュニティに疑問を抱いていた。ならば──

 

「叔父さん……?」

 

 次に浮かぶのは堂島だ。同じ家で暮らしていて、血の繋がった家族である。疑問を禁じ得ない絆は叔父との間にもあるが、法王のコミュニティは反転中である。しかし反転していることそれ自体が、叔父は他の者とは違う証明になるかもしれない。そんな考えもあるのだが──

 

(不信……)

 

 叔父は自分を信頼してくれない。絆を信頼できないからと言って、駄目になってしまった絆に頼ることも、やはりできない。不信に不信を重ねても、信頼にはならないのだ。

 

「有里さん……」

 

 最後に思い浮かぶのは、力と絆における先輩である男だ。彼は今頃、どうしているのだろうか。堂島と共に足立と戦ったのだろうか。そして殺されてしまったのだろうか。だとしたら有里には頼れない。死んだ人間は生きた人間を助けることはできない。

 

(ん……俺は生きてるのか?)

 

 ここまで考えたところで、悠はまた疑問を抱く。自分は今、本当に生きているのだろうか。実は足立に撃たれて死んでいて、殺人事件の被害者の一人になったのではないだろうか。十七歳の少年の肉体は町のテレビアンテナか電柱に吊るされていて、今ここにいる自分は魂だけの存在ではないのだろうか。つまりは幽霊。もしくはシャドウ──

 

(いや……俺は考えている。考える俺は存在している……)

 

 では考える存在たる悠を存在させているのは誰なのか。誰のおかげで自分は生きているのか。誰が人気者の鳴上悠を生み出したのか。仕組んだのは誰なのか。

 

「誰かの……差し金……」

 

 そうして最初の疑問に戻るのだ。考えることを繰り返しているうちに、霧の晴れた現実では二週間以上も過ぎてしまった。悠は終わりの見えない混迷の輪に囚われていた。輪が続く長さは、永遠と言い換えてもよいかもしれない。

 

 しかし──

 

『センセイ……迷子ちゃんクマか?』

 

 無限に続く輪の途中で、突然割り込みが入った。

 

「え……?」

 

『でも大丈夫! もうすぐお迎えが来るクマ!』

 

 思考を遮ったものは、電話から届けられるような声だった。すぐ傍にいる人が話しかけてくるようでいて、同時に遥か遠くから聞こえてくるようで、相手との距離感が掴めない。だが誰の声なのかは分かった。もう長い時間に渡って聞いていなかったような気がするが、まだ忘れてはいない。

 

「クマ……!? お前、どこにいるんだ!?」

 

 急に我に返った悠は、周囲に視線を巡らせる。弟子は白い闇のどこにいるのか、迎えはどこから来るのか。目で探した。探しながら思い出す。いつかどこかで、自分はここのような場所に落とされた。あの時は、山かと見紛う巨大な隕石が天から降ってきて、群がるシャドウを押し潰してくれた──

 

『解放セヨ!』

 

 そして今日は声が天から降ってきた。

 

『欲望ヲ! 衝動ヲ!』

 

「え……?」

 

 迎えの声はどこか抑揚がおかしかった。どこか果てしなく遠くから来た異邦人が、異国の言葉を母国の文字に転写した文章を読み上げているような。意味を理解しないまま、音だけを叫んでいるような声だった。まるで失われた魔術における呪文の詠唱か、葬式でよくある読経のようである。

 

『理由モ根拠モ、臆病者ノ言イ訳ニ過ギヌ!』

 

 ただ聞かされている悠には、何が唱えられているのか理解できた。春から何度も読んで、秋の頃には朗読でも聞いたマリーの詩だ。そして声もマリーのものである。クマのそれと同様に、どこから届けられているのか分からない声だが、誰のものかは分かるのだ。ジュネスのイベントでやったように、他人の声を借りて歌われているのではないから。

 

『解放セヨ! 心ノ声ヲ! 内ナル叫ビヲ!』

 

 白い闇が満ちた天から下される、恋している少女の声に少年は身を浸した。突然降り出した雨に打たれるように。真の意味での『特別』でありたいと思っている人の声に、悠は聞き入った。雨天を切り裂くヤコブの梯子を昇るように。そうしているうちに悟った。

 

「マリー……? 君が俺を……?」

 

『契約』を破棄した日、悠はマリーを守ると言挙げした。だが実は、守られているのは自分だったのだと。

 

 

「女先に言へるは良からず……なんだよね。やっぱりさ……」

 

 解放を終えたマリーは、一度捨てた服を再び身に付けた。アームカバーに腕を通し、ブーツを履きなおす。チョーカーを首に巻きなおし、青い帽子を頭にかぶって、最後にカバンの紐を肩に通した。病室に来た時と同じ装いに戻った。

 

「……」

 

 暗い病室で身なりを整えたマリーは、悠の姿を改めて見る。男は依然として寝ているままだが、間もなくそれも終わる。やるべきことをやった、と言うより、やるべきことを超えてしまったマリーには分かる。目を覚ます前に、ここから去らなければならない。気付かれてしまっては、少年は必ず引き留めるだろうから。秋の終わりの頃のように、腕の中に閉じ込められるわけにはいかないのだ。マリーにはマリーの使命がある。ただ──

 

「これ……あげる」

 

 マリーはカバンを開いて一つの持ち物を取り出し、眠る悠の枕元に置いた。すると事の最中にも見守っていた、クマの人形と目が合ってしまった。

 

「あんた……」

 

 不意に羞恥の念が湧いてきて、マリーは目を逸らした。するとやぶ睨みの視線は、病室の窓にぶつかった。

 

「月……」

 

 外の世界に通じる窓を目にした途端、夜空の女王の存在に気付いた。病室の窓から月の光は差し込んでいない。今晩は晦日である。灯りが点いていない部屋にあっても、人間の目では月は見えない。そして明日には、人外の目にも見えなくなる。

 

「明日には消える……消えないといけない……」

 

 明日25日は新月だ。明日には月は消える。消えることが宿命付けられている。誰もその法則から逃れられない。

 

「さよなら……」

 

 月に一歩先んじて、緑の瞳の異邦人は去った。病室からではなく、現実の世界から。そして──

 

『我は汝、汝は我……。汝、遂に真実の絆を得たり。真実の絆……それは即ち真実の目なり。今こそ汝には見ゆるべし。永劫の究極の力、カグヤの我が内に目覚めんことを……』

 

「……!」

 

 マリーが去った直後、悠は戻ってきた。絆を教える『我』の完了宣告は、黄泉の入り口をうろついていた落ち武者の頭に時報のように響いた。霧の世界に転落していた特捜隊のリーダーは、霧のない現実に帰還した。無理やり戻らされるようにして。

 

「う……くっ!」

 

 そしてすぐさま体を起こした。何日も寝ていたにしては、不可思議なほどに力強く動いた。頭が動けと命じるまでもなく、体そのものが動くことを要求していた。腕に刺さっていた点滴の針は、起きた勢いで抜けてしまった。そしてすぐさまベッドから降りようとしたところで、枕にやった手に何かが触れた。

 

「これは……」

 

 病室は暗い。だが何かは分かる。櫛だ。恋した少女の存在の鍵だ。

 

「……マリー!」

 

 霧の世界をさまよっていた時は、閉じた思考の輪に完全にはまり込んでしまっていた。臆病者の言い訳に過ぎない理由や根拠を求めすぎて、本質を見誤っていた。だが不毛な永劫回帰から引きずり出された途端、ずっと用いられずにいた直感が働いた。足立に撃たれて意識不明の状態に陥っていた自分を助けたのは、マリーなのだと。彼女はたった今までここにいて、立ち去ったのだと瞬間的に悟った。事件が続いていた間はまるで役に立たなかった勘が、今になって仕事を始めた。

 

 形見のように置かれた櫛を握りしめて、床に降り立った。体は軽い。素足で床を蹴って、病室を飛び出した。元から着崩れていた入院服が更に乱れて、胸が露わになっても気を留めない。屋内でも寒い冬の空気にさらされても、心臓はまるで平気だ。むしろ早く走れと、早く追いかけろと、若い血を過剰な勢いで全身に流す。

 

 しかし駄目だった。

 

「鳴上君!」

 

「小沢……」

 

 廊下に出てすぐのところで『彼女』に出くわしてしまい、悠の足は止まった。

 

「起きたんだ……」

 

「……」

 

 人は何かをしようと思っても、その通りに行動できるとは限らない。追う人と追われる人以外にも、人は周囲に大勢いる。特に『人気者』はそうである。一つの絆だけを追おうと思っても、絆なら他にいくつもあるのだ。しかも太陽の絆は未だ『我』の完了宣告を受けていない。結実はまだ悠に従うだけには至っていない。悠もまた、結実を強引に押しのけることはできない。

 

「……何日も眠ってたんだから、歩き回っちゃ駄目よ。戻って……」

 

 そして結実の声は何とも冷静だった。二週間以上も意識不明だった彼氏が目を覚ましたにしては、喜びの表し方は極めて控え目である。

 

 先ほど目撃した、病室に入った少女は何者なのか。何をしたのか。どうして悠の入院服が着崩れているのか、結実は聞かない。聞かないが、自由にさせはしなかった。不審なほどに元気な彼氏を押して、病室に戻らせた。

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