「鳴上君! わ、起きてる!」
「良かった……ホント良かった!」
「先輩……! も、もう何でもいいわ! 生きててくれただけで……!」
八十稲羽のクリスマスは明るいうちから大騒ぎになった。前夜祭が恋人と過ごす日なら、降誕祭は大勢で集まる日だ。
「復活したか! いやー、良かった!」
「えっと、二週間ちょい? 春のあたしん時よりは、ずっと短く済んだわね」
犯人に撃たれて意識不明に陥っていたリーダーがとうとう目を覚ました。その連絡はあっという間に特別捜査隊に伝わり、シャドウワーカー稲羽支部にもほぼ同時に伝わった。そして折良くと言うべきか、今日は日曜日だ。それで高校生の事件関係者全員が、午後の早い時間に悠の病室に殺到したのだ。
「お前らな……ここは病院なんだからな。静かにしろよ」
十三人もの見舞い客が集まった病室の隅で、保護者の堂島がぼやいた。昨晩遅くに目を覚ました悠は、今日の午前に精密検査を行った。結果はまだ出ていないが、良好なものになると思われる。何しろ悠は体調がすこぶる良いのだ。二週間以上も眠ったままだったと聞いた時、本人は心底驚いたくらいに。だから今日のうちに見舞い人が面会する許可も下りたのだが、それにしても人数が多い。小さな個室は田舎町にはない満員電車のようだった。
「とにかく……目を覚まして良かったぜ」
特捜隊の仲間たちと、稲羽支部高校生組とあい、そして菜々子。皆が声を上げて喜ぶ中、陽介は比較的静かにしていた。ベッドで身を起こしてヘッドボードに背を預けている相棒の姿を、腕を組んで眺めやる。11日の0時にマヨナカテレビの録画放送を見て以来、陽介を苛んでいた孤独感がようやく少し紛れた。
「うん……そうだね」
陽介の呟きに答えたのは結実だ。結実は昨晩もここで過ごしていたのだが、今日も来た。その表情はどこか浮かない。
「クマさんのおかげだね!」
「ああ……心配かけたな」
輪の中心にいる悠は、枕元に置かれていたクマのぬいぐるみを本来の持ち主に手渡した。その様子を見て、陽介は組んだ腕に力が入る。
「……」
足立が確保されて以降、高校生たちは悠の見舞いには何度も来ていたが、事件については口にしなくなっていった。それと平仄を合わせるように、クマについても話題に上らなくなっていた。
(クマ……お前ホント、どこ行っちまったんだよ。事件終わったからって、マジで帰っちまったのか?)
だが口にしないながらも、心の中ではざわめきが続いている。特に陽介は同居していた為もあって気掛かりである。事件が終わっても、否、事件が終わったからこそ、陽介の心の空隙は埋まらない。相棒が目を覚ましても、『なぜか』陽介は満たされない。しかし──
「じゃ、早速パーティーだね!」
サブリーダーは憂鬱にばかり浸ってはいられない。何のかの言っても言われても、皆が大好きなリーダーが復活したのだ。そして奇しくも今日は降誕祭。ならばやることは決まっている。祝賀会を兼ねたクリスマスパーティーが、千枝の宣言で始まった。
「お、お前らまさか……」
「え? 作ったよ?」
「作ったけど?」
引きつった陽介にりせと雪子が応じた。瞬間、少年の脳裏にトラウマが蘇る。林間学校である惨劇を引き起こし、7月の悠の救出祝いではそのバリエーションが三種類も披露された毒物だ。特捜隊にとっては、もはやお約束と呼ぶべき定例行事である。
「ちょっ……ま、待て! 待ちなさい! 落ち着け! 悠にとどめを刺す気か!?」
そして陽介がどれだけ反対しても、作り始めたら止まらない。既にできあがっているなら、なおのことだ。人呼んで『物体X』。そのクリスマスエディションが病室に運び込まれた。手作りのケーキが収められた憂鬱なくらいに大きな箱を、両手で抱えているのは完二だ。
「花村先輩……もう腹括ってください。ここは病院っすから、ちょうどいいっすよ」
かく言う完二は既に覚悟を決めている。実は保険証を家から持ってきているのだ。
「花村さん、何をそんなに慌ててるんですか」
「そっか、お前は知らないのか……。よし、この際だからお前に分析してもらおう」
尚紀は林間学校の頃はまだ陽介や悠と親しくなかったので、二人を襲った惨劇に巻き込まれていない。紫の瘴気を発するカレーや、異界のオムライスを見たことがないのだ。
ここは一つ、尚紀に得意の解析能力を行使してもらって、何をどうすれば普通の食材からシャドウでも殺せそうな呪物を製造できるのか、真実を明らかにしてもらおうとの考えが浮かぶ。その真実をもって、もう二度と料理を作ってはならないと、懲りない三人娘に分からせてやろう。サブリーダーはそんな打算を一瞬にしてはじき出した。しかし──
「別に……普通のケーキじゃないですか。うまいですよ?」
二段重ねの巨大なショートケーキは、十四人全員に配られた。そしてそのいずれにも、『なぜか』毒は盛られていなかった。それどころか、口の中でとろけるようだった。普通にうまい。
「そ、そんな馬鹿な……これ、本当にお前らが作ったのか?」
「え、そうだけど」
「すごくおいしいよ!」
陽介が驚愕する一方で、菜々子は笑顔で食べている。そこに嘘はない。夏にオムライスを食べた時とは違う、本気の反応を菜々子は示している。
(うまい……どうなってるんだ?)
悠も自分の取り分に二口目のフォークを突き刺しながら、何が起きたのかと悩む。食べた瞬間は、味覚に後遺症があるのかと思った。しかし相棒や妹も本気でうまそうに食べているのだから、おかしいのは自分の舌ではない。そうすると考えられるのは──
「え、既に失神して、絶賛夢の中とかじゃないよな?」
(いや、そもそも目覚めたのが夢で、俺って実は……)
冗談のような陽介の疑問に、悠は恐ろしいことを思い付いた。現実の自分は実はイヴの夜に目覚めてなどおらず、今も寝込んでいるままではないのかと。撃たれて落ちた崖の底をさまよい続けていて、あり得ない夢を見ているに過ぎないのではと。
だがそんな安易な推測を打ち砕く声が上がった。甘さが口の中に広がっている状態で、時間が停止したのだ。
『我は汝、汝は我……』
コミュニティを真実のものとして認める、謎の存在である『我』の宣告だ。裁判における判決文よろしく、厳粛な声が読み上げたアルカナは愚者だ。体感的には数秒の間、他人にとっては瞬き以下の刹那の一瞬の間に、絆が極まったことを告げられた。
(え……? 何で?)
だが悠にすれば、ここで極まる脈絡が見えなかった。コミュニティは既にいくつも極めているが、今のこの状況でどうして宣告されたのか分からない。先月に陽介と殴り合った時や、クマの決意を聞いた時のような感慨はない。
(俺が目を覚ましたのを、皆が喜んだから……?)
思わず病室を見回してみれば、ケーキを作った女性陣の姿が目に入った。どんな致死性の猛毒を作ったのかと期待させておいて、肩透かしを食らわせた人々だ。
「味、する?」
「辛くないよね? どう完二? ん?」
雪子とりせはやや不安げな顔を覗かせている。かつてこの二人は、素材の味さえ全くしない不毛なオムライスと、口の中に鈍痛と鉄の味を呼び起こすオムライスを作ったのだ。そんな人々が力を合わせて、うまいケーキが出来上がるなどあり得るのだろうか。マイナスにマイナスを足しても、墓穴の底で更に穴を掘ることにしかならないのに。
「た、大変、美味しゅうございます!」
しかしこれも現実だ。現実の味覚を持つ完二は心底驚きつつも、正当な評価を下した。
「能ある鷹は何とかっての? ま、ぶっちゃけセンスが良かったって言うか」
「う、うん……うまいです、はい。里中さん、センスいい……」
「おかわり!」
一条も普通に食べているし、長瀬に至っては早々に平らげて、次を要求している。
「まあ、レシピ通りに作ったんですから。味がしないとか異様に辛いとか、そんなのはあり得ませんよ」
直斗が言う通り、彼女らは普通の材料を使って普通のケーキを普通に作っただけである。食べた瞬間に昏倒するような物体が生まれるなど、そちらの方こそあり得ないはずなのである。では暗黒のカレーとオムライスは、一体何であったのか?
どんな簡単な料理でも壊滅させてしまう人は、特捜隊の女性陣だけではない。ポートアイランドの月光館学園にも、そういう呪いか宿命を負った人がいた。しかしその人は三年生に上がった頃から、徐々に改善の傾向が見えてきた。今やとある小料理屋でアルバイトをしていて、まともな料理を田舎から来た高校生に振舞ったこともあるくらいだ。それと同じことが、特捜隊の間にも起き始めたのかもしれない。つまり使命を終えれば呪いも終わる。
(特別捜査隊は……これでお終いってことなのか……)
愚者のコミュニティは特捜隊全体のコミュニティだ。その完了宣告は特捜隊の使命が終わったことの証と言えよう。終わりを引き継ぐ新たな絆の始まりを、『我』が宣告するようなこともない。もはや彼らはただの高校生でしかいられない。
それは良いことなのか、悪いことなのか。霧の夢から覚めたばかりの悠には、まだ判断がつかなかった。
予想の彼方にあった上出来のケーキを食べ終えた後、快気祝いを兼ねたクリスマスパーティーは早めに切りあがった。個室とはいえ病院で大騒ぎをして良いものではないから。悠は不思議なほどに元気一杯で、今日にでも退院できそうなくらいなのだが、さすがにそうはいかない。今日の精密検査の結果がどうあれ、最低でもあと数日は入院して様子を見ることになっている。
そうして平和裏のうちに見舞い客が帰った後、患者の他には一人だけが病室に残った。堂島だ。
菜々子は今日退院する予定で、荷物を片付ける為に自分の病室に戻っている。幼い少女が不在で、男の家族が二人だけでいる。悠はベッドのヘッドボードに背を預けて座っていて、堂島は脇に立っている。床には見舞い客用の丸椅子が置かれているが、腰は下ろさない。
「悠」
「はい」
現職の刑事が発する雰囲気は、本業における取り調べさながらに硬い。つい先ほどまでの賑やかで和やかな雰囲気は、小さな病室から雲散霧消している。
「どうして一人で足立に会いに行った」
「……」
堂島の問いかけに、悠は叱られた子供のように沈黙した。自分の心に深く沈んで、当時の心境を思い出す。あれは昨日か一昨日の出来事のようで、実際には二週間以上前で、それでいて遥か昔のようにも感じられた。銃で撃たれて腹に空いた穴から、流れた血と共に消え去ってしまったような記憶を、悠は努力して掘り起こした。
「菜々子は孤児院に入らなきゃいけなくなるから……」
単独行動の動機に関して、最初に思い出されたのはこれだった。
「どういう意味だ」
「足立さんと戦ったら……叔父さんは殺される。俺たちもみんな死ぬ……そう思ったんだ」
そう思ったことは本当だ。嘘ではない。悠の知る限りで、足立は最強のペルソナ使いだ。しかも複数人でかかれば何とかなるような、もしくは運や作戦で覆る程度の僅差の最強ではない。一人だけ格の違う、圧倒的な実力者だ。特捜隊全員が束になっても敵わない。戦えば犠牲が何人出るか、被害者遺族が何人できてしまうか分からない。犯人が明らかになったあの日、体から血がことごとく流れ出てしまうような寒気と共に、悠はそう思ったのだ。
「それで?」
「自首させようと思ったんだ……」
犠牲を出さずに事件を解決するには、足立を説得して自首してもらうしかない。そしてそれが可能なのは、堂島や有里ではなく自分。足立透と道化師の絆で結ばれている鳴上悠だけ。そう思って一人で会いに行ったのだ。
「……」
「……」
動機を聞いた堂島は沈黙した。悠も口を噤んだ。
(いや、違う……かもしれない。一人で行かなきゃ説得できないってわけじゃないはず……)
だが閉ざした口の裏の頭で、嫌な『真実』がよぎった。それはいくつもの針が体のあちこちを刺すように、悠を苛んだ。
説得するにしても、あの日のうちに自分一人で行かねばならない理由を見出すのは、なかなか難しい。足立との話し合いの場に堂島がいて、何か不都合があるのだろうか?
事件の真相を堂島に伝えれば、刑事は犯人の確保から高校生を締め出そうとしただろう。だがそれならば、堂島には真実を隠すよりも説得するべきだ。後からこっそりついて行くこともできるし、何なら頑固な叔父を殴ってでも、力尽くで同行することもできたはずだ。悠は現実でのペルソナ召喚を身に付けたし、戦力は堂島には勝るのだから、できないことではない。その上で、足立とは戦わずに話し合いで何とかしようと、堂島と事前に合意を取るなどの段取りを踏むことはできたはずだ。なぜそうしなかったのか?
「……」
病室の沈黙がもう少し長く続けば、悠はそこまで告白したかもしれない。しかし追及される側が酷い『真実』を明らかにする前に、追及する側が手を緩めた。
「馬鹿だな……」
まるで若者の告白を遮るように、大人は小さく息を漏らした。
「あいつは確かに強い。俺じゃ敵わんが、有里さんなら勝てるぞ」
「え……?」
「第一な……あいつはもう、誰も殺すつもりはなかったさ」
足立はもう人を殺すつもりはなかった。他ならぬ悠が生きていることが、その証明である。だからたとえ有里がいなくても、確保の過程で死人は出なかっただろうと、堂島は考えている。出たとしても一人だけだ。犯人である足立だけが死んでいた。実銃で自分の頭を撃って自殺したか、尚紀か早紀に自分の首を差し出して殺されていた。なぜなら──
「あいつは後悔していたんだ」
この点に関して、堂島は足立から自供を得てはいない。確保した現場で問い質しても、足立は何も答えなかった。だからいわゆる刑事の勘というものに過ぎず、証拠のある話ではない。それを認識した上で、堂島は断言した。普段は口が軽い相棒が、あの時ばかりは反論の一つも言わなかったことそれ自体が、頼りない勘を強固な確信に変えていた。
「そう、なんだ……」
足立の後悔。悠にはなかった発想だった。シャドウワーカー本部の人間である有里がどれほどの実力者であるのかは、共に戦ったことのない悠には分からない話だった。だが足立の気持ちについては、それ以上に分かっていなかった。年こそ離れているものの、足立とは『友達』のつもりだったのに。相手を分かっていなかったことが、悠をより打ちのめした。
「ああ」
「叔父さん……ごめん」
悠は座ったまま頭を下げた。すると堂島は椅子に腰を下ろし、目の高さを甥と合わせる。
「俺も……済まなかったな」
「え?」
悠は驚いた。眼前の叔父は一体何を謝っているのかと。思い込みや勘違いで先走り、結果的に重大事件を引き起こしてしまったのは甥である。叱られこそすれ、謝られる筋合いはない。殴られても仕方がないと思っていたのに、どうして保護者でもある鬼刑事が謝るのだと。
「お前の気持ちを考えてなかった」
普段から口が巧みでない堂島の言葉は少ない。その代わり目は優しい。ただの家族だった頃はともかく、互いにペルソナ使いであると明かし合って以降は、向けられることが少なくなった目だ。
「融通のきかん、古い親父なもんでな……許せ」
(ん……!?)
道理に合わない不条理な優しさ。コミュニティの担い手でもある叔父の目の中に、主は一枚のタロットカードを幻視した。ズケットと呼ばれる聖職者の帽子の絵が描かれた、法王のアルカナである。三位一体、つまりは神の真理を表す三重の十字架があしらわれたそれは、逆立ちしている。傷ついた家族の絆そのもののような逆位置のカードだ。それが揺れた。
不信を表す上下逆の帽子は揺れて、震えて、信頼を表す形に変わった。
(正位置……?)
地震に襲われて倒れた家具は、次の地震によって起き上がることはない。倒れた状態で更に揺さぶられれば、完全に壊れて二度と修復できなくなるだけだ。しかし生田目への殺人未遂で倒れた絆は、悠の傷害事件で起き上がってしまった。なぜなのか?
(な、何でだ?)
どうして堂島が自分を信頼してくれるのか、悠には分からなかった。叔父は甥をもっと叱るべきだと、叱られる側である悠が不満を覚えてしまう。あれだけの失敗をしでかして、もはや消えた体の痛みと十数日の入院だけで済んでしまうなど、あって良いのか。泣く子も黙る鬼刑事ともあろう者が、あまりにも甘すぎる。
「叔父さん……」
言葉の少ない叔父に、甥はより詳しい説明を求めたかった。しかし言葉の少なさでは、悠も堂島と大して変わらない。ましてこの疑問は、果たして何と聞けば良いのか。ストレートに『どうして責めてくれないんだ』が良いだろうか。それとも少し回りくどくして、『法王は一体何の託宣を得て宗旨替えしたんだ』が適切だろうか? 言葉が咄嗟に繋がらない。
不出来な家族に寄せる奇妙な信頼の根拠を甥が問い質す前に、叔父は話題を次へと移してしまった。
「お前がこっちにいるのも、あと三ヶ月くらいか」
言われて悠ははたと気付いた。事件は終わり、2011年も間もなく終わる。つまり悠が八十稲羽を離れる日も近い。
「そうだった……俺、もうすぐ帰らないといけないんだ」
先月の今頃は違う考えを持っていた。両親の帰国に合わせて都会に帰る予定だったが、家族の取り決めを変更して、来年も八十稲羽に残ろうと思っていた。その理由は現実の霧に現れるシャドウと戦う為だ。両親には『友達がたくさんできたから、こっちで卒業したい』とでも言って説得し、堂島にも何とかして自分を認めさせるつもりでいた。だが寝ている間に事件は終わって、現実の霧も晴れてしまった。
「もう危ないことはしなくていいんだ。帰る前に事件が終わって良かったな」
特捜隊は使命を終えたのだ。と言うより、使命を果たせないまま他の人に持っていかれてしまった。もはや悠が稲羽に残る理由はない。霧の災いが終わった為に、悠たちは普通の高校生に戻ってしまった。普通だから、ケーキも普通にうまい。
「友達と普通に遊んで、普通の思い出をたくさん作るといい」
そして堂島も普通の叔父に戻った。
法王のカードを正位置に復した優しさに、違和感を覚えてしまうのは否定できない。しかし悠にはどうしようもない。反転した絆が元に戻ってしまうのは、絆の主でもなかったことにはできないのだ。これでは殴ってくれと頼んだところで、物分かりのいい叔父は殴ってくれそうにない。悠は自分の肩から力が抜けるのを感じた。
「そっか……」
悠はペルソナ使いであり、その中でも特殊なワイルドだ。しかしそんな『特別』は意味がなくなってしまった。新たな使命や災いが天から降ってこない限り。もしくは呪いや宿命を自ら見出さない限り。
「お父さん、お兄ちゃん。じゅんび、できたよ」
男たちの話が終わったのを見計らったように、菜々子がやって来た。小さな両手で小さなカバンを抱えている。
「おう、そんじゃ帰るか。またすぐ見舞いに来るからな」
「お兄ちゃん、またね……」
「ああ、またな……」
一足先に退院する妹を、兄はベッドに入ったまま見送った。
一方その頃、稲羽市同様にペルソナ使いが数多く住む港区の辰巳ポートアイランド。田舎で傷ついた家族が絆をやり直した頃、都会では新たな家族が産声を上げていた。文字通りの意味での産声である。それも二つ。
「よく頑張ったな」
辰巳記念病院の産科の病室で、有里はアイギスを労った。予定日は今月の上旬から中旬だったのだが、初産であるせいか下旬のこの時期まで遅れた。だがそのおかげと言うべきか、夫は遠隔地への長期出張を無事に終えて地元に帰り、出産当日に傍にいてやることができたのだった。
「はい……」
生まれたばかりの二人の子供は、夫の腕の中で激しいデュオアンサンブルを奏でている。二卵性の双子でどちらも男子である。妻はベッドに横たわりながら、三人の家族を見上げていた。白い肌には汗が滲んでいるが、表情は充実感で溢れている。昨年の1月まで連日行っていたシャドウ相手の実戦よりも、ある意味では大変な戦いをやり遂げたのだ。
「名前、考えてくださいましたか?」
子供の名前は夫が付ける。これは妊娠が分かってすぐの頃に決めた、夫婦の約束事だ。
「ああ」
実は有里は二人の息子の名前を、随分前から決めている。兄の名前については昨年に、もっと言えば二年前の大晦日に決めた。結婚どころか妻と恋人関係になる前、と言うより恋人にはなり得なかった頃からである。そして弟の名前は双子だと分かった時だ。ただし弟の方は、名前そのものは早い段階から決めていたものの、字はしばらく保留にしていた。決まったのは今年の9月である。
その名は──
「綾時と、隆也だ」
十一年前に有里の運命を定めた男と、昨年1月に殺した運命の男。かつての戦いにおいて最も深く気にかけていて、最も強大な宿敵であり、そして救えなかった二人の男の名前である。
「!……」
夫は腕の中の二人だけを見つめて、息子たちに名を与えた。だから気付かなかった。子供たちを名付けた瞬間、妻の青い目が大きく開かれたことに。夫への疑いが、そこにあったことに気付かなかった。
「いいか?」
「……ええ」
夫が再び視線を向けた時には、もう目の奥に隠れてしまっていたくらいの、ほんの僅かな疑いが。
かつての戦いにおいて、有里とアイギスは『本来』死ぬべきだった人間を何人か救うことに成功している。有里自身もその一人だ。だが物事は思い通りに進まないのが世の常である。力及ばず、救済できなかった者も何人かいたのである。その事実が妻にある疑いを抱かせた。
子供たちにこの名を与える為に、夫は妻を選んだのかと。もっと言えば、この名を持っていた二人の男の為に夫は妻と『契約』したのかと──