イゴールが言うところの『節目』である2011年が終わる前に、悠は稲羽市立病院を退院した。二週間以上も寝込んでいた割には、目覚めて以降の悠は不思議なくらいに健康で、精密検査でも異常は見つからなかった。入院中にペルソナが暴走するなどの事態も、もちろんなかった。そうして堂島家の兄は妹を追うように退院し、年の瀬は家族と共に過ごした。
現実を侵食していた霧の災いは過ぎ去って、八十稲羽の町と堂島家は無事に新年を迎えることができたのだ。
事件が終わって、スリリングな田舎から退屈な都会へ帰るまでの余暇のような期間、2012年がやって来た。元日の昼の時間、悠はコタツで温められた家を出て寒い外に身を置いた。向かう先は寂れた商店街である。目的は二つあり、一つ目は辰姫神社だ。
「明けましておめでとう」
「うん、おめでとう」
前夜から降った雪が数センチ積もって、参道が滑りやすくなった神社で、悠は結実と合流した。初詣である。堂島と菜々子に年明けの挨拶をして、雑煮とおせちを食べ終えた頃、悠はメールで誘われたのだ。
クリスマスイヴに続いて、悠は冬のイベントを彼女と過ごすことになったわけだ。もっとも昨年のそれは廊下に飛び出た悠を結実が病室へ押し戻し、すぐに医師と看護師を呼ぶという、何とも甘さのない形だったが。
「来てはみたけど、いいのかな。私って多分、喪中だよね」
結実は昨年8月に父親を亡くし、一年はまだ過ぎていないので喪中にある。だから二人は年賀状も互いに出していない。しかし四十九日はとうに過ぎているので、初詣には何の問題もない。諸岡が生きていれば、そうした日本古来の風習の細かなところまで解説してくれただろうが──
「誰も気にしないさ」
悠の言う通りで、そもそも心配無用である。諸岡や堂島が悠くらいの年だった昔はともかく、今時は誰も気にしないだろう。大晦日の夜にジュネスに行けば、おせちも買えてしまう時代である。お蔭で堂島家も正月料理にありつけて、菜々子は昆布巻きを食べられた。結実も忌中の最中に、ここで行われた夏祭りに来たくらいである。
人間の力がかつてないほど増大し、それと反比例するように信心が後退した現代社会にあっては、喪中も忌中もほとんど意味を失っている。ただし──
「神様も気にしないといいけど」
人間はともかく、神はどう思うだろうか。
「……大丈夫じゃないかな」
神の心は人間には謎だ。闇を掌握する異能を身に付け、聖なる空間で戦ってきたワイルドといえども、未だ人間の範疇から外れてはいない。神と対話する術や資格を、悠は『まだ』身に付けていない。運命が色々と狂ってしまったせいで、勲功を手にできなかった身ではなおのことだ。
「ならいいんだけど……ま、普段着だし? 許してくれるかな?」
信心が後退しても、現代まで残る風習はやはりある。初詣、しかも彼氏と一緒に来るとなれば、身にまとうのは昔ながらの装いの方が望ましいだろう。現に新年の勝負服を着た人は、二人ともここに来るまでに何人か見かけた。だが結実は普段着だ。季節は真冬なのでコートは着ているが、それだけだ。
「晴れ着とか……期待してた?」
「いや、いいさ。目のやり場の困るところだった」
これはお世辞ではない。イヴに目覚めてからの悠は、体の調子が奇妙に良いのだ。今日は家を出る際、堂島から暖かくして行けと言われたのでコートを着ているが、なくてもきっと平気だった。体が熱くて困るくらいである。一言で言うと、精気が漲っている。そんな状態なので晴れ着姿の結実を見ようものなら、自制が効かない事態に陥った可能性もあった。
「あら。そんなら着物、作っておくべきだったかな……」
そんな彼氏に向けて笑みを見せながら、結実は参道を歩んだ。雪が積もっているので、ゆっくりとした足取りで。
ちなみに小沢家に着物はない。以前は結実の母親が若い頃の着物があったのだが、父親が家を出た時に持っていってしまったのだ。ただ先立つものなら、結実はシャドウワーカーの報酬を得ているので、この機会に新調する考えもあった。しかし結局やらずじまいだった。
元日の良い時間であるのだが参拝客は少なく、二人はすぐに賽銭箱の前に至った。
「お願い決まってる?」
神社に来た人は何かのお願いをする。そう言うと、若者に古い学問を教えていた年かさの教師は『信仰とはそんな安易なものではない!』と怒声を響かせるだろうが、普通の参拝客はそういうものである。受験生ならば合格を、妊婦ならば安産を、恋人同士ならば二人の関係において神の加護を祈る。しかし──
「いや……決まってない」
悠は神に願うものはない。信心がないという意味ではなく、願いたいものがないのだ。事件が終わった今、解決と町の平和を願う必要はなくなった。もちろん学業成就や家内安全など普通に祈るべき事柄は思い付くが、どれも身を入れる気にはならなかった。結実との仲が進展しますようにと、縁のご利益を願う気持ちも湧いてこない。酷い話ではあるが。
「欲がないのね」
しかし結実の方は、ある意味で悠よりも酷いかもしれない──
「だから私にも付き合ってくれるのかも?」
(何……?)
悠は驚いた。眼前の彼女は何を言っているのか、咄嗟に理解が及ばなかった。
「……何て、卑下しすぎ?」
結実はまた笑う。これは女優の笑みである。もう長い間演劇部に顔を出していないが、そんなこととは関係のない生来の才能のように笑う。
「じゃ、お参りしよっか。私はお願いしないで、お礼を言うつもり」
二人は揃って賽銭を投げ入れ、柏手を打った。霧が払われて平和が戻った町にあって、残り少ない不浄を祓うように小さな音が真冬の空気に浸透してゆく。
手を合わせながら、願い事のない悠は自分自身について考える。取っ掛かりは彼女がくれた自分への評価だ。
(俺は欲がない……わけじゃない。むしろ欲深い方だ)
悠は気が多い。諸岡風に言えば腐ったミカンである。転入初日に決めつけられたこの言葉の表の意味は、いわゆる不純異性交遊だ。裏の意味はさておいて、表の意味においては恩師の指摘通りであることを、悠は自分に認めている。結実と特別な関係になった時と、マリーに恋していることを自覚した時。節目の一年の間に二度、悠は思い知った。
そして撃たれて意識を失っていた時、霧で覆われた天から霊感のように降ってきたのは──
(私、釣り合ってないな……)
彼氏の隣に立って、結実もまた自分自身を見つめる。先ほどの『卑下しすぎ』な物言いが出てきたのは、単なる冗談ではない。自分と悠は釣り合っていないという思いは、確かにあるのだ。では誰なら釣り合うのか?
「……」
結実には思い当たる顔がある。昨年の春から秋までテレビの中で悠と共に戦っていたらしい、四人の少女たちではない。菜々子でもない。忌中だった夏祭りの夜、この神社で顔を見た少女だ。もし接点がそれだけなら結実は覚えてもいなかっただろうが、一週間ほど前、かの少女の姿を再び見てしまった──
参拝を終えた二人は、ついでにおみくじも引いた。悠は自分が欲に塗れていることを自覚しているが、今年最初の運試し、つまりは神への問い合わせは無心に引いた。
結果は中吉だった。
「いいじゃん! 大吉より良いって言う人いるよ。まだまだ上がっていくからって」
かく言う結実は小吉だった。この二人の関係においては珍しいと言うべきか、男の方が一歩先だった。
「今年……あ、去年か。去年はかなり激動の人生って感じだったな」
おみくじ箱の置かれた祠のある一角から出ると、結実は空を仰いだ。霧は地上から去ったが、今日の空は厚い雲に覆われている。昨晩から降り始めた雪は、今晩も続くと予報されている。冬の寒さはこれからが本番だ。
「お父さんのこと……戦いのこと。それから貴方……」
稲羽のペルソナ使いたちにとって、昨年はまさに激動の人生だった。イゴールが言うところの節目は、悠だけでなく全員に訪れていたと言えるだろう。もちろん結実もその一人だ。特別捜査隊とシャドウワーカー稲羽支部全員の中でも、結実の激動さ加減は大きい方の部類に入る。
「そうだな……俺も激動だった」
「うん、そうだよね」
そして皆の中で一番の激動を経験したのは悠だ。殺人事件にペルソナ、シャドウ、そしてコミュニティ。昨年の間に何があったか、数えようとしても無理なくらいだ。病院で啓示に打たれて目を覚ましてから一週間が過ぎているが、悠の心はまだ現実に追いついていない。
「神様にお礼言えて、良かった。なんか踏ん切りついた感じ」
だが結実は追いついている。
「……ありがとう。貴方が今ここで生きてることが、嬉しい」
天では太陽が雪雲に隠れているが、地上では光を放つ。隠者の力が消えたせいで、絆が鮮やかさを増したように。
結実の戦いは終わったのだ。ペルソナは既に失っており、倒すべき敵もいなくなった。殺人事件と獣害事件はどちらも終わって、皆が生き残った。結実にとって、死んだのは父一人。死人が何人出てもおかしくなかった日々の中で、『たった』それだけで済んだ。その事実だけで十分だった。たとえ彼氏を助けたのが自分ではなくても。
(……欲がないのは、君の方じゃないか)
眩しい笑顔に対して、悠は返す言葉がなかった。心で思ったことも言えなかった。
悠が生きていることを喜ぶ結実と違って、悠は自分の生存に対する感慨がない。銃弾で空いた穴から腹の中身が零れ落ちてしまったように、自分の中で消化できていないのだ。特に最後の一ヶ月に起きた、諸々の出来事について踏ん切りがつかない。神に礼や報告を上げる気にもなれない。彼女の方が彼氏よりもよほど無欲である。
結実と別れて神社を後にすると、悠は元日に商店街に来たもう一つの目的を果たそうとした。事件が終わっても相変わらず停車し続けている、青いリムジンの扉だ。
「……」
今日は元日なので商店街の店はどこも閉まっている。しかし日付どころか時間の概念さえ通用しなさそうな神秘の車は、車庫のシャッターに隠れていない。ワイルドが戦力を強化するには欠かせない謎の部屋は、今なおここにあり続けている。消えていないことにある期待を抱いて、悠は絢爛たる扉に手をかけた。
「ようこそ、ベルベットルームへ」
年が明けても、悠はここの客人であり続けている。青い闇そのものが走る車の最も後ろの席に、悠は気付けば座っていた。いつものパターンである。しかし──
「マリーは……?」
迎えの挨拶をくれたマーガレットが前方右側に、主人のイゴールが正面にいる。しかし左側は空席だった。マリーがいない。既に破棄した『契約』を結んだ5月20日、死を暗示する呪いの詩を初めて読んだ時以来、久々の尋ね人の不在だった。呪言を記した便箋も、リムジンの床に落ちてはいない。
「あの子に何かご用でしょうか」
「礼を言いたくて来たんだ」
悠は初詣の参拝で願をかけるものはなかったし、神に礼を言うこともなかった。礼を言いたいのはマリーだ。クリスマスイヴの夜、永遠的な霧の夢から自分を助けてくれたのは、マリーのはずである。病院で彼女の姿は見なかったが、間違いないはずだった。枕元に置かれた櫛が何よりの証拠だ。
「そうでしたか……いえ、さもありましょう。ここはお客様の定めと不可分の部屋。この部屋で全く無意味なことは起こり得ません。本日、貴方がここへいらしたことにも、もちろん意味がございます。まして貴方の状況においては、お越しになるのが道理。たとえ貴方ご自身にその気がなくとも、崖へと足を滑らせるように、どうしても訪れずにはいられなかったでしょう……」
ベルベットルームの住人は韜晦趣味の持ち主が多い。マーガレットもその例に漏れず、悠の訪問そのものについて考えを巡らせ、勝手に納得する。当人も意識していない点までも。しかし悠は魔女の自己完結を追及しない。
「マリーはどこに?」
悠はマーガレットの韜晦に構わない。ただ今日ここに来た目的を追い求める。
「あの子はこの部屋を去りました」
すると尋ね人の姉のような魔女は回りくどい言い方をやめて、はっきりした言葉で答えてきた。
「!?」
マリーは外出する際は、大抵は悠と一緒だった。しかしマリーは親に手を引いてもらわなければ、家から一歩も出られない子供ではない。外の世界を一人で歩いていた日は、昨年から何度かあった。
「ここに居続ける意義を果たし終えたということなのでしょう。もしくは為さねばならないことを、あの子は見つけたのかもしれません」
しかし今日のマーガレットの言いようは、ちょっと散歩に出ているだけというものではない。たとえ小姑がカバンから便箋を盗み取って床に置いていたとしても、それを悠が拾って読んだとしても、現実から青い闇へ駆け戻ることはない。金の瞳の魔女はそう言っている。
「そんな……なぜ!?」
「お気付きでしょうが、欲望の絆の担い手に敗れ、霧をさまよっていた貴方を現世に呼び戻したのは、あの子でございます」
「ああ!」
もちろん悠は分かっている。たとえ櫛が置いていかれてなくても、自分を助けたのはマリーだと分かったはずだ。『我』は永劫の絆の完了宣告を出していたし、それでなくても夢の中でマリーの詩を聞いたことははっきり覚えている。あれから一週間以上過ぎているが、解放の詩は完全な形で心に刻みつけられている。やろうと思えば暗唱もできる。これまで読んだ全ての詩を、順番に歌い上げることもできる。
「そしてあの子をここへ迎え入れたのは、貴方でございます」
だがこれは分からなかった。
「……? 貴女が迎えたんじゃ?」
マリーをここの見習いとして迎えたのはマーガレットのはずだ。本人の口からそう聞いている。聞いたのは人魚姫の詩を読み、『契約』した日だ。あれは半年以上も昔の話だが、悠はマリーに関することなら何でも覚えている。むしろ記憶が鮮明すぎて、忘れようと思っても無理なくらいになってしまっている。なぜかと言うと──
「そうではございません。私どもはただ、あの子に名前と仕事を与えたに過ぎません。貴方の定めがマリーを導き、そしてあの子との絆を築いたのです」
そう『定められて』いるからだ。意思や嗜好の問題ではない、宿命的な領域における結びつき。悠とマリーの間には、そういうものがあることを魔女は保証した。
「マリーはどこへ?」
「それは私も存じ上げません。ですが……もし貴方がお望みなら、あの子の行方を探し、そこへお連れすることはできるでしょう」
そして保証するだけに留まらず、少年を唆す。
「是非お願いします!」
少年の方はと言えば、魔女に教唆されるまでもなく身を乗り出していた。たとえ魔女が渋ったとしても、何としてでも案内してもらう。代償が必要なら何でも支払う。マリーの行方が今見つかったなら、今からでも行く。そういうつもりでいた。
先ほどの参拝で自分は欲深いと内省したが、それはその通りで、悠は気が多い。しかしそれも悩み多き青少年として、普通の範疇に属する程度のものだ。決して異常に女好きなわけではない。だがこの日この時、遂に常人の領域から一歩を踏み外した。体のどこかに隠れている神秘の存在が立ち上がって、熱く激しく強烈に、手に持った矛を天へと振りかざすように、少年の背を突き上げている。
マリーと初めて会ったのは八十稲羽に来た初日で、ペルソナを得た直後にこの部屋で再会した。その時も感じた情欲めいた衝動が蘇っていた。
「かしこまりました。では、しばらくお時間をいただきます」
「……待っています」
4月から何があったか、悠はまだ整理ができていない。昔話の登場人物よろしく、夢の国にいる間に全てが終わってしまったのだ。整理などむしろしたくないくらいだ。
欲を自覚した元日が明けて、正月の二日目がやって来た。高校と小学校が休みなのは言うまでもないが、堂島も昨日に続いて休みを取っている。八十稲羽では三が日に働くのはジュネスくらいだ。
「すごいゆきー!」
この日の朝、堂島家の家族は揃って玄関前の通りに出た。昨晩遅くから雪が降り続いて、八十稲羽を一面の銀世界に変えたのだ。そして雪と子供とくれば雪遊びである。スキーやそり、雪合戦。そして──
「ねえ、ゆきだるまつくりたい!」
「雪だるまか。よし、そんじゃ大きいの作るか!」
「やったー!」
子供と大人と、その間にいる若者。小さな家族は一家総出で道路前の雪を集め始めた。三人のうち二人はつい最近まで入院していたにも関わらず、全員揃って元気一杯である。真冬の寒さなどものともしない。
雪の塊を転がして玉を作り、それを重ねる。堂島の作った一番大きな玉を土台にして、悠の作った中くらいの玉を真ん中に置き、一番上は菜々子の小さな玉だ。家族の共同作業で、三段積みの雪だるまはあっという間に形ができた。枝を刺して手袋をはめ、手をつける。更に──
「クマさんだるまだー! かっこいーね!」
頭の上の部分に耳をつけて、耳の間の頭頂部を尖らせた。目は顔のほぼ中央に丸く大きく描く。そして雪のボタンを胴体に三つ付けた。悠の即興デザインによる、クマ風雪だるまの出来上がりである。
「上手いもんだ。良かったな、菜々子」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん! お父さん!」
雪だるまをクマ風にアレンジしようと希望したのは菜々子である。家族の力作に、小学一年生の女児は満面の笑みを浮かべて喜んでいる。年相応に可愛らしく、その上溌剌としている。冬に身を置きながら春を連想させる、横溢した生命力が萌え出る笑顔だ。たった一ヶ月ほど前にはベッドから起き上がることもできない重病人で、一度は死の淵に落ちたなどとは、誰が想像できるだろうか。
「クマさん……どこいっちゃったんだろう……」
だが小さな春はすぐに引っ込んだ。代わって表れた冬の憂いは、年に不相応なものだった。まるで七歳の子供には秘密にしておきたい知識を、父兄の知らないところでこっそり得ているかのように。目に見えない内面の深淵から悲しみが滲み出て、可愛い限りの菜々子に影を落としていた。
「……」
妹の急な変化に、兄は沈黙した。悠はマリーを見失ったが、菜々子はクマを見失ったのだ。悠には手掛かりがあるが、菜々子にはそれもない。妹の方が孤独は深いと言えるかもしれない。
(マリーが見つかったら、クマも探してもらおうかな……)
悠は昨日マーガレットにマリーの捜索を頼んだ。それが済んだら行方知れずのもう一人も探してくれるよう、あの千里眼の魔女に頼んでみようか。悲しみを湛えた妹の為に、気の多い兄はそんなことを思いついた。
「そろそろ中に入らないと、風邪引くぞ」
そして父親が場を締めた。
元気な三人家族は雪だるまを門番に残して、温かい家に戻った。キッチンを通り抜け、居間に至る。コタツとミカンが待っている団欒の場だ。いくら不審なほど健康であるとはいえ、雪遊びをすれば体は冷える。菜々子は早速入ろうとしたが──
「悠……ちょっと頼みがあるんだが」
「ん?」
「ピアノを……弾いてくれないか」
いささか唐突な希望に、悠は少なからず驚いた。
「いいの?」
悠は昨年からこの家にあるピアノを何度も弾いている。だが聴衆はいつも菜々子一人で、堂島の前で弾いたことはない。堂島が聞きたがらなかったからだ。死んだ妻を思い出してしまうので、ピアノという言葉を聞くことさえ、本当は辛く思っているくらいなのである。
「ああ……頼む」
三人はコタツに入らず、家の奥の区画に移動した。畳敷きの仏間だ。壁際には仏壇が置かれ、反対側にアップライトピアノが置いてある。その脇には楽譜を収めた棚がある。
「何か聞きたい曲はある?」
悠にとっては叔母に当たる堂島千里は、生前は近所の子供たちにピアノを教えていた。だからこの家に楽譜は数多く残っている。古楽から近代に至るまで、クラシック音楽の歴史における有名どころはほとんど押さえてある。
「いや……俺はそっち方面には詳しくない。何でもいいから、お前の好きなのを弾いてくれ」
母がいない今、クラシックに通じているのは兄だけである。父は言うまでもないし、娘も歌うのは好きだが音楽に詳しいわけではない。選曲は悠に一任された。
兄は棚の前に膝をついて、楽譜の群れから適当なものを探した。有名な曲が良いか、知名度は度外視するか。簡単な曲を無難に弾くか、難しい曲に挑戦してみるか。選択肢が数多く用意された棚に視線を往復させているうちに、やがて隅に置かれた一冊に目が留まった。
(ラヴェルの鏡……)
この家で悠が初めて演奏したのは母の日だ。その時にもこの楽譜を目にしたのを、悠は小さな苦さと共に思い出した。これは音楽史に名を残したフランスの作曲家の、代表作の一つであるピアノ組曲だ。悠は八十稲羽に来るよりかなり前、この中の一曲に挑戦したことがある。しかし全体を軽くさらった頃に人生で何度目かの転居があって、その時にピアノをやめた。いわば挫折した曲だ。
(道化師……)
悠は足立を思い出した。遠い日のささやかな挫折から、近い日の大きな挫折を連想した。昨年の暮れ、道化師の絆の担い手に愚者は敗れたのだ。
(いや、道化師じゃないんだよな。あの時、アルカナが変わったんだ……)
昨日ベルベットルームを訪れた際にマーガレットも言及していたが、道化師のコミュニティはアルカナが変わってしまった。『我』が告げた新たな属性は欲望だ。マリーに勧められて買った、恐らく作者はマーガレットであるタロットの解説書にも載っていない、謎のアルカナだ。
(でも……何で変わったんだ? 俺があの人を誤解してたってことなのか?)
普通に考えれば、悠は足立を誤解していて担い手が『本性』を現すと同時に、絆も変貌したとなる。実際、足立が殺人犯であるなどとは、早紀に証言されるまでは想像もしていなかった。しかし本当にそうなのか、それだけなのか、疑問も禁じ得ない。
(それ以前に……道化師ってのも不思議だよな)
欲望もそうだが、道化師のアルカナも解説書には載っていない。敢えて言うならトランプのジョーカーだろうか。あれはタロットの愚者を起源にしているという説があり、悠も知っている。愚者と言えばコミュニティにおいては特捜隊であり、ペルソナにおいてはイザナギだ。そして足立が『マガツ』と呼ぶ血塗れの魔人──
(俺って……あの人と同じ?)
瞬間的に、悠は背筋が寒くなるのを感じた。特捜隊で最強のリーダーと、稲羽支部で最強の副支部長。姿の似たペルソナ。都落ちした都会出身同士で、どちらも線が細い。そして──
(欲望……?)
体が震えた。昨日参拝した際の内省と、足立の新たな呼び名が結びついてしまった。自分は欲深い。諸岡が言うところの腐ったミカンである。例えばイザナギのように。日本の創造神は妻との間に何人もの子供をもうけたが、妻の死後も子供は次々と生まれている。神典では自分一人で生んでいるように書かれているが、それは本当なのか。実はギリシャ神話の最高神のように、浮気性なだけではないのか。妻の死後は女を断った吟遊詩人とは対照的に。
黄泉の国から帰ってきたイザナギは、夢の霧から帰ってきた悠は、どちらも欲望の塊。即ち欲望のアルカナ──
「お兄ちゃん……? だいじょうぶ?」
内省の海にはまり込んでいた兄を、妹が我に返らせた。
「あ、ああ……大丈夫だよ」
「悠? 具合が悪いなら、また今度でもいいぞ」
「いや、本当に大丈夫。ちょっと昔を思い出しただけだから……」
父のような叔父に気遣われて、悠は気を取り直した。具合が悪いわけではないのは本当だ。家族に余計な心配をさせてはなるまいと膝を起こしつつ、因縁の楽譜を棚から取り出した。
「……」
楽譜を広げて譜面台に立てると、踊り狂う音符の群れが目に入った。10月に自作したロックよりずっと複雑だ。これはプロのピアニストでも、本気でやらねば弾きこなせない難曲である。アマチュアが軽い気持ちで弾くには、相当に荷が重い。しかも悠は八十稲羽に来てから、ピアノの練習をしていたわけではない。菜々子にせがまれて演奏したことは何度かあったが、それだけだ。それでいながら──
(弾ける……)
不思議な確信があった。自分は必ず弾ける。単に楽譜を指先でなぞるだけでなく、曲に秘められた精神を、もしくは曲を通じて自分の中の何かを表現することができる。自分はそれができることが、弾く前から分かっていた。なぜなら──
(マリー……)
悠は鍵盤に両手をかざし、過去の挫折を演奏し始めた。曲名は『道化師の朝の歌』だ。
ピアノ曲であるのだが構成はギター曲に近く、曲調はスペイン風だ。低音と高音を交互に連打したと思ったら、流麗なアルペジオが上っ面を滑るように進行する。滑る音も複雑な和音で構成されていて、一聴しただけでは簡単に聞こえるところも、演奏は非常に難しい。随所で三連符が挟まるので、リズムを取るだけでも一苦労だ。そうかと思えば同音連打が何小節にも渡って続く。しかし油断はできない。楽譜を一見しただけでは単調なパートでも、全体を鑑みれば気安く弾いてはならないことが分かる。
(足立さん……)
指を目まぐるしく動かしながら、悠は自分と似た男に思いを馳せる。道化師。ピエロ。ジェスター。曲の原題のスペイン語で言えばグラシオーソ。人を笑わせて、楽しませる者のことだ。古典的な演劇においては、主人公の対極に位置するアンチヒーローの一種だ。概して卑劣で臆病で、ふざけた振る舞いをしつつ、時に鋭い警句を吐く。物語の世界から一歩引いた、観客に近い位置に立つ特異なキャラクターだ。舞台に両足を置いた登場人物は知り得ない、ある真実をも掴む者。それでいながら、やはり舞台から完全に足を抜きはしない。
一筋縄ではいかないのは立ち位置だけではない。観客は振る舞いのおかしさに笑い転げるが、道化師自身は真意を仮面で隠している。では決して見せない真の顔は、観客を嘲笑っているのか? それも定かではない。泣いているのかもしれず、怒りに滾っているのかもしれない。まるで情欲のように己の存在に起因していて、どうにも抜き難い激しい感情。それら全てを面白い顔で隠す者。社会的な地位は決して高くない、卑しむべき、憐れむべき、愛おしむべき者。
そして朝の歌とは情事の後を意味する。夜に女を引っ掛けて、遊んで、殺して──
(誰を……)
引っ掛けられた女とは誰なのだろうか。山野か早紀か、はたまた悠か。
──
この曲は二十世紀を代表する名作の一つだ。素晴らしく美しい。しかし音楽は分かりやすい解答を与えてはくれない。歌詞のない器楽曲ならなおのことである。道化師は、欲望は、何を見ていたのか。その真実はどこにあったのか。そもそも真実など存在するのか。全ては根拠も実体もない、鏡に映っただけの虚しい像に過ぎなかったのか。疑問に対する答えを得られないまま、悠は最後の和音を響かせた。
演奏時間は七分弱。一音たりともミスはなく、完璧に弾き切った。
「凄いな……大したもんだ。お前、進路は音大か?」
悠の演奏を初めてしっかり聞いた堂島は、無骨な手を打ち合わせた。ピアノに苦い思いを抱いていたとは思えない、朗らかな笑顔を添えて拍手を送る。
「考えたこともないよ」
これは謙遜ではない。悠は高校卒業後の進路や将来の職業を特に考えていないが、取り敢えず音大やプロの音楽家は選択肢にない。ジュネスのイベントでバンド演奏をする前も、した後も考えていない。なぜなら悠の芸術的感性と演奏技術は、才能や努力によるものではない。人から与えられたものだ。悠自身、もうそれに気付いている。
「そうか? 千里が聞いたら、きっと絶賛したぞ」
「そうだね……お母さんにも、きいてほしかったね」
「ありがとうな……コーヒーでも淹れよう」
初の家庭演奏会は終わった。悠は鍵盤の蓋を下ろし、楽譜を棚に戻してから、先を行く堂島と菜々子について仏間を後にした。その背中を、仏壇に飾られた母の遺影が見送っていた。
三人の家族は家の中で最も温かい区画に戻ってきた。しかし兄と妹がコタツに入った一方で、父親は仏間からキッチンに直行した。唯一できる家事である、コーヒーを淹れているのだ。慣れた手付きで湯を沸かし、粉を入れ、三つのカップに注いで香りを立てる。ブラック、ミルクのみ、ミルクと砂糖を両方と、飲む人に合わせて味を変えるのも忘れない。
そうして父は一仕事を終え、成果をコタツまで持ってきた。
「ん? このカップ……」
「気付いたか? そいつはお前専用だ。後で名前書いといてやるからな」
悠が口をつけたマグカップは、他の二つと柄が同じだった。昨年まではなかったものである。
「悠、俺たちは家族だ」
「……うん」
今さら、と言うべきではないだろう。この一年の間に、悠は三度も殴られたのだ。叔父と甥の関係は決して順風満帆ではなかった。事件がもたらした波風の連続によって、堂島家は崩壊していてもおかしくなかった。先月に法王のコミュニティが逆立ちした時は、特に深刻だった。そんな有様だったのが、今のように修復されたのは──
「お前のカップは、いつでも俺が満タンにしてやる。忘れるなよ」
『我は汝、汝は我……』
絆を教える『我』だ。年が明けて初めて、時間が停止する感覚を悠は味わった。それは自分専用のカップになみなみと注がれた、ミルク入りのコーヒーと違って苦かった。口元が歪もうとするのを抑えるのに精一杯だ。
(これで決まりか……)
殺人事件は終わり、獣害事件も終わった。では終わらせたのは誰なのか。誰の功績なのか?
(事件は全部……叔父さんが解決したのか)
悠は自分が寝込んでいた間の戦いについて、詳細を聞いていない。守秘義務のある堂島はもちろん教えてくれないし、陽介や尚紀からもまだ聞いていない。だが悠は直感した。足立を倒したのは相棒である堂島で、現実の霧を晴らしたのも町を守る刑事である堂島なのだと。そして壊れかけた家族を立て直したのも父親だ。信頼を象徴する法王の絆の完了宣告は、父の勝利宣言のように聞こえた。
父と息子と娘の三人は、揃ってコタツでコーヒーを飲んだ。時間をかけて、固めの盃のような熱い飲み物をゆっくりと喉に通した。
「ね、お父さん、お兄ちゃん……」
やがて菜々子が家族のマグカップを置いた。砂糖を大量に溶かした甘い飲み物は、もうなくなっている。
「菜々子もかぞくだよね?」
「ああ、もちろんだ。お前は俺と千里の娘で、悠の妹さ。そうだろう?」
可愛らしい限りの娘に、父親は優しく笑いかける。そして息子に水を向ける。
「そうだよ……菜々子は俺の妹さ」
菜々子は悠の『いもうと』である。『いも』ではない。
十歳差の兄妹たちの間にある正義のコミュニティもまた、この一年の間に危機に陥った。父と息子のそれのように手が上げられることはもちろんなかったが、ある意味ではそれより酷かった。本当は従兄妹で結婚だってできるのに、できないのだと証明する形でもって危うくなった。
「お兄ちゃん……菜々子にピアノおしえて?」
それでいて、妹は兄を嫌わない。厳しい父は不出来な息子を叱らないように、傷つけられた妹は傷つけた兄を責めない。
「ジュネスだけじゃなくて……ほかにもひきたい。たんたらたんたら……とか」
菜々子が歌っているのは、10月の霧の日にこの家の周りに現れたシャドウが歌っていた曲である。つまり亡き母の思い出だ。それは父にとっては、色々な意味で辛い記憶の一つなのだが──
「悠、頼まれてくれるか?」
家長でもある父は物分かりがいい。事件を解決したのみならず、音楽にまつわる心の傷をも克服した父は、亡き妻の遺産にもはっきり向き合える。こう来られると、息子に選択の余地はない。
「ああ、いいよ」
妹の頼みには、兄はこう答えるしかないのだ。答えた結果何が起きるか、もはや予期できているのに、それでもこうとしか言えない。すると──
『我は汝、汝は我……』
(やっぱり来たか……)
案の定だった。法王に続いて、正義の絆もまた真実として認められた。役者がどれだけ苦い思いを抱いても、監督は一切構わず宣告する。誰も何もそっとしておかない。隙ありと見れば、『我』はすかさず畳みかけてくる。一日に二度でも時間を止める。人間と違って休むことがない。
「やったー! それじゃ、さっそくおしえて!」
そして妹も兄をそっとしておきはしない。早速とばかりにコタツから出て、先ほど出てきたばかりの母のいる仏間へ戻る。兄はそれについて行き、もちろん父も一緒だ。
「お母さんにもきいてもらおう!」
妹は家族の最後の一人を仏壇から持ち出した。母の遺影を譜面台に乗せて、演奏する兄と妹を見守るようにする。
(敵わないな……)
二つ連続の完了宣告は、温かい家庭が完成した知らせでもあった。家族が人生の時間の多くを共に過ごすよう、定められた場所である。誰もそこから逃れられない。
余談を述べると、この日の練習を終えてから、堂島家は家族写真を撮った。妹を中央に置いて、父と兄が左右に立つ構図だ。そして母の遺影を妹が持つ。カメラをピアノの屋根板に置いて、家族四人で写真撮影をしたのだった。正義の絆の証明は後に堂島が焼き増しして、全員に配られた。