新年の最初の週は、高校と小学校はどちらも冬休みだ。三が日を終えると堂島は仕事に出始めたが、4日以降の悠は主に家で過ごした。寝込んでいた期間の分を勉強し、宿題を片付け、時には菜々子のそれも手伝った。妹に勉強とピアノを教え、家族の食事を作り、足りないものがあればジュネスに買い物に行く。若い身空の高校生は、主夫のような生活を送った。
元日以降は、悠は友人たちと会うことはなかった。『我』の完了宣告を受けていないコミュニティは、学校の内外でまだいくつもあるのだが、どれも進める気になれなかった。戦う必要がなくなったのと、絆に針を感じていたから。
そうして昨年の4月以来ほとんど初めての、得るもののない無為な一週間が終わった後──
(マリー……!)
もう随分長い間会っていない、恋している人が悠の目の前にいた。黒い闇の中でパンクファッションに身を包んだ、闇から紡ぎだした黒い髪の少女がいる。何の脈絡も見えないまま、突然現れた。
「あれ……どうしてここに?」
君に会う為に来たんだ──
悠はそう叫ぼうとした。体を動かして、マリーのもとへ駆け寄ろうとして、その足元に身を投げ出そうとした。体のずっと奥の方で何かが動いて、存在ごと乗っ取ろうとしていた。唐突極まる衝動に、悠は抵抗しなかった。
(!?)
しかし声は出ず、体は動かなかった。いや、体の感覚がなかった。夢の中でも人は自由に行動できるわけではないが、今の状態はまさにそれだった。目と耳のみがそこに存在していて、ただ姿を見て声を聞くだけの受動性そのものになっていた。肝心な時には役に立たないペルソナのように。
「ん……そっか。まーがれっとの仕業ね。余計なコトしてくれちゃってさ……」
そしてマリーはマリーで、何も言われないままに納得する。永劫の絆を育んでいた当初からそうだったが、少年と少女の話は噛み合わない。どちらも稲羽の異邦人であるのだが、来た国が各々違うので言葉も違うように。
「お別れ、もうしたじゃん。こんなトコに来ちゃダメだよ。君の世界に帰って……」
(お別れ……?)
魂だけがそこにいる悠は、マリーの背後にあるものに気付いた。言われた言葉の意味から目を背けて、背けた先にあったものに意識が及んだ。それは暗がりに隠れてほとんど見えないが、柱のようだった。マリーの姿はスポットライトに照らされるようにそこだけ闇が切り取られていて、光の端に柱の足めいたものが見えていた。石を積み上げた柱が二つ左右に並んでいて、しめ縄らしきもので繋がれている。
「……大丈夫、君の世界の霧は晴れたし、君たちには平和な未来が待ってるよ。多分だけど……」
しかし背景に気を留めている場合ではない。悠はすぐに自分を取り戻して、再び叫ぼうとした。
(そんなのはいいんだ!)
確かに現実の霧は晴れた。晴らしたのは堂島だ。だから今年の稲羽は平和でいることが、暗黙のうちに約束されている。絆で結ばれた優しすぎる家族が守ってくれるから、平和な未来は何もしなくても、ただ待っているだけで悠は手に入れられる。そんなものだから、平和も未来もどうでもいい話なのである。
(どこにいるんだ! 君こそ帰ってこい!)
どうでもいいものでないのは、マリーだけだ。
『本来は』悠が手にすべきだった栄光は、他の人に持っていかれてしまった。それは考えようによっては、仕方のないことなのかもしれない。悠と足立には深い因縁があるが、足立と縁があるのは悠だけではない。堂島も尚紀も殺人事件の犯人と深い関わりを持っていた。悠を出し抜いて手柄をさらってしまうことは、宿命的な意味においてさえ、彼らには不可能ではなかった。
しかし足立と違ってマリーは悠だけのものだ。宿命と現実の両方において、他人が割り込む余地はない。
「……愛してる」
だからこんなことも言う。
(!?)
「知ってる? お別れの時にもね……愛してるって言うんだよ」
日本で最も古い別れの話、もしくは最も古い呪いの話だ。そこに登場するある夫婦は、見上げるような大岩を挟んで互いにこう言ったのだ。
「じゃあね……」
死で別たれた男女の心の内は、果たしてどのようなものであったのか。昨年の秋、有里の母校で投げかけられたこの問いの答えを、マリーは告げていた。静かな微笑みで、落ち着いた声で、マリーは悠を殺す。言葉を発せず行動もできない悠は、言い渡された酷い真実を黙って聞いていることしかできない。
「マリー!」
夢で動けないなら、現実で動くのみである。夢の国から帰ってきた悠は、現実の堂島宅で声を上げた。それで目が覚めた。
「え……?」
布団から上体を起こし、手を前に伸ばした姿勢で悠は我に返った。手を戻して額に触れると、酷い寝汗をかいていた。悪夢を見てうなされて、突然目を覚ますという典型的な状態だ。ただし──
(夢……じゃない。絶対に……)
枕元に置いてあった携帯電話を取って、待受画面を確認してみた。今日は1月9日の月曜日。冬休みの最後の日で、成人の日だ。時刻は日付が変わる直前だった。床に就いてから一時間も経っていない。
「……」
悠は布団から出てカーテンを開けた。窓の外には自然の夜の黒い闇があるばかりである。少ない街灯に照らされた地面を見れば、雪が積もっている。この一ヶ月の間に、白い闇は上から下へ落ちた。見上げてみれば雲の切れ間から月が覗いていた。先週から頻繁に降って、今日も朝から頭上を覆っていた雪雲は、深夜のこの時間だけ休みを取っているようだった。
夢に出てきた人に助けられて、病院のベッドで目覚めてから二週間と少し。闇に隠れていた月は、時が過ぎて再び真円を描いていた。
かつては闇そのものが目覚める時であった、満月の夜。狂気を呼び起こし、女の脈動を支配するという月に誘われるようにして、悠の手元で震えが起こった。
電話の着信だ。番号は非通知である。
「もしもし」
『……もしもし。夜分、お呼び止めして済みません』
マーガレットだ。昨年の間、愚者と魔女はかなり頻繁に話す機会があったが、電話連絡は久しぶりだった。コミュニティは積極的に結べと勧められた4月以来である。
『マリーに関して報告がございまして、取り急ぎご連絡させていただきました』
「今、マリーの夢を見ました」
『左様でございましたか……いえ、さもありましょう』
「見つかったんですね」
『……そう焦らないで』
そして電話で親し気な口調で話すのは、これが初めてである。
『あの子のもとへ貴方を連れていくことは承知したわ。でも今すぐというわけにはいかないの』
「なぜです?」
『危険だからよ。あの子の行く先は、人ならざる者の領域なの』
人ならざる者の領域。それは先ほど夢に見た、しめ縄めいたもので仕切られた境界の、その向こう側のことであろう。場所の雰囲気からして、シャドウが無数に蠢いているとしても何の不思議もない。
『もしかしたら……貴方にとって最後の戦いになるかもしれないの。意味、分かるかしら?』
最後の戦い。それは生きた証を掴み取る為の、即ち使命を果たす為の決戦のことか。それとも戦いに負けて死ぬことか。いずれにしても、これまでで最も過酷な戦いが待っている。マーガレットはそう言っているのだと、悠は解釈した。
「……」
菜々子を助けた頃の悠であれば、こんなふうに言われたら恐怖を覚えただろう。震える体の要求に屈して、目の前に差し出された試練から逃げ出すことはないにしても、震えること自体は認めざるを得なかった。しかし──
『どうする? もし危険を冒してまでは……と思うのなら、なかったことにしてもいいけれど』
「俺はやります」
今の悠に迷いはない。体は武者震いもせず、声色にさえ動揺はない。たとえ行くなと言われても、『ガキは引っ込んでろ』と言われたとしても、絶対に後には退かない。危険と知っていても顧みず、自ら進んで崖へと飛び降りて、賭け事をする為に命を抵当に入れるのも躊躇わない。
その種の行動を人はこう呼ぶ。蛮勇。もしくは軽挙妄動。
『そう……分かったわ。でももうしばらく待った方がいいわ』
「いつまでです?」
『そうね……春は待たないでしょう』
今月か来月か。いずれにしても、今日や明日の話ではないようだ。
『貴方が集めてきた絆の力……その真価が試されることになるわ。その日までの間に、これまで以上に他者との絆を育むことを勧めるわ。それはきっと貴方を真実の光で照らす、輝かしい道標になるでしょうから』
聞きながら、悠は眉を動かした。
(輝かしい……?)
言われて思い出した。これは初めてマーガレットが電話をしてきた時にも出てきた言葉である。コミュニティは単にペルソナを強くする為だけのものではないと。その時は何とも大袈裟な物言いに面食らっただけだったが、今となっては違う思いが生じるのを、どうにも否定しがたい。
『それじゃあ……待っていてね』
それで連絡は終わった。捜索状況の中間報告ついでに、忠告も貰ったわけである。そして世の忠告はどれもそうであるように、魔女の勧めは苦い味わいだ。
(まだコミュをやらないといけないのか……)
悠は11月頃からコミュニティに違和感を覚えることがあった。契機は有里から聞いた話である。もっとも初めの頃は、針で浅く刺されるような小さな痛みで済んでいたが、腹に穴を空けられて以降は深くなった気がしていた。
『君が人気者なのは、君自身の魅力とか才能とかのおかげじゃないよ』
欲望の道化師の言葉が、針の傷をかき回して広げていた。どんなに難しいピアノ曲でも、容易く演奏できてしまうのはなぜなのか。誰が自分を人気者にしてくれているのか。仲間や家族が不条理に愛してくれるのはなぜなのか。寝込んでいた頃から変わらず、疑問の答えは得られていない。だが誰の差し金であろうと、もう気にしないことにした。通話の切れた携帯電話を握る手に、知らず力が入る。
(仕方がない。マリーの為だ……)
明確な目的意識が痛みに耐える覚悟を支えていた。たった一人の為に他の人々を利用するようなものだが、そんな些末な卑劣さにはもう構わない。打算的だろうが何だろうが、とにかく前に進める。引き返す道はない。そして都合の良いことに、年が明けた今も完了していない絆はいくつもある。学内では刑死者と太陽。学外では隠者、死神、節制、悪魔、塔、審判、そして欲望。合わせて九つもあるのだ。
コミュニティを進めれば進めるほど、ワイルドは強くなる。つまり自分にはまだ伸びしろがある。昨年は足立に敗れたが、いずれはあの恐ろしい男も超えられる。その頃に、マリーのもとへと行けるだろう──
そんなことを思って、悠は再び床に就いた。
事件の後の、『余暇』の三学期は10日から始まった。霧が出ていた間、八十神高校は生徒ばかりか教職員まで一緒になってガスマスクなどの話題で変に盛り上がっていたが、今はもう吹き払われている。喉元過ぎれば、という言葉にある通りだ。
「よっ、明けましておめでとう」
特別捜査隊の二年生組が集まる二組も、普通に新年の挨拶を送り合う。昨年の事件と霧のいずれについても、もう話題に上がることはない。
「おめでとう。今年もよろしくな」
悠も事件について口にしない。特捜隊の仲間たちとのコミュニティは、昨年のうちに完了宣告を受けている。彼らに対して今から何かをする必要を、悠は感じていなかった。
する必要があるのは、特捜隊以外の人々に対してだ。始業式と朝のホームルームを終えると、悠は早速カバンを持って教室を出た。すると階段の踊り場で佇んでいる、一人の少女の姿を折良く認めた。
「小沢」
「あ、鳴上君……ね、ちょっと時間くれない?」
悠は少しばかり驚かされた。今日は結実と話をしようと思っていたが、向こうから言われてしまった。太陽のコミュニティは大体において担い手の側から攻めてこられていたが、年が明けても変わらないようだった。
「ああ」
だが向こうから振ってこられるのは、話が早くて助かる。彼女の希望を彼氏はすんなり受け入れた。そのやり取りには、傍から見て不自然なところはない。
二人は実習棟の一階にある会議室までやって来た。演劇部の部室だ。一学期の頃までは、結実は頻繁にここに来ていたが、父親が戻ってきてからは機会が減っていた。そして二学期は一度も出なかった。文化祭で演じられた劇にも、結実は出演しなかった。もちろん悠も。二人揃ってすっかり幽霊部員の状態である。
八十神高校は噂の巡りが速い。悠と結実が付き合っていることは、二学期のうちにかなり広く知れ渡った。だから演劇部では『彼氏ができたら、途端にそっちばっかりになった』とでも噂されているかもしれない。
今日は火曜日で演劇部の活動がある日だが、学期の始めなので授業と部活はどちらもない。結実は部屋の中央に立って、窓から外を眺めている。運動部の活動もないので閑散としたグラウンドを見ながら、結実は語りだした。
「私ね……また部活やろうって思ってるんだ」
「なぜ?」
二人だけの空間に身を置いた二人の間で、秘密の話が始まった。
「私……逃げ場所にしてたんだ。演劇と戦い、どっちも……」
演じている時、結実は違う人生を生きる気になれた。父に捨てられたという現実があるばかりの、自分の人生を見なくて済むと。しかし父が戻ってきてからは、現実を見ざるを得なくなった。そして父の死後はまた状況が変わった。霧の中に現実以上の現実を見出したのだ。ついでに彼氏もできた。
(逃げ場所……)
悠は身につまされるものを感じた。ペルソナを失った結実は、戦いはもうできない。そして霧の舞台もなくなった。特捜隊だけでなくシャドウワーカー稲羽支部にも幕が降りたのだ。しかし悠にはまだマリーがいる。それは即ち、足立に敗れたという現実があるばかりの、自分の人生を見なくて済む──
「あ、でもね? また逃げるつもりなんじゃないよ?」
彼氏の自嘲を遮るように、彼女は振り返ってきた。
逃避になるのは何も演劇に限った話ではない。どんな芸術でも逃げ場所になり得るものだ。映画や小説などの物語は言うに及ばず、音楽や舞踏でも逃げられる。演じる人と視聴する人のいずれもが、違う世界に入り込むことができる。つまらない現実から逃げられる。誰も認めていないが壊す方法は誰にも分からないので、仕方なく生きている退屈な世界から、ほんの一時だけ逃げ込める場所だ。しかし──
「演劇って、もっと深いもののはずなんだ」
「深いもの?」
「そうよ。現実以上の現実なのかもしれないのよ?」
この世に存在するものは、ろくでもない現実や安易な芸術だけではない。
「……」
しかし悠には今一つ分からない話だった。結実と違って、悠の演劇経験は一学期のごく短い間だけかじった程度のものしかない。深い意味は考えたこともない。そして現実を舞台にしたそれこそ不条理演劇めいた人間関係には、近頃は針で刺される感覚を味わってばかりだ。
「私は私なりに……本当の演劇をやっていきたい。去年あったこと……全部私の実になったと思うから……」
結実は昨年、世界の真実を己の身で経験したのだ。舞台に幕が降りたからと言って、舞台に立ったことそれ自体が嘘になりはしない。結実はその道理を理解している。
無気力にただ日々を送っていた若者が、ある日その青春を捧げる何かを見つけて全力で打ち込むようになるのは、よくある話だ。そして何かの契機によって、打ち込むものが変わることもある。アイデンティティを見出すものは、一人につき一つと決まっているわけではない。
「鳴上君はどう?」
「……」
思わず『俺もそうだよ』と言いそうになった。一瞬、喉まで出かかった。逆位置の愚者のように何も考えないまま同意しそうになってしまったが、寸前で堪えた。
「俺は……済まない。君とは少し違いそうだ」
悠は眉間に手を当てて、結実から視線を少しずらした。
「俺は去年のことを、まだ消化していない……と言うか、消化したくないんだ。結論はまだ出せないと思ってる」
今の時点で結論を出せば、『事件の解決はできなかった』という苦い認識が生まれるだけだ。それに加えて、友人たちや家族に対して何とも言い難い思いを抱いてしまっている。ただ──
「ただ……無駄にはしたくない。色んなことがあったが、自分の実にしたいと思う」
結実と違って、悠の戦いはまだ終わっていない。堂島に与えられた平和を受け入れて、世界や人生の真理を汲み取って、それをもってこの一年の結論にするわけにはいかない。演劇の深い意味を、今の時点で見出してはならないのだ。そうでなければ、昨晩マリーに渡された
「そっか……いいんじゃない?」
何とも曖昧な彼氏の言い分に、彼女は笑みを見せた。悠はこれから何をするつもりなのか、何も説明していない。今後の目論見を隠していて、隠していることを隠さずにいる。それでいて結実は悠の核心に踏み込まない。すると──
『我は汝、汝は我……』
(あ……)
時間が停止して、『我』の宣告が下された。太陽のコミュニティが真実のものとして認められた。『我』が何者であるのかは、未だに分からない。だがこのタイミングで来るのは、ある種のずるさを感じてしまう。
「小沢……」
しかし『我』が宣告しようがしまいが、ここで話を終わりにしてはならない。今日の本題はこれからだ。
「……何?」
「別れてほしい」
結実との関係をどうするべきか、悠は文化祭を終えた頃から考えていた。紆余曲折を経て、結論を出したのは昨晩である。それから今までの間、話の持っていき方などは考えていなかった。だから極めて無粋な、ストレート過ぎる物言いになってしまった。しかし他にどんな言い方があっただろうか?
「……」
「……済まない」
決して結実が嫌いになったわけではない。別れようと決心したその理由は、簡単に言えばただの我がままだ。もっともらしい理由や言い訳は、考えることも気が進まなかった。たとえ誰かが台本を書いてくれたとしても、読み上げる気にはならなかった。
非は悠にあるのだ。怒られても恨まれても仕方がない。コミュニティは進めるつもりだが、太陽だけは話が別だ。たとえカードが反転しても仕方がないと思っていた。だが──
「そっか……うん、分かった」
案に相違して、結実は笑っている。女優の技術で表情を操っているだけの、表面的な演技なのか、それとも深い意味における演劇なのか。素人同然の悠には分からない。
「どうして怒らないんだ……」
彼氏の不実を怒らない、彼女の気持ちが分からない。分からないから、悠は自分で尋ねなければならない。だが出てきた答えは、聞かなければ良かったようなものだった。
「好きな人、いるんでしょ?」
「!……」
悠は閃いた。初詣に行った時の、『彼女』の言動と自分の感慨が蘇る。欲がないから自分に付き合ってくれるのかと彼女は言ったが、欲がないのは彼女の方である。
(いや、違う。それだけじゃない。確かイヴの夜にも……)
事件が続いていた間はまるで役に立たなかった直感が、クリスマスイヴに目覚めて以降は正解を告げ続けている。そんな気がした。今日の直感が告げたところによれば──
(マリーか……)
呆気ないほど別れ話を簡単に受け入れる、結実の気持ちに理解が及んだ。結実はマリーを知っているのだ。足立に撃たれて二週間以上も眠り続けていた悠を、永遠の霧から引きずり出して蘇生させたのは、マリーであると知っている。もしかすると現場を見ていたのかもしれない。
(だから……諦めるって言うのか)
「これ……あげるね」
結実はカバンから本を取り出して、元彼に差し出してきた。見てみれば、劇の台本だった。
「コンクールでやるはずだった本。持ってて……」
逃げ場所だった一学期の頃に、練習していた物語だ。言うなれば、絆の証明であると同時に別れの証だ。浅い演劇と同様に逃げ場所だった、なし崩しでなった恋人関係に対する。
「……」
悠は返す言葉がなかった。
もし悠を蘇生させたのが結実であれば、きっと諦めはしなかっただろう。怒鳴って叫んでもしくは泣いて、立ち去ろうとする男の襟首を掴んで引き回して、何が何でも手放さなかった。無数の物語で何百回も演じられてきた、よくある男女の愛憎劇そのままに。現実以上の現実として、自分と相手の存在ごと『劇』の中に閉じ込めた。
磨き抜かれた演技は無粋な本心を軽く凌駕して、使命や宿命も歪めてしまって、結実は悠を自分のものにしただろう。小器用なだけで肝心な時には何もできないワイルドを、運命から引きずり出して我が物にした。人間は誰も超えられない生死の境さえ問題にしない、究極のペルソナ使いとして。タロットの解釈によれば、愚者が当てのない放浪者なら、隠者は放浪から帰ってきた者だ。つまりは先輩だ。先輩は後輩を指導する。
だが結実は悠を助けられなかった。死者の蘇生も可能なペルソナは、生田目の為に使われてしまった。力を失った今の結実は、隠者のアルカナを持つペルソナ使いではないのだ。不条理演劇の先輩として後輩を引きずって、運命ごと現実を変えてしまうことはもうできない。だから諦める──
(酷い話だ……いや、酷いのは俺か)
酷いのに、既に極まってしまったコミュニティは揺らぎもしない。太陽のカードは頭に浮かんでこない。完了した絆は、逆立ちした絆以上にやり直せない。
「私、後ろ向いてるから。泣かないでいる間に、出てって……」
絆がもたらす痛みは、針で刺される域をそろそろ超えてきた。悠は泣き出す前に部屋を出た。
2012年の稲羽は雪と共に明けたが、それ以降も頻繁に降った。町を囲む八十神山と呼ばれる山々は、海から襲い来る雪雲の洗礼を連日受けて、化粧の重ね塗りを続けている。週末になれば、雪遊びはいつでもできる状態だ。しかし悠は三学期の最初の土日を、スキーやスノーボードで楽しむことはなかった。残ったコミュニティを進めるのに忙しいのだ。
そんな多忙な少年は、新学期最初の日曜日はジュネスに来た。ただし用件は絆の涵養ではなく買い物である。いくら忙しかろうと、母親がいない堂島家の『主夫』は定期的に食材を購入せねばならない。
「……」
だが売り場に入る前に、悠は一瞬立ち止まった。
(あの人、よくここで……)
足立のことだ。昨年の春から、ここジュネスのエレベーターホールで何度か遭遇した。道化師のコミュニティが築かれたのも、この場所だった。先月に『欲望』なる謎のアルカナに変貌した犯人との絆は、未だ完了宣告を受けていない。どうすれば『我』のお墨付きを得られるのか、もはや想像もつかない。何しろ足立は今どこにいるのかさえ、悠には分からないのだ。そしてそれ以上に──
「……」
冬の風を遮る現代の建物に身を置きながら、悠は寒気を覚えた。侵食してきた悪寒に追い立てられるようにして、悠は売り場へ向かった。
「やっぱ凄いっすね。酒の種類、こんなにある……」
「ネット探せば、もっとあるぜ」
「でも販売店にしかないものってのも、やっぱありますよね? 地酒とか、特に限定品」
「まあな……うちの親父や社員も言ってるぜ。鍵は地域密着だってな」
買い物籠に肉や野菜を放り込んだ悠は、一階のフロアを巡る最中に、馴染みのある声を聞き分けた。日本酒やワインなどの酒類の売り場で、アルコールを飲めず買えもしない未成年二人が、商品を物色しつつ話し込んでいた。
「陽介、小西」
全国展開する大手デパート店長の息子と、地元の老舗酒屋の息子である。特捜隊と稲羽支部において、各々最大の事件関係者だった二人だ。そして二人とも悠が束ねるコミュニティの担い手である。魔術師のコミュニティは11月に『我』の完了宣告を受けたが、刑死者はまだだ。学内の絆の中では、尚紀は最後の一人である。
「お、相棒」
「お疲れ様です」
二人はどちらも私服姿だ。日曜日だから尚紀は当然だが、陽介もアルバイト中はいつも着ているエプロンをしていない。今日は仕事のある日ではないようだった。しかし──
「二人揃って何してるんだ」
「敵情視察です。花村さんに内通してもらってます」
陽介がプライベートで職場に来ている一方で、尚紀は仕事中だった。もちろん特殊部隊ではなく、実家の関係だ。
「何、俺って裏切者?」
尚紀の口振りは明らかに冗談である。しかし陽介は表情をかなり本気で陰らせた。この二人は年こそ陽介が上だが、役者は尚紀の方が上である。もし早紀が生きていて陽介と交際することになっていたら、二人の男の間柄は『弟』の方が上の立場になっただろう。魔術師と刑死者のやり取りから、悠はそんなふうに『あり得た未来』を想像した。
「鳴上さん。済みませんが、この後ちょっと付き合ってもらえますか?」
「構わないが……どこか行くのか?」
「墓参りだ」
陽介が答えた。今日は1月15日。早紀の月命日である。
「そうか……考えてみれば、行ったことなかったな」
「俺もさ」
陽介は早紀の生前、実家であるコニシ酒店に行ったことがなかった。そして死後の住処に足を運んだこともない。ちなみに悠も諸岡や堂島家の墓参りに行ったことはない。仏壇の前で手を合わせたことなら何度もあるが。
打算的だろうが針が鋭さを増そうが、コミュニティはとにかく前に進めると、悠は決めている。先週は太陽の絆によって手酷く痛めつけられたが、それでも投げ出すつもりはない。買い物に来た今日は『仕事』を休みにするつもりだったが、思いがけず尚紀と出会ったので、休日は返上することにした。
悠と陽介は尚紀に連れられて、霊園にやって来た。遠い土地で生まれた二人は、この場所に来たこと自体が初めてである。
年明けから奇妙なほどに降り続いた雪は、今日は小休止を迎えていた。晴れてこそいないものの、雪で視界を遮られていない空気で見る公営の墓地には、少し明るい雰囲気があった。その一角に、『小西家先祖代々之墓』と刻まれた鈍色の墓石があった。
「姉ちゃんが死んで一ヶ月ちょっと……って数えるべきですかね?」
早紀の遺体が上がって、今日でちょうど九ヶ月だ。だが尚紀にとって姉が死んだのは、先月の8日である。
「かもな」
そして陽介も似た感覚を持っていた。足立が捕まったあの日、早紀は本当に死んだ。テレビの中で光と化して『成仏』する様を、陽介はマヨナカテレビで見ている。そしてそれは眼前にある灰色の積み石に、気が抜けるような虚しさを感じさせた。
「こう言っちゃ何だがよ……墓って意味あんのかな?」
墓石の下に遺灰が収められて以降も、魂は長い間テレビの中で存在し続けていたのだ。そして今となっては、早紀はただの石の下はおろか、どこにもいなくなった。陽介はその事実を痛みを伴う虚しさで感じている。ならば墓とは一体何であろうか?
「あると思いますよ?」
ある意味で機微な問いを発する陽介に対して、尚紀は穏やかに応じた。
「ここに来れば、うちの親だって姉ちゃんに会った気になれるでしょうから」
「……そっか」
墓は死んだ人の為ではなく、生きている人の為にあるもの。よく言われることだ。墓に死んだ人自身がいるかどうかは、本質的な問題ではない。故人に繋がる何かを、生きた人間が感じることが重要なのだ。こちらの世界から早紀がいなくなった日、陽介は向こうの世界で想い人に繋がる何かを探しに行ったように。陽介が早紀の墓参りに来たことがないのは、向こうの世界にこそ早紀を求めていたから。そう言えるかもしれない。
「変なこと聞いて悪かった」
「いえ……」
それでいて、陽介は想い人を見つけられなかった。見つけたのは弟である。
「先輩の仇は……お前が取ったんだな」
そして姉の無念を晴らしたのも弟である。陽介の考えではそうだった。だが当の弟は頭を掻いて、少し困ったように答えた。
「俺じゃありませんよ。足立さんと戦ったのは、ほとんど有里さんです」
しかし陽介は尚紀に同意しない。
「そういう問題じゃねえよ」
足立と直接戦って倒したのが誰なのか。もし陽介も現場にいたのなら、その点を強く意識したかもしれない。とどめを刺したのが自分でなければ、それだけでも悔しかっただろう。だが陽介は先月のマヨナカテレビの録画放送で見ただけだ。雨が電波の代わりをして自室のテレビに映し出した映像には、足立と有里の勝負はなかった。見ていない戦いは、陽介にはどうでもいい話だった。
「足立さんは……どうなるんだ?」
ここで悠が口を挟んだ。恐れを感じずにいられない名前を出されて、心よりも体が反応するように尋ねた。
「ニュースや新聞じゃ何も言われてないみたいだが」
「詳しいことは俺も聞いてませんが……何せ真相がアレですから。どこまで公表していいもんなのかも、色々あるみたいで。警察の上の方と、有里さんや桐条さんが交渉してるみたいですよ」
決着から一ヶ月以上が過ぎた今も、超常事件の真相はおろか犯人が捕まったことさえ世間には公表されていない。シャドウワーカー本部と警察庁、特に公安との交渉が続けられている。特殊部隊員から犯罪者が出たと公安が本部の責任を追及すれば、本部は警察官から犯罪者が出たとして追及しかえす。いわゆる大人の事情というもの同士による、綱引きの真っ最中である。
「お前はいいのか?」
再び陽介が尋ねると、尚紀は空を見上げた。
「……足立さんは、何も話してくれませんでした」
陽介は復讐を求めて果たせず、尚紀は理由を求めて得られなかった。特捜隊と稲羽支部で各々最も深く被害者と関わりのあった二人は、どちらも目的を遂げられなかったのだ。
「でも……姉ちゃん、未練はなかったと思うんです」
更に言えば、早紀もまた『自分』の復讐を遂げられなかった。だがその上で姉は自ら弟の前から去った。未練を見せず、元がシャドウだったとは思えないほど美しく、光となって消えたのだ。その様を見届けた尚紀は、気持ちに一つの区切りをつけられた。足立に対してわだかまりがないと言えば、きっと嘘になる。だが姉の死を乗り越えることはできる。姉から目を背けず、使命を投げ出さず、殺人事件に決着をつけられたのだから。
「俺、姉ちゃんとまた会えて、話もできたんですから……それで十分です」
早紀の『成仏』によって、尚紀の戦いは終わったのだ。後始末がどのような形になるかまでは、尚紀はこだわらなかった。たとえ真相が闇に葬られ、足立の裁かれ方と償い方が普通の形にならないとしても、無念を覚えはしない。
「これ、差し上げます」
尚紀はコートのポケットから二つの小物を取り出して、二人の先輩に差し出した。プラスチック製の小さな瓶だ。中には透明の液体が入っている。
「手作りの化粧水なんすよ。日本酒使って作るんですけど、これが人気で……今、うちの売れ筋商品なんです。ちょっと邪道ですけどね」
「お前が考えたのか?」
悠が尋ねると、尚紀は笑った。
「松永って覚えてますか? 女子がそんな話してるって、あいつから聞いて。ちょっと勉強したんです」
「その子、お前の彼女か?」
「はは……」
陽介の問いかけに、尚紀はまた笑った。極めて曖昧な、肯定とも否定とも取れる笑い方だ。
「鳴上さんは菜々子ちゃんに……花村さんはお袋さんにでもあげてください。良かったら、買いに来てくださいよ。あ、配達でもいいですよ? 俺、原付免許も取ろうと思ってるんで」
人気商品が誕生したきっかけになったクラスメイトの少女との関係について、尚紀は答えない。照れているのかいないのか、それを判断する手がかりを顔に出すこともないままに、話を逸らしにかかった。
「酒って面白いんですよ。未成年なんで飲めないですけどね。大学行ったら、そっちの研究しようかなって思ってます」
将来のことまで語る尚紀から、陽介は腕を組んで視線を逸らした。逸らした先にあったものは、小西家の墓だ。早紀はいないはずの墓を改めて見ると、思う。
(先輩……貴女の弟は……)
早紀が最後に語った『本当の』遺言を、尚紀は果たしている。それは即ち、早紀の仇を取る権利は、そもそも初めから尚紀にしかなかった。陽介はそんなことを思った。苦さが極まるその認識は、復讐を誓い憎悪に身を焦がしていた少年に、あらゆる価値観が転倒するような感覚を覚えさせた。
「色々……ありがとうございました。俺、やっと前に進めそうです」
そうして陽介が苦しんでいる間に、悠は時間が停止する感覚を得た。
『我は汝、汝は我……』
絆を教える『我』の宣告である。刑死者のコミュニティが真実のものとして認められた。
墓参りを終えると、尚紀は店の手伝いをせねばならないとのことで先に帰った。悠は刑死者の絆の証明を、ジュネスで買った食品を詰め込んだ買い物袋に入れた。日常そのものの中に、非日常の勝者の一人から貰ったものを、何気なく紛れ込ませた。
「先輩の仇を取ったのは小西……か」
年が明けて間もない頃、悠は事件を解決したのは堂島だと直感した。だが陽介の考えは違う。親友でもある相棒との意見が一致しないのは珍しかった。
誰が足立を倒したのか。早紀の仇を取ったのは誰なのか。現実は一つしかないが、解釈は人によって様々だ。悠から見れば勝者は堂島であり、陽介から見れば尚紀であり、尚紀から見れば有里だった。それはきっと、どれか一つが正しくて他は誤っているというものではない。人間なら誰もが複数持っているペルソナの、どれか一つが本物で他は偽物とは言えないように。真実は見る人によって変わり得る。
しかしどんな見解も真実になり得るわけではない。誰から見ても、悠や陽介は勝者ではない。
「相棒……これで良かったんだよな」
相棒たちは揃って犯人に敗れたのだ。倒れて寝込んでいる間に、他の人間が事件を解決してしまった。それはもう動かせない確定した事実だ。手柄をさらわれてしまった二人に、わだかまりがないと言えば嘘になる。しかし喚いても駄々をこねても、事実は事実だ。もはや変えることはできない。
そして客観的に考えれば、現実の状況は意外と悪くない。
「ああ……一番いい形だったのかもしれない」
生田目が犯人と思い込んで、悠と陽介が殺すか。真犯人が不明なまま、事件が未解決のまま終わるか。テレビの中で足立に殺されるか。悠が想像できる『あり得た結末』はろくでもないものばかりだ。それに比べれば、シャドウワーカーが事件を解決した現実は幾分良い。
そうして殺人事件の総括を終えると、突然別の話が始まった。
「なあ悠……2月の連休、何か予定あるか?」
「ん? いや、まだ考えてないが……」
完了していないコミュニティはまだある。全て極めるまでどれくらいかかるのか、未来を見通す力のない悠には分からない。だから曖昧な言い方になったが、陽介は構わず話を進めた。
「みんなでスキーでも行かねえか? 雪、えらい降ったしさ……」
(陽介……? いや、そうか。お前……)
悠は相棒の提案に一瞬面食らった。特捜隊の遊びの企画を立てるのは主に陽介の役割だが、ここでそれを言い出す脈絡が見えなかったのだ。だが見えないことそれ自体から、悠は勘付いた。全くもって、近頃は勘がよく働く。
(先輩のこと、諦めがついたんだな……。いや、諦めなきゃいけないって、ようやく思い始めたのか……)
特捜隊全体の絆である愚者のコミュニティが完了すると共に、特捜隊は使命を終えた。悠は3月には帰る。三学期は余暇のようなもので、余暇には遊びが付き物だ。陽介の企画は、もはや自分たちには日常しか残っていないことの証明であるのかもしれない。そして早紀の墓前でそれを言うのは、陽介なりの早紀への訣別でもある──
悠はそんなふうに、相棒の心理を直感した。
「スキーか……いいんじゃないか?」
相棒の無念を読み取りつつ、口では遊びの提案を受け入れた。それと同時に、表に出てこない心の中では苦い思いを抱く。口元が歪みそうになるのを努力して抑える。
(陽介……済まん)
口では言えない謝罪の言葉を、心の中で言った。相棒は復讐を果たせなかった。思いを遂げることはおろか、もっと大きな目的に昇華することさえなかったのだ。不完全燃焼もいいところ。相棒が辛酸を舐めねばならないのは、リーダーの自分がだらしないから。それなのに、自分にはまだ望みがある。
(マリー……)
マリーがいる限り、悠に戦う舞台は残っている。できることはまだある。まだ戦えることそれ自体が陽介への罪の意識になっていて、しかも罪の痛みに耐える力をも与えていた。
元日に引いたおみくじは当たっているのかもしれない。中吉はこれからまだまだ上がっていく。と言うより、銃で撃ち落とされて大吉から転落してしまったのが、再び上がっていく。つまり本番はむしろこれからということだ。
日本の冬は年が明けてからの方が、厳しさをより増していく。災いもまた、むしろこれから──