悠は一学期と二学期の間は人生最高の忙しさを経験したが、三学期もそれなりに忙しかった。その主な要因はアルバイトだ。具体的には学童保育、病院の清掃、そして家庭教師だ。これらはどれも昨年の夏には始めていたが、三学期から本腰を入れ始めた。事件関係者たちとのコミュニティはほぼ終わって、残りは春までに片付けなければならないと、焦る気持ちもそこにあった。
言うなれば『やっつけ仕事』に、悠はある種の心苦しさを感じていたが、耐えて進めた。まるで港区在住の先輩の勧めに従うように。自分一人の些末な感傷など、大きな目的の為には度外視して当然とばかりに。
だが動機が何にせよ努力の甲斐あって、2月の上旬には三つの労働はいずれも『我』のお墨付きを得られた。節制の母親は血の繋がらない子供と向き合った。悪魔の看護師は勤めていた病院をやめて海外へ旅立った。塔の中学生は母親と和解して野球を始めた。ついでに商店街にある神社に通って、絵馬に書かれた願い事を叶えてやる仕事もこなした。
そうした変に多忙な生活によって、テレビで共に戦ってきた仲間たちとの交流は控え目になった。無論、二年生組の三人とは教室で毎日顔を合わせたし、一年生組とも廊下や通学路で会うことはあったが、それくらいだ。放課後や休日の時間を過ごすことはなく、全員でフードコートに集まるようなこともなかった。
結果的に、悠たちは昨年の事件について話し合うこともなかった。むしろ誰もが避けようとしていたとも言える。ずっと姿を消したままの、クマについても話題に上らなかった。
そんな失意の彼らが久しぶりに全員集まったのは、2月11日の土曜日。建国記念日だ。三学期の期末試験は前日に終えていて、暗黒の日々から解放された連休である。
「花村、結構上手いじゃん!」
「お前こそボード初めてって、マジかよ?」
陽介が企画した、一泊二日のスキー旅行だ。町からほど近い山にあるスキー場に、今日から皆でやって来た。
「八の字に広げんだよ。八の字!」
「そ、そんなこと言ったって……」
「雪子先輩! 速いー!」
「置いてくよー!」
陽介と千枝はスノーボードで巧みに下り、直斗は完二にボーゲンを教わっている。雪子は猛スピードで直滑降して行き、りせが後を追いかけている。六人の仲間たちがめいめい滑るのを、悠は山の中腹で立ち止まって眺めていた。
(元気だな、皆……)
六人である。スキー旅行の参加者は、テレビの中でペルソナを得た者たちだけだ。シャドウワーカー稲羽支部の高校生組は来ていない。そしてクマももちろんいない。
「……」
遊ぶ仲間たちから悠は視線を転じ、稲羽の景色を眺めた。八十神山と呼ばれる、町を囲む山々はすっかり雪化粧して、春から秋まであった鮮やかな色は隠されている。天からは今日も僅かながらに雪が舞い降りてきていて、地上の化粧に花びらの装飾を添えているところである。麓に広がる小さな町並みも、多くの神々の山からのお零れを貰って白く染められている。その様は白い自然のキャンバスに、小さな人工物の点描が施されている絵画を連想させた。絵としては白の地こそが主体だ。
人間と自然。八十稲羽の土地全体が、冬の贈り物によって一つの景色として溶け合っている。霧によって個が塗り潰されていた時と比べると、今の景色は色こそ似ているものの、全く違う感慨を少年に抱かせた。
(綺麗だな……)
率直に、そう思った。風景を見て心が動くなど、久しくなかった気がする。特にここ一ヶ月ほどは追い立てられるように労働に身をやつしていたせいか、眼下の眩しい美しさが余計に目に痛い。うら若い高校生は、町中の仕事に疲れてたまの休暇で自然の優しさに癒される、くたびれた大人と化していた。
そして休んでいても、仕事は頭から離れない。
(あと残ってるのはミナヅキ、有里さん……それと足立さんか)
殺人事件が終わった後の三学期は残業のような絆をこなしていたが、それも大分少なくなった。ただ最後の三つはどれも難しい。まず死神は連絡先の交換もしていないので、どこに行けば会えるのかも分からない。審判のそれは知っているが、担い手の住まいは遠い異郷だ。道化師ならぬ欲望に至っては、もう二度と会えない気もしている。
(けど他のコミュはもう終わってるんだし、春まで何もしないわけにもいかないな。帰ったら取り敢えず、有里さんに電話してみるか……。何ならミナヅキや足立さんのことを相談してみてもいい)
悠は求めるものがあって、戦って、敗れた。しかし世の中は何のことはないもので、何度敗れようとも何かを求める人生は継続し得る。心さえ折れなければ行動はできる。昨年の事件では何もできなかったが、自分にやれることはまだある。そう信じて、心労の多い人間関係を続ける決意を新たにした。
「せんぱーい! 何してんのー! 滑ろうよ!」
「ああ、今行くよ」
りせに呼ばれて、悠は斜面を滑り降りた。美しい自然と珍しい孤独から離れて、慕ってくれる者たちのもとへ向かった。
その後、七人の少年少女たちは一頻り滑って遊んで、空腹を覚え始めた頃にペンションに戻った。舌平目の無国籍風料理を食べ、風呂を浴びて、夜は各々持ち寄った菓子をつまみながらの怪談だ。普通に仲の良い、普通の少年少女のように過ごした。
二日目も皆が思い思いにゲレンデを楽しんだ。悠は仲間たちの男女を問わず、腕も問わず、全員と一緒に過ごした。そして日も傾いてきた頃、最後の一本のつもりで男三人で滑った。そして──
「おい、全員揃ってっか……」
「先輩らと俺……大丈夫っす。まだ全員いやす……」
疲れた陽介の呼びかけに、完二が答えた。男三人はスキーとボードを担いで、雪と風の中をとぼとぼ歩いていた。スキー場とはいえ、道を一歩外れれば山である。三人の男は揃いも揃って、五歩も十歩も踏み外していた。完全に遭難の状態である。
昨日は白い花びらが舞う美しい雪だったが、今日は一転して冬が牙を剥いた。日が落ち始めると同時に本降りになり、風まで強くなった。山頂から駆け降りる風に煽られて、花びらは細かくちぎれ飛んで砂と化し、視界の全面を塞いでしまっている。猛烈な寒さを除けば、どこかで見たような景色である。
「まるで霧だな……」
「霧……ま、まさか! シャドウが出たりすんすか!?」
悠の何気ない呟きに、完二が強く反応した。稲羽支部と違って、特別捜査隊は現実に出るシャドウを自分の目で見てはいない。いないだけに余計に気になる。
「き、昨日の天城先輩の話! ハニワがどうとかって……実はあれ、シャドウだったっつーオチっすか!?」
昨晩の怪談は陽介と雪子が語り手だった。陽介のそれは遠く離れた土地での話だったが、雪子のは地元の話だ。曰く、この山々からは土偶や埴輪が出土していて、古代には山全体が一つの墳墓だったという説もある。そして梅の花が咲き始める頃、人間が山の神域に迷い込むと、土くれが動き出すのだ。それは生きた人間を自分たちの仲間にする、黄泉の国の住人──
「め、メガネ……くっそ、ねえ! 先輩ら、メガネ持ってねえすか!」
「ねえよ! あんなもん、ウェアに入れられっか!」
「あっても無駄だろう」
悠は慌てる二人を宥めた。
「そ、そっすかねえ……」
当然だ。そもそも霧を眼鏡で見通すなど、普通ならあり得ない話である。見通すものと見通されるものが両方とも普通でなくて、初めて起こる現象だ。霧であれ吹雪であれ、自然のものであれば神秘のレンズで貫くことはできないはずである。つまり男たちは自力で何とかするしかない。完二は肉眼を細めて、きょろきょろと周囲を見回す。すると──
「あ、あれ! 山小屋じゃねっすか!?」
救いの手を発見した。白い闇を長い間さまよっていたにしては、嫌にあっさりと見つけられた。
小屋の入口の鍵は開いていて、遭難者の三人は風雪を避けることができた。しかし他に人はいない。なぜ戸締りがされていないのか。なぜこうも都合良く見つけられたのか? 少年たちは疑問を感じつつも、取り敢えず囲炉裏の周りに腰を下ろした。古い新聞紙とマッチが見つかったので、悪戦苦闘しつつ火を起こした。
「やれやれ、何とか生き延びたな……けどこれ、三人で当たるには火が小せえよな」
「先輩ら、こっちでもペルソナ出せるっしょ。もっとでけえ火、起こせねえんすか?」
「そりゃ、できなくはねえと思うが……俺は火、使えねえよ」
陽介は悠の側を振り向いた。陽介が使える攻撃魔法は風と万能の光だけである。ジライヤからスサノオに変わってからも、能力の種類は変わっていない。
「……駄目だ。しばらくペルソナ使ってないし、加減を間違えたら火事になる」
殺人未遂をした昨年の12月3日以降で、悠はペルソナの召喚を一度もしていない。霧の晴れた現実では使い道がないから。『ペルソナ』という言葉を口にしたのも人が言うのを聞くのも、随分と久しぶりだった。
「……」
そんな懐かしい合言葉が出てきた途端、悠は不安に襲われた。囲炉裏で燃える小さな灯火から、自分の膝へと視線を転じる。
(そう言えば俺……あれから強くなってるのか?)
足立に撃たれてから二ヶ月以上もの間、悠は戦いをしていない。コミュニティは大分進めたが、実戦からは遠ざかっている。果たして自分は強くなっているのか。足立に追いつけたのか? マーガレットが言うところの『最後の戦い』に備えているつもりだが、絆を育むだけで十分なのか。俄かな疑問が湧いてきた。
そもそもの話、なぜ戦わなくなったのか? テレビの世界への出入りは、菜々子を救助した時から堂島に禁じられている。年が明けた今もそれは変わらない。だから実戦をする機会はないわけだが、それだけではない。
昨年の事件について、皆が口にしなくなったのだ。厳しい冬が過ぎるのを、身を縮ませてただ待つように。あたかも黙っていれば、触れなければ、あの辛い日々を忘れてしまえるように。異世界も非日常も初めから存在しなくて、ただ普通に仲のいい高校生同士でいるに過ぎないようになっていた。だから大人には内緒のテレビで戦闘ツアーなど企画もされない。代わって企画されたのはスキーだ。
「……」
悠の内省は更に深まる。このスキー旅行は内輪の企画だ。稲羽支部の高校生組は呼ばれていない。なぜか?
(小沢か、小西か……)
悠は先月に結実と別れたことを、皆に話していない。しかしどこの高校でも言えることだが、八十神高校は噂の巡りが速い。当の二人がはっきり言うまでもなく、仲間たちは皆が知っているのだろうと、悠は考えている。つまり稲羽支部の人々が呼ばれていないのは、気を遣われたのだ。それに加えて早紀の仇は尚紀が取った事実も、冬のイベントを企画した陽介の心理に影響していると考えていい。事件の勝者と一緒に遊ぶのは気が引けたのだろう。
「ああ、せめてクマがいりゃあな……あのふかふかなら、寒いってことねえだろ」
しかし霧のような吹雪を契機として、そっとしておかれた過去が表に出てきた。意識してかせずか、陽介は行方不明の元同居人の名前を口にした。
過去は消えるものではない。目を背けても存在し続ける。足元の小石に躓いて地面を見たら、自分の足跡まで目に入ってしまったように。ほんの些細なきっかけで、過去の辛苦が意識の表面に浮かび上がってきてしまうことはある。
「クマ公っすか……あいつ、どうしやがったんすかねえ。マジで……」
思いがけず、寝た子が起きてしまった。
(……今度、練習ってことでこっそりテレビに入ってみるかな。ジュネスに見張りがいるわけでもないし……もしかしたら、クマも見つけられるかもしれない)
そして寝た子は起きれば泣き出す。
「ん? 何だ?」
むずかる赤子の泣き声、もとい小屋の隅から放たれた突然の光に、陽介が反応した。膝を抱えて座ったまま、後ろを振り返った。囲炉裏の明かりが届かない、怪談に登場しそうな山小屋の暗がりから突然光が放たれたのだ。もう消えているが。
「今、光ったよなアレ……」
「ちょっと見てくるか」
悠は見つめていた膝を伸ばして、すっと立ち上がった。光の元を確かめるべく、小屋の奥へ向かう。
「俺も行きやす」
「おいおい、待てよ。俺も行く」
陽介と完二も、ほとんど時間を置かずについて来た。愚者のコミュニティが完了しても、否、完了したからこそ、彼らは絆の主に従う。事件はともかく、悠をそっとしておくことはない。
「テレビだ……」
文明の利器がそこにあった。電源は入っておらず、コンセントも挿されていない。だが挿したところで映るかどうか、甚だ怪しい。古式ゆかしい型のテレビが一台、山小屋の隅で埃をかぶっていた。
「こんな山小屋にテレビ……? 電波来てんのか? 携帯は通じねえってのに」
「そこじゃねえっしょ、先輩! 事件とっくに終わってんすから、光るなんておかしいっしょ!」
電源が入っていないテレビが光ると言えば、深夜の超常現象である。しかし殺人事件は終わったのだから、マヨナカテレビが映るはずがない。完二はそう思っている。
「いや……違う! おかしいのはそこじゃねえ! 時間、まだ昼だぜ!」
陽介の考えは完二とは少し違う。一度だけだが、マヨナカテレビの録画放送を見たことがあるのだ。『録画』であるから、事件が現実に終わったかどうかは関係ない。ならば特捜隊の戦いが、もしくは稲羽支部の戦いが再び映りでもするのかと、不安を覚えたのだ。近頃は考えないようにしていたあの日々が、本格的に蘇る。そんな気がしてしまって、つい声を荒げた。
大声で議論する二人を置いて、悠は一人でテレビを見下ろす。
(まさか……)
沈黙を続けているうちに、今の状況に意味を感じ始めた。女を遠ざけて、白い闇をさまよい歩いて辿り着いた場所。ふと口をついて出た、力の合言葉と行方知れずの仲間の名前。そしてマヨナカテレビを連想させる、画面に触れよと誘う光。陽介が言う通り時刻は真夜中ではないが、最も重要なのはそこではない。2月も中旬に入ったこの時期だ。
(春は待たない……)
先月の電話連絡で、マーガレットは『最後の戦い』の時期についてそう言っていた。このスキー旅行は、冬の稲羽で行われる最後のイベントになるだろう。進めておけと言われた、絆の残業もひと段落がついている。そんな時に唐突に見つかった異世界への窓。霧のような吹雪に追われて、この場所に辿り着いたことも含めて、全てが繋がった気がした。
(その時が来たのか?)
近頃よく仕事をする悠の勘がまたしても働いた。今の光は合図だと、勘は告げていた。ではそれは何の合図で、誰が送ってきたのか? それは決まりきっている。殺人事件が終わった今、テレビの向こうの異世界と関係することと来れば、言うまでもないというものだ。
(助けを求めてるのか……?)
マヨナカテレビは運命の人が映ると言われている。それは世間では下らない都市伝説に過ぎず、陽介たち真相の一端を知る者にとっても真実ではない。だが実は、やはり運命の人が映るのかもしれない。誰でも見られるわけではない、見られる者しか見られない、本当の真実が映るのかもしれない。そして悠にとって運命の人とはマリーを置いて他にない。出会った昨年の春以来、紆余曲折はあり過ぎたが、今はそう信じている。
運命の人が映り、助けを求めてくる。それは昨年の4月、まさに運命の人そのものが映ったマヨナカテレビに生田目が感じたもの──
「そうなんだな!」
かつて生田目は『使命』を自覚しても、行動に移すまでかなりの迷いや躊躇いを感じた。少しだけだが人に相談もした。だが悠は迷わず、相談もしなかった。
「悠!? ちょ、ちょっと待て! いきなり何やって……」
親友の声は途中までしか聞き取れなかった。仲間に止める間も与えず、悠は一人で崖へと身を躍らせた。
『神が守る土地か……』
悠が運命の人への気持ちを自覚したのは文化祭の日だった。だがその日はもう一人の運命の人と会っていた。その『人』と一緒に、郷土資料展と題された企画を見て回ったのだ。現代の稲羽市は片田舎だが、歴史は非常に古い。その証拠のような物品を、悠はミナヅキと一緒に見て語り合ったのだ。
『君に説明しても分からないだろう。人間は自分がどこから来て、どこへ行くのか知り得ないのだから』
(違う……真実を探して、見つける。その方法はあるはずだ……)
人と神の繋がりを築いている男。死の絆を担う『少年』にそう評された愚者の少年は、神が眠る土地で目を覚ました。膝をついた状態で、はたと顔を上げて気付いた。
「ここは……」
そこは足元に白が敷き詰められ、頭上からも白が下りてくる空間だった。一瞬、吹雪に覆われた普通の外に出たのかと思ったが、顔を上下させてよくよく見れば、違っているのが分かった。地上に積もっているものは花びらで、天から降っているのも同じだ。一見すると梅の花のようである。そして天地の間にあるものは──
「埴輪?」
文化祭で模造品が展示されていた、古代の遺物が林立していた。人を模したもの、動物を模したもの、色々ある。これこそミナヅキが言うところの、『人間は知り得ないもの』であろうか。文献史料からでは分からない、手で触れられる過去そのもののような空間に、悠はたった一人でいた。
(誰もいない……)
春の訪れが近いことを告げる花々は、どこからか注ぐ光を反射して、揺らめきながら無数に降り注いでくる。神秘が具現化したその様が、静寂を際立たせていた。優しく美しい沈黙のうちに、悠は孤独を感じた。
(こういうの……寝込んでいた時以来か?)
周囲に人が誰もいないのは、何とも久しぶりな気がした。足立に撃たれて寝込んでいた期間以外にこういう時があったかどうか、咄嗟に記憶から出てこない。隙だらけの背中を通り抜ける空気が冷たく、だが心地よく感じられる。
(それもいいか)
ほとんど常に他人と過ごした一年間だったが、最後の戦いは自分一人でやる。それは存外悪くない。強がりではなく本気でそう思えた。マリーの為の戦いならば、むしろ他人がいてはならない。いていいのは──
「ようこそ、虚ろの森へ」
案内人だけである。予期していた声が前から届けられてきた。鈴が鳴るような美しい声と、積もった花びらを踏む靴の音。光溢れる異空間に、青い服を着た金の瞳の魔女が現れた。
「やはり貴女だったんですね」
悠は驚かなかった。理由も根拠も臆病者の言い訳に過ぎないとは、よく言ったものである。天から詩人に下される霊感めいた、論理を軽く跳躍する直感が語った通り、『その時』が来た。想い人に関して元日にした依頼を、魔女は果たしに来たのだ。
「ここにマリーがいるんですね」
「ふふ……そう焦らないで。役者が揃うまでお待ちなさいな」
「そんな……」
そんなものはいらない。役者は俺一人で十分だから、早くしてくれ──
悠はそう言おうとしたが、遮られた。
「どわっ! お、押すなあ!」
「きゃあああ!」
『人気者』はそっとしておいてもらえないのが、世の常である。背後から突然悲鳴が上がって、悠は振り返らされた。すぐそこで騒動が起きてしまっては、無視するのは難しい。見てみれば、現世への窓はこちら側にも置いてあった。山小屋にあったものと同じ型の古いテレビが花びらに埋もれていた。そこから見知った顔が出てきた。
「陽介……」
昨年の春から一年間、最も近くにいた親友である。フードをかぶったボーダーのスタイルで、花の空間に転がり込んできた。押したか押されたか、崖へと転げ落ちた風情である。初めてテレビに入った時のように腰から落ちた。
「あ、悠!」
「里中たちも……皆、合流できたのか?」
そして来た時にはいなかった者たちもいた。一緒にスキー旅行に来た、女性陣四人も陽介とほぼ同時に飛び込んできた。もちろん完二もいる。
「え? 合流って……ああ、さっきの小屋? あそこ、うちのペンションのすぐ裏よ?」
話によると、男三人は吹雪の中を散々迷って山の懐深くに入り込んだつもりでいたが、実は宿のすぐ傍まで戻ってきていたらしい。あれは遭難者を休める山小屋ではなくペンションの物置で、昼間はアルバイトが頻繁に来るので鍵は閉めないでいるのだと。帰りの遅い男衆を案じた女四人が探しに出ようとしたところ、建物の裏手で大声がしたので、駆けつけてきたとのことだった。
「物置に行ってみたら、花村先輩と完二が何かワイワイやってて……驚いちゃったじゃない! 先輩、テレビに入ったなんて言うから!」
ほぼ無言でいきなり崖へと飛び込んだ悠を追って、彼らもテレビに突入してきたというわけである。どこに繋がっているか分からないと言うのに、危険など一顧もせずに。
かくして雪遊びを一緒にしていた七人が、あっという間に揃ってしまった。背中を通っていた風の温度が変わるのを、悠は感じた。
「……済まない。どうしても来ないわけにはいかなかった」
「どういうこと? まさか……また何か事件なの?」
「呼ばれたんだ」
「呼ばれた……とは、そちらの方のことですか?」
直斗の質問によって、悠の後ろに立っている見知らない、だが存在感のある女に注目が集まる。古代遺跡を連想させる神秘的な空間にあっては、その装いはあまりそぐわない。ある種前衛的な全身青色の服を身にまとっていて、百科事典めいた本を小脇に抱えている。顔は驚くくらいの美貌だ。
「だ、誰だ? この大人のレディーは……俺史上空前の美人ですけど……」
陽介の声は少し上ずっていた。すぐそこにアヤメかカキツバタが四人もいるのに、この言い草である。二学期の頃から、陽介は軽薄な言動をする機会が少なくなっていたが、今日は久々に出番が来た。
「皆様には初めてお目にかかります。マーガレットと申します」
ベルベットルームの住人、または力を管理する者。魔女は自分を表す言葉をいくつか持っているが、ここでは名前しか名乗らなかった。それは何も言っていないのと同じである。
「鳴上君……この人、誰? 君の知り合い?」
怪訝な顔をした千枝が尋ねてきたが、悠は素っ気ない。
「ちょっとした友人だ」
「ふふ……ええ、ちょっとした友人でございます」
そうなのである。悠とマーガレットは『ちょっとした』知り合いに過ぎない。『大事な人』や『かけがえのない人』のような言葉は相応しくない。『旅を手助けしてくれる人』などの職務に関わる言葉で表すのも、今一つしっくりこない。敢えて言うなら『小姑』だが、さすがにそうは言わない。
「そ、そうなんだ……」
マーガレット自身のみならず、悠も魔女に関して何も説明しない。それでいて、仲間たちは奇妙に納得する。
「皆……来てもらって悪いが、戻ってくれ」
そして悠は硬い声で仲間たちに告げた。