ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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泡へと還る(2012/2/12)

 特別捜査隊が何度も戦ってきたテレビの中の迷宮では、ほとんど常に被害者の声が届けられてきた。ただしそれは被害者本人ではなく、シャドウの声であると考えた方が自然だ。生まれて初めて異世界に放り込まれた被害者が、何か言えるはずがないから。

 

 そしてシャドウが語ることは『真実』であり、本人は否定するのが常だ。マリーもその例に漏れない。ただテレビに入る前から、便箋に書いて人に読まれたことがあるだけで。

 

 

 ねえ、聞いて。アタシの声を。叫んでいるこの声を……

 

 アタシはここにいる。血を声に替えて、世界の果てで叫んでいる……

 

 アタシは人魚姫。もう帰れない人魚姫。泡へと還る人魚姫(Little Mermaid)……

 

 悠が初めて読んだマリーの詩は、人魚姫をモチーフにしたものだった。ベルベットルームの床に便箋が落ちていて(落としたのはきっとマーガレットだ)、悠が読んで、飛んで戻ってきたマリーにひったくられた。時期は5月20日。マリーと『契約』した日である。九ヶ月近くも前の出来事だが、悠ははっきり覚えていた。

 

「これ……マリーちゃんの声? ジュネスで歌った歌詞にあったよね?」

 

「ああ……そうだ」

 

 アイドル歌手が気付くと、作曲家は認めた。恐らくは処女作である、この詩のタイトルは『うたかた』だ。花の舞う迷宮に足を踏み入れ、歩いている間にふと聞こえてきたのだ。白い花びらの隙間を縫って、天から詩人に下される霊感のように降ってきた。作詞家自らによる朗読に誘われて、悠は神秘の奥へ急ごうとした。

 

「あの、先輩。一度考えてみませんか」

 

 だが引き止められた。直斗である。

 

「ん?」

 

「気持ちが焦っているのは分かります。ですがまずは落ち着いて、事態を整理する必要があると思います」

 

 直斗は特捜隊の参謀的な立場にいる。当初は陽介が担っていた役割だが、相棒は他の仲間たちのまとめ役や、悠の意思を代弁して皆に伝えるなどの行動面においてリーダーを補佐する役割の方が向いている。状況の分析や事件の推移の予測などは、直斗の方が得意だ。何しろ職業探偵なのだから。

 

「……頼む」

 

「では、まず始めに……マリーさんがここにいるのは、僕らのように何者かに落とされたわけではなく、ご自分で入ったとのことです。それはつまり、マリーさんもペルソナ能力を持っているのですか?」

 

「マリーがペルソナを使うところは見たことがない」

 

 参謀の質問にリーダーは端的に答えた。昨年の付き合いで、マリーがペルソナを召喚する姿は見ていない。シャドウや他のペルソナ使いを相手に、肩を並べて戦う機会はなかった。つまりマリーは決して悠の『仲間』ではないのだ。

 

「だが……使えるんだとしても不思議はないし、テレビに入ることもできるんだろう」

 

 むしろマリーが入れないとしたら、その方が不自然だ。見習いとはいえ、ペルソナの創造と管理を行うベルベットルームの住人なのだ。入れて当然と考えるべきである。

 

「なあ相棒……マジな話、マリーちゃんってどこの誰なんだ? シャドウワーカーの関係者とか?」

 

 今度はサブリーダーが口を挟んできた。特捜隊以外のペルソナ使いと言えば、非公式の特殊部隊である。

 

「違う……いや、どうでもいいんだ。何者かなんて」

 

 だがリーダーはまともに答えなかった。と言うより、この問いに答えてはならない。人魚姫との『契約』は既に破棄している。マリーがどこの誰なのか、それはきっと俗に言う『知ってはならない真実』に属する情報だ。

 

「では彼女自身については、取り敢えず脇に置きましょう。問題は彼女の目的です。何の為にこんなところに閉じこもっているのでしょうか?」

 

「……」

 

 参謀が話を戻すと、リーダーは考えだした。マリーがテレビに閉じこもった、即ち悠の前から姿を消した、その理由は何か。何が悪かったのか。

 

(俺に愛想を尽かした……のなら、まだいい。謝ったり改めたりで済むのなら……)

 

「あいつとは先輩が一番付き合い深いっしょ。何か思い当たるネタとかねえんすか?」

 

 だがマリーが自分の前から姿を消したのは、愛想がどうという問題ではない。悠はそんな気がしていた。なぜかと言うと──

 

「それは……分からん」

 

 悠は完二の質問と、理由や根拠を求めようとする自分の思考をまとめて抑圧した。近頃よく働く勘は、今ばかりは仕事を休んでいる。閃きが出てこないなら、出るまで待つ。直感が必要な時は向こうから来る。そう思って、悠は考えることを拒否した。論理的に考えても正解を導けない問題は、この世にあるのだ。考えを巡らせてあらかじめ先回りして、解答の選択肢を用意しても意味はない。かえって害になる。本人の口から聞く以外に正解に至る道はない。

 

 リーダーは何の答えも持っていない。それどころか議論や仮説の提示さえ拒否する。話がまるで前に進まない状況だが、参謀は議題を追加する。

 

「では……ここに居続けると、彼女はどうなるのでしょう?」

 

「あ! ね、ねえ……さっきの人が言ってたけど……」

 

 ここで千枝が声を挙げた。

 

「ここが閉じたら、あたしらの記憶が消えちゃうって……それ、どういうこと?」

 

「私たち、勝手に忘れちゃうってこと? そんなの……あるの?」

 

 親友の疑問に雪子が応じた。知り合いについての記憶がある時、煙のように消える。その人の存在が虚しくなる。人は二度死ぬという言葉があるが、本人の死より先に、もしくは同時に他人の心の中からも消えてしまう。そんなことがあり得るだろうか?

 

 だがやはり特捜隊は議論をしなかった。

 

「あるわけない!」

 

 リーダーがまたしても話を遮った。

 

「誰が忘れても……俺は忘れない」

 

 強い否定でもって、悠は議論を拒否する。それでいて、記憶に干渉が起きることそれ自体は否定していない。

 

「話は終わりだ。行くぞ!」

 

「せ、先輩! 待って!」

 

 駆け出す悠を追って、最初にりせが走った。他の者たちも続く。死んだ神を祀る白い参道に、いくつもの足音が響いては消える。リーダーが先陣を切り、直接戦う力を持たない情報担当を囲むようにして、前線要員たちが後を追う。

 

 そして最後尾にいるのはサブリーダーと参謀だった。

 

「なあ、直斗……」

 

「何でしょうか?」

 

「去年の事件ってさ……ありゃ一体何だったんだ?」

 

 話し合おうとしない悠に代わって、陽介がまた別の議題を振り出した。言い方は漠然としすぎているが。

 

「何、と言いますと?」

 

「足立が犯人で、こっちの世界を使って人を殺した。そりゃ分かってるけどよ……じゃあこっちの世界って一体何なんだ? シャドウやペルソナだけでも大概だけどよ……今度は俺らの記憶が勝手に消えると来やがった。それって何だよ? ムチャクチャ過ぎんじゃね? 化物や超能力がマジでこの世にあるとか、そんなんよりもっと変じゃね?」

 

「確かに……脈絡が見えないという意味では、おかしいかもしれません」

 

 サブリーダーが言葉を追加すると、参謀も考えだした。陽介が何を言いたいのか、何となくだが分かる気がしたのだ。

 

「昨年の事件にしても、単に凶器と犯人が特殊なだけ……と考えては過小評価になるでしょう。そもそもこんな世界が存在すること自体が、常識では考えられないんです。新種の生物の発見や、新しい科学技術の開発とは訳が違います」

 

 直斗と陽介は特捜隊の中で、特に親しい間柄というわけではない。しかし話をすれば噛み合う。どちらもものの考え方が論理的だからだ。この二人がチームにおける言わば『役付』の立場にいるのは、理由のないことではない。

 

「だよな。でも現に存在してんだよな……」

 

 陽介は先月、早紀への気持ちに一つの区切りをつけた。傷心から立ち直っているわけではないが、それでも昨年までとは心理に違いがある。その差異が、事件が続いていた間は思考の外に置かれていた、諸々の疑問を感じる余地を生んでいた。

 

「何と言いますか……僕らの想像を超える途轍もないものが、テレビの中には隠されているのかもしれません。探偵の僕がこんな曖昧な言い方をするのも変ですけど」

 

「いや、まあ……お前の言いてえこと、何となく分かるぜ。記憶が消えるだなんて、んなムチャクチャがマジであるんだとしたらさ、そりゃあよ……」

 

 記憶がひとりでに消えてしまう──

 

 もしシャドウワーカー本部に属する者がここにいれば、過去にあった記憶に関する異変を連想しただろう。例えば影時間の間に起きた出来事だ。殺人や傷害事件が起きても、何か他の出来事として認識されるという、常識では信じられないような事態。更に『シャドウから一歩進んだ存在』と名乗った者は、自分を殺せば影時間にまつわる全ての記憶を失うと告げた。それもまた、普通に考えれば訳の分からない話である。

 

 そしてもう一つ。もし有里がここにいれば、かつての自分自身を思い出しただろう。二年前の1月末、正確には『二度目』の1月31日に、有里は一度の死で二重に死のうとしたのだ。その理由は世界を救う為と、自分を救わせない為だった。童話が語るピンクのワニのように誰からも忘れ去られることを望み、そしてそれが可能な状況にあった。一見すると誇大妄想のようだが、真実なのである。マリーもそのような事態を引き起こせるのだとしたら、マリーは人の認識に対して、道理によらない強い影響を与えられるということになる。ではマリーは何者なのか?

 

 宣告者や宇宙の力を得た者と同等、もしくはそれに類する、超常の中でも一歩進んだ存在──

 

 有里ならばそう判断しただろう。それはまさに、ワイルドである鳴上悠が最後の相手とするに相応しい。

 

 

 詩に誘われて、悠は参道を駆けた。武器を持たず眼鏡もないが、悠は特に問題なかった。なぜかは分からないが、どれだけ進んでも霧に視界が覆われることはなかった。シャドウは出るが、ペルソナは使えるので戦う分には大きな支障はなかった。攻撃の手段が超能力のみだと消耗も速いが、『なぜか』悠はそれも気にならなかった。

 

「カグヤ!」

 

 ペルソナは心の力であり、精神面が影響する範囲が大きい。マリーを追う悠にとって、今日は人生最高の昂ぶりを感じていた。光の魔法で浄化されて消え去るシャドウの死に際を、清々しく感じるくらいだ。やろうと思えば一日中でも戦い続けられる気がしていた。

 

(俺、あれから強くなってたのかな……)

 

 菜々子の救出作戦以来、久しぶりの本格的な実戦である。普通の運動能力であれば、何ヶ月も休めば技術や体力は当然落ちる。しかし悠のペルソナ能力はまるで衰えていない。特に耐久力は昨年よりも明らかに向上している。悠一人では勝ち目はないとマーガレットは評価していたが、かの魔女にも見込み違いはあるのではないか。そんなことを思った。

 

「ん……先輩! 気を付けて! この先、何かいるよ!」

 

 戦列の中央にいる、りせから警告が来た。特捜隊が今走っているこの通路は、曲がり角のない一本道だ。霧もないので遠くまで見通せるはずだが、なぜか今向かっている先に限って、白い闇がわだかまっていた。

 

「ホントだ……見て! 誰かいるよ!」

 

 もう少し走ると、りせの予告を千枝が確認した。道の中に浮かぶ白い領域に近づくと、その中に影が見えてきた。だが二人の言いようは微妙に違っている。

 

(あれは……!)

 

 二人の仲間がさりげなく示した認識の違いに、悠は構うことなく足を速めた。追い求める人の正体が何であろうと気にしないのだ。マリーが誰でも何でも、悠はもう構わない。

 

 やがて影の姿がはっきり見えてきた。白い服を着た人である。やはり白いフードをかぶり、背を向けている。肩を落として俯いているが、いくつも重なる足音の騒音を聞きつけたか、首を少しだけ後ろに回してきた。

 

「マリー!」

 

「来ないで!」

 

 いたのはやはりマリーだった。見慣れない服を着ているくらいでは、悠は見間違えない。恋は目を敏くするのだ。たとえ都会の人ごみの中にいても見つけられる。異世界にいても捕まえられる。

 

「迎えに来た。一緒に帰ろう」

 

 神話の時代、亡くした妻を求めて黄泉へと下ったある男のように、悠はマリーの姿を見つけた。そしてその男のように、一緒に帰ろうと誘う。しかし──

 

「帰る場所なんてないよ……」

 

「!?」

 

 振り返った想い人の姿に、悠は思わず息を飲んだ。着ている白い服は、千早と呼ばれる巫女装束に似ている。パンクファッションを見慣れた悠には違和感のある姿だったが、問題は服装ではない。目だ。

 

 異邦人を思わせる緑の瞳であることは変わらない。だが元のままの右の瞳と違って、左は変わっていた。暗く濁った緑の中に、赤や金など複数の色が混ざり込んでいた。片方の目だけが闇に近い虹色を湛えている。そしてこういう目を、悠は以前に見たことがある。

 

(クマ……!?)

 

 ジュネスのマスコットにして熊田とも名乗っている、今は行方知れずの美少年ではない。そのシャドウだ。6月にりせの劇場で戦った、他の被害者が生み出したものとは毛色の違う影。普通のシャドウが単純な金色であるのに対して、あの迂遠なことを喋る危険なシャドウは虹色の目を持っていた。

 

「マリーちゃん……その目は!? まるで……」

 

 次いで陽介が反応した。クマの影と戦ったのは半年以上も前だ。陽介は詳しいことを覚えていない。だが二ヶ月ほど前、マヨナカテレビの録画放送でこれと似た目玉を見ている。強い印象を残したそちらの方を、陽介は連想した。

 

「……」

 

 マリーは千早から左手を出して持ち上げ、異様な目を隠した。それが持って生まれたものであれ、後から得てしまったものであれ、現に奇怪な目を持ってしまっていること。それを恥じるように、悔やむように、マリーは顔を隠した。

 

「君は見たんだ……」

 

 しかしいつまでも隠してはいなかった。糸を引くようにゆっくりとした動きで、マリーは顔から手をどかした。一度隠して、また露わにする。前と後で、目の色や表情が変わる──

 

「そうだよ。私はサギリたちと同じ。町を霧で覆った、君たちの敵……」

 

 そんな手品はない。隠す前と同じ、いくつもの色が重なった左目をマリーはさらした。右目が元のままである為に、異形の側がより際立って見える。異様であるが為に、とってつけたもののように見えて。またはそれとは逆に決して切り離せない、嘘にはできない真実の一部のようにも見えた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ! 何なんだよ、それ!」

 

 マリーと話しているのは陽介だ。特捜隊でマリーと縁が深いのは悠のみで、陽介はジュネスで二度、文化祭の日に一度会っただけである。たったそれだけの知り合いでありながら、悠を差し置いて陽介が話を進めていた。

 

「サギリって何なんだ!? つか、この世界は何なんだよ! 君は誰なんだ!」

 

「クニノサギリとアメノサギリ……あいつらは人の望みを叶える者……。この世界は人の心そのもの……。私は人の世界に紛れて、人の意思を感じて……人世の望みをサギリたちに知らせるのが、私の役目」

 

 そして陽介の問いにマリーは答える。当事者である悠が聞かないうちに、部外者の陽介が問いを発してマリーは答える。聞いても聞かなくても、真実はそこに存在し続ける。どれだけ秘密を隠しても、暴いてしまう人は必ずいる。無関係な人間でも人の秘密に触れることはできるのだ。

 

「そして人世の望みは……霧に紛れ、虚構にまどろむこと……」

 

「んだよ、そりゃあ……嘘ばっか吐いて、騙されてりゃいいってことか!? どこの馬鹿が言いやがったんだ、んなこと!」

 

 むしろ無関係であるからこそ、知らないからこそ、陽介は恐れず核心に触れる。悠は聞かずにおいたことでも聞いてしまう。

 

「……君だよ」

 

 そしてマリーは答える。異邦人どころか人外の証である、虹の瞳で答える。名前を口にするのではなく、目の動きでもって答えを告げる。その答えは部外者の陽介ではない。真実を暴く者が真実そのものと同じとは限らない。

 

「え……」

 

 答えは悠である。

 

「俺が……!?」

 

 悠は一緒に帰ろうと誘った他は、一言も喋らなかった。テレビの世界が何であるのかも、サギリと呼ばれる存在についても聞かない。そんなものはどうでもいいのだ。そして『君は誰なんだ』とも『君はどこから来たんだ』とも聞かない。むしろそれらは、聞いてはならないことだった。なぜかと言うと──

 

「俺はそんなこと……」

 

「君、言ったじゃん! もう記憶なんか思い出さなくていいって……。マリーって名前、本当じゃないのに……それが私の名前だって……君、言ったじゃん!」

 

「!」

 

 そうなのだ。霧に覆われていた11月22日、悠はマリーにそう言った。鎖に繋がれ、偏見に蝕まれた堕天使の名はマリーであると。月に怯える少女に恋をして、記憶を恐れる少女を守ってやりたいと思って、マリーが怖いもの全てから自分が守ると誓ったのだ。そして記憶など失ったままでいいと。過去など捨ててしまえと、そう言ったのだ。

 

「目を背けろって……君が言ったんだよ!」

 

 どうすれば真実を真実でなくしてしまえるのか。現実を虚構に、嘘を本当にしてしまうにはどうすればいいのか? 蓋をしても勝手に開けてしまう者はいる。陽介のように。では誰にも永遠に暴かれないようにするには、どうすればいいのか?

 

「だからね……もういいんだ。目を背けていいんだよ。もうすぐみんな私のこと忘れて、二度と思い出さずにいられるから……」

 

 答えは簡単だ。何もかもを忘れてしまうことだ。過去を切り捨てて、なかったことにしてしまうこと。自分だけでなく、自分と関わりのある者全てからも消え去ってしまう。誰からも忘れ去られ、初めからいなかった者になる。もちろん普通の人間にそんな魔術は不可能だ。死んで百年くらいの時を経ない限り、誰にもできはしない。しかしマリーはできる。宣告者のように。

 

「そんな……そんな馬鹿なことがあるか!」

 

 だがもちろん悠は認めない。『信心を束ねる者』は金色に光るシャドウの言葉を否定して、力で叩きのめして、乱暴な影を便利な光に転じる。昨年の春から何度もそうしてきた。

 

 悠は制服の上着に手を差し込み、中身を取り出した。この白い迷宮は不可思議もここに極まれりとばかりに、入った途端に勝手に服装が変わった。だがそんな表面的な変化が及んでいないものが、一つだけある。櫛だ。病院のベッドの枕元に思わせぶりに置いてあった櫛。

 

「忘れろって言うなら、これは何だ! 残していったのは、探してほしかったからじゃないのか!?」

 

 年が明けてから、悠は勘が冴えていた。どうにも認めがたい想い人の言葉を否定する理屈が、瞬間的に湧いてきていた。マリーにとってたった一つの自分の持ち物を渡したのは、返してもらう為ではないのかと。しかしマリーは否定する。

 

「違うよ……櫛は別れの証なの! 探さないでってこと!」

 

 日本の古い風習においては、櫛は不吉な贈り物である。その由来は日本神話にある。しかし悠は怯まない。

 

「じゃあどうしてここには霧が出ていない!? 探してほしくないなら、何で霧がないんだ!」

 

「違うよ! 外の霧がどうして晴れたか知らないの!?」

 

「サギリってのを叔父さんが倒したからだろう!」

 

「違うの! サギリは霧を生み出すだけ! 倒されたからって、霧は消えるわけじゃない……外の霧は私の中に流れ込んだの!」

 

「何だって……?」

 

 これには完全に虚を突かれた。殺人事件と獣害事件はどちらも終わった。外の霧が晴れたことこそが、その確かな証だった。だが実はそうではなかった。世間はおろかシャドウワーカーも掴んでいない、事件の本当の真相がここにあったのだ。

 

「ここに霧が出てないのは、君が来ちゃったから……。来るなって言ったのに……ここの霧も私は取り込んだの!」

 

「……」

 

「目を背けた君を、霧は欲しがってる……霧に触れたら、きっと君を襲う! クニノサギリが現れた時みたいに、君を依代にして霧そのものが現実になるわ!」

 

 神や精霊が生身の形で顕現することは稀である。多くの場合、何かを媒介にして人の前に現れる。媒介とは姿を似せた彫像や十字架などの象徴的な文物だ。そして生きた人間を依代にすることもある。神がかりに入った巫女の口を借りて、託宣を下すように。霧に潜む『神』を祀る祭祀に、悠はさせられる。

 

「分かった……? だからもう来ないで。私はここで死んで、霧も一緒に始末するから」

 

「……?」

 

 悠は済まなかった、と言いかけた。だが口が動かなかった。悠は永劫のコミュニティではマリーに何度も詫びている。ただしいずれの時も、まともな返事はなかった。そして今日は詫びの言葉がそもそも出てこない。

 

 おかしな点があることに気付いたのだ。もう記憶など思い出さなくていいと、マリーにそう言ったのは本当だ。だがそれは、霧が町を覆った後である──

 

「気にすることないよ……私は初めからいなかったことになるの。見捨てたことだって、忘れるから」

 

 だが悠が詫びようが詫びまいが、マリーは受け入れないだろう。詫びてもらう必要を感じていないから。かつて宣告者と名乗った存在が、自分の死に罪悪感を抱く必要はないと自分の『父親』を諭したように。残酷な真実を告げながら、優しい逃げ道をも同時に示したように。

 

 そしてマリーは姿を消した。かつて死神の少年が消えたように。

 

「!?」

 

 消えたのだ。シャドウが黒い煙のように消滅するのでもなく、ただその場からいなくなった。後に残ったのは参道の白い石畳の端に立つ二本の石の柱と、柱を繋ぐ二重のしめ縄。事戸(ことど)を渡された夢で見た、別れの景色である。夢では暗かった為に気付かなかったが、しめ縄の結び目には大きな勾玉が吊り下げられている。

 

「……マリー!」

 

 夢での悠は動けなかった為、マリーを引き留められなかった。そして現実にあっても引き留められなかった。女が去ってから、ようやく動けるようになった。結び目の前まで走る。

 

「マリーちゃん!」

 

 そして仲間たちも駆けてきた。千枝、雪子、りせが来る。

 

「あの、よく分かんねえんすけど……あいつ、何が言いたかったんすか?」

 

「多分、巽君だけじゃありませんよ……。彼女の話には、理解しかねる部分が相当あります」

 

 そして完二が疑問を呈し、直斗が応じた。

 

「やはり一度立ち止まって、考えてみるべきだと思うのですが……花村先輩、貴方は何かご存知なのですか?」

 

 先ほどは流れてしまった議論を、直斗は再度話題に上げた。最初に振るのは陽介だ。

 

「知ってるってほどじゃねえよ。去年のマヨナカテレビで、アメノサギリとか言う化物を尚紀や堂島さんが倒したのを見ただけだ」

 

「マヨナカテレビで? そんなんやってたの?」

 

「お前らは見てねえのか?」

 

 特捜隊が見ていたマヨナカテレビは、足立が言うところの予告とライブだけだった。録画は最終回を陽介が見ただけである。

 

「そいつ、確かに人の望みがどうとか、言ってやがったような気もするが……」

 

 だが陽介も全ての真相を理解しているわけではない。直接戦った堂島や尚紀も、かの存在の正体や真意を理解してはいない。有里は二年前の戦いの経験から多少の推測くらいは立つだろうが、いずれにしても陽介には知り得ない話である。まして他の仲間たちが見ていないのでは、分かる事柄にはどうしても限りがある。

 

「それよりさ……霧はただ晴れたんじゃなくて、マリーちゃんの中に流れ込んだって。それってどういうこと?」

 

 二ヶ月も前に一人だけが見た曖昧な話よりも、たった今全員で聞いた話の方が優先だ。その中でも重要な点について、千枝が指摘した。

 

「ここで死んで……流れ込んだ霧を消すって。マリーちゃん、そう言ってたよね?」

 

「それで……そうなったら、私たちはあの子を忘れちゃうの? そんなことってあり得るの?」

 

 そして更に重要な点を、雪子とりせが口にする。

 

「あり得ない……と言いたいところですが、ここはとにかく常識が通用しない世界です。彼女の主張を鵜呑みにするわけにはいきませんが、否定できる根拠もありません。はっきりしているのは、彼女は確かな目的を持ってここに閉じこもっていることと、その目的は彼女の命に関わっている……この二点ですね」

 

 議論は特捜隊の女性陣を中心にして進められている。彼女らはいずれも悠とマリーの関係の外に置かれているのだが、話は主導する。そして当事者の悠は黙っている。

 

「……」

 

 事件は当事者だけが動かすものではない。二ヶ月前の戦いでは、復讐する者とされる者、つまりは小西家の姉弟と足立以外の者たちが現場にいたように。今日も去る女と追う男という、愛憎の二人以外の人間がここにはいる。特捜隊の全員が舞台に上がった以上、誰もが動くし意見も言う。

 

「あいつ、何かえらいごちゃごちゃ言ってやがったが……要するにだ。ここで死ぬつもりだっつーことか」

 

 そして結論を述べたのは完二だ。

 

「ざっけんなよ! そんじゃ去年の事件、繰り返されてるみてえなもんじゃねえか!」

 

「……そうかもな」

 

 陽介は腕を組んで、直情的な後輩の言い分を認めた。もちろんこの事態は、犯人によって放り込まれた人が死ぬこととは異なっている。ただテレビの中で人が死ぬ。その人は誰かの大切な人であるということ。その一点においてマリーの件は昨年の事件と同等であると、陽介は認めた。

 

「相棒……念の為、聞くぜ。マリーちゃん、どうする?」

 

 殺人事件に最も縁の深かったサブリーダーは、今日の事件に最も縁の深いリーダーに尋ねた。

 

「決まってる……止める」

 

 悠がこう言うであろうことは、答える前から誰にでも分かる話である。聞くまでもない最初の問いは前振りで、陽介が本当に聞きたいのはこの次だ。

 

「俺らも付き合って、いいんだよな?」

 

 想い人を殺された陽介と違って、悠は足立に誰も殺されていない。諸岡を殺したのは久保だ。足立が殺した二人のいずれとも、悠は縁がほとんどない。それとは対照的に、陽介たちは悠の想い人と縁が乏しい。マリーを救う為の戦いに部外者である自分たちが関わることを認めるのかと、陽介は聞いているのだ。

 

 埴輪の並ぶ古代の森で、特捜隊は既にリーダーの同意を得ている。だがあの時はマーガレットの勧めが最初にあって、その場の勢いで押し切ったようなものだった。事がここまで至ってから、サブリーダーはリーダーのはっきりした意思を求めてきた。

 

「……頼む。マリーの為なんだ。皆の力を貸してくれ」

 

 そして悠は頷いた。殺人事件とほとんど関係ない身でありながら、昨年は特捜隊のリーダーとして皆を引っ張った。自分の過去を受け入れるように、マリーと個人的な関係をほとんど持たない者たちの参戦を認めた。

 

「よっしゃ! やったろうじゃんか!」

 

「当然っすよ!」

 

「うん……!」

 

 かくして改めて同意は得られた。マリーの為に皆が体を張ってくれる。気持ちは一つになっている。物分かりの良い仲間たちに後押しされて、絆によって力を得た気がして、悠は前を向いた。手を伸ばせば届く位置に、聖なる空間と俗なる空間を隔てる境界がある。

 

 それを見て、悠は思う。

 

(ここが世界の果てなんだ)

 

 詩の一節である。マリーはしめ縄の向こう側で、声を聞いてほしいと求めている。帰れと口では言っていたが、本当に求めているものは違うはずだ。無粋な話し言葉など、思いが詰まった詩に比べれば何であろうか? 血を声に替えて叫ぶ詩にこそ、真実はある。

 

 では投げつけられた真実に応じる言葉は何か? それは考えるまでもない。この世にたった一つしかない。

 

(君を……愛している!)

 

 悠は勾玉に手をかけた。一ヶ月前、夢で言われた別れの呪いへの返答を、心の中で叫びながら。人魚姫が住まう墓、その深奥に足を踏み入れた。

 

 なお、人魚と言えば『泡へと還る』童話が最も有名である。人魚は溺れた男を助けたのだが、男と結ばれることはないという筋だ。異種族間の恋愛は悲劇で終わるのが常だが、子供向けの童話もその例に漏れない。そして全ての悲劇は死をもって終わる。童話とは別の伝承においては人魚は人に不死を与える存在でありながら、童話では『なぜか』死ぬのだ。

 

 では詩を叫ぶ人魚姫は、どうだろうか──

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